shin-1さんの日記

○人生の分岐点

 これまで私は昭和・平成と二つの時代を64年間生きてきた

 最初は不自由な物のない時代だったが今は自由で物のあり余る世の中となった

 やろうとしても制約や不自由でやれなかった若いころに比べれば

 今はやろうと思えばたいがいなことは何でもできるが

 いかんせん気力と体力が減退し世の中は上手くいかないし上手く出来ていると思っている

 これまで私は様々なことに挑戦し何がしかの成就と様々な失敗を繰り返してきた

 最初は成就すると自分の力を過信して悦に入り失敗すると人や社会のせいにしたりしていた

 やろうと思い立てば無鉄砲に何でもやった若いころに比べれば

 今はできないことはないかも知れないが社会の目や家族のことが気なって

 転ばぬ先の杖や石橋を叩いて渡る慎重さが一歩前へ踏み出す勇気を消している

 これまで私はどれほどの人生の分岐点に立ち止まってどちらかの道を選んだことだろう

 最初は半信半疑でも選んだ迷い道を藪から棒に一目散に走りぬけ

 道の間違いに気づけば平気で引き返し何食わぬ顔でもう一つの別の道へと移り進んだ

 今は迷い道を引き返す勇気もなく色々なことにまことしやかな折り合いを付けて進んでいる

 人はそんな私を見て信念がないというか優柔不断といっているかも知れない

 これまで私は分岐点に差し掛かった時正しい方向だと思っているのに諦めたことが何度かあった

 諦めたことの殆どは宿命だと思っていた。男に生まれたこと、学歴がないこと、役職がないこと

 財力がないことなどなど今考えれば大したことではないのにハンディだと勘違いをして諦めていた

 今はそんなことは宿命ではなく運命と思って切り開いて行けるのにと残念がる

 セルフイメージやスキルの高まらなかった自分を恥じている

 これからも私は人生の分岐点に幾度となく差し掛かるであろう

 その都度人の立てた道しるべを参考にしながら二者択一の道を進んで行く

 人を信じるか人を疑うか自分を疑うか自分を信じるかの分岐点はやはり自分であろう

 今は自分という物差しで人や社会をある意味で推し量れるようになったと信じている

 私につながる息子や娘たちも私と同じように人生の分岐点をどちらかの道を選んで進んで行くことだろう

  「でも・もしと 今来た道を 打ち消すが 後に戻れぬ 人生だから」

  「諦めや 折り合い付けて 生きてきた これから先は 信じるままに」

  「近道と 書いた看板 ご用心 落とし穴など あるかも知れぬ」

  「引き返す こともできない 歳になり 助け呼んでも 見向きもされず」

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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○私のDNAは大洲藩かも知れません

 法人会女性部の総会に招かれ、時間があったので久しぶりに大洲の町並みを歩いてみました。梅雨の晴れ間の、しかも月曜日の夕方とあって町並みを通る人の数はまばらでしたが、白壁や瓦屋根がしっとりと落ち着いた佇まいを見せていました。まちの駅に車を止め、駅の中へ入って友人の河野さんを訪ねました。運良く面会することができレストランでお茶を飲みながらしばし談笑しました。このまちの駅の運営を一手に引き受けている彼は中々の腕の持ち主で、舞たうん100号にもその考えが寄稿されていました。

 県内のこの手の施設は世の中の景気に敏感で、100年に一度といわれる世界同時不況のあおりで個人消費が伸び悩んでいる不況の波をもろにかぶっているようで、元気を出そうと頑張っているのですが、中々上手く行かないと苦戦の模様を語ってくれました。

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 法人会女性部会の総会はまちの駅の斜め前にある商工会議所の2階なので、河野さんの了解を得て車を置き河野さんに案内してもらって会場へはいりました。総会に出席する女性の中には顔見知りの人も沢山いて、はてさてどんな話をすればいいのか迷いながら時間の来るのを控室で雑談しながら待ちました。やがて祝辞も終わりいよいよわたっしの講演が始まりました。僅か1時間なので「新しい発想で生きる」という演題のアドリブな話はあっという間に終わってしまいました。

 講演後は総会ということもあって懇親会が催され、私も所用があるため20分ほどの短い時間ながら美味しい料理をご相伴にあずかりました。商工会議所の井関会頭さんや役員さんと懐かしい話に花を咲かせましたが、最後に料理屋の箸袋裏に書かれている「愛媛詩情」なる歌を即興でハーモニカで吹くようリクエストがありました。歌は知っていますし口ずさむこともできるのですが、それをいきなりハーモニカで吹けというのは少々乱暴な話です。でも「それをいっちゃあお終い」とばかり、無謀にも壇上に上がりマイクの前で吹きました。Am和音のハーモニカで吹きましたが、いい調子で吹くことができて拍手喝采を受けました。

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 顔見知りの長坂さんが気を配ってテーブルの上を飾っている花まで手提げ袋に入れてくれ、会場を後にしましたが、「今度建設業協会の女性部でも講演を」「人間牧場を訪問したい」などの矢継ぎ早の言葉に余韻を感じながら、折から降り出した雨に多少濡れながらまちの駅へ小走りして車に乗り込みました。

 家にちょっとだけ立ち寄り約束の人と会うため伊予市へ向かい、自宅へ帰ったのは9時を過ぎていました。普通だと嫌だと思う雨も、少雨や水不足を心配してか、慈雨と受け止め、忙しく動くワイパーの音に頼もしさすら感じました。昨晩はひと夜中雨が降ったようで、今朝もシトシト雨が降り続いて、天気予報では今日は一日中雨模様ですが、土砂災害のないような水不足の解消になるような雨を期待したいものです。

 幕藩時代は大洲藩だったわが町も、その後の社会の変化によってまるで松山藩のようになり、大洲は遠くなったような気がします。でも大洲の人たちに会う度に言葉も仕草もどこか懐かしく、まるで親類へでも行ったような錯覚にとらわれるのは、やはり私のDNAのせいなのかも知れません。昨日もい一日でした。

  「何となく なまり懐かし 思うのは DNAが 一緒なのかも?」

  「即興で 吹けと言われて 壇上に 愛媛詩情を ハーモニカで吹き」

  「いい話 だったとお世辞 悦に入り 次の約束 してまで帰る」

  「短めの 時間を過ごす 懇親会 ハイさよならと 見送られ去る」 

  

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○習うより慣れよ

 私はパソコンが苦手で、息子や娘婿に何度も同じことを教わりますが中々飲み込めません。本当は親が子に教えるのが世の常でしょうが、ことパソコンに関してはその逆で子に親が教えてもらわなければならないのですから哀れな話です。教えてもらうその都度、「何度言ったら分かるのか」とは言わないし、私のレベルを知っていて丁寧に教えてもらうだけに、聞く方もかえって心苦しいのです。

 何でもそうですが、嫌いと思ったり苦手意識を持つと、何かにつけて疎遠にになって益々アレルギー反応が強くなり、ついには逃げ出したくなるのです。特にパソコンが何かの拍子で動かなくなったり故障したりするともうお手上げで、息子や娘婿の仕事のことも考えずに連絡しまくって、迷惑ばかりかけているのです。娘婿の手配で半年前に購入したTOSHIBA-dynabookはその後順調に動いてくれていて、有難いことに大したトラブルもなく推移しているのです。

 一昨日息子がわが家に帰ってきました。人間牧場に新しい釜戸小屋を作るための相談にきたのです。人間牧場の水平線の家もロケーション風呂も全て息子の設計ですが、今回の釜戸小屋は5年計画の最終段階なので少し凝った造りにしたいと言い出しました。僅か畳3畳ほどの小さな小屋なので、素人の私としては30万円くらいで仕上げたいと思っていました。人間牧場をフィールドにしている21世紀えひめニューフロンティアグループのご厚意もあって30万円は何とか支援してくれるそうなのですが、息子の思惑ではかなり資金が必要なようです。

 リタイアして年金暮らしとなった私には息子が考えるほど懐は豊かでないのですが、それでも折角造る釜戸小屋ですから多少は出費も心がけていますが、少ないお金でいいものを造ろうとする私と、多少お金が要ってもいいものを造ろうとする息子の間には金額的にかなりの開きがあるようで、工事に入る前から少し憂鬱になっています。

 先日息子から1枚の設計図がメールで送られてきました。メールに添付した設計図を開いて見るくらいはできますが、イメージ写真などなど送られたものを見ることもこれまた一苦労です。息子はその度に「習うより慣れよ」の言葉を引用して、積極的に私にパソコンを慣れさせようとしますが、当の本人は面倒臭くてついつい故障が怖くて一歩を踏み出せないのです。

 それでもやはり息子が言うように習うより慣れろで随分とパソコンが使えるようになりました。リタイアしたため表を作ったり計算をしたるすることは殆どなくなって、もっぱら文章を書いたり写真を挿入したり、それらを送受信したりする程度の活用ですが、メールを送る相手と送ってもらった相手とパソコンを介してコミュニケーションが図れるのですから大した進歩なのです。

 今朝も分からぬままに相手の求めに応じて、パソコン内に入っている写真データーの中から何枚かを取り出して送ってみました。一歩踏み込んだお陰でその方法が何とかマスターできたようです。基本を知らずにパソコンをいじくるのですから、難儀な話です。

  「依頼され 送る予定の こと全て 片付きホッと 一息入れるぬ」

  「習うより 慣れろと息子 諭すけど 俺には難題 パソコン苦手」

  「迷い子に なった情報 あり過ぎて 探すがどこに 潜んでいるやら」

  「この程度 満足すれば 進化せず も少し努力 も少し進化」

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○お四国参り最後のお寺は三角寺

 昨日は埼玉県北本市の皆さんが人間牧場へ一泊二日で来ていて、早朝5時から妻が朝食作りを行いそれを私が人間牧場へ運ぶという慌ただしい幕開けとなりました。人間牧場までの山道はデコボコが多く、最新の注意を払ったのですが残念ながら助手席下に置いた味噌汁の鍋から味噌汁がこぼれて大慌てでした。それでも7時過ぎには到着し、妻の作った朝食をみんなでわいわい言いながら食べました。

 一行はその後身支度を整えて山道を帰って行きました。さあそれから私はたった一人で風呂やトイレ、それに水平線の家を汗だくで掃除をし、生ゴミなどをトラックに積んで下山しました。途中稲葉さんの農園に立ち寄り少し談笑しましたが、稲葉さんは既に農作業の真っ最中で、サツマイモや山芋、スイカなどは活着して勢いよく伸びていました。

 酒屋や料理屋に支払いを済ませゴミの処理をしてトラックを洗い、一連の作業を終えた頃には10時を回っていました。急いでシャワーを浴び着替えて妻と一緒に車に乗り、市内の会場で行われた子育て講演会にやっとの思いで間に合いました。それにしてもわれながら変わり身が早いと自分で納得しました。午前中の短い時間にあれだけの仕事をこなすのですから、自分を自分で褒めてやりたい心境なのです。

 講演が終わるのを待っていた妻と娘の家を訪問し、約束していた孫二人をチャイルドシートを装備して乗せ、どこまで走っても千円の高速道路を走って川之江インターで降り、四国中央市にある四国霊場56番札所三角寺にお参りしました。実はこの寺が10年間以上もかかった私たち夫婦のお四国参りの最後のお寺なのです。

 孫たちにとっては年寄りのお四国参りに何で同行しなければならないのか、不思議な感じもしたでしょうが、じいちゃん、ばあちゃんと一緒に外出するのはとても楽しそうで、車の中はまるでピクニック気分で大はしゃぎでした。

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 祈りの旅の終わりを示す掛け軸に納経の梵字を書いてもらい、既に終わっている納経帳と掛け軸の全てが埋まりました。後は高野山のみで、念願の桔願の日もそう遠くないようです。

 私たちはお寺から横なでの曲がりくねった道を通って新宮に出ました。アジサイを見るためです。何年か前に何度か講演に来た旧新宮村はその後すっかりアジサイの村として有名になっているのです。昨日はアジサイ祭りが開かれていて、午後にも関わらず大勢の人が訪れていました。夏の太陽が照りつけ、孫連れゆえに大汗をかきながらアジサイ園を散策ました。今年は雨不足のため心なしかアジサイの花に元気が感じられませんでしたが、それでもアジサイの群落は圧巻でした。

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 花を愛でることは優しい心を育てることです。孫たちも大輪の花を咲かせたアジサイの花を眺めながら楽しいひと時を過ごしました。帰りは旧新宮村にあるインターチェンジから高速に乗り僅か千円で川内インターまで帰りましたが、途中の石鎚山SAでお土産を買ってもらいご満悦な孫たちでした。

 もう間もなく長い夏休みがやってきます。一年生になった孫朋樹は「夏休みになったらおじいちゃんと遊ぶ」と張り切っていて、先が思いやられる今日この頃なのです。


  「爺と婆 孫の二人を 従えて お四国参り 最後の札所」

  「父さんと 母さん元気で いますよう 無邪気に祈る 孫の無邪気さ」

  「アジサイの 里を訪ねて 来たものの 茶園の友に 結局会えず」

  「往復で 二千円しか 要らぬ旅 何か得した ような気分に」

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○埼玉県の皆さんと一泊二日の楽しい交流会を行いました

 昨日午後4時ころ、高知県四万十市旧西土佐村から和田さんと西平さんの案内する、奥さんたちが初めてとあって急きょ予定を変更して埼玉県の工藤さんたちご一行がわが家にやって来ました。一年ぶりの再開なのですがどこか懐かしい感じがしました。わが家を一通り案内見学して、早速交流会の会場となったお目当ての人間牧場へ向かいました。工藤さんや峯尾さんにとっては人間牧場も2回目なので目新しいものはありませんが、工藤さんと峯尾さんの奥さんにとって四国は勿論、四万十川や人間牧場を訪問するのは初めてで、目を丸くしていました。この日は心配された雨も梅雨の晴れ間を楽しむように小休止で、幸運を喜びました。

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 昨日の交流会は埼玉県から6人、わが21世紀えひめニューフロンティアグループから6名の合計12名の参加となりました。せっかく埼玉県から来るのだからと、いつもは妻の手料理でもてなすところですが、今回は地元のお寿司屋さんに、瀬戸内海で採れる魚を中心に料理を作ってもらいました。先発隊の豊田、河野両氏がシーサイドで購入したじゃこ天や、西土佐から送られてきた手長川エビの茹でたものも加わり、何かと食べ物の多い交流会でした。

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 埼玉の皆さんとは人間牧場の沖合い眼下に見える由利島で無人島に挑む少年の集いを10年間にわたって共同実施してきただけに思い出も格別で、呑むほどに酔うほどに懐かしい話に花を咲かせました。工藤さんの奥さんや峯尾さんの奥さんにとっては、これまで私たちのグループとの交流はうわさ話程度でしかなかったのでしょうが、こうして現地を訪ねて聞く話はリアル性に富んでいて、男のロマンを感じたに違いないと思いました。

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 西の端に夕日がゆっくりと落ち、夜の帳が下りてウッドデッキの上は雰囲気も最高潮でした。雨が降るかも知れないというので今回は残念ながら蚊帳を張りませんでしたが、屋外用の照明に照らされたデッキの上は、夏の海から吹きあげてくる風も心地よく、北斗七星や北極星が頭上に輝く満天の星空を眺めながら、時々電気を消したりデッキに全員が寝転がって星空を観察するなど、四呂遅くまで楽しく語らいました。

 私はあくる朝の朝食の準備がるので山を降りましたが、12時30分ころから雨が降り出し長旅の疲れを癒すように床に就いたようでした。

 今朝は5時過ぎに起きて妻はせっせと朝食を作ってくれました。私は7時過ぎ人間牧場へそれを運んで質素ながら食べてもらいました。

 今日は松山市内見学をする予定で、所用のある私は河野さんと佐々木さん、豊田さんにお願いして人間牧場で皆さんに別れを告げました。風呂やトイレ、そして水平線の家の掃除をして下山しましたが、思い出をよみがえらせるいい交流会となりました。


  「懐かしき 友遠方より 来るあり 眼下に見える 島を眺めつ」

  「十年も 一緒に行動 無人島 あんなこんなが 昨日のように」

  「蚊帳の外 いつも話を 聞かされた 今日はしっかり この目この耳」

  「それぞれの 生きた人生 その中に 同じ思い出 少し共有」 

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shin-1さんの日記

○孫たちの1/3論

 私たち夫婦は結婚して40年になりました

 その間4人の子どもが生まれました

 最初は1+1=2でしたがいつの間にか

 1+1=2ではなく1+1=6となったのです

 その子どもが2人結婚しました

 それから何年かして孫が4人生まれました

 最初は1+1×2=4でしたがいつの間にか

 1+1×2=4ではなく1+1×2×2=8となったのです


 ある年悲しい出来事がありました

 祖母と母親が亡くなりました

 最初は5-2=3でしたがいつの間にも

 5-2=3は5-2=3のままなのです


 4人の孫はそれぞれ成長しています

 わが家へやって来る孫たちの3人までが自己主張するようになりました

 最初はイチゴを3個ずつ分け与えても文句を言いませんでしたがいつの間にか

 9÷3=3ではなく 4+2.5+2.5=9となったのです

 4人の孫の中で1人の孫は今年の春小学校へ入学しました

 殆ど毎日算数を勉強しています

 最初は足し算や引き算だけでしたが掛け算を覚えました

 いつの間にか1+1=2と1×1=1が不思議で仕方がないようです


 家の玄関先でメダカを飼っています

 そのメダカが卵を産んで赤ちゃんがかえりました

 最初は10匹だけでしたが坪の中が無数になりました

 いつの間にか9×?=9ではなく9×?<?となったのです


 わが町の人口は昭和30年には1万人を超えていました

 町から人が出て行って人口が7千人1千人と減り続け

 最初は多かった人口も

 いつの間にか1万人→5千人弱となったのです


 私たち夫婦は若いころから一生懸命働きました

 親父の建てた家を弟に譲り借金して家を建てました

 最初は返済していた借金もやがて返済が終わりました

 いつの間にか人間牧場に別の家が建ち1+1=2となったのです

 私たち夫婦は毎年確実に一つ歳を加えています

 私は64歳で妻は63歳です

 最初は余り感じなかった夫婦の年齢差は

 いつの間も今もこれからも一つ違いのままなのです

 数字とは不思議なものです

 数字とは面白いものです

 数字とは怖いものです

 いつの間にか数字は増えたり減ったり変化しているのです 

  「毎日の 暮らし数字で 成り立って +-×÷ 色々使う」

  「イチゴ分け 不満の孫が 主張する 俺は兄貴だ もっと食べれる」

  「人生は 増えることだけ 思うもの 増えた数だけ 何処かが減って」

  「あと残り 幾つあるかと 指折れば 少しため息 出そうになって」

  

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shin-1さんの日記

○庭樹の選定をする91歳の親父

 梅雨に入ってもまとまった雨が降ったのは2日ほどで、今年の梅雨はどうも空梅雨の模様です。すでにあちらこちらでは水不足で断水や田植えができないなどの被害が出ているようで、先の長い今年の夏を心配しているのです。夏が近づくとわが家の庭ではあちらこちで雑草が伸び始め、親父は昼までに日陰になる所を午前中、昼から日陰になる所を午後と場所を変えて草引きに余念がないようです。しかし91歳になる親父にとって草引きはむしろ草の方の成長が速くて、家の周りを一回りした頃にはもう次の草が生えてきて、まるでいたちごっこのようです。

 この季節になると親父の仕事は草引きからむしろ庭木の手入れに重点が置かれるようになります。庭の樹木は殆ど買ったものはなく、いただいたり自分で育てたものなのですが、家庭菜園も含めると660坪もある広い敷地なので、樹木の数も半端ではなく、親父はその一本一本を剪定して回るのです。

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(私の書斎の前の中庭で松の剪定をする親父)
 一番樹高の高いクロガネモチなどは有に5メートル近くあって、足場をかけるかよじ登らないと剪定が出来ないようなものもあります。昨年まではどうにか自分で足場を組んで剪定をしていましたが、今年はもう木に登ったり足場の上で作業することが危険だからできないと弱荷を履いています。これは毎年のことなので別に気にもしていませんでしたが、昨日ちょっとよろけて転げたそうで、そろそろ私の出番が来たことを実感しました。

 しかし、いくら私の出番が来たからと言って今日から剪定ができるものでもありません。特に松の剪定は難しいようで、ハサミを入れ方を間違えると芽吹きしないばかりか、枯してしまうことだってあるのです。松は親父が大事に育ててきた樹種の一つで、はて一本の木でも2日間もかかる剪定作業を私はとてもやる自信がないのです。

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(ガンの手術で片目しか見えないのにこうして剪定をするのです)

 親父の起用さは、誰もが認めるところですが、まあこの歳になっても様々な工夫を凝らして庭をアレンジしているのです。最近流行の花で庭を飾るガーデニングではありませんが、和風ガーデニングというような作風です。家の周りはまるで箱庭のように手作りされているのです。特に自分の住んでいる隠居の周りは枯山水の一幅の掛け軸を見ているようです。

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 決して金をかけず、あちたこちらで拾ったり貰ったりした石や樹木を大切に育てて作り込んで行くのです。カエルの子はカエルなのでしょうが、私はカエルの子はオタマジャクシで、まだ手も足も出ないのです。もうそろそろと退職の時思いましたが、あれから早くも4年があっという間に過ぎ去りました。今年も剪定作業をしなければならない暑い夏を迎えたというのに、私は相変わらず書斎の室内でこうしてブログを書き、窓の向こうの外で親父はせっせと庭仕事です。少々心が痛みますがもう少しの間、元気で頑張ってほしいと願っています。

  「親伝授 カエルの子ども だというに オタマジャクシで 手も足も出ず」

  「もう限界 いつも言ってる 言葉だが 今年もやはり 脛をかじりて」  

  「箱庭の ような和風の 庭作り ガーデニングを 楽しむ親父」

  「さて俺は 親父伝授の 庭手入れ 心もとなく 未だ習わず」

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shin-1さんの日記

○関東の友四国へやって来る

 関東や東北の人たちにとって四国や九州は余り馴染みがないのか、北海道が一つの島で道府県であるように、一つの島のように思っている人が意外と多いのには驚きました。四国といえばお四国遍路88ヵ所が有名ですが、その遍路道は1500キロとも言われていて、気の遠くなるような遠距離なのです。しかも四国を八の字で結ぶハイウェー構想はまだ整備が進んでなくて、特に愛媛や高知の四国南西部は計画区間から整備区間に格上げされていても、国の予算や高速道路是非論に翻弄されて、いつ完成するのかさえも見通しが立っていないのです。

 高速道路といえば日曜日は、日本国中どこまで走っても1000円というイメージが強くて、四国への憧れをもっている人が沢山やってくるようになりましたが、四国に来てその広さに驚き、そして高速道路の未整備にがっかりして帰るという悪循環を繰り返しているようです。高速道路や新幹線は最早日本人の常識になった高速交通の時代に、四国の活性化が進まないのはやはり政治力の弱さがあるようだと、東北や九州を旅してしみじみ思うのです。四国の中に暮らしていると分かりませんが、東北や九州には既に新幹線や高速道路が完備していて、東京から遠いと思っていた場所も日帰りができるほどに時間的距離が縮まっているのです。

 今日から埼玉県北本に住む友人たちがわが人間牧場へやってきます。彼らを先導する工藤さんは旅の心得をよく知っていて、東京から一昨日夜行バスで高知入りしました。その後土讃線に乗り継いで高知中村まで行き、昨日と今日の二日間憧れの四万十川流域を散策するのです。四万十川の中流域にある旧西土佐村には旧友の和田さんがいて、彼の案内で素晴らしい自然をピックアップして満喫するようです。

 和田さんと中平さんの二人が夕方3時過ぎに人間牧場へ一行6人を連れて来て、愛媛の私にバトンタッチするという仕組みです。彼らはわが人間牧場で、21世紀えひめニューフロンティアグループのメンバーと合宿して交流し、明日は松山市内を見学して松山に一泊し、月曜日にはしまなみ海道を渡って今治から尾道に入り、尾道を散策して夜行バスで東京へ帰るという、凄いリッチな旅を計画しているのです。

 何度も四国を訪ねて来ている工藤さんや峯尾さんにとっては、四国の広さは承知済みでどうってことはないのでしょうが、今回初めて同行する工藤さんの奥さんや峯尾さんの奥さんにとっては、多分その広さを実感するに違いないのです。四国は4県それぞれに特徴があって、徳島阿波の履き倒れ(阿波踊りで下駄や草履を履いて踊るから)、高知土佐の呑み倒れ(策絵をよく飲むから)、愛媛伊予の建て倒れ(家が立派だから)、香川讃岐の食い倒れ(うどんをよく食べるから)と形容されるように、暮らし向きも随分違うのです。ましてや四国山脈を背にして徳島と高知は太平洋、愛媛と香川は瀬戸内海に面し、紀淡海峡と豊後水道が本州と九州を隔てているのです。友遠方より来るです。今日から二日間私のスケジュールは彼らのために開けておかなければなりません。明日の日曜日は1年前から入っている予定のため、仲間の河野さん、佐々木さんにゆだねますが、今日はユックリじっくり旧交を温めたいと思っています。わが奥さんもその準備に昨日から忙しそうです。


  「お天気の 行方気にして 友来る 今宵は呑みつ 旧交温め」

  「四万十と しまなみ海道 目当てかな 関東はるばる 四国訪ねて」

  「安くても 人に会えれば 豪華旅 行く先々に 温もり人が」

  「いつの日か 遍路の道を 旅したい 言ってた友の 記憶残りて」 

 

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○公民館長の研修会に招かれました

 昨日は愛媛県公民館連合会の招きで旧県立中央青年の家で開かれた公民館長さんの研修会に出席しました。県下各地から集まった館長さんは60人を超えていましたが、中には顔見知りの人もいて旧交を温めました。公民館といえば私はかつて若かりしころ公民館主事として13年、そして晩年は中央公民館長として2年、合計15年もの長い間関わった、懐かしい仕事なのです。

 当時はパソコンなどなかった人の手にゆだねる緩やかな時代でしたから、公民館活動も活発で今でも思い出に残ることが多過ぎるほど、楽しい思い出がいっぱいあるのです。その全てを話すことはできませんでしたが、公民館や社会教育にかかわったことを自己紹介のつもりで冒頭に話させてもらいました。

 ①公民館主事として13年間+中央公民館長として2年間、合計15年間担当

 ②愛媛県公民館連絡協議会(当時)の主事部会長として6年間、県公連の運営に携わる

 ③公民館の生活改善運動の一環として結婚披露宴の司会を537組実施

 ④町の広報ふたみを月2回、10年間で240号執筆発行

 ⑤全国大会の司会を6年連続担当

 ⑥私の発想した夫婦学級と金儲けの公民館活動がNHK明るい農村で全国放送

 ⑦愛媛県青年団連合会長・四国四県青年団連絡協議会会長として青年活動を主導

 ⑧第14回NHK青年の主張県代表

 ⑨県立松山工業高校のPTA会長に6年間就任

 ⑩日本一の町を訪ねる人づくり10年計画で100粒の種まき作戦


 ちょっと思い出すだけでもこれくらいあるのですから、若さの勢いとでもいうのでしょうか想いをこめてよくやったものです。当時双海町の公民館活動は自治公民館活動では全国に名の知れた活動でしたから、36の自治公民館へ3人の職員が毎晩のように出向き、超勤手当てなど出ないのに46日間も連続で夜間勤務するなど、今考えるとゾッとするようなことをやっていました。

 当時は、この仕事を一生涯の仕事にしようと意気込んでいましたから、結婚間もない家庭などそっちのけで働きました。親子でキャッチボールなどした経験がないと子どもに言われるほど子育ては妻に任せていました。それでも親孝行な子どもが育つのですから、私の働く後ろ姿を見てくれたのだと思っています。

 13年目に1枚の辞令をいただいて産業課に異動になった時は、一日中涙が出て止まりませんでした。まあ色々ありましたが、公民館は私を育ててくれた大恩人です。これからは恩人に恩返しをする番です。続く限り公民館を見守り、支援したいと思っています。


  「公民館 私を育てた 大恩人 今度は私 恩を返そう」

  「一枚の 事例を貰い 涙した 昔懐かし 時々思う」

  「館長は 金出す口は 出さずとも 責任取れば それが本懐」

  「近頃は パソコン相手 仕事する 公民館も 変わったものだ」

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○海技免状の更新通知が届きました

 数日前私の元へ一通の封書が届きました。窓付きの封書は四国海技免状センターからでした。私は自分が持っていた四級小型船舶操縦士の免状は、もうとっくに失効しているものとばかり思っていましたが、その通知に書かれている有効期限には2010/5/08と書いてあるのです。 タンスの奥にしまっているであろういわゆるタンス免許の存在する忘れていて、この5年間一度も海技免状を携帯して船を操縦したことがないのですから、勿体ないといえば勿体ない話です。

 私はえひめ丸の沈没で有名になった愛媛県立宇和島水産高等学校漁業科の卒業生で、在学中には初代の愛媛丸に乗って南太平洋の珊瑚海まで遠洋航海に行った経験を有するなど、いわゆる海の男を志した男なのです。さらにわが家の漁船若吉丸の船長として7年間も伊予灘を舞台として漁師をしましたが、当時は5トン未満であれば海技免状は必要でなかったため、海技免状は持っていませんでした。体を壊し役場へ入庁したこともあって、海技免状を取る必要もなく時は過ぎていましたが、無人島に子どもたちを連れてキャンプに行くにはどうしても船の操縦が必要となり、海技免状を取得したのです。

 そのお陰で毎年夏になると沖合に浮かぶひょうたん型由利島共和国へ渡り、子どもたちと一緒に楽しいキャンプを20年間も行いましたが、その都度親戚から借りたプレジャーボートを運び小型漁船の運転をしたのです。無人島に渡るのはチャーターした渡海船でプレジャーボートはむしろ補助的な役割や、まさかの時の救急用として配備していたのです。

 何時の時期だったかは記憶にないので定かでありませんが、無人島キャンプに連れて行った子どもの一人が無人島へ上陸寸前に船と船の間に足を挟まれた事故が起きました。看護師さんが同行しているとはいえ、骨折までは直したり措置したりすることはできず、怪我をした子どもと付き添いの看護師さんを乗せて、そのプレジャーボートを私が運転し、13キロ離れた松山市三津浜港まで運んだのです。当時は携帯電話などまだ普及していない時代だったのですが、幸い無人島には何故か海難事故防止のための公衆電話があって、病院へ救急車の出動要請をしていたのです。

 港に着くや待ち構えていた救急車に同乗して済生会松山病院へ運びました。幸い骨折はなくホッとしたのもつかの間、病院から連絡を受け待ち受けていた警察官と海上保安官の事情聴取を受けることになったのです。

 事の重大さに気付いた私は顔見知りの俊成県会議員に連絡し、丸くおさめていただくよう連絡を取ったのです。県の海上保安協会の会長をしている俊成県会議員の心温まる手配のお陰で、私に対する嫌疑は不問になりましたが、事故を起こした渡海船の船長や現場の責任を持っていた何人かはその後海上保安庁に何度か呼び出され、その顛末は事件として検察庁へ送られました。不幸にも渡海船の船長は罰金刑となりましたが、私たちの事故に対する備えや対応の万全さ、それにボランティア精神が認められて不起訴となったのです。

 たった一枚の海技免状ですがその重みを感じた事故でした。ゆえにもう船には乗るまいと固く心に決めていたので更新はしていないものとばかり思っていましたが、私の海技免状はまだ有効だったのです。このまま失効にするのはもったいないと思うようになって、講習を受け更新しようと思っています。ふって湧いた話に海への憧れが蘇ってきました。今までは忙しくて船で釣りをする余裕もなかったのですが、これからの余生をのんびり釣りでもと思っています。いつになることやら分かりませんが、久々に届いたいい知らせにワクワクしているこのごろです。


  「税金の 通知ではない 更新の 通知受けとり 昔懐かし」

  「更新は すまいと事故後 決めていた 心変わって 釣りでもするか」

  「一枚の 海技免状で 助かった あの子今頃 元気でいてか」

  「車船 水陸両用 なれるかも 講習受けて 夢よ再び」 

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