shin-1さんの日記

○苦手な人を克服する方法はないものか

 先日講演の後、意見交換会がありました。普通は講演の概要をかいつまんで司会者がお礼のような形で述べ、「もう一度若松さんに盛大な拍手をお送り下さい」で終わるのですが、少し意見交換の時間を用意している時などは、フロアーの参加者に「何か意見はありませんか」と発言を求めるのです。上手い司会者だと会場の顔見知りの人に「○○さん如何でしょうか」と発言相手を指名したり、時にはサクラと呼ばれるお喋り上手な人に事前に「発言して欲しい」と頼んでおき、さも会場から自然に手が上がったような心憎い演出をする場合もあるのです。でもそんな演出をしなくても、なければないで切り上げるのが常識だと思うのですが、何か発言しなければ講師に悪いと思う司会者は発言のない会場の雰囲気を見て取って、司会者自らが質問する事だってあるのです。

 そんな場合私はちょっと助け舟を出すようにしています。「ご意見もないようです。時間が勿体ないので少しフォローさせて下さい」と前置きし、持参のハーモニカを木になるカバンから取り出して「夕やけこやけ」と「赤とんぼ」を吹くのです。これが案外参加者にはおまけと受け止められ好評で、演奏が終わると皆さんから期せずして拍手起こるのですが、間髪を入れず「皆さん拍手をしないで下さい。拍手をされると馬鹿な私はアンコールと勘違いするのです」というと、大爆笑が起こるのです。

 まあ普通90分の話が終わると、帰り支度を始めるような人は長く感じているものでしょうから、余り長く引っ張るのはご法度なのです。

 つい先日も例によって講演の後の質問時間があり、ある人が「若松さんは誰とでもお話が出来て羨ましいです。あなたには苦手な人はいませんか。若し苦手な人があればどうされますか。教えて下さい」と、講演テーマとは全く無関係な質問がありました。こんな場合は講演テーマにこじつけて話すのが講師の知恵なのでしょうが、この日この人は、二度三度私の答えに追い討ちをかけて質問を長引かせてしまいそうな雰囲気でした私は「詳しく聞きたいようですので、後でお話しましょう」と切ってしまいました。

 私は人見知りしない方なので、余り苦手な人はいませんが、私にだってこれまで苦手な人の一人や二人はいました。特に役場に勤めていた後半は夕日によるまちづくりを発想し推進したため、議会などと対立し怒号飛び交う議論を交わしました。しかし絶えず冷静に相手と誠心誠意対応したお陰で、雪解けの中で今を迎えています。

 「嫌いな人は相手も嫌い」「相手を好きになれば好いてくれる」、これが基本だと思い、苦手な人でも好きになるよう努力しました。まあ人間とは鏡のようなもので、自分がするようにしか鏡には映らないものなのです。鏡に映る姿は虚像で鏡のこちらは実物なのですが、心までも映るような気がするのです。

 「苦手な人を克服する方法はないか」と尋ねられたその答えは「嫌いな人を好きになること」のようです。そうはいいながら、やはり苦手な人はいるでしょう。その人の顔を見ただけで寒気がする人もいます。またそんな人にまで媚びを売ってまで生きて行くことは耐え難い人もいるでしょう。でも科学万能な時代に生きる私たち人間が、些細なことで相手を嫌いになって気まずい思いで生きていくより、みんなと仲良く生きていった方がどんなにか楽しいものです。「もっと人間を信じ人間を好きになろう」。

  「大嫌い 自分で思う その人も 嫌いなはずと あきらめ好きに」

  「講演の 後で質問 出たものの トンチンカンな 話に終始」

  「質問を する前サクラ 公言し 会場爆笑 これも一考」

  「質問が ないので吹くと ハーモニカ これが馬鹿受け 心に響きて」

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shin-1さんの日記

○私五月病かしら?

 私は医者でもなく普通の63歳のオジサンなのですが、人間牧場が出来てからおもしろ半分なのかどうか分りませんが、「こんな話聞いて」とやって来る人が結構多いのに驚かされます。先日もあるお母さんから「就職した息子が最近会社に行かなくなったがどうしたらいい」と、相談を受けました。カウンセラーの経験がある訳でもないのでどうしたものかと考えましたが。顔見知りの知人であるそのお母さんと会って話しをしました。

 聞けばその若者は私の知っている若者で、生真面目ないい子です。この春大学を卒業し印刷系の会社に就職し営業の職場に配属されました。最初は母親の作った弁当を持ち元気に会社に通っていたのですが、最近は見習い期間も終りノルマの達成に夜遅くまで仕事をしてクタクタになって帰って来ていました。5月に入り息子の元気のなさに気が付いたものの、「頑張って」と言葉をかけるのが精一杯、そのうち頭が痛い、気分が優れない、体がだるいと不調を訴え、部屋に閉じこもるようになったのです。

 私はとっさに「五月病」のことを思い出しました。毎年この時期になると新緑の五月とは裏腹に新入社員に現れる症状のことで、これを上手く乗り切らないと自信を喪失してとんでもないことになる可能性があるので、しっかりと対処するよう話しました。

 五月病の特長はこの若者のように「食欲がない」「気分がスッキリしない」「頭痛通腹痛」まで様々です。原因はなれない仕事や人間関係で無意識のうちにストレスが蓄積するのです。殆どの若者は一過性で馴れればどうってことはないのですが、この若者のように真面目な人間ほど要注意で「俺はこの仕事に向いていない」「俺は駄目な人間で何をやっても上手く行かない」と深く考え、時には自殺さえ考えることがあるというから気をつけなければなりません。

 早速お母さんに二つのことを話しました。まず職場の上司にそれとはなしにお話して対応してもらうよう頼んであげました。最も身近な母親が職場に電話をかけたことが分ると若者のプライドに傷が付くことを恐れ、幸いこの印刷会社の社長さんを知っていたのでお話してあげました。

 さらに休みの日、人間牧場へお母さんと一緒に来るよう勧めました。二人は人間牧場へやって来て私とさまざまな話しをして帰りました。

 昨日のことです。大学の講義が終わって自宅へ帰り書斎で原稿を書いていると、何やら玄関のチャイムが鳴りました。出てみるとあの相談に来た若者が笑顔で立っていました。人間牧場へお母さんと一緒に来た時の青ざめ思いつめた様子は何処かへ消えて、元気そうに見えました。一人でお礼に来るのですから嬉しいことです。話しを聞けば「上司や同僚が相談に乗ってくれるようになった」「営業もペアーで行くようになった」「体も随分元気になった」と説明して帰って行きました。

 私は早速夜10時頃お母さんに電話をしました。お母さんはとても喜んで時折涙ぐんで話されましたが。この若者は見事に五月病を克服したのです。私も自分のことのように嬉しい昨日の夜でした。人間は人に言えない悩みの一つや二つはあるものです。一人で悩まず友人や、私のようなとんちんかんな者でも結構相談相手にはなるものです。ただし誰でもこう上手く行くとは限らないことも肝に銘じるべきでしょうか。

  「五月病 誰が名付けた 病名か 直ればケロリ 元に戻って」

  「母親は 何時まで経っても 子のことを 心配するよう 出来ているんだ」

  「五月病 見事克服 俺名医? 相談相手 なっただけです」

  「外は晴れ 心は曇り 少し雨 水に流して 五月雨濡れる」

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shin-1さんの日記

○ご馳走を食べ過ぎるとろくなことがない

 やはり私は貧乏性に生まれているのでしょうか。はたまた63歳になって初老の域に達しつつあるのでしょうか。一昨日の日曜日、孫の誕生日と初節句のお祝いを大岩という中華料理店で開催しましたが、その時の料理がおご馳走過ぎたため、食べ過ぎと酒が飲めないためウーロン茶を飲み過ぎたため、何処となく腹の調子がおかしくなって、一昨日の夜は腹が張って中々寝付けない夜を過ごしました。

 私の食生活はいたって質素で、肉は殆どといっていいくらい食べません。胆のう摘出手術をした8年前からは油濃いものは余り欲しくないのです。それでも妻は痩せた体を元に戻そうとまるで肉の嫌いな子どもに肉を小さく刻み知らず知らずのうちに食べさせるような仕草で野菜と交ぜて料理をしてくれるのですが、肉をよって出すほどなおです。ですからむしろもっと油分を取った方がいいのかもしれません。

 昨日は大学の講義日なので少し早めに出かけて息子と娘の所に立ち寄りました。息子嫁から「お父さんが来るのだったらお昼ご飯を一緒に食べよう」と提案の電話があったので、お言葉に甘えてご相伴に預かることにしました。息子の家では訪ねてもお茶を入れてもらい飲む程度で、これまで殆ど食べたことはないのです。親父が昼に来るというので息子も近くの職場から昼食に帰り、息子、嫁、孫、それに私の4人での食事となりました。

 お昼のことゆえ、ましてや前日のお馳走のこともあるので料理は巻き寿司に冷しうどんといたってシンプルでした。息子の家族は長男の自覚でしょうか一ヶ月に一度くらいの割合でわが家へ帰って私たち夫婦と食卓を囲んだり泊まったりします。そんなこともあってか料理の味付けは妻の味と大差はなく、美味しくいただきました。

 それにしても息子の家で嫁の料理を食べるのは、うちまで気兼ねがないと思うのですが、意外と緊張するものです。わが家では大皿に盛って好きなものを好きなだけ鳥皿で食べるのですが、息子の家では同じようなことをしていても、やはり量が段違いに少なく、どことなく遠慮がちになるようです。ふと嫁がわが家に来た時のことを思い浮かべました。私たちは何気なく振舞っていたつもりでしたが、気さくな嫁のことゆえ嫁の気がねや気苦労など見落としていたようにも思うのです。立場が変れば味方や振る舞いが変わるのは当たり前ですが、昼食をご馳走になっていい事に気がつきました。

 食べるものとてろくにない少年の頃を思うと、今は毎日が盆と正月、そしてお祭りのようなおご馳走に囲まれて暮らしています。意の向くままに食べると太らないのが不思議なくらいカロリーが高く、栄養価も申し分ありません。辺りを見渡すと昔は殆ど見なかった肥満体の人が街中に溢れています。栄養が行き届かなくて病気になった昔に比べ、今は栄養が行き届き過ぎて成人病になるのですから世の中は変ったものです。

 人間が生きる上で必要な「食」を私たちは随分疎かにして生きているように思います。豊かな社会だからこそ食に対する正しい考えを身につけなければ、長生きはおろか、豊かな人生はないのです。

  「昼ごはん 嫁の手料理 舌鼓 少し気がねの 箸を進めて」

  「居場所変え 嫁の気がねが 分るよう 今日は学びの 食をいただく」

  「ご馳走は 俺の腹には 合わぬはず 貧乏性だな 腹が可笑しい」

  「この人は 何で飯喰う キョトンとし 俺を見つめる 孫の目注視」


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shin-1さんの日記

○朝の楽しみと落胆

 朝起きて家の敷地内にある家庭菜園の畑へ出るのは楽しみだ

 ああでもないこうでもないと親父と二人、四論五論を繰り返しながら

 畝を切り溝を切って土中に埋めた種・種・種

 あれから四・五日経っただろうか一雨の恵みを得て

 ものの命の芽生えとでもいうべき種が次々と土を割って芽を出し

 ああここにも生きようとする力があると感じる

(鳥にも食べられず元気に目を出したトウロク豆)

 一方田舎ゆえの広過ぎるほどの家の周りの庭に目をやると落胆する

 これも一雨の恵みだろうか昨日まで目立たなかった雑草が

 勢いよく伸びだして辺り一面草だらけのように思うほど生えている

 地べたを這うように毎日草と格闘する親父の力では最早間に合わない

 家を守るのは長男の義務だといわんばかりの威圧が何処からともなく聞こえてくる

 ああ長男に生まれるのではなかったと後悔するが後のまつりだ


(今朝引き抜いた庭の草)

 こうして春から夏になると毎年毎年、毎日毎日楽しみと落胆が交錯するのだ

 さて落胆はさて置くも収穫の楽しみはまだまだ先のようだ

 多分虫に食われ、病害虫にやられ、風や雨にも晒されて

 今のように単純な芽吹きの喜びを喜ぶような」ことは少ないかも知れない

 さて楽しみはさて置くもとりあえず見える部分の草だけは取ると決意した

 朝早く起きてブログを書くのを後回しにしてハッポースチロール一杯分草を引いた

 楽しみと落胆は今日も明日も続くだろう

 楽しみと落胆は多分来年も続くだろう

 楽しみと落胆は長男の私に課せられた務めかも知れない

 楽しみと落胆の楽しみを増やし落胆を少なくするため草枯らしも考えた

 楽しみと落胆は手間暇かけるからいいのかも知れないと草枯らしはやらないと決意した

 楽しみと落胆があるからこそ人生はあるのかも知れない

 ああ今日も楽しみと落胆が私の心を弾ませそして悩ませる

  「育てたい ものは育たず 生えるなと 願う雑草 ぼうぼう生えて」

  「枝豆と とうきびの種 順調に 生えて嬉しい 五月菜園」

  「楽しみと 落胆あるのが 人生と 諦め草を 今朝も引き抜く」

  「弱音吐く 親父に替わり 庭手入れ いよいよ出番 やって来ました」

 

 

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shin-1さんの日記

○車の不具合

 もう一週間も前だったでしょうか、車の運転席の前にあるメーター指示板に何やら妙な絵文字が点灯したのを発見しました。今の車はデジタル仕様で昔のような時計型ではないので、エンジンキーを抜けば全てのメーターが消えるようになっていますが、指示板の絵文字が出ても別に何ら異変を感じることもなく動くのでそのまま忘れていました。

 先日宇和島への道中、同乗した伊予市役所の米湊さんに再び点灯し始めた絵文字について聞くと、彼はすぐに車の前のアタッシュケースを開いて車検証を取り出し、その裏面に添付している車のマニュアル本をめくっていました。やがてそのページが検索され、絵文字は「エンジントラブル」だと分ったのです。宇和島周辺でトヨタのサービスセンターを探す暇もなくそのまま走行して帰りましたがどうも気になるので妻に話し、土曜日にサービスセンターへ修理に行くことになりました。

 私はあいにく金融関係の仕事が入っていたため、妻に頼んで恥かしくもないけど恥ずかしながら田舎のオープンカーに乗って出かけました。車を駐車する場所は近くの百円パーキングだったので、参加者にも主催者にも田舎のオープンカーで到着したことを気付かれず、大成功でしたが、車の不具合のことが気になって、ズボンのポケットの中の携帯が鳴る度に一喜一憂し、妻の携帯へ連絡するのですが結局は音信普通のまま講演を終えて自宅へ帰ったのです。自宅から妻の携帯電話に電話したのですが、何のことはありません。妻は自分の携帯電話を自宅の居間の机の上に置いたまま出かけていて、私の携帯電話から発した呼び出し音は居間の机の上でなりっぱなしでした。これが本当の電話がデンワです。

 そのうち妻が孫を伴って帰って来ました。聞けば携帯電話を忘れたこと、サービスセンターが移転していたこと、不具合を点検して部品を交換し修理を終わったが修理代が一万六千円もかかったこと、ついでにオイル交換を行い、エレメントも変えたことなどを報告してくれました。自分の車なのに妻に修理を代行させて悪いと思いつつまあいいかと、時ならぬ二万円の出費に高いと思ったり、二万円で車の不具合が修理できて良かったと思ったりしながら昨日は修理の終わった車の助手席に妻と後部座席に孫を乗せ、松山方面へのドライブを楽しみました。

 トヨタプラッツというこの車を購入して8年余りが過ぎました。その間講演やまちづくりの集会などへ参加するためこの車で九州や中・四国地方へ遠出します。そのためもう20万キロ近くも走行しているのです。妻は事故や遠出のことを心配して、タイヤの交換とオイルの交換を小まめにやってくれるのですが、そろそろこの車も限界と思っていて、次の車の購入資金を貯め始めているようです。

 この車が十年持った訳ですから、車検の切れる一年半後、仮に車を買い換えると十年後私は75歳になるため、ひょっとしたら次に買う車が最後の車になる可能性があるのです。そう考えてみると車は安いものだし、よく動くと感心するのです。

 私のように酷使して車を使っても、今の車は性能がよく、中々故障もせずに走ってくれるのです。昨年車庫の上に吊り下げて保管していたカヌーが紐が切れてこの車の上に落下し、思わぬ損傷を受けてからは、それまでのように頻繁に洗浄したりワックスをかけたりすることもなく使っていますが、それでもまだまだ走れると車に感謝しながら、今日も大学の授業にこの車で出かけるのです。

  「不具合を 示すランプが 点灯し 修理を終えて 命再び」

  「妻を呼ぶ 電話が出んわ そのはずだ 居間の机上で ツーツーツーと」

  「よく走る 感心しつつ 私乗せ 今日も所用の 供になりつつ」

  「二万円 安い高いと 思いつつ 車検まではと 車に祈る」

 

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shin-1さんの日記

○今日は二人の孫の初節句

 初孫だった朋樹君も大きくなって5歳になり、来年はいよいよピカピカの一年生になるため、幼稚園の年長組みとしての自覚が出来たのか、何かにつけてお兄ちゃんを連発するようになりました。今日は朋樹君の弟である岡本直樹君の満一歳の誕生日です。また内孫である若松希心君の初節句のお祝いの日です。最初は希心君の初節句と考えていたのですが、よくよく見れば直樹君の誕生日だし、尚樹君にとっても初節句なのだから合同でやろうという事になって妻と二人で出かけて行きました。



 長男の嫁のお父さんはカメラが趣味のセミプロなので、私はおこがましくもデジカメなどではと控え目に、カメラを忘れたふりをして、初節句の内幟飾りが飾ってある長男の住むマンションに出かけました。ここで嫁のお父さんによる撮影会をしました。主役の希心君にとっては迷惑な話で、沢山の人が来るので何事が起きたのかと思われるような興奮状態に加え、昼寝の時間を邪魔され少々お冠の状態でした。それでも習いたての「いい顔いい顔」を連発してカメラ目線になっていましたが、堪忍袋の尾が切れた終わりごろにはご機嫌斜めの状態でした。

 今日は娘の家族と息子の家族、それに長男の実家と私たち夫婦含めると大小10人の団体で松山にある馴染みの中華料理店大岩へ乗り込みました。最初は静かな会場もさすがに子ども三人は泣き笑いで蜂の巣状態でした。

 始めの開会あいさつは5歳になる朋樹君にスピーチをさせました。昨晩からわが家に泊まりにきていたため、行きの車の中で練習をさせました。「今日は希心君初節句おめでとう。直樹君誕生日おめでとう」だけの簡単なあいさつでしたが、直立して上手く言えましたのでみんな予期せぬ自体に大笑いで褒めてやりました。

 しかし、生まれてからこれまで、一年の誕生日を迎えた尚樹君と、9ヶ月の希心君の育ちがいつの間にか体重や身長的には殆ど換わらなくなっているのには驚きです。もっとも2ヶ月早く生まれた直樹君はハイハイや伝い立が出来たりするので、それなりに早く生まれた成長は進んでいるのですが、やはり同級生となるのですから、そんなに差は無いのかも知れません。

 今日は大安で日がよいのか料理屋さんはどの部屋も満席の状態でした。私たちは12時からはじめ時間半ほどで祝宴を終り散会しましたが、主役のご両人のこれからの健やかな成長を心から願っています。

 みんなと別れた私たち夫婦は、このところの忙しさで温泉に浸かることも少なかったので、思い切って星ヶ丘の温泉に行きました。勿論夫婦別々の男湯と女湯に別れゆっくりと温泉を楽しみました。身も心もリラックスしていい感じになりました。

 親父の夕食の準備もあるので、午後4時過ぎに自宅へ帰ると下灘の親類からお魚の提供があり発泡スチロールのトロ箱を積んで取りに行きました。イカを沢山いただいたので伊予市や禽獣周りにおすそ分けして歩きました。我が家へはとびきり新鮮なアジをいただき、今夜は歯ごたえのあるアジの刺身を堪能するほど食べました。昼の祝宴といい、夜の刺身を中心とした夕食といい、今日は栄養価の高い食べ物を沢山食べて、どこか元気が出たような一日でした。

  「初節句 祝いの席で 初孫が あいさつ自立 みんなで拍手」

  「昼ご馳走 夜もご馳走 胃がたまげ 今日は一日 盆と正月」

  「孫の数 何時の間にやら 三人に 今日はめでたい 一日でした」

  「孫成長 俺ら大人は 日々落ち目 次第に開く 溝の深さを」   


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shin-1さんの日記

○ライフプラン講座

 昨日は土曜日でしたが、午後1時30分から、愛媛県金融広報委員会主催の「ライフプラン講座」が愛媛県美術館講堂を会場に開催されるため出かけて行きました。美術館は人体の不思議展が行われていて、かなり沢山の人で込み合っていましたが、講堂は別棟のため場所を示す矢印が貼られていて、皆さんスムースに会場へ入られていました。私は会場の入口で丹治会長さんがわざわざお出迎えをしていただき恐縮してしまいました。

 今回の講座は新聞とテレビで事前に告知されたこともあって、50人の定員に対して80人もの参加があるなど、私自身が予想以上の盛況に驚きました。だって名もなき一介のリタイア男の話なのでまあ正直言うと値打ちの無い人間の話ですから、事務局の山下さんも果たして人が集まるかどうか心配されたのだろうと思うので、私以上に山下さんの方が驚かれたのかも知れません。

 会場には先輩の玉井恭介さんや旧友知人が何人もいて、身近な人だけに「話しにくいなあ」と思いました。時間通り午後1時30分きっかりに総務課長さんの司会で講演会は始まりました。丹治会長さんの身に余る紹介を受けていよいよ登壇です。


 私の話は、1、始めに、2、変わり行く社会、3、ライフプラントは、4、基本ライフプラン、5、経済ライフプラン、6、健康プラン、7、生きがいプラン、8、まとめくらいな筋書きで話しましたが、レジ目を作るでもなくおおよその目安で話したため、聞く方にはこのような筋外が伝わったかどうかは分らないのです。

 特に基本ライフプランについては時間を取って話しました。私は23歳の時人生の生活設計を学び、基本プランを作製して自分の部屋の天井に貼り付けていました。夜床について眠るまでその貼り紙に書かれたプランをずっと見続けました。また朝起きると床の中でプランを見るという日々を結婚するまで続けていました。妻の反対でその貼り紙は取っ払いましたが、今でも頭の中に基本プランは描かれ続けているのです。そのことによって、今をどう生きればいいか常に考えて生きてきました。そして過去をどう生きてきたのか良きにつけ悪しきにつけ反省できたのです。そしてしっかりと未来を夢見ることが出来ました。

 私は人生の寿命目標を85歳まで生きると横軸に書いています。23歳の時にひっくり返された自分の砂時計には残念ながらもう22年分しか砂は残っていないのです。目標たる支柱を立てた菊が伸びる菊の実験のように、基本プランを持ったお陰で私のこれまでの人生は素敵なものでしたし、これからも素敵だろうと信じているのです。


 参加者の皆さんに分り易くするため、私が考え出した人生3万日と5千日刻み砂時計の話をしました。

    5千日÷365日=13.70歳(小学校卒か中学校卒)昔はここから社会人生活が始まりました。

    1万日÷365日=27.40歳(男性の適齢期)今はここから本当の意味の社会人スタートです。

  1万5千日÷365日=41.10歳(男の厄年・人生の折り返し)今も昔も人生のピークです。

    2万日÷365日=54.80歳(昔の人の定年)昔はここで仕事を終えていました。今は再就職。

  2万5千日÷365日=68.49歳(今の人の定年・昔の人の寿命)

    3万日÷365日=82.19歳(現代日本人の寿命)

 また、比較するために私が考えている21年刻み砂時計もお話しました。

     1回目の21年   育ちの期間(養育期間)

     2回目の21年   自律・自立の期間(冒険期間)

     3回目の21年   職業人・責任の期間(仕上げの期間)

     4回目の21年   余力の期間(人生を楽しむ期間)

 まあこんな話であっという間に90分が終わってしまいました。玉井先輩からメールが入り、話は完璧だったが、最後にハーモニカがなかったのは大失敗だそうです。私もそのことが少し気になりながら時間が過ぎたため壇上を断腸の思いで下りてしまいました。悪しからず。

  「もう少し 時間があれば ハーモニカ 先輩指摘 さすが的得て」

  「会場の あちこちお手々 振る人は 知人友人 青色吐息」

  「点数を つけるとしたら 五十点 何時も終われば 反省しきり」

  「向かい風 追い風に変え 今度こそ 上手くやりたい リベンジ誓う」

 


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shin-1さんの日記

○久しぶりの宇和島②(雑感)

 昨日の会議は組織改変による文字通り南予の中心となった県庁南予地方局の7階会議室で行われました。会議に先立ち地域政策課に八十島補佐さんを訪ねました。この春から県庁から赴任した旧友です。大森課長さんや宮川補佐さんなど知り人が多く、かつて宇和島地方局時代に訪ねた地方局とは打って変わって、何か元気ややる気のようなはつらつとした空気を地域政策課の室内に感じました。まさに南予活性化の最前線といった感じです。

 全国大会実行委員会の会議は実行委員長である私が議長を務め、特に15分科会のプログラム内容について吟味を重ねました。既に原案は出来ているのですが、全国の人に情報発信する大切なメッセージなので、少し長めの時間をかけました。多分私の執拗なコメントを聞いてカチンときた部分もあると思うのですが、これから微調整をして来月には正式な要綱が出来上がり全国に発信する予定です。

 会終了後前夜祭と全体会の会場を歩いて視察しました。実行委員会のメンバーに土地勘と士気を高めるためのデモストレーションのつもりでしたが、少し暑く感じる1時間の散歩は堪えたようでした。全体会場となる南予文化会館ではこの春市役所を退職した佐々木さんが館長に就任していて、思わぬ旧友との再会を果たしました。

(散閑とした商店街はシャッターの閉まっているお店も目につきました)

 夕闇迫る頃、一通りの会議を終え袋町商店街を通りました。平日のためか商店街は道行く客も少なく、全国ありきたりな中心市街地の活性化という重い荷物をしょってるような姿に心が痛みました。宇和島の人に「若松さん妙案は」と聞かれましたが、妙案浮かばず「商店主と市民の意識改革をしないと難しいですね」と、とんちんかんな話をしてしまいました。昭和レトロで復活した大分県豊後高田の商店街を思い出しました。常に一番を走るか一周遅れに甘んじるか、どちらかでないと二番三番では見向きもされないのです。私の町は一周遅れの発想でした。故に目立ったように思うのです。発想はいっぱいありますが、どんな思いで誰がするのかとなると、一歩前に進めないし、振り子時計の原理で終わるのです。はずみ車の原理にするには反対も失敗も痛みも伴います。


 この夜の宴会はほづみ橋のたもとにあるほづみ亭という粋な料理屋で行われました。実行委員会結成以来始めての会費制懇親会なので心配と楽しみが交錯しましたが、いい雰囲気で交友を温めました。

 この夜は私たち双海町三人組にとってもう一つの楽しみがありました。それは三年間双海町翠小学校の校長としてご厚誼のあった鹿島先生との出会いです。既に高野さんが連絡を取り合っていたらしく、ほづみ亭近くの小料理屋で先生と落合い、懐かしい話や近況を飲みながら食べながら旧交を温めました。縁とは不思議なものでえひめ地域政策研究センターのまちづくり部門に旧津島町から出向していた森田さんの在所にある小学校の校長に赴任している陽で、校長先生の近況は時々入ってくるのです。

 翠小学校はご存知愛媛県内では最も古い現役木造校舎なので、鹿島校長先生は在職中かなり注目を集めた校長先生でした。私も当時は町の教育長だったこともあって懐かしさ一入です。途中センターの谷本さんも合流し賑やかな二次会となりました。

 午後9時半ごろ私の運転で先生を自宅のある旧吉田町で別れを告げて下し、内子経由、河野さん宅経由、米湊さん宅経由でわが家へ11時半に帰りました。「お帰りなさい」という妻の声に幸せを感じながら、昨日歩いた道筋をたどるようにデジカメの写真を取り込みながら長くも充実した一日を終わったのです。「明日は大事な会があるから」と自分に言い聞かせて・・・・・。

  「宇和島も ご多分漏れず 商店街 シャッター通り 何か妙案」

  「校長の 顔が紅潮 絶好調 久しぶりだね 旧交熱く」

  「わがブログ 読んでいるから 俺のこと 手に取るようで 嬉し恥かし」

  「この写真 二人ハンガー 吊るされて 知らぬが仏 思わずウフフ」


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shin-1さんの日記

○久しぶりの宇和島①(宇和島城)

 私にとって宇和島は第二のふるさとです。というのも16歳から18歳までの勇猛果敢な高校時代の3年間を、この宇和島で過ごしているのです。時は高度成長の始まる昭和36年ころですから、戦後復興を遂げた宇和島の町が南予の中心都市として最も賑やかな時代だったのかも知れません。もう半世紀にも及ぶ45年も前の出来事だし、年齢的にも過去を覚えている限界に近いことや、その後の発展で記憶の殆どを消し去っているから、久しぶりに訪ねてもそこここに見覚えがある程度なのです。

 でも終着駅ながら始発駅である宇和島駅の線路と、城山に聳える宇和島城だけは変わることなく宇和島のシンボルとして根を張るようにどっしりと構えています。お城のある街はどことなく落ち着いていて、ふもとの枡形町に住んでいた頃が懐かしく思い出されます。

 昨日はまちづくり団体交流全国大会が今年の秋、この宇和島を中心に南予辺りで11月に開催されるため、その実行委員会が催されたのです。中予でありながら分科会の一つを受け持つ伊予市双海町から参加の高野喜由ほたる保存会長さんと伊予市役所主幹米湊誠二さんを伴って、夜の懇親会を見越し、酒を飲まない私の車で出かけました。途中顔見知りである吉田のうどん坊で昼食を取り、宇和島へ12時過ぎに入りました。腹ごなしに宇和島城へ登ろうということになり、「上り立ち門」に車を止め登り始めました。城山の木立は爽やかで、なだらかな中にも急峻な石段を登ると、お昼の散歩を楽しむ人が結構いて、あいさつを交わしながらの登城です。

(上り立ち門)

 やがてお城が見えてきましたが、何時も変わらぬ威風堂々とした姿です。

(初夏の空に清々しく建つ宇和島城)

 私は宇和島に3年間もいながら、また講演などで足繁く通ったりしながら、まだお城の中へ入ったことがないのです。この日は場内拝観が出来るとあって200円の拝観料を払い見学をしました。

(宇和島城の普請の際に作られた模型骨格展示)
(殆どが松材で出来ている城の内部の立派な梁は普請の度の比較が出来ました)
(一階から二階に上がる急な階段)

 格子の窓から手を差し出し、城山の眼下に広がる市街地をカメラに収めました。そこここに懐かしい建物が見えました。

 
(東側、北宇和島方面)
(北側、宇和島湾を望む)
(西側、来村方面)
(南側、丸穂方面)

(宇和島城と石垣)
(お城の前で記念写真を撮りました)

 

 宇和島は「伊達十万石の城下町」と呼ばれ、藤堂高虎創建、天守閣は二代宗利が再建した三重三階総塗籠式、層塔型といわれて、国の重要文化財に指定されています。万延元年と昭和35年に大修理が行われているため、殆ど痛みもなく往時の姿を今もなお伝えています。

 この日は予期せぬお城の見学ができてラッキーな一日でした。

  「久しぶり 訪ねし街の 城山に 上りて天守 拝観嬉し」

  「格子戸に 手を差し出して 遠望を 写真収めつ 記憶たどりぬ」

  「町並みも 人の暮しも 変わったが 城山だけは 今も昔も」

  「終着の 駅は始発の 駅になる 集団就職 ここが始まり」

   

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shin-1さんの日記

○女に生まれなくて良かった

 朝の目覚めは私の方が早いのですが、妻は起きるなり着替えて顔を洗い、洗濯や掃除をしながら台所でせっせと朝食の準備をします。準備が出来ると私を書斎まで呼びに来て、その間に分別したゴミを出したり身の回りの片づけをしています。最近は子どももそれぞれ独立して仕事に赴いているため弁当を作らなくても済むだけ朝の仕事は楽になったようですが、一昨年までの一時は弁当を三つも四つも作る大変な時期がありました。二人で朝食を取り後片付けをします。その後二人で同じ洗面所で先を争うように洗面します。妻はどちらかというと化粧をしない方ですが、それでも薄化粧をし身支度を整えて家を出るのです。

 やがて昼までの3時間半、近所の歯科医院でパートで働き昼ごはんは私と二人で食べますが、昼休み1時間半の間に二人の昼食を作ったり食べたり後片付けと、これまた忙しそうです。やがて1時30分に再び病院へ出かけ5時半まで勤務します。帰ると直ぐに親父の夕食と私たちの夕食を作ル野ですが、その間洗濯物の取り込みやアイロンかけなど細々した仕事に余念がありません。考えてみれば亭主の私は風呂をためること以外は殆ど家事らしい家事はしないのです。自慢ではありませんが亭主関白で、駄目亭主のそしりを免れないのです。

 そんな朝から晩まで働きづめに働いている妻を見てしみじみ思うのは、「女に生まれなくて良かった」ということです。それは何も男の威張りではなく、妻の激務に対する感謝の気持ちから思うのです。でもその感謝の気持ちを態度で表し妻の仕事を少しでも軽くするようなことをしているかどうかとなると、これまた大きな口は叩けないのです。

 私はそんな後ろめたさもあって時々「何かしてやろう」と殊勝なことをするのですが、それが案外お節介で後周りになることが多いのです。例えば風呂をためることは退職時に自分の仕事と自分に言い聞かせてやり始めましたが、風呂の蛇口を稗って書斎でパソコンを打ち始めると風呂の事をすっかり忘れ、溢れさせることなど常習で、「もっと真剣にやってください」と叱られたりします。また掃除をして肝心な物を捨ててしまったこともありましたし、布団を干したのを忘れて雨に濡らしたことだって何度かありました。数日前もにわか雨が降って、せっかく干し上がった洗濯物を取り込むすべもなく全部濡らし、外出から帰った妻を落胆させました。

 そんな妻に恩返しをしようと、最近マッサージをしています。妻は職場の同僚だった人の娘さんが若くして急逝して退職したため今は一人で二役の仕事をこなしているらしく、帰ると肩のこりを訴えます。最初は見よう見まねで肩を揉んでいましたが、肩や足や腕などにも広がって、妻は「5分程度」というのですが、私は「20分も揉んでいる」心境で揉み解しているのです。私は幸い肩こりはなくたまにぎっくり腰になるくらいなのですが、整体院で揉んでもらった経験を生かしてマッサージをしてやると、妻は大そう喜び「楽になった」といってくれるのです。

 ふと私たち夫婦ももうそんな年齢になったのかと、お互いがいたわる姿に一人苦笑するのです。私は男に生まれ、まあまあ良き伴侶にも恵まれ、何不自由なく暮らせるのですから、ささやかながら幸せと思わなければなりません。多分今度生まれ変わることがあっても男を選ぶでしょうが、その分これからは罪滅ぼしのつもりで妻をいたわってやりたいとブログ上では思っています。(妻がブログを読まないのが勿怪の幸いです)

  「ああ今日も 男に生まれ よかったと しみじみ思う 妻を見ていて」

  「少しでも 妻のお役に たちたいと 思う矢先に 洗濯濡らす」

  「いい妻に めぐり合ったと 思う日々 一億当たった 同じ心境」

  「又次も 男に生まれ たい思う これぞ男尊 きつく戒め」

  

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