shin-1さんの日記

○遍路しました

 「今日は久しぶりに今治に赴任している息子の所を訪問しよう」と、玉と二人で出かけました。ゴールデンウィーク真っ只中なので、どの道も混むだろうから、高速を使わずのんびり行こうと決め込んで双海~松山~旧北条~今治という海岸線の道を選びました。途中昨晩夜勤だった息子のマンションに忘れ物を届けに立ち寄りましたが、息子の夜勤が長引いたため、持参した時計を郵便受けに入れて欲しいと頼まれました。しかし初めて訪ねるマンションでは202号か203号か部屋の番号が分らず、後で分ったのですが結局は間違って隣の部屋の郵便受けに入れてしまう大失態をやらかしてしまいました。

 そんな寄り道をしたので道後~堀江へは白水台を経由する山越えの道を通り、国道196号に出たのです。その頃から息子の所に電話を入れ始めたのですが全く応答がなく、今日訪問することは分っているはずなのにと、私も妻も苛立ちを隠せませんでした。

(大西町星が浦公園での休憩、海が綺麗でした。勿論妻も?)

 このままだと手持ち無沙汰で、今日一日が何の意味も持たないため、時折見かける歩き遍路の人々に刺激されて密かに用意した遍路旅を急遽やる事にしました。

 実は私たち夫婦はもう10数年前から車による遍路を始めていますが、昨年やっと納経帳が全て終り、いよいよ高野山へお礼参りをしようと思ったのですが、少し遅れて始めた掛け軸納経が済んでいない事に気付き、暇を見つけてはフォローの遍路をしているのです。それでも偉いもので、昨晩調べて見ると今治・西条、松山、香川の一部を含めた20ヶ寺程になっているのです。そこで今日は今治・西条の遍路に挑戦しました。元より宗教心の少ない夫婦故、逆打ちなどへっちゃらで、今治の56番札所泰山寺、57番札所栄福寺、58番札所仙遊寺と順番にお参りしました。

(泰山寺の境内)
(瀬戸内海が一望できる仙遊寺からの眺望)
(仙遊寺の本堂にて。ご住職は留守でしたが、若い娘さん夫婦にお目にかかりました)

 途中仙遊寺への入り口付近で偶然にも同級生に出会いました。彼は私の友人小山田憲正さんが住職を務める仙遊寺の寺男として働いていて、仙遊寺を訪ねる度に出会っていましたが、最近はとんとご無沙汰していて、久しぶりの再会でした。彼はトラックに荷物を積んで移動中でしたので、そこそこのあいさつで分かれてしまいました。

 仙遊寺から朝倉を経て息子の住んでいる今治市湯の浦までは農面道路を走りました。その頃やっと息子と電話がつながり、どうやら緊急な会議は入って今日は私たちと会えないとの事でした。妻も私も落胆しましたが、このまま遍路を続ける事になって、カーナビを頼りに60番札所横峰寺を目指しました、湯の浦からは約小1時間かかる山寺でかなりの険しさです。それにしても人間の、特に私たち夫婦の記憶は曖昧なもので、何年か前納経帳にスタンプを押し梵字を書いてもらうため必ず訪れたはずの山道なのに、入山の時1800円の通行料を取られたことや、駐車場から約500メートル歩いて下ることなどすっかり忘れ、初めて訪れたような感じでした。忘れついでに、横峰寺の中ほどまで下った場所で、車の中へ掛け軸を忘れてしまった事に気付き、結局は私が汗だくで引き返す羽目になっえしまいました。

(入山料1800円を支払った横峰寺は石楠花が咲いていました)

(横峰寺の道すがら立ち寄った、分水で話題の黒瀬ダムは透き通っていました)
(ダムの堰堤で四国の山々を望む)

(前神寺では沢山の衣を着た集団に出会いました)

(吉祥寺の山門)
(宝寿寺の本堂)
(子安大師、香園寺)

 黒瀬ダムの風景、山ツツジや野フジの花の美しさ、新緑の四国山脈など、どれをとっても美しく右に左に変わる美しい風景に夫婦共々目と心を奪われました。

 その後64番札所前神寺、63番札所吉祥寺、62番札所宝寿寺、61番札所香園寺と今日一日で8ヶ寺もお参りすることが出来ました。少し向こうが見えてきた感じです。とんだハプニングで今日はいい遍路ができました。夕方5時頃息子から「今会議が終わった」と携帯が入りました。息子も明日だけ休みとかで、今日は休ませてやろうと、旧リンリンパークのお風呂に立ち寄り汗を流しました。帰路今度は長男夫婦から「今晩泊まりにゆくから」との電話が入り、慌てて帰路と相成りました。

  「会うはずの 息子いきなり 会議中 手持ち無沙汰で いきなり遍路」

  「この道は いつか来た道 だのに何故 記憶途切れて 初めて来たよな」

  「野山咲く 藤やツツジに 目奪われ 急なカーブも 恐る恐ると」

  「通行料 まるで高速 千八百円 仏のご意向 罰当たらぬように」 

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shin-1さんの日記

○江戸時代に学ぶこと

 日本中が大型連休と騒いで海外や国内旅行などに出かけ、各地で交通渋滞が起きているようですが、殆どの人は「何で休みなの?」とも思わず、ただただ「連休休み」だけが独り歩きしているようです。私のようなサンデー毎日な人間でも、勤めている妻が休みで嬉しそうなので、おこぼれにあやかって何か得したような気分になるのですから、無理からぬことです。今日は憲法記念日です。各地で憲法擁護と憲法改正の旗印を掲げて集会が持たれているようですが、反対、賛成と言いたい放題言論の自由が謳歌できるのも平和の証かも知れません。

 日本は敗戦以来60年余りもある意味で平和な時代が続いています。それは憲法に戦争放棄が謳われているからだという主張も、私たち凡人には納得できる話です。しかし一方で国際社会の在り様が60年前と大きく違い、今の憲法で国際貢献活動ができないから、憲法を変えなければならないという理論も筋の通った話です。総論はどちらも正しいのですから「まあええようにやってくれ」と、「他岸の火事」を決め込む冷めた国民が多いのも平和な証拠なのです。でも今の平和は憲法によって守られているという意識も持たないと法治国家の国民とはいえないのです。

 色々あっても今の社会が平和だと思えるのは、戦争をしていない、食べるものに事欠かない、住む所がある、働く仕事がある、年金が支給される、医療や教育や福祉などある意味の行政サービスが充実している、言論が自由である、防災防犯が行き届いて安心であるなどなど、戦争や飢餓で苦しんでいる地球上の他の国々を思うと、まるでこの世の楽園のような気もするのです。

 昨日、ある友人とテレビの時代劇の話をしました。暴れん坊将軍や水戸黄門など親父が好きで見ている250年余りも続いた江戸時代は、一見華やかな江戸文化が花開いたと言われていますが、それは江戸の町での話で、まるで北朝鮮のように将軍様や殿様が絶対的権力を持って君臨し、庶民の暮しは貧富の差が激しく、身売りや売春など食うことにさえ事欠く士農工商の時代でした。特に田舎と呼ばれる地方では貧富の差が激しく、ついぞ最近と思われる親父が若かった時代までその食うにも事欠く貧乏な暮しはずっと続いていたのです。私さえ覚えている戦後の厳しい時代を思い返せば、これまた現代がいかに平和であるか想像できるのです。

 老中松平定信は本を読む限り偉い人で、大規模な飢饉や洪水・災害に備えて江戸中期に「町民の生活の安定を第一」に寛政の改革と呼ばれる行政改革に着手し様々な制度を確立しています。中でも七分積金令と町会所の設立は今も専門家の間で高い評価を受けています。

 江戸の町は住民による自治が行き渡っていた都市だといわれています。治安の維持、道路、水道の維持管理、町火消しなどに関することが町内毎に実施されていたのです。これらの経費、いわば町の行政予算は町入用と呼ばれ、地主が負担していました。定信はこの町入用の節減・節約を奨励し、節減した額の70パーセントを毎年積み立てることを命じたのです。これが七分積金令です。江戸中の町入用の年間節減額はおよそ3万両、その70パーセントですから2万両ものお金が毎年非常時の備えとして積み立てられたのです。

 その資金の管理運用に当ったのが町会所で飢餓や災害時に備えて籾米の備蓄までしたというから驚きです。この資金は幕末まで運用され東京の近代化に大きく貢献したのですが、新東京銀行に400億円もの追加融資を行ない批判に晒された石原都知事の政策と比較してみると、改革といいながら定信は質素倹約、石原都知事はばら撒きのような気がしないでもありません。

 今一度平和がゆえに平和とは何かを考える一日にしたいものです。

  「連休と 愚かに騒ぐ 国民に 今日は何の日? 聞いてみたいな」

  「つい昨日 食えぬ時代が あったのに 喉元過ぎて 暑さ忘れる」

  「食べれると 唯言うだけで どれ程の 価値があるのか 飢えを忘れじ」

  「倹約を するが最上 策なりて 今の時代も 同じ理論で」 

 



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