shin-1さんの日記

○お四国参りいよいよ大詰め

 谷岡さんのブログに刺激され、お四国88か所参りの大詰めとなる松山8ヶ寺詣りを昨日やりました。昨日のブログに浄瑠璃寺のハスの花の話を書きましたが、八坂寺、西林寺、浄土寺、繁多寺、石手寺、太山寺、円明寺と僅か半日で八つものお寺を回れるのですから凄く密度の濃いいいお参りとなりました。

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(46番札所浄瑠璃寺)

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(47番札所八坂寺)

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(48番札所西林寺)

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(49番札所浄土寺)

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(50番札所繁多寺)

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(51番札所 石手寺
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(53番札所太山寺)

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(54番札所円明寺)

 妻と二人のお参りは、嫌がる妻をあちらこちらに立たせて、まるでモデル撮影会のようでした。妻も私も般若心経を覚えていいないため、むしろ心の祈りとでもいうのでしょうか、妻は家族のことや気になることをお祈りするように念入りに拝んでいました。私は仏様にお願いするような他力本願ではないので、無新に手を合わせるだけのお参りでした。それでも納経帳は全て終わっているので、掛け軸に書いてもらい後は川之江の三角寺と高野さんだけとなりました。


 10年をかけた夫婦二人のお四国参りもいよいよ佳境を迎えつつあります。思えば長い道のりでした。思いつくままに、順番など全く無視してのお参りですからご利益なんてあろうはずがありません。ましてや般若心経も最初はカンニングペーパーを持ってやっていましたが、途中からは無心の祈りに変えました。それもいいと自分に言い聞かせながらのお参りは、それでも多くの人と巡り合い、多くの教えを学び、お寺界隈や周辺のあれやこれやを五感で感じつつのノロノロ旅でしたが、あれから10年後の今、こうして元気に過ぎせていることそのものがあり難い仏のご加護のような気がするのです。さあいよいよ高野山が近づいてきました。


  「十年も 一体何を していると 大師お叱り 聞こえてきそう」

  「十年の 間にわが家 色々と それでも二人 こうして元気」

  「ひたすらに 感謝の気持ち 忘れずに これから先も 豊かに生きる」

  「八ヶ寺を 一日回る 荒技に 少々疲れ 道後湯に入る」


 

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shin-1さんの日記

○地域づくり人養成講座のお手伝い

 昨日は忙し一日でした。午前中に人に会い、午後からははえひめ地域政策研究センターの主催事業である地域づくり人養成講座と地域づくりアシスト事業の発表会が合同であったので、アシスト事業の審査を担当した前田さんとともに、アシスト事業発表会のコメンテーターを務めました。その後はオフライン交流会に望み、夜は地域づくり人養成講座の講師として来県した高知県馬路村農協東谷組合長を囲んで、年輪塾ネットの面々が飲み会をやりました。まあこんな風に一日中あっちこっちと顔を出し、家へ帰ったのは10時半ころでした。それでも、どの会場も予想以上の参加者が集まり、議論百出でとても盛会でした。

 えひめ地域づくり研究会議の代表をこの春退いて、地域づくりの現場から少し遠のいたのかと思いきや、昨日一日の出会いやふれあいを見る限り、完全に復調して地域づくりの輪の隅にいることが分かり、少しだけホッとしているのです。

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(大勢が参加して松山市民会館で開かれた合同会)

 今年の地域づくり人養成講座は大学生もいるなど、若い人が多く参加していました。世の中が停滞すると若者が世直しに立ちあがり、逆に落ち着くと歳を召した方が文化を開花させると言いますが、若者が活躍した明治維新と年齢の高い人が文化を花開かせた元禄文化はその最たるもののようです。

 100年に一度といわれる経済不況の中で、ひょっとしたら若者たちが止むにやまれぬ気持で立ちあがろうとしているのではないかと、アシスト事業の発表を聞きながら考えていました。

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 馬路村の東谷組合長の話がある間、県庁へ行って打ち合わせを終え農協会館リジェールでのオフライン交流会に合流し、閉会後居酒屋あかりという店で年輪塾ネットの皆さんと宮本常一に関するイベントの打ち合わせをしたりしながら議論を重ねましたが、旧友である東谷組合長も私と同じ観光カリスマ100選に選ばれているつわものだけあって、その後も精力的に活躍しているようでした。

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 夢を語る人が少なくなった最近の風潮ですが、やはり夢を持つとどこか生き生きとします。昨晩は誰もが酒の力を借りて何時になく大きな声で議論をしていました。酒の力を借りれない私は熱いお茶を3杯も飲みながらいつの間にか酔ったような錯覚にとらわれ議論に加わっていました。

 素面で話す私は、相手が酒に酔うほどに心の窓を開けて行くのが手に取るように観察できるのです。かつて大酒飲みだった?私もあんな風に頃の窓を開けたのかと思うと、少し恥ずかしく、少し可笑しい面持ちですが、今にして思えばいい思い出なのです。


  「飲むほどに 酔うほど心 窓開け 本根で語る 友をうらやむ」

  「酒飲めぬ 体になって 思うこと 飲める間が 花かも知れぬ」

  「握手して 再開祝し 握手して 再び別れ 吾は去り行く」

  「今飲んだ 酒は体の どのあたり 通って行くか 見えぬ分からぬ」

 


 

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