shin-1さんの日記

○朝風呂で考える法則

 わが家にはお風呂が3つあります。といってもひとつは親父の隠居で親父専用です。もうひとつは人間牧場のロケーション風呂です。3つあると自慢めいた話をしていますが、日頃使っているお風呂は私たち夫婦専用なのです。ゆえに夜寝る前に入るお風呂はそんなに湯が汚れないため、私は朝目覚めてブログを一本書いてから昨晩の残り湯に入り髭を剃ったりしますが、一番のお目当ては風呂の中で体操をすることなのです。私は役場に在職中シーサイド公園の掃除を毎朝5時から8時まで、12年間にわたって掃除をしてきました。その頃は掃除から帰ると急いで入浴して体を洗い身支度をして出勤していたため、今でもその名残で朝風呂を楽しむ習慣がついたのです。そして朝風呂を楽しむもう一つの理由は、掃除で痛めた腰を温めると同時に、腰痛体操なるものをある人から教わったからなのです。

 湯船につかり体を前に向き腰を軸にして膝を左右にゆっくりと「いーち、にーい」と数えながら曲げるのです。いわば腰痛防止のストレッチみたいなもので、この運動のおかげかどうか分かりませんがこの2年、毎年のように一年に2~3回はなっていたぎっくり腰がすっかり影を潜めているのです。

 私の場合はぎっくり腰になれば、伊予市の松本整体院で2~3回揉んでもらうと治るような軽いものなのですが、それでも完治するまでに約一週間かかるし、農作業や清掃活動の度に腰の不安を抱えていると中々身に入らないのです。

 そこで始めた体操はそれこそ簡単な腰を曲げるだけのものなのですが、少し出かかっていた下腹も完全に引っ込み、原のくびれがしっかりとして効果はてきめんでした。風呂から上がって布団や畳の上で両足を思いきり開く運動のお陰でこの歳にしては180度近くも開くのですから、腰痛体操さまさまなのです。


 腰を曲げるのは毎回100回往復です。100回が目標なのですが、やる度に数を数えながらあることに気が付きました。「いーち」の始めは1/100なのに「にーい」では2/100、つまりたった1回だけ増えただけで1/100が2/100、つまり1/50になるのです。これは大きな違いで、25回すると1/4に、そこから8回増えただけで1/3に、更に17回増えれば50/100、すなわち1/2になるのです。こうして少しだけ努力を重ねると、少しだけ数を重ねる度に残りの数への展望が開けてくるのです。

 今朝もそのことを考えながら、努力と忍耐なんておこがましいことではありませんが、少しの頑張りが大きな効果を生むことのヒントを得たような気になるのです。私は一時が万時このように何事もネガティブには考えず、ポジィティブに考える方なのでいい結果が生まれるのかも知れません。

 しかし一方では、今日の新聞にも載っていた「メメント・モリ」という言葉の「死を想え」というラテン語に対しては、この計算で行くと「後がない」と焦りを感じ始めるので、むしろ人生はあるがままなすがままの方が気楽なのかも知れません。宇佐美まことさんが四季録に書いている「人がものを書くたったひとつの理由は過去を理解し、死すべき運命に対して覚悟を決めるためなのだ」(スティーヴ・キング)としたら、私は毎日ブログを死への覚悟ときめなければならないのかも・・・・・。うーん難しい。


  「朝風呂に 入って「いーち」 「にーい」「さーん」と 声をかけつつ たわけたことを」

  「死を想え 偉い人が いるものよ 俺など間際 なっても思わず」

  「腰痛に ならないために 朝風呂で 毎日体操 やってみるもの」

  「なるほどな 腰は体の 要なり 腰据え今日も 頑張りましょう」

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shin-1さんの日記

○今日は何曜日だ?

 今朝5時過ぎに親父がわが書斎の窓の外からやってきて、「今日は何曜日だ?」と聞くのです。夏至を過ぎたとはいえ、一年中で最も昼間の長い季節なので、太陽の動きとともにくらしている親父としては夜明けが早く、日没が遅い今頃は、夜の時間が長いので少々寝不足のようで、「夕べが余り眠れなかった」と寝不足を私に訴えるのです。親父の暮らしぶりを見ているとその分昼寝を楽しんでいるようなので大丈夫だと思うので、「寝不足で死んだ人はいないから大丈夫だよ」と声をかけ、今朝も二人で大笑いをしました。親父も私と同じサンデー毎日の日々を過ごしているのです。

 親父が曜日を気にする訳は毎週月、水、金曜日がこの地区のゴミを出す日だからです。今日は金曜日なのでゴミを出さなければなりません。ゴミは余り朝早く出すと生ゴミの日である今朝などは、何処からともなくカラスが2~3羽やってきて生ゴミを食い荒らすのです。ゴミ収集場近くの人にとっては自分の家から出したゴミならいざ知らず、人のゴミまでが散乱するのは気になるところらしく、ゴミ収集場所を変えるよう提案があるのですが、いざ変えるとなると中々難しいようです。わが家はこのゴミ収集場所まで一番遠い場所なので、ゴミが沢山ある時は手で運ぶことができず、もっぱら一輪車のリヤカーに頼っているのです。親父は散歩のついでにゴミを出しますが、生ゴミの殆ど出ない親父のゴミは少量なのに私たち夫婦のゴミはそれに比べるといつも多いのです。

 親父が曜日を気にするのはもう一つ理由があります。自分のボケを修正することなのです。91歳になってもまだある部分はボケるどころか、私より正確な部分が沢山あって、昔の記憶などはボケてはいないと思うのですが、今置いた道具類を何処へ置いたかが時々分からなくなり探す時間が長くなったことです。今朝も朝早くから庭樹である松の手入れをしていましたが、眼鏡を置き忘れたと探しているようでした。よく見ると自分の頭の上にまるで帽子のようにちょこんと乗せているではありませんか。「じいちゃん、メガネは頭の上にある」と教えると、「わしもボケたものだ」と大笑いです。私はその都度、「覚えていることを全部覚えていたら頭が爆発するから、忘れるから丁度いいのだ」と話してやると納得するのです。


 最近高齢者の免許証の更新が何かと話題になっています。確かに事故を減らすためには高齢者は免許証を返納するのが一番だとは思うのですが、公共交通機関の殆どない田舎で暮らす高齢者にとって免許証は命の次に大切なものだと思うのです。免許証の更新時にボケの検査があるらしく、そのひとつに「今日は何曜日ですか?」と聞かれるそうです。「今日は金曜日」と正確にいえばボケていないと判断され免許証が交付されるそうです。親父に比べれば頭の聡明な私などでもいきなり「今日は何曜日?」と問われたら、「はて?、今日は何曜日?」と即答できないかも知れません。サンデー毎日の暮らしが長くなった私にとって、曜日などあまり必要がなくなりつつあるのです。親父から「今日は何曜日だ?」と聞かれる度に、自分の加齢の重さをひしひしと感じるのです。ああ歳はとりたくありません。でも加齢は人間の宿命なのです。


  「何曜日? 聞かれる度に 何曜日? 俺もボケたか サンデー毎日」

  「ああそうか 今日はゴミ出し 金曜日 ゴミで連想 曜日感覚」

  「メガネ何処 頭の上に 置いてある 俺はボケたと 親父ションボリ」

  「もう限界 言いつつ親父 卒寿越ゆ ご立派ですよ 見習いたいね」

 追伸

 ここまで書いてはたと気が付きました。今日は金曜日ならぬ木曜日なのです。時すでに遅し、私が金曜日だと 教えた親父はゴミ出しに向かっていました。多分近所の人はゴミを持って歩く親父を見て、「あのおじいさんはボケた」と思ったに違いありません。ボケているのは親父ではなく親父の息子なのです。今朝届いた間違ったメールを見て、金曜日と勘違いしたのです。俺もボケました。ブログを読んだ皆さん今日は木曜日ですよ。

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