shin-1さんの日記

○DNAって何?

 つい最近はテレビの番組を見ていると、やたらとクイズ番組や旅番組、それにサスペンスが多いように思われます。クイズ番組はスタジオ構成で低脳丸出しの芸能人が「えっ、これも知らないと」と思われるように面白おかしく回答していて、思わず噴出してしまう場面もあるのです。一方旅番組は喰う・寝る・遊ぶは中年の人の憧れでしょうから、芸能人がさも美味しそうに食べる姿を見て、「私も行きたい」と思うのは当然のことかも知れません。妻はCDが使えるビデオデッキが使いこなせるようになって、旅番組とサスペンスを録画して、暇さえあれば見ているようで、私などご主人様でありながらテレビのチャンネル権などないに等しいのです。「私にだって見たい番組はある」といえば、「お二階にあるテレビでどうぞ」と素気ない返事が帰って来るのです。

 サスペンス番組は「相棒」やアガサクリスティのビデオなどをよく見ているようですが、科捜研など科学を前面に押し出し犯罪を解決してゆくストーリーも最近の特徴でしょうか。

 昨日ニュース解説で「DNA」について話していました。政治の話題なのに何故?と思いきや、Dは道路、Nは年金、Aはイージス艦あたごの頭文字を指すのだそうで、なるほどとうなずきました。野党は「DNA」を合言葉に参議院の過半数をいいことに与党や政府を追及していて、衆議院での再可決でやっとD=道路も一定の道筋が確保されましたが、N=年金は叩けば埃がどんどん出て埃ならぬほころびが目立っているようです。また後期高齢者医療制度などを盾に高齢者を味方につける作戦は、明日解散しても与野党逆転の様相をはらんでいます。ガソリンは消費者を、医療費は高齢者を、これまで自民党の味方だと思っていた人々が次第に与党から離れようとしています。民主党にとっては福田総裁の人気低下で追い風であるはずなのに、相変わらず小沢さんの霧に包まれた黒い部分に不安も感じているようです。

 DNAはデオキシリボ核酸の略称で、DNA鑑定は人の細胞内のDNAに存在する個人的特長を、個人識別や親子関係の判断に利用することだそうで、髪の毛や皮膚、血液からでも鑑定が出来るのだそうで、拉致被害者の親子鑑定などに使われ話題になりましたが、犯罪を捜査する過程で犯人を特定する手法として広く用いられていて、指紋一辺倒だった捜査が飛躍的に進歩し、事件の解決に大いに役立ちました。しかしこうした科学の進歩の恩恵を受けながら、検挙率は年々下がる一方で、完全犯罪は増え続けているのです。

 DNAがとんでもない方向に向いてしまいましたが、元に戻して国民に関心の高い道路特定財源や年金について思うのは、お役人と呼ばれる人たちの官尊民卑ともとれる姿勢に、腹を立てている国民は少なくないのです。お役人と呼ばれる一部の官僚は自分を一般国民より上の存在と錯覚し、己を利することを忘れているのです。天下りはそのよい例で、特定財源で作った法人に天下りし、退職後も胸を張って居座り続け、法外な退職金を受け取って余生をセレブのように生きているのです。公務員は国民の僕(しもべ)公僕であるはずなのにです。

  「DNA 遺伝子だろうと 思いきや 道路・年金 イージス艦とは」

  「公僕は 公の僕(しもべ)と 書くんだよ 下ってもなお ちやほやされて」

  「DNA 尻拭くだけの 福田さん 騒がせ終わる 小沢がせです」

  「天下る ほど偉くない 私です 全てを払い 辞めてよかった」


 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○苦手な人を克服する方法はないものか

 先日講演の後、意見交換会がありました。普通は講演の概要をかいつまんで司会者がお礼のような形で述べ、「もう一度若松さんに盛大な拍手をお送り下さい」で終わるのですが、少し意見交換の時間を用意している時などは、フロアーの参加者に「何か意見はありませんか」と発言を求めるのです。上手い司会者だと会場の顔見知りの人に「○○さん如何でしょうか」と発言相手を指名したり、時にはサクラと呼ばれるお喋り上手な人に事前に「発言して欲しい」と頼んでおき、さも会場から自然に手が上がったような心憎い演出をする場合もあるのです。でもそんな演出をしなくても、なければないで切り上げるのが常識だと思うのですが、何か発言しなければ講師に悪いと思う司会者は発言のない会場の雰囲気を見て取って、司会者自らが質問する事だってあるのです。

 そんな場合私はちょっと助け舟を出すようにしています。「ご意見もないようです。時間が勿体ないので少しフォローさせて下さい」と前置きし、持参のハーモニカを木になるカバンから取り出して「夕やけこやけ」と「赤とんぼ」を吹くのです。これが案外参加者にはおまけと受け止められ好評で、演奏が終わると皆さんから期せずして拍手起こるのですが、間髪を入れず「皆さん拍手をしないで下さい。拍手をされると馬鹿な私はアンコールと勘違いするのです」というと、大爆笑が起こるのです。

 まあ普通90分の話が終わると、帰り支度を始めるような人は長く感じているものでしょうから、余り長く引っ張るのはご法度なのです。

 つい先日も例によって講演の後の質問時間があり、ある人が「若松さんは誰とでもお話が出来て羨ましいです。あなたには苦手な人はいませんか。若し苦手な人があればどうされますか。教えて下さい」と、講演テーマとは全く無関係な質問がありました。こんな場合は講演テーマにこじつけて話すのが講師の知恵なのでしょうが、この日この人は、二度三度私の答えに追い討ちをかけて質問を長引かせてしまいそうな雰囲気でした私は「詳しく聞きたいようですので、後でお話しましょう」と切ってしまいました。

 私は人見知りしない方なので、余り苦手な人はいませんが、私にだってこれまで苦手な人の一人や二人はいました。特に役場に勤めていた後半は夕日によるまちづくりを発想し推進したため、議会などと対立し怒号飛び交う議論を交わしました。しかし絶えず冷静に相手と誠心誠意対応したお陰で、雪解けの中で今を迎えています。

 「嫌いな人は相手も嫌い」「相手を好きになれば好いてくれる」、これが基本だと思い、苦手な人でも好きになるよう努力しました。まあ人間とは鏡のようなもので、自分がするようにしか鏡には映らないものなのです。鏡に映る姿は虚像で鏡のこちらは実物なのですが、心までも映るような気がするのです。

 「苦手な人を克服する方法はないか」と尋ねられたその答えは「嫌いな人を好きになること」のようです。そうはいいながら、やはり苦手な人はいるでしょう。その人の顔を見ただけで寒気がする人もいます。またそんな人にまで媚びを売ってまで生きて行くことは耐え難い人もいるでしょう。でも科学万能な時代に生きる私たち人間が、些細なことで相手を嫌いになって気まずい思いで生きていくより、みんなと仲良く生きていった方がどんなにか楽しいものです。「もっと人間を信じ人間を好きになろう」。

  「大嫌い 自分で思う その人も 嫌いなはずと あきらめ好きに」

  「講演の 後で質問 出たものの トンチンカンな 話に終始」

  「質問を する前サクラ 公言し 会場爆笑 これも一考」

  「質問が ないので吹くと ハーモニカ これが馬鹿受け 心に響きて」

[ この記事をシェアする ]