○海技免状の更新通知が届きました
数日前私の元へ一通の封書が届きました。窓付きの封書は四国海技免状センターからでした。私は自分が持っていた四級小型船舶操縦士の免状は、もうとっくに失効しているものとばかり思っていましたが、その通知に書かれている有効期限には2010/5/08と書いてあるのです。 タンスの奥にしまっているであろういわゆるタンス免許の存在する忘れていて、この5年間一度も海技免状を携帯して船を操縦したことがないのですから、勿体ないといえば勿体ない話です。
私はえひめ丸の沈没で有名になった愛媛県立宇和島水産高等学校漁業科の卒業生で、在学中には初代の愛媛丸に乗って南太平洋の珊瑚海まで遠洋航海に行った経験を有するなど、いわゆる海の男を志した男なのです。さらにわが家の漁船若吉丸の船長として7年間も伊予灘を舞台として漁師をしましたが、当時は5トン未満であれば海技免状は必要でなかったため、海技免状は持っていませんでした。体を壊し役場へ入庁したこともあって、海技免状を取る必要もなく時は過ぎていましたが、無人島に子どもたちを連れてキャンプに行くにはどうしても船の操縦が必要となり、海技免状を取得したのです。
そのお陰で毎年夏になると沖合に浮かぶひょうたん型由利島共和国へ渡り、子どもたちと一緒に楽しいキャンプを20年間も行いましたが、その都度親戚から借りたプレジャーボートを運び小型漁船の運転をしたのです。無人島に渡るのはチャーターした渡海船でプレジャーボートはむしろ補助的な役割や、まさかの時の救急用として配備していたのです。
何時の時期だったかは記憶にないので定かでありませんが、無人島キャンプに連れて行った子どもの一人が無人島へ上陸寸前に船と船の間に足を挟まれた事故が起きました。看護師さんが同行しているとはいえ、骨折までは直したり措置したりすることはできず、怪我をした子どもと付き添いの看護師さんを乗せて、そのプレジャーボートを私が運転し、13キロ離れた松山市三津浜港まで運んだのです。当時は携帯電話などまだ普及していない時代だったのですが、幸い無人島には何故か海難事故防止のための公衆電話があって、病院へ救急車の出動要請をしていたのです。
港に着くや待ち構えていた救急車に同乗して済生会松山病院へ運びました。幸い骨折はなくホッとしたのもつかの間、病院から連絡を受け待ち受けていた警察官と海上保安官の事情聴取を受けることになったのです。
事の重大さに気付いた私は顔見知りの俊成県会議員に連絡し、丸くおさめていただくよう連絡を取ったのです。県の海上保安協会の会長をしている俊成県会議員の心温まる手配のお陰で、私に対する嫌疑は不問になりましたが、事故を起こした渡海船の船長や現場の責任を持っていた何人かはその後海上保安庁に何度か呼び出され、その顛末は事件として検察庁へ送られました。不幸にも渡海船の船長は罰金刑となりましたが、私たちの事故に対する備えや対応の万全さ、それにボランティア精神が認められて不起訴となったのです。
たった一枚の海技免状ですがその重みを感じた事故でした。ゆえにもう船には乗るまいと固く心に決めていたので更新はしていないものとばかり思っていましたが、私の海技免状はまだ有効だったのです。このまま失効にするのはもったいないと思うようになって、講習を受け更新しようと思っています。ふって湧いた話に海への憧れが蘇ってきました。今までは忙しくて船で釣りをする余裕もなかったのですが、これからの余生をのんびり釣りでもと思っています。いつになることやら分かりませんが、久々に届いたいい知らせにワクワクしているこのごろです。
「税金の 通知ではない 更新の 通知受けとり 昔懐かし」
「更新は すまいと事故後 決めていた 心変わって 釣りでもするか」
「一枚の 海技免状で 助かった あの子今頃 元気でいてか」
「車船 水陸両用 なれるかも 講習受けて 夢よ再び」