○人材は欲しいが人罪は要らない
私の町の人口も5千人を割っていよいよ過疎化に拍車がかかってきました。この実態を憂う人は沢山いますが、その殆どの人はまるで他人事のように嘆くばかりで、自分から何かを始めようという人は少ないのです。「人が減るから働く場を作るべきだ」、「市役所はもっと住民のことを考えるべきだ」、「過疎地は病院や買い物に行くのが不便だから過疎バスを走らせるべきだ」、「子どもはたくさん産むべきだ」などなど、何処へ行っても「べきだ論」だらけです。じゃああなたは何をするの」といえば「それを考えるのがお前の仕事だ。だってお前らはわしらの税金で生きてきたのだから当然じゃないか」と、相変わらず元役場職員への風当たりは相当きついのです。昔なら文句があっても言いたいことも言えず黙っていましたが、自由人になった今は誰にへつらうことなく生きれるので、平気で喧嘩をふっかけるのです。
「あんたたちは人罪だ。何もしない癖に人の批判ばかりして、そんな人の足を引っ張るだけの存在だったらいない方がまし」と言ってやると、カンカンになって怒られます。「お前は横着だ」というのです。「私よりもあなたの方がわがままだ」と返せば火に油を注ぐ例えのように、瞬く間に横着者として村中に言いふらされ、根も葉もない噂話が横行するのです。
でもそんな町にも良識のある人は何人かいて、人知れず自分でできる何かをしながらふるさとのために役立っているのです。先日散歩しながら空缶を拾っている人に出会いました。ビニール袋を持って何気ない姿で空缶を拾っているのいです。聞けばもう1年になると言います。拾ったものは不燃物回収の日に出すそうなのですが、健康のために散歩したついでに空缶を拾って何か充実したような気になると言って今朝も拾っていました。最初は何かみじめなきもちがしたそうですし、その姿を見て近所の何もしない人が「あいつはええ格好をしている」と揶揄されたそうですが、今ではそんな話もどこ吹く風で拾っています。
先日国道を走っていて前の車が止まりました。「どうして?」と思いきやその車に乗った若者は車に積んでいた雑巾を取り出して、国道で車にはねられて死んだ猫をゴミ袋の中に入れて、車に乗せ走りだしました。余りの見事さに私は呆気に取られ、心の中で大きな拍手を送ってあげました。
最近は自分の家の前で車にはねられた犬が死んでいると、市役所に電話をかけて処分するように苦情を言う人が多いそうです。またペットの散歩中のうんこもビニール袋や手スコップを持ち歩いているのは形だけで、人が見ていないと平気で立ち去る姿も多いと聞きます。
日本の世の中も随分変わってきました。一方で前述のようなほのぼのとした人材がいると思えば、一方では社会を無視するどころか社会に悪害をもたらして生きる人罪もいるのです。どうやらその根源は家庭教育の欠落にあるようです。人様に助けてもらった恩を忘れない親は、その恩を社会や人にお返しをしようとします。しかしお金があることが最高の幸せと思う人は、お金を奪い合う競争社会に生きて、共生を忘れるのです。競争と共生では生き方の根本が全く違うのです。いい親からしかいい子どもは生まれない。これが家庭教育の原理原則であることをもう一度親は自覚すべきだと思うのです。その基本はやはり感謝する心だと思います。
かくいう私も人様に自慢できるような偉い人間ではありませんが、それでもいささかの感謝する心を持ち得たのはやはり親の家庭教育だったように思うのです。人様に迷惑をかけないように生きろと口癖のように言っていた母の言葉が思い出される今日この頃です。
「最後には 笑い人生 終えたいが 息子娘が 育つ肝心」
「人材は 欲しいが一字 違ったら 人罪になる 今の世の中」
「若いのに 車はねられ 死んだ猫 手厚く弔う 嬉し光景」
「文句言い 何もやらない 人もいる せめて私は 役に立ちたい」