shin-1さんの日記

○伸びゆく社会と縮みゆく社会

 私たちの日常の暮らしはインターネットの普及で格段に便利になりました。私の意志は瞬時にして遠い街だと思われていた北海道まで届くのです。また私の書いて配信したブログ「shin-1さんの日記」はこれまた瞬時にして不特定多数の人に配信され、見ようと思えば同時に複数の人が私のブログを読み、ある人は丁寧にもコメントを返してくるのです。

 私の身の回りの暮らしで何か調べようとすると、図書館へ行ったり、高いお金を出して書籍を買ったりして調べていました。ところが最近はインターネットにアクセスして、知りたい項目を入力し検索キーを押すと、いくつかの項目がこれまた瞬時に表示され、選択能力さえあれば正しい答えが返ってくるのです。

 例えばヤフーのトップ画面から「若松進一」という項目を入力して検索キーを押すと、今朝時点で35,100件という項目が出てきて、自分自身驚いてしまうのです。この数字は半端ではなくとても全てを見る時間も余裕もなく、知られないままインターネットの記憶の中で生き続けているのです。鯉した情報化の流れは「伸びゆく社会」として今後も発展し、消費者の買い物が店頭販売とネット販売が逆転したような社会になるのです。

 一方「縮む社会」もあります。昨日愛媛県町村会の招きで職員研修に講師として旧県立中央青年の家へ出かけました。行政改革の一環として今年からこの施設も伊予鉄ケーターサービスという会社に民間委託され、名前もふれあいセンターと改称していました。青年団在籍時代からこれまで、長年にわたって私たちと深く関わった青年の家は、まるで見知らぬ人に占拠されたようで、僅かに青年団事務局を担当していた柴田さんがこの会社に配置替えとなっている程度なのです。

 施設は残り何の不自由もなく、別会社の人がマニュアルに沿ってしっかりと管理しているので何の問題もないのですが、残念ながら青年の家の命である指導という点では100がゼロになったような縮む社会を垣間見ました。と同じように町村会もかつては70市町村の大半を占めいていた町村が4年前の平成の大合併で再編され、20になり、町村が対等合併と言いながら市に編入されたため町が8つなり村はなくなりました。したがって町村会という名前は使っていますが、今は正式には町会かも知れないのです。

 もう10年以上にわたって町村会の新任職員の研修や経験者研修に出ていますが、あれほど溢れ返っていた参加者も数が少なくなって少し寂しい感じは否めません。でも昨日の研修会に参加した人たちは民さん熱心に私の話に耳を傾けてくれました。

 今後も一年以内に合併が行われる予定の松野町が鬼北町と一緒になり縮む社会は一応終息するものの、合併した旧町村では役場だった所が支所になって残ったものの周辺への影響は甚大で、これまで使ってきた役場周辺の公共施設は空き家が目立ち、行政サービスも遠のいてどこか寂しい感じがするのです。

 でもこれからは後戻りできないことを考えてみんなで助け合って合併によって誕生した新しいまちを盛り上げながらしっかりとした足取りで縮む社会を食い止めなければなりません。行政に頼る時代は終わりました。こrからは市民一人ひとりが縮まず生きて行かなければなりません。そのためにもしっかりと社会の動きを見据えながら努力して行きたいと思っています。


 「町村の 数が激減 どことなく 縮む社会を 連想しつつ」

 「わが暮らし インターネットで 随分と 便利になって 伸びつつ生きる」

 「気がつけば 私も今年 高齢者 伸びる寿命を どこまで伸ばす」

 「今書いた ブログの記事に 今メール 遠く住む人 素早反応」


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shin-1さんの日記

○大きな音のしない落し物

 私たちが毎日の暮らしで使っている物には、食べ物や水、空気などの様々な物がありますが、その殆どは何の意識もなく使っています。空気はその最たるもので、起きて活動したり寝ている間も、生きるために無意識に生まれてからこの方、吸ったり吐いたりし続けているのです。「ああ今日の空気は美味しい」とたまに訪ねた旅先で深呼吸したり、起きて朝一番戸外に出て、朝日に向って思いきり空気を吸いながら体操をした時も、空気の存在に気づかされたりはしますが、殆ど毎日は味わうこともなく吸っているのです。

 水も同じで、野菜や果物に含まれた水分を体内に取り込みながら、水やお茶を特段飲まなくても水分が補給されて生きています。しかし梅雨に入って明くる日に多少のお湿りがあっても、「雨不足、水不足で断水間近」とか、「ダムの貯水率低下」という話を聞く度に水の存在を意識し始めるのです。人間は勝手なもので毎日何のためらいもなく水を無造作に使っているのに、断水の話が出れば自衛手段として貯水タンクを買い求め、まず自分の暮らしを守ろうと、ホームセンターに行って貯水タンクを買い求め、水の備蓄に走るのです。ホームセンターではその影響がもろに出てぽ良木の売り場は品薄となっています。売り手もこの時とばかりに大量に品揃えして、「市民の暮らしをサポートします」とまことしやかな理由をあげて儲け話に一口乗るのです。昨日新型インフルエンザが初めて確認された広島では、下火になっていたマスクがたちまちドラッグストアーや薬屋の店頭から姿を消したというからうなずけます。

 私たちが意識はしていてもまるで無意識のように使っているものにお金があります。電気代やガス代や電話代などは殆どが自動引き落としになり、給料や年金までも自動振り込みとなりました。気をつければ通帳管理でお金の出しれが、まるで家計簿的に確認できるようになりましたし、現金を持ち歩くてもカードがあれば用がすませるキャッシュレス時代なので、昔ほど実感は少なくなりましたが、それでも世の中は経済で動いているのでお金の話は何かと多いのです。

 私は自称貧乏人ながら金融広報委員会から移植を受け金融広報アドバイザーを長い間しています。時折私のような者に研修会でお話をするよう頼まれますが、先日ある研修会で「大きな音のしない落し物」という話をしました。特に子どたちへの金銭・金融教育で大切なのは親の金銭感覚と暮らし方です。子どもにとって親の生き方や暮らし方は見本だからです。金銭感覚の鈍い親からは金銭感覚の鈍い子どもしか育たないのです。そういう意味ではもう一度親は尾け根の大切な存在に気づき、しっかりとした気持ちでお金の使い方を考えてみる必要があるのです。

 お金には一円はアルミ硬貨、五円銅貨、五十円・百円・五百円銀貨、千円・二千円・五千円・一万円札(百円や五百円札はまれに出回る程度)などがありますが、五百円までの硬貨を落とすと一円玉を除いて殆どの硬貨は「チャリン」と音がします。多分草むら以外に落とせば殆どの人は落としたことに気づき振り返ります。ところが千円札や一万円札を落としても音がしないため落ちたことに気がつかないのです。

 「大きな音のしない落し物」というのは、比較的小さく安価なものの存在には目配り気配りできても、大きな公かなものの存在を忘れている例えなのですが、拳拳服膺してその意味を考えてみたいものです。

 子どもの存在もそれに良く似ています。毎日の暮らしや学校の宿題など小さなことには案外気づくのですが、その子どもの将来を考えてどう育てるのかといった視点は中々分かりにくいもので、気がついた時には後戻りできない所に子どもがいたりするのです。鳥の目と虫の目の複眼で見れるように、日頃から気お付けてほしいと願っています。


  「五円玉 落としチャリンと 振り返る うっかり一万 落とし気づかず」

  「声もなく 気づかぬことは 多々あるが 声なき声に 気づくかどうか」

  「貯金箱 何時の間にやら 重たくて 小さき物も 溜まれば重く」

  「一円も 一万円も お金なり どちらも大事 どちらも大事」

 

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