shin-1さんの日記

○雨の中のサツマイモ植え・その②

 本当は草を取って畑を耕す作業から子どもたちにやらせたかったのですが、雨の影響で3時間のプログラムでは無理なので、数日前耕運機で耕し、昨日畝立てを事務局職員がやってくれていました。予想通り雨が降ったためお陰で大助かりです。

 子どもたちはイノシシ除けの空き缶作りと畑へマルチシートを被せる2班に分かれて作業をしました。ロケ風呂の下の畑に集まった子どもたちは一班2畝の割り当てで作業をしました。その頃から濃い霧が出て畑の隅に立っている杉の木さえも霧に隠れるほども、まさに五里霧中といったところです。

(人間牧場は完全に霧に包まれ司会は100メートルという幻想的な雰囲気でした)
(あらかじめ作っておいた畝に黒いビニールシートのマルチをかける作業をしている子どもたち)
(みんな思い思いながら一生懸命働いていました)

 こうしてマルチをかけると草が押さえられ除草の手間が省けるだでなく、余分な水分が入らないため美味しいサツマイモが出来るのです。この作業は久保さんや小谷さんといった農家のおばちゃんが意外なリーダーシップを発揮します。田舎の言葉で子どもたちの作業を指導するこの姿こそまさに生きる力の伝授なのです。

 やがてマルチの被覆もできて、みんなでツルを植える作業を始めました。マルチに穴を開けながら手スコップで穴を掘りツルを埋めるのですが、子どもにとってはツルのどの部分を土の中へ入れればいいのか分らず、逆に差し込んでおばちゃんに叱られた子どももいました。

(ロケ風呂の押し上げ窓が、まるで口を開けたマンモスのようだと子どもが表現する人間牧場の農場で作業する子どもたち)
(全員で芋ツルを植える作業風景)

 段取り八分というけれど、かなり速いペースで作業が進みました。これも事務局の皆さんの三年間の積み重ねなのでしょう。最後の仕上げはイノシシとの戦いです。知恵の網とでもいうべき漁師さんからもらった網をみんなで周りに張り巡らす作業をしました。鉄筋杭を打ち込み、網を広げて鉄筋に縛りつけ囲いをするのです。

(網張り作業)
(イノシシに壊されないようにとの願いで空き缶も随分沢山吊り下げました)


 さあ完成です。去年の経験だと多分これで大丈夫です。これから夏の暑い季節に草を刈ったり引いたりしながら肥培管理をして秋の収穫を迎えるのですが、子どもたちの頭の中にはどんな夢が広がってることでしょう。

 作業に使った道具類をまとめて片付け子どもたちに足湯のサービスです。正直泥まみれになって汚れた子どもたちには床を汚すため入って欲しくはないのですが、これも私の修行と位置づけているため、後日雑巾がけを小まめにして掃除をしようと諦めているのです。


 一組9人から10人にして五右衛門風呂で足湯のサービスです。風呂釜の周りに車座になって足を入れて座るのです。いやあ驚きました。子どもたちは大満足でVサインを出してくれました。「進ちゃん、いい湯だねえ」とか、「足がポカポカ、心もポカポカ」「今度はお風呂に入りたい」などとまるで大人のような感想を言うのです。これまで2回は足湯のサービスを行っていないため、子どもたちにとっては初めての体験だけに思い出に残ったことでしょう。家に帰ると妻に近所の人が、「今日は孫が足湯のサービスを受けてとても嬉しかった」と報告があったそうです。ロケ風呂の思わぬ反響に、今度は天気のよい豊田漁港の眺望が開ける日に是非入浴させてやりたいものです。

 今年も少年少女おもしろ教室は無事始まりました。ふるさと教育んp必要性を日頃から提唱する私はこの日、子どもたちにハーモニカで「みかんの花咲く丘」という曲を吹いてやりました。人間牧場周辺は今みかんの花の甘い香りに包まれています。

  「足湯する 幸せそうな 顔を見て こちらも嬉し 心ウキウキ」

  「一日で 牧場まるで 泥だらけ これも修行と 雑巾かけぬ」

  「この秋は イノシシに勝ち 収穫が できるだろうと 網張り万全」

  「おばちゃんが 一番力 発揮する 生きる力は 凄いものです」

 

 

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shin-1さんの日記

○雨の中のサツマイモ植え・その①

 「明日は雨のようですが、日程も詰まっていて中止にすることが出来ないので少々の雨だったら決行します。私は晴れ男なんですがねえ」と、前日少年少女おもしろ教室事務局の岡市さんから会議先へ電話がかかってきました。これまで様々な屋外事業を経験し、雨や風を心配し雨風と戦ってきた私としてはさして気にもせず、「雨は恵みの雨ですから」と強がって見せました。

 昨日の朝は起きて外へ出てみると空はどんより曇り、今にも降り出しそうな雲行きです。そのうち雨足のかなり強い雨が降り出し最悪の様相です。でも子どもたちが楽しみにしている、少年少女おもしろ教室の第一回目のプログラムなので、実行委員長の私としては決断し実行しなければならないのです。車に妻の用意した長靴、雨合羽などとともに、終われば直ぐに西予市野村町で行われる講演会に参加しなければならないので、革靴、背広、ネクタイ、木になるカバンなどの講演道具もアンバランスだと思いながら積み込み、午前7時30分にわが家を出発しました。市役所支所の前には既に子どもを乗せるマイクロバスが到着していて、小学校の校長先生初めスタッフ方々が集まっていました。

 国道から人間牧場に通じる細い山道に入ると、霧が出てきて夏草茂る道は幻想的な雰囲気に包まれていました。人間牧場に到着して水平線の家の鍵を開け、ロケ風呂の玄関や窓を押し上げ五右衛門風呂のボイラースイッチを入れて、風呂の準備をしました。サツマイモを植えた後で足湯のサービスをしてやりたいと思ったからです。風呂の蛇口をひねってから足早にサツマイモの苗床へ向いました。岡市さんが昨日準備に来たはずなのにサツマイモの補充ツルが何処にも見当たらないので、携帯で電話連絡したところ「苗床のツルだけでやりたい」というのです。はてさて苗床のツルだけでは足りるかどうか不安になりました。それでももう間に合わないのでツルを取る作業にかかりました。31人の子どもに一人5本はないと足らないし、指導者の分も入れると200本は必要なのです。益々不安になり、取ったツルを短く切り分けて行きました。

(苗床に元気よく伸びたイモヅル)

 やがて子どもたちが元気に走って山道を下りてきました。今年の子どもたちも元気いっぱいです。雨が止み子どもたちの雨具もこの分だと必要ないかもしれないと思いつつ、荷物を置かせて室内とウッドデッキを使って開会式を行いました。

(開会式)
(子どもたちの班別会議)

(班別会議でそれぞれの役割を決めてゆきます)


 開会式の後、人間牧場主である私の話を30分ほどみんなにしました。今年のサツマイモ作りは昨年収穫した種芋を使い命のリレープロジェクトとして実施していること、あわせて行った落ち葉を集めた腐葉土作りで種芋からツルが伸びて何とか今日に間に合ったこと、このツルからどんな芋が出来るか夢があることなどを話すと同時に、馬路村産の魚梁瀬杉の切り株の話や雨が海の恵みをもたらすことなどの環境についても踏み込んだ話をしてやりました。さあ、準備も整っていよいよサツマイモのツル植え作業が始まりました。

(木曽さんの説明を聞きながら芋ツルの不思議を学びました)

 まずみんなを苗床に集め、木曽さんがサツマイモの種芋を引き抜いて芽が出るメカニズムを分りやすく説明してくれました。そして子どもたちは恐る恐るツルを一本一本切り取ってゆきました。市販のツルよりはるかに細く果して活着するかどうか不安ですが、それでもどうにか人数分200本のツルをやっと確保しました。

(切取られた芋ツル)

 「心配の 雨もどうにか 味方して 命のリレー ついに実現」

 「二百本 どうにか確保 最初から ハラハラしつつ ハサミ動かす」

 「苗床を 使ってカブト 虫を飼う 子ども注目 次の目論見」

 「私にも できる奉仕と おばさんが 集まり支援 今年も嬉し」

 

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shin-1さんの日記

○夕日が雲を押し上げる

 このところの好天で全国的には25度を越える夏日になって、いよいよ夏近しの感じがします。そういえば後一週間で衣替えの季節なのですから、当たり前といえば当たり前なのです。テレビの天気予報だとお天気が崩れるといっていて、今日は夕日が見れないとばかり思っていました。今日は妻の仕事が遅くなるといっていたので、妻から頼まれた甘夏柑を菜園の横の果樹園で5~6個摘み取りました。すると曇っていた西の空が急に明るくなって夕日が差し始めたのです。急いで部屋の中に入ってカメラを取り出し裏庭に登りました。

 夏の頃にはわが家から毎日海に沈む夕日が見えるのです。残念ながらその景色は今一で、人家や無造作な電柱が立ち並び、昔のように長い鉄橋を走る銀河鉄道も今はもう古きよき時代の思い出となり見ることが出来ないのです。それでもわが家から夕日が見えるのですから良しとしなければなりません。

 雲と雲の切れ間から僅かな時間海を真赤に染めて夕日が顔を出しました。ラッキーと思ってシャッターチャンスを待っていると、下を通る近所の子どもが「若松のおじちゃん。そこで何をしているの」と目ざとく見つけて手を口にメガホンのようにして大声で叫ぶのです。「おじちゃんは夕日を見ている」とやり返すと、「おじちゃん、そっちへ行ってもいい」との反応です。私は「ここは危ないから駄目だよ」と答えました。微笑ましい夕闇迫る頃の会話でした。

 夕日はほんの数分でまた雲間に隠れてしまいました。ポケットの携帯電話が鳴ってデジタル時計を見ると丁度午後7時でした。知らず知らずのうちに猫の目ほど夕日のしずむ時間が長くなり、まだ6月の下旬の夏至までは遅くなってゆくのです。

 何度となく同じような場所から同じような夕日の光景を見続けていますが、デジタルカメラを持ち合わせていなかったつい最近までは、目と頃に焼き付けるだけで、記憶にさえも蘇えることは殆どなかったのですが、こうしてデジカメで撮り画像処理してデーター化していると、どこか安心感があって、時々データーを開いて見るのです。

 再び先ほどの近所の子どもが、下の道路から大きな声で、「若松のおじちゃん、今日の夕日はどうだった」と叫びました。わたしは「とても綺麗だったよ」と答えたら、「若松のおじちゃんの撮った夕日の写真頂戴」とえらい注文をつけられました。私は春分頃に撮影した自慢の夕日(シーサイド公園の恋人岬に沈む美しい夕日)をプリントアウトしました。明日はあの近所の子どもにハガキを書こうと思っています。小さなことですが小学校二年生のあの子への公開恋文です。

  「諦めて いたのに夕日 顔を出し 俺の顔立て 再び輝く」

  「近所の子 写真をくれと 大声で 早速夕日 あしらいハガキ」 

  「午後七時 真赤な夕日 落ちてゆく 夏の夕やけ 明日は雨か」

  「金色の 道が出来たり 海の上 昔は不思議 感じたものだ」

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shin-1さんの日記

○味生地区健康づくり講座

 講座の始まる時間を逆算し朝少し早く家を出た私は二件の用事を済ませました。一件は双海町内の女性が73歳で亡くなり、今日がお葬式ということを新聞のお悔やみ欄で見つけたため、葬式と講座がバッティングしたので香典を届けにました。11時からの葬儀だそうで葬祭センターの控え室で痩せこけた遺体に面会して線香を手向けおいとましました。続いてもう一件は道沿いにはないのですが少し遠回りして、若い頃にしょっちゅう通った龍華堂という印刷屋さんへ立ち寄りました。社長も奥さんも娘さんもいて久しぶりに旧交を温めました。社長も奥さんは高齢になられ、奥さんはこれからデイサービスに行くのだという矢先でしたが、懐かしく会話を交わしました。朝の二件は少し考えさせられる出来事でした。

 昨日は松山市味生地区健康づくり講座に行きました。松山には中学校区毎に沢山の立派な公民館があって、一つの校区が一つの市町村程もある人口を抱えていて、田舎では人口が激減して限界集落などが取りざたされる中、今更ながら地方都市への人口集中に驚いたりするのです。

 この日の講座は松山市地域保健推進協力会という、保健所関連の団体が主催でした。3月7日、秋田県能代市へ向う途中の列車の中で、味生地区理事を務める藤崎さんから依頼の電話がありました。運良く木になるカバンの中に予定表を持ち合わせていたので、まだ先のことだと思いつつ、猛吹雪を列車の窓越しに見ながら受諾していたのです。味生公民館へは2年前にも行っているので、土地勘も集まる人のレベルも幾分分っているので安心して出かけました。

 玄関で藤崎さんが待って出迎えていただき、公民館の事務所でお茶をいただきながら「東北への旅先までお電話で追いかけ恐縮しました」と詫びる藤崎さんを交え館長さん、事務員さんと楽しいおしゃべりをしました。

 会場へ入ってまず一番前の席に顔見知りの人がいるのに驚きました。元松山工業高校の校長をしていた林さんご夫妻です。奥さんには初めてお目にかかりましたが、林先生とは今も工業高校の学校評議員をしていて、年に2回はお会いするのですが。昔と殆ど変わらず笑顔を絶やさないお人柄なのです。先生が教頭、校長と同じ松山工業高校に勤務していた折、私はPTAの会長をしたため、深いご縁をいただいているのです。

 満席に近い会場には林先生以外にも何人か会釈や手を振っていただく顔見知りの人がいて、これはヤバイと思いましたが、後には引けず力を入れてお話しました。

 最近ライフプランの話をして欲しいという要望が強くなってきました。私もライフプランやその中心をなすライフサイクルの話には一言を持って生きてきたため、得意な分野だと思っています。夢や目標を持ってニコニコ・ピンピン・コロリンシャと生きて欲しいとお話しました。

 いやあ会場は大受けで2時間近くも話したのに寝る人もなくみんな楽しく聞いていただきました。この日の講座には保健関係の仕事をしている3人の若い女性や保健所の人もいましたが、殆どの人が熟年・実年の人で、金・暇を持って有意義に毎日を学びながら生きている人たちです。私もやがて行く道でしょうが、このように笑って人生を過ごしたいと思いました。

 講座が終り林先生は控え室まで訪ねてきてお話をしてくれました。有り難いことです。

  「朝二件 用事を済ませ 思うこと 老いは側まで 近づきつつあり」

  「お話を 聞きたいいいつ 前の席 仲良く座る 元付く校長」

  「三十分 限度の人に 二時間も しかし寝ないで みんな熱心」

  「今日もまた かくてありなん 明日もまた 行脚続けて 辻説法を」 

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shin-1さんの日記

○始まる時間と終わる時間

 友人「若松さん。その会議は何時に終わる予定ですか。会議が終わってからお会いしたのですが」。私「そうですね、午後7時からの会議で午後9時には終わる予定と書いていましたので、それから車を走らせても30分で到着しますので、午後9時30分に○○という喫茶店でお会いしましょう」と連絡を取り合い、何人かの人を集める算段をしたのです。

 やがて午後7時からの会議は予定通り始まりましたが、会議が少し混乱して前に進まず、初めての会議で、しかも発言した手前出るに出れず、ズボンのポケットに入れた携帯電話のバイブが振動しっぱなしで、イライラが募りました。会議は大幅に遅れ、次の会への参加は30分以上も遅れて午後10時10分に到着し、10人ほどの皆さんにえらい迷惑をかけてしまいました。

 私たちは始まる時間はえらい気にして会議を持ちます。最近はどの会合も随分マナーがよくなって、時間に遅れることは殆どなくなりましたが、それでも集まらない人を待ち続け「今日は天気がいいから集まらない」「今日は天気が悪いから集まらないと、集まらない理由を天気のせいにしている所も少なからずあるようです。しかし始まる時間は厳守するのに昨日の会議のように終わる時間を厳守しない会合にはうんざりすることもあるのです。

 今は市町村合併で行政区域が広域化し、伊予市内といいながら双海町満野などだと市役所本庁まで来るのに1時間近くもかかる所だってあるのです。午後7時に会合を始めると午後6時には自宅を出なければなりません。農家の人などは農繁期ゆえ夕食を食べてくるような暇はありませんから、会合が終わり自宅に帰って夕食を食べるとなると10時以降にしか夕食にありつけないのです。私の場合はそんなことは日常茶飯事ですからどおってことはないのですが、少し考えさせられる会合の結末でした。

 次回の会議を昼にするか夜にするか、これも議論になりました。ある先生の意見だと招聘する事務所の先生は夜には出張扱いにならないから午後だと主張します。私は委員になっている人のことを考えて夜にして欲しいと主張しました。どちらも正しい主張なのですが、役所が常識だと思っていることが案外住民側から見れば非常識なことが多いいことも事実です。

 会議の持ち方だけでもこのくらい意見が食い違うのですから、ましてや会議の中身となると利害関係が絡んで議論百出です。結局時間切れ持ち越しとなってしまいましたが、開会時に「今日の終わる時間は午後9時の予定です」と皆さんに周知した方がよかったのかも知れません。まあこれから葉終わる時間を守る習慣もしっかりと身につけたいものです。

 私は40分も遅刻し次の会に望みました。私が夕食を済ませていないことを知って、私が到着するまでお預けにしていた皆さんには本当にご迷惑をかけてしまいました。

 午後10時過ぎから始まった次の会は遅れて始まりましたが、11時という予定をしっかり守って閉会しました。「今夜は遅くなると妻に言って出かけていたので、妻は12時だというのに起きて待ってくれていました。

  「始まりの 時間守るが 終わる時 案外守らず イライラしきり」

  「聞くほどに 安請け合いを 恥じながら さてこれからの 忙し思う」

  「ああそうか 今頃気付く 非常識 当たり前だと 思っちゃ困る」

  「こんな俺 飯も喰わずに 待っていて くれたかみんな 悪い悪いね」

 

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shin-1さんの日記

○草刈りシーズン到来

 逞しさの代名詞のようにいわれる雑草がどんどん伸びて、放っておいたら草に埋もれてしまうほどになるため、このところ少しの時間を取って草刈りをしています。庭もなくましてや家庭菜園もない都会の人から見れば、「エッ、草刈りって何?」といわれそうですが、田舎は春から初秋にかけての半年間は草との戦いに明け暮れるのです。昔は家々に牛やヤギなどの家畜を飼っていて、その雑草は貴重な家畜飼料となっていたのですが、その様なこともなくなって、草は単なる邪魔物になってしまって、人々の暮しを圧迫しているのです。特に高齢化の進む農家では草刈りという重労働をになう人が少なくなり、「耕して天に至る」と形容された段々畑は次第に姿を消しているのです。

 それでも鎌一丁で草を刈った昔に比べれば、軽くて使いやすい草刈機の出現は草刈りに革命をもたらしました。片手でも軽々と持ち上げられるほど軽量になった草刈機は安いものであればホームセンターだと三万円程度で買えるようなので、今では誰もが重宝して使っているようです。わが家にも古いものが3台くらい残っていますが、調子のよいもの、使い勝手のよいものを酷使して使うため、もうお払い箱でいうことを聞かないようです。今私が使っているのはむ10年間も使っている古い型のものですが、案外エンジンの調子がいいので助かっているものの、まるでダダをこねる赤ん坊のように時々いうことを聞かなくなったりしますが、その都度農機具やさんに修理をしてもらいます。「若松さん、この草刈機は文化財になりますよ」と、「もうそろそろ新しいのを買ってください」と言わんばかりにそれとはなくカタログを渡してくれるのですが、命あるものは使うという鉄則なので、農機具屋さんも今では諦めているようです。

 草刈機にとって替え刃は重要なのですが、最近は安くて体に優しいチップソーなどという替え刃が出回り、昔の二枚刃や三枚刃のように石を跳ねるような危険なものは殆ど使わなくなりました。何年か前までは草刈をする前日には替え刃をグラインダーで2~3枚研ぎ、1時間おきに休憩して替え刃を交換したものです。草刈りに必要なのは目をカバーするゴーグル形式のメガネを着用しなければならないのですが、夏の朝が滴る時などは煩わしく、今では殆ど使っていませんが、時折小石を放て体に傷が付いているのを見て、危ないと思うのです。怪我してなんぼの世界でもないので、メガネだけはと思いつつ、昨日もメガネなしで半日草刈りをしました。

 昨日は家の周りの草刈りをしました。途中の休憩時間を差し引くと実労時間は僅か2時間ほどでしょうが、草刈機を調整したり、時には近所の人が草刈機のエンジン音に気が付いて見に来たりするため9時から始めて12時までかかってしまいました。

 昼食に帰った妻が、「まあお父さん綺麗になって、まるで散髪をしたようじゃねえ」と褒めてくれました。褒められると嬉しいもので、草刈りの苦労も報われたというものです。

 最近は草枯らしなどの散布が主流を成しているようですが、「安全だ」といいつつ草が枯れるくらいだから「危ない」と思って、草枯らし剤の散布はしないようにしています。でもいいことと出来ることは違うので、そのうち草刈りが出来なくなったら草枯らし剤のご厄介にならなければならないかも知れません。ふとベトナム戦争にアメリカ軍が使った枯葉剤で多くの犠牲者が出たことを思い出しました。

  「今年また 草刈り時期を 迎えたり 汗をかきつつ そこのけばかり」

  「まあ綺麗 褒めてくれるは 妻ばかり 嬉しくなって 少し胸張り」

  「草刈りも 少々しんどく なりました 帰った息子 『盛がでるねえ』?」

  「昨年の 予定表見る 草刈と 小さく書いて 記録留めて」


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shin-1さんの日記

○保内幼稚園を訪ねる

 昨日は雲ひとつない上天気で快晴というにふさわしく、空にも海にも一点の曇りもないもない長閑な一日でした。午後から八幡浜市保内町にある保内幼稚園を訪ねました。私は田舎者ながら色々な顔を持って生きていますが、この日は金融広報委員会の金融広報アドバイザーとしての仕事です。今年から2年間保内幼稚園は金銭教育研究校の指定を受け、私がその担当となったため年間計画の樹立のための訪問です。

 双海町から長浜町を通って保内町に抜ける国道378号は交通量も少なく、ましてや信号が双海町に3ヶ所、長浜町に2ヶ所、保内町に入って1ヶ所と、他の国道に比べ断然走りやすいのです。昔は曲がりくねった道も今は海沿いを走る快適な道になって、佐田岬半島の付け根を貫通したゴゼヶ峠の長いトンネルのお陰で、あっという間に瀬戸内海側から宇和海側へ抜けれるのです。

 昨日は久しぶりに時間的余裕があったので、長浜町の青石の海岸に下りて見ました。

(見事な青石)
(透明度抜群の海)
(伊方原子力発電所も遠望できる海岸)

 日頃は車で走っても殆ど見向きもしない海岸ですが、私は海沿いに育ったためこの景色が大好きで、時折時間があれば車を降りて一人物思いにふけるのです。は海岸は緑色片岩、通称青石で埋め尽くされ、その色が瀬戸内の海の風情にマッチして見事な風景を見せていました。海の透明度も抜群でクラゲが沢山浮かんでいましたし、ワカメも沢山生えていました。

(保内幼稚園

 保内幼稚園は国道378号と国道197号の合流する直ぐ近くにあり、園長先生から電話で聞いていた通り一発で到着です。少し早いと思いながら園の外に車を止め中へ入ってゆくと職員さんが優しく迎えてくれました。少し時間が早く応接室で園長先生はじめ5人の職員さんと話し合いに入りました。5月9日に開かれた連絡会で打ち合わせ済みなので、会議の進行もスムースで約1時間余りで計画づくりの話し合いは終りましたが、いい雰囲気で事業が進みそうで一安心です。


 金銭教育はトラブルの多い時代だからこそ必要な教育です。ややもするとお金や経済は、これまでの子育てや教育では避けて通っていたようにも思います。働いてお金を得る⇒お金を使う⇒お金を貯める、時にはお金を借りる事だってあります。多分お金は人間が生まれて死ぬまで使うものですから、うまく使えるよう指導すれば、転ばぬ先の杖になるはずです。幼稚園教育を通して先生が変わる、先生集団が変わる、子どもが変る、幼稚園が変わる、親が変わるとステップアップすることが大事だとお話しました。理解力のある先生たちばかりなのでこれからが楽しみです。7月には私の講演会も予定されているしアンケートも取る計画だそうです。頑張って下さい。出来る限りの応援をしたいと約束し元来た道をわが家まで引き返しました。

  「何気なく 通りすがりの この道も 青石見事 心休まる」

  「金銭と 名が付く研究 指定校 難しそうな 雰囲気解きに」

  「双海町 知ってる見てる 夕日でしょ いつの間にやら 知名度増えて」

  「俺一人 女職場に 乗り込んで 嬉し恥かし 十の瞳が」 


 

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shin-1さんの日記

○関奉仕財団

 松山に関印刷という四国で最も大きい印刷と用紙、それにタウン情報誌発行を扱う総合会社があります。その会社の会長であり財団法人関奉仕財団理事長である関宏成さんに一昨日お会いしました。元をたどれば関さんと私の出会いは、愛媛県の元民生部長を務めていた藤原茂さんの導きから始まりました。これももう随分古い話になりますが、その藤原さんから呼び出しがかかり、関さんが私に会いたいというのです。関さんは愛媛県の教育委員長を務めるほどの人物で、私のような一介の役場職員に、しかも見ず知らずの男にどんな用事があるのだろうと不思議ながら出かけたものです。

 関印刷の会長応接室に通された私に、関会長さんは百万円の小切手を渡そうとしました。驚いた私は喉から手が出そうな流行る気持ちを抑えながら、一応もらう理由を尋ねたのです。聞けば私が主宰している21世紀えひめニューフロンティアグループが毎年実施していた「無人島に挑む少年のつどい」などの青少年件健全育成活動がかなり注目を集めていて、奉仕財団からその活動の一部にして欲しいというのです。勿論その裏には藤原さんの助言が決め手になったようでした。そのことは私が書きフロンティアグループが出版した、「今やれる青春」という本に「米百俵ならぬ百万円の小切手」という小見出しで詳しく書いているので割愛しますが、当時の百万円は私の度肝を抜く金額だったことを覚えています。その後もう10年を超えて毎年30万円の援助をいただいているのですから、後戻りも停滞も許されなくなり、そのことが励みになって人間牧場を作ったり人間牧場を場とした様々な活動へと発展しているのです。

(右前が関会長さん、左前が藤原さん)

 昨年3月27日私は創設された第一回「関奉仕財団教育文化奨励賞」という、これまた大そうな賞と副賞をいただき、賞の趣旨に沿って副賞全額で「赤とんぼ創作館」を作らせてもらいまいた。そんなこんなで関会長さんには足を向けて寝れないほどの大恩があるのです。

 一昨日は藤原さんと私、それに大野事務局長を伴って関会長さんを訪ねました。忙しい方なので気兼ねをして早々に立ち去ろうと思いましたが、延々一時間も時間を割いていただき、積もる話や近況について意見を述べさせてもらいました。

 私たち21世紀えひめニューフロンティアグループも、昭和56年に結成以来もう26年間も活動を続けてきました。私が教育長に就任した前後3年間だけ大野事務局長に代表職を譲っていましたが、私の退職と同時に復帰し現在に至っています。仲間からは活動を続けている間は終身代表をといわれていますが、終りが近づいていることも実感しています。

 関会長さんと会っていると何かパワーが湧いてくるような気がします。今日は人間牧場へ来ていただきたいと招待しました。ホタルが見たいともいわれていたので6月の初旬には、その計画をしなければなりません。多分人間牧場へ通じる狭い道に驚かれるでしょうが、それでも水平線の家からの眺望も見て欲しいし、人間牧場の活動について紹介したいと思っています。藤原さんとともに関会長さんは私にとってもグループにとっても大恩人なのです。

  「大恩を いただき活動 続けられ ここまで来たと 認識新た」

  「金のない グループ率い 四苦八苦 資金援助 大きな力」

  「百万を 米百俵になぞらえて 越後長岡 小林学ぶ」

  「久しぶり 生きる世界の 違う人 出会っただけで 心晴れ晴れ」

 

 

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shin-1さんの日記

○DNAって何?

 つい最近はテレビの番組を見ていると、やたらとクイズ番組や旅番組、それにサスペンスが多いように思われます。クイズ番組はスタジオ構成で低脳丸出しの芸能人が「えっ、これも知らないと」と思われるように面白おかしく回答していて、思わず噴出してしまう場面もあるのです。一方旅番組は喰う・寝る・遊ぶは中年の人の憧れでしょうから、芸能人がさも美味しそうに食べる姿を見て、「私も行きたい」と思うのは当然のことかも知れません。妻はCDが使えるビデオデッキが使いこなせるようになって、旅番組とサスペンスを録画して、暇さえあれば見ているようで、私などご主人様でありながらテレビのチャンネル権などないに等しいのです。「私にだって見たい番組はある」といえば、「お二階にあるテレビでどうぞ」と素気ない返事が帰って来るのです。

 サスペンス番組は「相棒」やアガサクリスティのビデオなどをよく見ているようですが、科捜研など科学を前面に押し出し犯罪を解決してゆくストーリーも最近の特徴でしょうか。

 昨日ニュース解説で「DNA」について話していました。政治の話題なのに何故?と思いきや、Dは道路、Nは年金、Aはイージス艦あたごの頭文字を指すのだそうで、なるほどとうなずきました。野党は「DNA」を合言葉に参議院の過半数をいいことに与党や政府を追及していて、衆議院での再可決でやっとD=道路も一定の道筋が確保されましたが、N=年金は叩けば埃がどんどん出て埃ならぬほころびが目立っているようです。また後期高齢者医療制度などを盾に高齢者を味方につける作戦は、明日解散しても与野党逆転の様相をはらんでいます。ガソリンは消費者を、医療費は高齢者を、これまで自民党の味方だと思っていた人々が次第に与党から離れようとしています。民主党にとっては福田総裁の人気低下で追い風であるはずなのに、相変わらず小沢さんの霧に包まれた黒い部分に不安も感じているようです。

 DNAはデオキシリボ核酸の略称で、DNA鑑定は人の細胞内のDNAに存在する個人的特長を、個人識別や親子関係の判断に利用することだそうで、髪の毛や皮膚、血液からでも鑑定が出来るのだそうで、拉致被害者の親子鑑定などに使われ話題になりましたが、犯罪を捜査する過程で犯人を特定する手法として広く用いられていて、指紋一辺倒だった捜査が飛躍的に進歩し、事件の解決に大いに役立ちました。しかしこうした科学の進歩の恩恵を受けながら、検挙率は年々下がる一方で、完全犯罪は増え続けているのです。

 DNAがとんでもない方向に向いてしまいましたが、元に戻して国民に関心の高い道路特定財源や年金について思うのは、お役人と呼ばれる人たちの官尊民卑ともとれる姿勢に、腹を立てている国民は少なくないのです。お役人と呼ばれる一部の官僚は自分を一般国民より上の存在と錯覚し、己を利することを忘れているのです。天下りはそのよい例で、特定財源で作った法人に天下りし、退職後も胸を張って居座り続け、法外な退職金を受け取って余生をセレブのように生きているのです。公務員は国民の僕(しもべ)公僕であるはずなのにです。

  「DNA 遺伝子だろうと 思いきや 道路・年金 イージス艦とは」

  「公僕は 公の僕(しもべ)と 書くんだよ 下ってもなお ちやほやされて」

  「DNA 尻拭くだけの 福田さん 騒がせ終わる 小沢がせです」

  「天下る ほど偉くない 私です 全てを払い 辞めてよかった」


 

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