shin-1さんの日記

○私のパソコン上の戸籍

 「若松さんですか、メールを送りたいのですがアドレスを教えてください」と、何度も電話がかかってきます。その都度私は「ドット」や「スラッシュ」「コロン」などと話すのですが、パソコンの苦手な私にはその言葉がまた苦手で、覚えている訳でもないから自分の名刺を取り出して、相手に変な言葉でアドレスを伝えているのです。

 E-mail wakamatsu@yuuhi.JP

HP      http://www.yuuhi.jp

 これが私のEメールアドレスとホームページなのですが、これが中々覚えることができないのです。最近友人の勧めで携帯メールを始めましたが、これは緊急用でごく一部の関係者だけにしか教えていないため、案外スッキリした利用状態のようですが、Eメールもホームページも公開の原則が行き届き、最近はブログ「shin-1さんの日記」も人気が出て毎日千人を超えて読んでくれていますので、個人情報もくそもあったものではなくなりました。しかし私はそんな情報に晒されても自己責任の時代ですから一向に構わないのですが、私を通して出す情報に個人を出すことには慎重にならないといけないようです。

 私はブログで時々「今日は○○へ旅に出ます」と書いて予告旅に出ます。これを見つけた娘からクレームがつき始めました。「お父さんがどこへ行こうと勝手だが、旅に出ると書けば留守をすると宣言しているようなもの、家にはおじいちゃんとお母さんしかいないのだから、絶対止めて」と叱られました。確かにそうだと自責の念に駆られながら、「俺のブログを読んで泥棒に入るような知的で?間抜けはいないだろう」と鷹を食って先日も長崎旅の予告をして出かけました。

 というのも、私のブログは旅に出ていると書けないものですから、愛読している友人から「二日間ブログの書き込みがないのですがお体でも悪いのですか」などとメールや電話が入り、できれば行き先を知らせて欲しいとメールが入るのです。それは大切なことだと思って始めたのですが、ココにも小さな個人情報の壁があるようです。

 それでもEメールアドレスは娘婿の手で登録手続きをしてくれたのですが、随分分りやすいアドレスになっていて、最近はとっさの電話にもメールアドレスを宙でいえるようになりました。私にとっては大きな進歩です。でもこの世界は日々進化して大変奥が深く使えば使うほど迷路に迷い込むような錯覚すら覚えるのです。私のパソコン能力はまだ小学生の知識以下で応用や故障対応はまるでできないのです。

 先日写真を送付するよう依頼があり、色々といじくってはみたのですが結局容量が大き過ぎて送れず、「そんな時の神頼み」の友人に頼んで送ってもらい事なきを得ました。画素など全く理解できていないのですからいい加減なものです。

 最近は講演依頼の文章に、「パソコンをお使いになりますか」と注意書きが書かれています。私は今流なスライドショーなどを利用すると話が上手くまとまらないし、薄っぺらくなるような気がして「使いません」と答えるのですが、それでもスライドやレジュメを求められます。時代の進歩について行けてない部分が自分の持ち味だと強がって生きています。「時代遅れ」という歌の文句ではありませんが、そろそろ限界が近づいたようです。

  「もう俺は 時代遅れな 人間か いやもう少し 流れ掉さし」

  「パソコンを 使えぬ自分 嫌になる そりゃあそうだ 昭和だもんね」

  「アドレスを 住所と間違い 愛媛県・・・・ いやいやメール 電話でお辞儀」

  「書かなけりゃ トラブルもない ブログ書く 娘の指摘 無視して旅と」 

 

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shin-1さんの日記

○未だにどっちが正しいのか分らない

 昨日NHKのラジオを聞いていたら、ことばおじさんこと梅津アナウンサーが乗りのいい三味線のテーマ音楽にのって登場し、薀蓄含蓄のある話をしていました。ことばおじさんの話には関心がありいつも感心しながら聞くのですが、ラジオゆえに分らないことが沢山あり、カーラジオなのでメモすることも出来ず、ついには「どっちだったかな?」とかえって疑問を広げることが多くなっています。特に外来語のようなカタカナ言葉は、私にとって自信が持てず使っているだけに、恥をかきそうなので小声でしか話せないのです。

 私は木のカバン、通称木になるカバンを持ち歩いていますが、これがアタッシュケースだとばかり思っていました。ところが正式にはアタッシュケースではなくアタッシェケースだったのだそうです。パソコンで文字にすると間違ってアタッシュケースと入力してもこれがカタカナ言葉で出てくるし、アタッシェケースでも出てくるのですから余計こんがらがってしまいます。まあアタッシェケースのことですので、ケースバイケースとゆきたい所ですが洒落にもならない間違いに気付かず、今日まで使っていたのですから赤面の至りもんたりです。

 コミュニケーションという言葉もコミニュケーションとよく間違って使う人がいます。こちらはパソコン入力すると「コミュニケーション」はきっちり変換しますが、コミニュケーションは込みニュケーションと変に変換されますが、普通の発音は後者を使う人も結構多いのではないでしょうか。

 私はかつて小さな町の役場に勤めていました。その当時の役場は長閑なもので、パソコンもなく流行りだした「コミュニティ」、「アメニティ」などの横文字は机の引き出しにしまっている外来語辞典などで調べて対応すればそれなりに用が済んだものでした。ところが企画調整室でまちづくりの仕事をするようになると、議会対応とでもいうべき質問に対する町長の答弁書書かなければならず、議員さんが訳も分らず連発する横文字に苦笑しながらやんわり皮肉って正しい言葉の使い方や意味を投げかけたものでした。

 特に今も忘れられない面白かった出来事が思い出されます。ある議員が町長のシンポジウムの予算説明を聞いて手を挙げて質問しました。「町長質問」、議長の許しを得て質問に立ったその議員は「シンポジウム」と言わなければならないのに「インポジューム」と発言したのです。すると神聖な議場のあちらこちらでクスクス笑いが起こりました。するとその議員は「私がインポジュームの予算について質問しているのに笑うとはけしからん」とやり返しました。町長は開いた口を塞ぐように「シンポジウムは町を興すためにやりますが、インポジュームでは町は起きません」とやり返しました。その議員さんの横に座った同僚議員が間違って使った議員の裾を引っ張り、小声で「インポとシンポは違うぞ」と諭しその議員は間違いに気付き、議長の了解を得て失言取り消しと相成りました。めでたしめでたしです。

 シミュレーションとシュミレーション、これもパソコンではどちらもカタカナで変換されて出てきます。普通は後者のシュミレーションと発言する人が多いようですがさて「あなたはどちらが正しいと思うでしょう」なんて質問をすると、「えっ、どっちだっけ?」となるのです。

 今はあの分厚い広辞苑やイミダスも本棚の隅に追いやられ、ノジが抜くほど使うことが少なくなりました。もっぱらパソコン辞書で索引するのですが、それにしても言葉の乱れは目を覆うばかりです。私のような古い人間は若者たちが使っている日常語だってすっかり理解できず、コミュニケーションが取れなくなってしまいました。「ナタデココ」という食べ物を、「ナタデココどこを切るのと父が言い」と言ったという川柳はもう遠い昔の川柳になって、「ドットコム」も「ドットコムどこが混むのと父が言い」になってしまいました。私は古い人間の組内になってしまいました。

  「分らずも 分ったような 顔をして 平気で使い 赤恥かいて」

  「この言葉 格好いいから 使ったが 説明しろと 言われてアウト」

  「もう古い 私は古い 組内だ 若者言葉 まるで外国」

  「武士言葉 流行る世の中 分らない お主中々 やるではないか」

 

 

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○「山奥組」ってどこの組?

 「お父さん、明日はどこへ行くの」と決まったように妻は寝る前私に聞きます。そして明くる日の朝も「お父さん、今日は何時に出るの」と聞くのです。その都度私は「今日は野村町の山奥組へ行く」と、具体的に場所と集会名と、概要について話してやるのです。土地勘のない妻にとって私の話はチンプンカンプンで、「野村町は分るけどどこと合併して何という名前になったの」と聞き返します。県内ならすらすらいえるのですが、これが県外となると地図を広げて説明しないと、説明する本人さえも心もとないのです。

 「山奥組って何をする団体なの?」と、山奥組の人に失礼な質問が返ってきました。私は少々ふざけて「山奥組とは山の奥の方のイノシシが出るような場所に住んでいる人たちのまちおこしグループだ」と話したら、夜遅く帰るものですから「お父さんイノシシが出るなんて大丈夫?」と真顔で話すのです。「馬鹿じゃないか、そんな所じゃないわい」と正気に戻って話すのですが、はてさて「山奥組」とは誰が名づけたのかは知りませんが偉い大そうな名前です。でもネームバリューはあるようです。

 さて、山奥組とはいかなるものか、結成以来4年目を迎え事務所まで持っている旧野村町のまちおこしグループなのです。会員は130人余りもいて四つの部会を持っています。

 送られて来た山奥組通信によると、

 第一部会(環境・生物資源)では、野村の自然遺産である巨樹・巨木35種類91本を記載した「野村の巨樹」を発刊したり、「十文田の森の植物」も刊行、リンドウの里作りにも取り組んでいるのだそうです。

 第二部会(地域農業・農産加工)では、野村の清流米の定期購入、特産品の開発、健康食品にも力を入れているようです。

 第三部会(伝統・伝承技術)では、昔盛んだった竹細工の教室を開いて興味関心を広げようとしています。

 第四部会(交流・人材育成)では、小松山荘を拠点に都市と農山村の交流を進めているようです。

 限界集落が増えて、ほおっておいたら自然消滅しそうな地域を何とか活性化したいと願う人たちの理論や理屈ではない活動に頭が下がる思いがしました。

 私はこれまで何度も野村町へは行っていますので、荻野会長さんはじめ多くの方々と顔見知りで、講演もさることながらその後の懇親会でも膝付き合せ、額を寄せて様々な話しをさせてもらいました。

 いやあ皆さん元気です。「俺所へ泊まりに来い」「今度はいつ来る」と早速交流の話が持ち上がりました。海のない町と海のある町という異質な文化を持っていて、「今度は人間牧場で会おう」と再会を約束して別れました。

 この日二人の珍しい人に会いました。一人は愛媛県内水面会長の那須熊市さんです。もう相当前に貯蓄推進の会で知り合った人ですが、今も元気に活躍しています。また松山大学准教授の甲斐朋香さんとは初めての対面でしたが、山奥組に何故参加しているのかも興味があるのです。世の中は面白いとしみじみ思いました。残念ながら従兄弟の通夜があって中座しなければならず、後ろ髪を引かれる思いで、夜の雨道を引き返しました。

  「限界も 歳も山奥 糞食らえ 俺ら生きてる 山奥万歳」

  「そのうちに みんな歳とり みんな死ぬ 生きてる間 花を咲かそう」

  「こりゃあ何だ 机の上に お茶ペット 都会を真似た 会議意義あり」

  「会長の お礼の言葉 気に入った 俺流生きる 俺流話す」

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○松山の景色は素晴らしい

 このところ長崎への旅が長くて、スケジュール表に書きとめているブログ用のメモをブログに書くことが出来ず、少しイライラしていました。しかし未熟ながら長崎の旅物語も写真も一応整理がついたので、最近の様子を振り返りながらメモしておきたいと思います。

 先週の日曜日、松山市PTA連合会の招きでPTA正副会長研修に出かけました。会場は南堀端にあるリジェール松山です。案内の文章をいただいた時、「えっ、リジェール松山って何処だっけ」と一瞬頭の中の回路が回り始めました。私たちというより私は古い時代の人間なので「農協会館」といえば分るのですが、リジェールといわれると「?」となるのです。道後にある「郵便貯金会館」だって今はメルパルク、伊予市の厚生年金会館も厚生省の払い下げを受ける前から愛称で呼ばれ、その愛称も買収で似たような名前になって訳が分らなくなってしまいました。ひと頃「○○会館」などの名前が古臭くて利用者に悪いイメージを与えるからと、公募による愛称募集をした時代がありました。店舗改装などの際にすればいいのですが、中身も変わらないのに名前だけ変えた所は、結局余計利用者に敬遠されて閑古鳥が鳴いている所だってあるのですから、名は体を現すので気をつけなければなりません。

 郵便貯金会館も農協会館も一時は結婚式場として名を成し、私も結婚披露宴司会537組という実績の何回かは司会のステージに経ちましたが、年を経てそんな勇気も活力も減退して、今は研修会のステージに上がっているのです。

 さて、リジェール松山ですが、今回の研修に招かれ改めてその眺望の素晴らしさを再認識しました。8階ホールの東側は全面総ガラス張りで、その窓いっぱいに松山のシンボルといえる城山がまるで一服の絵のように見えるのです。時あたかも新緑の季節で、城山の木々の緑が眼に鮮やかに飛び込んでくるのです。

(南堀端側から見た城山)
(天守閣の遠望、樫類の淡い緑が何ともいえない目の覚めるような色合いです)

  松山が生んだ俳人正岡子規は「春や昔十五万石の城下かな」とか、「松山や秋より高き天守閣」と名句を残していますが、非凡な人間だったらこの景色を見れば一句浮かぶほどの景色で、私は講演が終わって懇親会が始まる前に持ち歩いているカメラでパチリ撮らせてもらいました。

 松山市民はこの素晴らしい景色を当たり前の景色として捉えているのでしょうが、せめて日常の景色でも愛でるような心のゆとりを持ちたいものです。

 さて研修会ですか、「たくましい子どもを育てるために」と題して90分お話をさせてもらいました。特に強調したかった親の生き方で、親が変われば子どもが変わるとばかりに、父親の出番についても少し踏み込みました。丸三書店の井門社長さんや、松山市教育長さんなど馴染みの顔々が会場に見え隠れして、何とも恥かしい講演となりましたが、沢山の知人友人と旧交を温めることが出来ました。感謝します。

  「窓越しに 城山全て 初夏の色 何とも贅沢 景色肴に」

  「PTA 遠くなったな あの頃は ワイワイいいつ 血気盛んに」

  「さて何を 思う間もなく はい終わり 何を言ったか 分らずままに」

  「壁越しに 噂話が 筒抜けだ 今日は良かった 俺も良かった」 

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○九州ぶらり見て歩き③福岡県小倉編

 諫早から乗った白いカモメ号が博多に近くなるにつれて私の心は揺れ動きました。「博多から新幹線に乗って広島まで出て、宇品から松山へ高速船で帰れば今日の日のうちにわが家へ着くルートを選ぼうか」「小倉を散策して今夕小倉からのフェリーに乗って明日の朝松山に着く手もあるなあ」などと考えながら車内報ミニコミ誌を読んでいると、記事に小倉城のことが載っていました。

 カバンの中から予定表を取り出し明日のスケジュールを確認すると、明日は午後1時30分からアシスト事業の審査会があるようだが、ご午前中は予備空白のようなので、「そうだ小倉で降りよう」と思い立って博多から特急に乗り、終点小倉で降りよう」と決心しました。家内にその旨を電話で伝え、小倉の駅のコインロッカーに荷物を預け、駅の総合案内で観光パンフレットを何枚か仕入れ、カメラ片手に散歩です。私は小倉~松山間のフェリーを利用するためフェリー乗り場のある北口はよく知っているのですが、南口は余り行ったことがないのです。

 観光地図を広げNHKのある川沿いまで歩いて行きました。陽は西に傾き始めているので日陰の濃淡が随分はっきりしていて、日陰を通るとひんやりした爽やかな風が頬をなでるのです。NHK前の川沿いは広い親水公園になっていて、沢山の市民が行き交ったり思い思いの格好で風情を楽しんでいました。


 小倉の街も随分発展して大きな建物が目立って増えました。博多と同じくここはまるでミニ東京か、ハングル文字で書かれた看板を見ていると、どこか東南アジアの国々に似ているような気もするのです。

 目指す小倉城は小倉駅南口から歩いても近く、川の直ぐ横にありました。北九州はやはり東南アジアに近いだけあって、顔も身なりも日本人と変わらない人たちが沢山お城の見学にやって来ていました。いやあ驚きました。こんな立派なお城が街の真ん中にあるなんて思っても見なかったのです。


(正面から見た天守閣)

 平城ながら整備も行き届いて、城山をぐるっと一周して眺めましたが、夕暮れで逆光部分があるため写真写りは悪くても、威風堂々としたお城なのです。

(裏から見た天守閣)


 私も旅すがら日本全国のお城を見てきましたが、小倉城は外観は素晴らしいものでした。残念ながら中へ入ることはできませんでしたが、次の機会に是非訪れてみたいものです。

 お城の側の道路を歩いていると乃木希典大将がこの地に住んでいたという石柱が建っているのを目敏く見つけました。歴史上の人物として有名な方なので説明版を写真に収めました。案内地図を見ると無法松の墓とか訪ねたい魅力もいっぱいあるようでしたが、今回は日暮れ時間切れとなりました。

 最後に訪れたビルも変わった風情で内面から天空を覗くと面白い格好に見え、建築の世界も新しい発想がどんどん増えていることを感じました。

 こうして、二日間の短い北九州見て歩きの旅は終わりましたが、私にとっては今回も感性を磨く上でとても貴重な経験になったことは確かです。今度九州に来るのはいつになるのでしょうか。

  「旅先で 異文化ギャップ 感じつつ 新た発想 心フツフツ」

  「スピードも 大事だけれど ゆっくりも 心耕す やはり必要」

  「大都会 ビルの谷間に 乃木大将 俺が見つけた 小さな歴史」

  「ハングルが 巾を利かせる 北九州 日本人だか 外国人だか」



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○九州ぶらり見て歩き・長崎県大村市編

(記憶を手繰り寄せた昨年の会場)

 私の記憶が正しければ、昨年長崎へやって来たのは10月20日でした。その時の会場は中央公民館でした。一年前だというのに人間の記憶、いや私の記憶は曖昧で、位置関係をはっきり覚えていないのです。それというのもあの日は日帰りで、諫早から大村に着くと直ぐに私の講演が始まり、講演が終わるととんぼ帰りのような形で大村を後にしているからです。今回は諫早を通り越して長崎へ行き、佐世保行きの列車に乗って大村駅へ着いたのです。この日は長崎県教育委員会の松尾さんが私の相手をしてくれて、3時間も早く着いたため、そこら辺を案内してもらいました。大村市はかつては宿場町、城下町として栄えている地域なので、すべてを見ることは出来ませんでしたが、会場となった長崎県教育センター周辺には玖島城と別名呼ばれている城址公園があって、これが中々のものなのです。

 松尾さんはかつてこの教育センターで5年間も勤務していたことがあるらしく、城址公園は殆ど毎日散歩コースにしていたらしくとても詳しいのです。

 私たちはまず旧梶山御殿跡へ向かいました。門にも奥ゆかしさが垣間見えましたが、この施設は現在教育委員会が管理していて、教育活動に利用しているようです。

(平屋の数奇屋造りも立派です。向こうに見えるのが長崎県教育センターの建物です)

 肥前大村藩は2万7千石の城下町で、中世から江戸時代を経て明治維新に至るまで、絶えることなく大村地方を治めてきた大名です。特に18代領主大村純忠は1563年に洗礼を受けて日本最初のキリシタン大名となり、大友宗麟、有馬晴信とともに天正遣欧少年使節をローマに派遣したことでも有名です。西洋と交流の少なかった戦国時代の中にあって、ローマという未知の世界に挑みヨーロッパの進んだ技術や知識を持ち帰り、日本の文化に多くの貢献をしているのです。


(池は潮が引き込まれていて干満があるそうです。池の中には鯉とボラが仲良く泳いでいました)

 私たちは裏側から回ったため、少し違った角度から城址公園を散策しました。本丸講演の中には国の天然記念物に指定されている大村桜がありました。また公園内には大小2千本の桜があって、全国桜百選に選ばれている近郷に聞こえた桜の名所なのです。

(大村桜)

 公園の入口にはランドマークとなる常夜灯風の看板が立っていて、観光ボランティアの人が机を並べてもう間もなく裂き始める菖蒲の宣伝をしていました。園内には30万本の菖蒲が植えられていてそれは見事だそうです。菖蒲園には肥後系の花がボツボツ咲き始めていましたが、やがて江戸系が咲く頃には多くの花見客が訪れるようです。

(常夜灯風の看板)
(菖蒲園)
(肥後系の菖蒲が咲き始めていました。来月初旬が見頃のようです)

 園内にはそこここにお城の石垣や庭がうまく配置され、楽しく散策できました。

(潮水が流れる珍しい園内の滝)

(これも珍しい石だけでできた城門)
(櫓が海とうまくマッチしていました)
(天守閣にも似た櫓はやはり風格がありました)
(これも珍しい昔の船の修理場、いわばドックで、大村藩お船蔵跡)
(大村競艇開催日とあってこの日は賑やかなモーターボートの音が周囲にこだましていました。夕方は周囲の道路はかなり混雑していたようです)
(市役所付近から見た大村の朝日。私は朝5時から、前日松尾さんに連れられて歩いた場所を約1時間余りをかけて一周散歩しました。携帯電話の万歩計は1万歩を超えていました)
(早朝に訪ねた小島にかかる木製の橋、何ともノスタルジックな龍神社がありました)

 知らない場所を二度歩いたお陰で随分色々な物を発見しました。歴史や観光に興味のある私にとってはとてもいい散策でした。普通であればこの光景も今という一瞬は過去になるのですから、記憶の彼方に忘れ去られてしまいます。でもこうして覚えているうちに写真と文章でメモしておくと、いつでもパソコンと心のポケットから引き出すことが出来るのです。

  「二度目だが 一度目よりも 感動が 水先案内 友人感謝」

  「桜なく 菖蒲も早し 公園に 人影まばら それでも値打ち」

  「昨夕は 落ちる夕日に 感謝して 今日は朝日に 元気を感謝」

  「慣れるとは 不思議なものよ 爆音も 今は昼寝の 子守唄だな」

  

  


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○九州ぶらり見て歩き①長崎県長崎市編

 今回の旅の目的地は長崎なのですが、九州への第一歩が小倉港だったので、早朝5時に駅前の歩く歩道を歩いて小倉駅に着き、特急に乗り込みました。早朝5時40分発といっても外はもう明るくて、スペースワールドを列車が通過する頃には、スペースシャトルに朝日が輝いてまるで手塚治の漫画の未来世界のようでした。

 長崎へは福岡県、佐賀県、長崎県の三県をを走らなければなりません。すべての旅の基点となる博多から特急白いカモメに乗り込みました。車窓にはお国自慢の風景が広がり、飽きずに眺めることが出来ますが、佐賀平野の今頃は麦秋の頃で、何処までも黄金色の小麦や大麦の畑が広がって、これまた素敵な田園風景です。

 白いカモメは有明海沿線を走り諫早からは長崎って感じになります。長崎は長崎本線の終着駅でもあり始発駅でもあるのです。四国にもよく似た駅で宇和島がありますが、どこか始発駅や終着駅はどこか郷愁があって歌や絵になる光景です。長崎は離党や半島も多く、下車した人はそれぞれの目的地を目指すのです。

 駅の構内語朱印船の大きな模型が展示されていて、列車を降りるなり旅人の心を異国情緒で迎えてくれるのです。とっさに長崎といえば出島・坂本龍馬・キリシタン・グラバー亭・浦上天主堂・平和の像、眼鏡橋、港町などが頭に浮かんできました。福岡博多も色々な異国情緒が見ることが出来ますが、長崎は徳川時代の鎖国の時代さえ開国していたのですから、日本の夜明けは長崎から始まったといっても決して過言ではありません。

 長崎には路面電車が走っています。坊ちゃん列車などの路面電車が走る松山近くに住んでいるとさしてめずらしくありませんが、一回100円の安さや、古い電車にレトロを感じました。電車に乗って面白いのは駅の名前で、市民の暮しが息づいているようでした。公会堂前、眼鏡橋駅など、観光客には有り難い一目瞭然の名前です。

 眼鏡橋は水辺に下りて散策出来るよう遊歩道が整備されています。川上・橋下・川下と見る場所によってその趣が違います。この日は太陽光線の関係で川下からの眺めがいいようでした。川岸には柳の木が若芽を茂らせて見事でした。今ならいざ知らず、昔の人の高い土木技術の腕が光る建築物には脱帽するしかありません。

 眼鏡橋のたもとで坂本竜馬の銅像を見つけ、同じ四国人として嬉しくなりました。坂本龍馬にとっても長崎は縁の深い土地です。海援隊など、海人として大活躍をしました。沿道にはそろそろ咲こうとしているアジサイの蕾が控え目に演出をしていました。道端にはこのようにちょっと注意をして見ると幾らでも歴史の散策が出来るのです。

 再び大通りに出て路面電車に乗りました。長崎は坂の街です。電車を大浦下で降りて少し歩くと大浦天主堂へ続く坂道があり、両側には長崎カステラ、ビードロおもちゃ、ステンドグラスなどを売ってるお店が立ち並び、修学旅行やツアー客がひっきりなしに坂を登ったり、お土産屋に立ち寄って冷やかしていました。坂下には長崎湾が見えました。

 坂の上には有名な浦上天主堂があり、五月の青い空に美しく聳えていました。中を見学したかったのですが、あいにく団体客が沢山いて込み合っていて、何度か訪ねたことがあるので素通りです。それにしても長崎には教会がよく似合います。鈍い教会の鐘の音も異国情緒を存分に引き立ててくれました。

 教会の直ぐ横の坂道を進むと、長崎湾を一望できるグラバー亭がありました。管理の行き届いた園内は緑が一際美しく、見学や散策には今が一番いい季節かもしれません。ここで偶然にも愛媛県の知人に出会い、「若松さん」と声をかけられびっくりです。何とも羨ましくも微笑ましい夫婦での退職記念旅行だそうです。

 オランダ坂などを横目で見て写真に収めながら中華街へ出ました。入口には韓国などの街角でよく見かける寺院風瓦屋根の公園があり、近所のお年寄りがたむろして休憩していました。荷物を持っての散策なので少し汗ばみ、休憩しながら古老にその来歴を聞きました。長崎のお年寄も元気で人なつっこい人たちばかりでした。

 中華街の入口横で珍しい看板の薬屋さんを発見しました。町並み散策の達人である岡崎さんに見せてやりたいような立派な構えです。どんな意味があるのか分りませんが大きな釣鐘が軒先に半分吊るしてあり、下には飛行機の木製プロペラです。これだけの店構えですからかなり老舗なのでしょう。昔の店の様子も写真で紹介していました。これも長崎の鐘です。

 列車の時間が近づいたので、急いで中華街を歩きました。買い物や食べ歩きは今度妻を連れてきた時に取って置きたいと思いつつ急ぎ足で歩き、長崎駅から佐世保行きの快速列車に乗り込み、旅の目的地である大村駅を目指しました。

  「急ぎ足 長崎の街 ぶらぶらと 異国情緒を カメラに収め」

  「念願の 眼鏡の橋を 見るために 左右上下へ 自分が動き」

  「入梅を 間近に感じ 汗を拭く 休んで行けと 古老声かけ」

  「旅先で 声をかけられ 話し込む リタイアしたと 初々しくも」 

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○長崎から帰って一日遅れの新聞を読む

 急ぐ旅でもないので、ゆっくりのんびりを決め込み、日曜日の夜急な思いつきで松山~小倉航路を選び博多経由で長崎入りし、講演会場となった大村まで引き返し、再び諫早~博多を経て再び小倉~松山航路で帰ったため、研修施設一泊、船内二泊の長旅となってしまいました。それでものんびりゆっくり駅弁を食べながら過ごすひとり旅に満足して五月を締めくくれそうです。

 今回は旅をする前に立ち寄った娘の家で孫朋樹君が「おじいちゃん、旅行に行くんだったら雨が降らんように照る照る坊主を持っていったら」とティッシュをゴム輪で丸め、ボールペンで顔を書いただけの簡単な人形を手渡されました。孫のそのおまじないが当ったのかこの二日間は快晴で、汗を拭きながらの旅となりました。

 その旅すがら諫早を通り越して長崎に着き、街中を歩いていて偶然にも長崎地裁の前を通りかかったのです。何やら物々しい報道陣の多さに一瞬驚きましたが、「ああ今日は長崎市長射殺事件の判決の日か」と、改めて事件のことを思い出しました。昨年4月17日午後8時前、JR長崎駅前で選挙運動中だった同市の伊藤一長市長が暴力団幹部城尾哲弥被告に射殺された事件は銃犯罪の恐怖を社会に震撼させました。特に原爆被爆地長崎の代表として、国内外で平和を訴えてきた現職市長が銃撃された事件は社会に大きな衝撃を与え、暴力団による銃犯罪の厳罰化を求める世論の注目する判決でした。

 私はその後、諫早を経由して大村市に入り、長崎県教育センターで講演に臨んで一泊したため、新聞もテレビもシャットアウトされた生活をしていたので、裁判の行方が気になりながら、今朝まで被告に死刑が言い渡されたことを知らなかったのです。

 今朝、一日遅れの地元紙愛媛新聞に目を通しました。偶然にも通りかかった長崎地裁での判決が一面、五面、七面に詳しく載っていました。

 新聞によると判決骨子はおおよそ次の5つだったようです。

 ①被告を死刑に処する

 ②被害者の当選を阻止して力を誇示しようと犯行に及び、計画的で殺意は強固

 ③行政対象暴力として類例がなく極めて悪質

 ④暴力で選挙の自由を著しく妨害し、民主主義社会において許し難い

 ⑤刑事責任は重大で、被害者が1人だとしても極刑を科すことはやむを得ない

 たった一日なのに、国内外では様々な出来事があったようです。特に地震による死者の数が6万5千人を上回った四川大地震では川の上流にできた土砂ダムが決壊する恐れがあり、ダムから排水するため、重機や爆薬で土砂を取り除く緊急作業に着手したことを新華社が伝えており、決壊なら130万人が避難しなければならないというのです。降って湧いた四川大地震は、北京オリンピックの開催を目前に控えた時期だけに頭の痛い話のようです。既に日本でも赤十字を通じて様々な救援の手が差し伸べられていますが、救援物資に対して疑惑が次々出ているのも中国らしいと思いました

 今朝からまた元の暮しに戻りますが、長崎での時差ぼけは今日一日続きそうです。

  「偶然に 通りかかった 地裁前 死刑判決 知らずに通過」

  「新聞も テレビもなくて のんびりと 過ごしたつもり 実は大ボケ」

  「孫くれた 照る照る坊主の 人形が 効いたか天気 汗ばむ陽気」

  「のんびりと 駅弁広げ 窓越しに 諫早湾の 潮の満ち引き」 



 

 

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○これから長崎県教育センターで講演します

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○長崎県大村市に来ています

 本当は今朝広島経由で長崎に行く予定だったのですが、昨日急な思いつきで夜9時55分松山観光港発小倉行きのフェリーに乗り込みました。昨日のPTAの会議の後あれやこれやをしていたら、わが家へ寝に帰るだけだと気づいたからです。

 昨夜はフェリーの中でぐっすり寝込み、早朝4時に起床して小倉港へ5時に着きました。5時だというのに外はもう明るく、見慣れた光景、歩きそめた道を歩いて小倉駅に到着しました。緑の窓口で切符を買うと駅員さんが、「諫早だったら,長崎行きの往復切符を買った方が断然お得です」というので,口車に乗って長崎行き往復の切符を買ってしまいました。急げば間に合いますという特急に飛び乗り、博多からかもめ3号という特急にまた乗って、諫早へ降りるつもりでしたが、切符があることだし、念願の眼鏡橋に会いに行こうと乗り過ごし、何と何と長崎へ9時前に到着してしまったのです。

 今日の長崎は温度も湿度も高く、汗ばむ夏の陽気でした。講演のために背広を着用していましたし、今晩宿泊するため着がえ用のバックも持っていたので、電車で移動し,100円という安さ(松山の市電は150円)に感心しながら駅前から公会堂前まで移動しました。電車を降りたところに運良く警察官がいて、「眼鏡橋へ行きたいのですが教えてください」と尋ねると、「ここをまっすぐ行くと川に出ます。その川を右に曲がるとすぐそこです」と指さしながら教えてくれました。忘れていましたが今日は日曜日ではなく月曜日です。でもやはり天下の観光地長崎です。たくさんの観光客がデジタルカメラや携帯電話のカメラで写真を写しながらぞろぞろ歩いていました。私も偶然声を掛けた外人さんと片言の英語と日本語混じりで散策です。眼鏡橋が見えてきましたが,朝なので水面に眼鏡を写している姿は見えませんでした。早速川底の両岸に作られた遊歩道まで降りて、下流の法へ下ってゆきました。修学旅行の生徒でしょうか、川の真ん中に置かれた踏み石の上でふざけていて、川にザブーンと落っこちてしまいました。見ていた友人は大喝采でしたが、売れた生徒は水も滴るいい男、ぬれねずみのようになりながら,それでも格好良く振る舞っていました。

 眼鏡橋から電車に乗って石橋という終点まで行き、浦上天主堂へと続く坂道を上ってゆきました。両側にはおみやげ屋さんが軒を連ね、長崎特産のカステラやチャンポンを売っていました。露天では早くも長崎特産茂木ビワが売られていたり,ビワアイスを食べながら歩く観光客がたくさん見受けられました。有名な浦上天主堂と目と鼻の先にはこれも長崎を代表するグラバー邸があって、胸にワッペンを付けたツアー客がバスから降りて、旗を持ったガイドさんの後ろを汗をかきながら説明を聞きつつ上っていました。

 駅までの道すがら中華街に立ち寄りました。通りの両側には中華万や餃子、長崎ちゃんぽんのお店が立ち並んでいて、それらの匂いが鼻につき、呼び込みのおばちゃんに誘われて中華万を一個ほおばり、またビワソフトをなめながら温めたり冷したり変な気分でした。

 所用でおっつけかかってきた妻からの携帯電話で長崎ブラブラのそぞろ歩きを話すと、羨ましがられてしまいました。

  「早く出て 長崎ぶらり ひとり旅 長閑な初夏を 楽しみながら」

  「外人と 訳の分らぬ 会話しつ 念願眼鏡 橋見満足」

  「この橋が 壊れた頃に 俺たちは 無人の島で 生きるか死ぬか?」

  「冷したり 温めたりしつ 中華街 おばちゃん声に 活気いただき」   


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