shin-1さんの日記

○公民館長の研修会に招かれました

 昨日は愛媛県公民館連合会の招きで旧県立中央青年の家で開かれた公民館長さんの研修会に出席しました。県下各地から集まった館長さんは60人を超えていましたが、中には顔見知りの人もいて旧交を温めました。公民館といえば私はかつて若かりしころ公民館主事として13年、そして晩年は中央公民館長として2年、合計15年もの長い間関わった、懐かしい仕事なのです。

 当時はパソコンなどなかった人の手にゆだねる緩やかな時代でしたから、公民館活動も活発で今でも思い出に残ることが多過ぎるほど、楽しい思い出がいっぱいあるのです。その全てを話すことはできませんでしたが、公民館や社会教育にかかわったことを自己紹介のつもりで冒頭に話させてもらいました。

 ①公民館主事として13年間+中央公民館長として2年間、合計15年間担当

 ②愛媛県公民館連絡協議会(当時)の主事部会長として6年間、県公連の運営に携わる

 ③公民館の生活改善運動の一環として結婚披露宴の司会を537組実施

 ④町の広報ふたみを月2回、10年間で240号執筆発行

 ⑤全国大会の司会を6年連続担当

 ⑥私の発想した夫婦学級と金儲けの公民館活動がNHK明るい農村で全国放送

 ⑦愛媛県青年団連合会長・四国四県青年団連絡協議会会長として青年活動を主導

 ⑧第14回NHK青年の主張県代表

 ⑨県立松山工業高校のPTA会長に6年間就任

 ⑩日本一の町を訪ねる人づくり10年計画で100粒の種まき作戦


 ちょっと思い出すだけでもこれくらいあるのですから、若さの勢いとでもいうのでしょうか想いをこめてよくやったものです。当時双海町の公民館活動は自治公民館活動では全国に名の知れた活動でしたから、36の自治公民館へ3人の職員が毎晩のように出向き、超勤手当てなど出ないのに46日間も連続で夜間勤務するなど、今考えるとゾッとするようなことをやっていました。

 当時は、この仕事を一生涯の仕事にしようと意気込んでいましたから、結婚間もない家庭などそっちのけで働きました。親子でキャッチボールなどした経験がないと子どもに言われるほど子育ては妻に任せていました。それでも親孝行な子どもが育つのですから、私の働く後ろ姿を見てくれたのだと思っています。

 13年目に1枚の辞令をいただいて産業課に異動になった時は、一日中涙が出て止まりませんでした。まあ色々ありましたが、公民館は私を育ててくれた大恩人です。これからは恩人に恩返しをする番です。続く限り公民館を見守り、支援したいと思っています。


  「公民館 私を育てた 大恩人 今度は私 恩を返そう」

  「一枚の 事例を貰い 涙した 昔懐かし 時々思う」

  「館長は 金出す口は 出さずとも 責任取れば それが本懐」

  「近頃は パソコン相手 仕事する 公民館も 変わったものだ」

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shin-1さんの日記

○海技免状の更新通知が届きました

 数日前私の元へ一通の封書が届きました。窓付きの封書は四国海技免状センターからでした。私は自分が持っていた四級小型船舶操縦士の免状は、もうとっくに失効しているものとばかり思っていましたが、その通知に書かれている有効期限には2010/5/08と書いてあるのです。 タンスの奥にしまっているであろういわゆるタンス免許の存在する忘れていて、この5年間一度も海技免状を携帯して船を操縦したことがないのですから、勿体ないといえば勿体ない話です。

 私はえひめ丸の沈没で有名になった愛媛県立宇和島水産高等学校漁業科の卒業生で、在学中には初代の愛媛丸に乗って南太平洋の珊瑚海まで遠洋航海に行った経験を有するなど、いわゆる海の男を志した男なのです。さらにわが家の漁船若吉丸の船長として7年間も伊予灘を舞台として漁師をしましたが、当時は5トン未満であれば海技免状は必要でなかったため、海技免状は持っていませんでした。体を壊し役場へ入庁したこともあって、海技免状を取る必要もなく時は過ぎていましたが、無人島に子どもたちを連れてキャンプに行くにはどうしても船の操縦が必要となり、海技免状を取得したのです。

 そのお陰で毎年夏になると沖合に浮かぶひょうたん型由利島共和国へ渡り、子どもたちと一緒に楽しいキャンプを20年間も行いましたが、その都度親戚から借りたプレジャーボートを運び小型漁船の運転をしたのです。無人島に渡るのはチャーターした渡海船でプレジャーボートはむしろ補助的な役割や、まさかの時の救急用として配備していたのです。

 何時の時期だったかは記憶にないので定かでありませんが、無人島キャンプに連れて行った子どもの一人が無人島へ上陸寸前に船と船の間に足を挟まれた事故が起きました。看護師さんが同行しているとはいえ、骨折までは直したり措置したりすることはできず、怪我をした子どもと付き添いの看護師さんを乗せて、そのプレジャーボートを私が運転し、13キロ離れた松山市三津浜港まで運んだのです。当時は携帯電話などまだ普及していない時代だったのですが、幸い無人島には何故か海難事故防止のための公衆電話があって、病院へ救急車の出動要請をしていたのです。

 港に着くや待ち構えていた救急車に同乗して済生会松山病院へ運びました。幸い骨折はなくホッとしたのもつかの間、病院から連絡を受け待ち受けていた警察官と海上保安官の事情聴取を受けることになったのです。

 事の重大さに気付いた私は顔見知りの俊成県会議員に連絡し、丸くおさめていただくよう連絡を取ったのです。県の海上保安協会の会長をしている俊成県会議員の心温まる手配のお陰で、私に対する嫌疑は不問になりましたが、事故を起こした渡海船の船長や現場の責任を持っていた何人かはその後海上保安庁に何度か呼び出され、その顛末は事件として検察庁へ送られました。不幸にも渡海船の船長は罰金刑となりましたが、私たちの事故に対する備えや対応の万全さ、それにボランティア精神が認められて不起訴となったのです。

 たった一枚の海技免状ですがその重みを感じた事故でした。ゆえにもう船には乗るまいと固く心に決めていたので更新はしていないものとばかり思っていましたが、私の海技免状はまだ有効だったのです。このまま失効にするのはもったいないと思うようになって、講習を受け更新しようと思っています。ふって湧いた話に海への憧れが蘇ってきました。今までは忙しくて船で釣りをする余裕もなかったのですが、これからの余生をのんびり釣りでもと思っています。いつになることやら分かりませんが、久々に届いたいい知らせにワクワクしているこのごろです。


  「税金の 通知ではない 更新の 通知受けとり 昔懐かし」

  「更新は すまいと事故後 決めていた 心変わって 釣りでもするか」

  「一枚の 海技免状で 助かった あの子今頃 元気でいてか」

  「車船 水陸両用 なれるかも 講習受けて 夢よ再び」 

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