shin-1さんの日記

○砂時計の不思議

 私の部屋にアンティク風な真鋳でできた砂時計が一個、プリンターの横に置かれています。正確に記録を記憶して記録するデジタルなプリンターと、アナログな砂時計とは似ても似つかぬ取り合わせですが、誰かに持ったであろうこの砂時計を、パソコンの打つ手を休めて時々いじくりながら時や刻について考えるのです。

 砂時計をひっくり返すと、青色の砂は上から下に向かって細い通路を通って、砂がなくなるまで留めなく流れ落ちるのです。凡人である私は「果たしてこの砂はどのようにして入れたのだろう」と、その不思議さを思うのですが、手元の腕時計で測ると1~2秒の差はあるものの5分計であることは間違いないようです。それにしても砂時計を見ながら、砂が落ち始めてから落ちてしまうまでの5分とはかなり長い時間であることに気づきます。時計は1秒、60秒、1分、1時間、24時間の単位でこれまた休むこともなく動いていますが、砂時計はリセットし変えないと5分という時は止まってしまうのです。

若松進一ブログ

 砂時計は人生のようなものであるととしみじみ思います。例えば私のように85年と自分の寿命を定めて生きていると、昭和19年10月3日に母親と父親の手によってひっくり変えされた私という砂時計は約4分の3を落とし、4分の1しか残っていない計算になるのです。21年後には上の砂は下に全て落ちてわしの砂時計人生は終わりを告げるのですが、さて砂時計は途中で何度でもひっくり返せることができるのですが、人生は何度でもやり直せることができて半永久的に長生きできるのかその相関関係を考えてみましたが、凡人な私にはその解明は難しいようです。落ち続けている砂は円錐形のジョウゴのように一点に向かって落ちてゆきます。動かさなければ下の砂は上下対称のように円錐形に溜まります。その姿もまた妙なのです。

 はてさて私の人生の砂時計の残り21年分の砂は一体どんな砂なのでしょうか。未来学者なら自分の未来を予測できるのでしょうが、全く見当がつかないのも人生の面白さかも知れません。でもいえることはこれまで留めもなく落としてきた砂の延長線上にあることだけは間違いないのです。

 今日という日も一日計の砂時計、今年という一年も一年計の砂時計、私の人生も若松進一計の砂時計、それぞれの砂時計をいかに確実にそれでいて綺麗に落とせるか、考えただけでもワクワクする砂時計を私は幾つも持っているのです。さあ今日の砂時計は一体どんな言い落ち方をするのでしょう、いや「するのでしょう」ではなく

「させるのか」かも知れません。

 今日は6月最初の一日です。今年も5カ月の砂が落ちました。今日から一ヵ月早めの後半が始まります。少しのんびり、少し馬力をかけて、今年も暑い夏を乗り切りたいと思っています。


  「部屋の隅 置かれたままの 砂時計 久方ぶりに ひっくり返す」

  「人生に どこか似ている 砂時計 アナログゆえに 何が起こるか」

  「落ちた砂 早くも七分 近くなり 残った砂の 少なさを知る」

  「何粒の 砂があるのか 知る由も ないまま今日も 砂は落ちつつ」 

 

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shin-1さんの日記

○風評被害は恐ろしい

 豚インフルエンザは震源地のメキシコで死者が沢山出たものの、病気自体は今のところ弱毒性のようで、少し安心した政府も市町村もガードを低くして、臨時休校措置などを次々に解除しています。というのも近畿圏に集中した発症によって、近畿圏への修学旅行の中止や延期が相次ぎ、加えて風評被害へと発展しているのです。ただでさえ不景気な国内事情に加え、旅行や出張をキャンセルされるともうお手上げで、観光業者の中には倒産まで出るという厳しさです。

 日本人は風評に弱い国民だと言われています。つまり誰かが言ったことが良かれ悪かれ次々と伝わりとんでもない根も葉もない話に発展するのです。それは多分風見鶏的な集団行動の性格が強く、自分の考えをしっかりと持たずに生きているからかで、風向きを見て都合のいい方についてしまうのです。人の目を気にする人は案外多く、私も随分それらのうわさ話に悩まされました。

 不快感の法則と感動の法則というのがあります。広島県瀬戸田町(今は尾道市)の和気元町長さんから聞いた話ですが、不快感というのは1人→10人→7人→3人と広がりを見せ、結局210人に広がって終息を見るのだそうです。例えばどこかの観光地の公衆トイレが汚なかったとします。それを感じた人は自分の身の回りの人10人に「○○のトイレは汚かった」というのです。その10人は自分の周りの人に「○○さんから聞いた話だが、○○のトイレは汚くて鼻もちにならない。行かない方がいい」と言い出すのです。そして極めつけは7人の人が周りの人3人に「あそこのトイレは日本一汚いので絶対行かないようにすべきだ」と言いふらされ風評被害はピークに達して終息を見るのですが、レクリェーションでよくやる電信ゲームとどこか似ているのです。1チーム10人ずつのチームを作り、少し短めの同じ文章を最初の人に耳元で伝え記憶させます。それをやはり次の人に伝えて行くのですが、最初の文章は人間の耳から聞き記憶させて次に伝えるのですが、何と不正確なことか、それを最後にみんなで発表して種明かしして大爆笑となるのですが、風評被害となるとこんな爆笑では済まされないのです。

 不快感の法則に対し感動の法則は中々伝わらないもので、1人→7人→5人→2人と広がりを見せるものの不快感の法則ほど広がらず、70人で終息します。例えば1人の人が双海町の夕日を見て感動すると、その人は周りの7人に感動したことを伝えます。するとその7人はそれぞれ周りの人5人に「夕日がとてもきれいだった。あなたも行ってみたら」と伝えるのです。さらにその人たちはそれぞれが2人に「双海の夕日は日本一」と持ち上げ終息するのです。結局その数は70人で不快感の法則の3分の1なのです。

 私は道の駅の整備から運営に長らく携わってきましたが、不快感の法則によって風評被害を被ったことも何度かありました。しかし風評被害をまき散らす人たちは裏を返せば風評効果を生む人であることを知ってからは、随分戦略が立ちやすくなって、風評効果で自称日本一の夕日を作り上げてきたのです。

 風評被害はいつの間にか消えますがそれを待つだけでは被害甚大で足腰が立たなくなります。一早く風評効果の情報を流して風評被害を食い止めることが肝心です。風評被害を出す人も風評効果を生む人も実は同じであることを肝に銘じるべきなのです。

 消費者100人を分類すると本物消費者5%(いくら高くても本物を買う)、学習消費者15%(学習して自分に得なものを買う)、普通消費者50%(流行に流されて買う)、無意識消費者25%(安いものばかりを買う)、風評被害をまき散らすのは普通消費者50%、つまり2人に1人いることを忘れないようにしたいものです。


  「不快感 伝わり易く 感動は 伝わりにくい ジレンマしきり」

  「インフルは 風評被害 深刻だ マスク業界 無口で笑う」

  「風評の 被害出す人 いるものの 風評効果 出す人同じ」

  「いつの世も 真実一つ コナン言う 何が本当か 心眼見抜く」  

 

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