○四季録に書かれた私の記事
昨日は早朝から広島県尾道市へ行っていたため、自宅への帰りが夕方になりました。帰ると「お父さん、玉井さんから電話が入っていたよ。今日の愛媛新聞の18面記事に載せているので読んで欲しいそうです。」というのです。早速新聞を広げて妻と一緒に読みました。仕事を片付けて玉井さんにお礼の電話しました。
玉井さんが四季録に書かれた記事を紹介します。
旧双海町役場の当時の若松進一課長とは、あるセミナーで出会った。講演で同じ話しを二度聞いても面白いもので「夕日の本を出さないか」と誘った。「本を出す金が無い。原稿を書く暇が無い。人様に感動を与える知恵が無い」と拒み続けられた。しばらくして、若松さんを訪ね、何も言わず、ある人が書いた色紙額を置いて帰った。
「のぼってゆく坂の上の青い天に、もし一だの白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂を上っていくであろう」。司馬遼太郎「坂の上の雲より」の色紙額を読んだ若松さんは、体内に不思議なパワーが出て、その色紙額を仰ぎ見ながら、原稿用紙四百字詰め原稿用紙で、実に四百八十枚を二週間で書きあげた。本の題は「無料で来る夕日を金にした男」「沈む夕日でまちづくり」などいろいろ考えた。
ふと、若松さんが「双海町の夕日はどこの国の朝日なんだろう」と言った。「昇る夕日でまちづくり」と本の題は決まった。サブコピーは「日本一を目指した夕焼け課長の奮戦記」と夕日をバックに、木で作った「気になるカバン」を持った若松さんの写真を載せた。表紙帯には、林家木久蔵(当時)に似た、若松さんの写真と、これを読まずしてまちづくりは語れないの文。
裏帯には「『しずむ夕日が立ちどまる町』/今や、全国に知られる。/まちづくりの名物男(中略)/どこにでもある夕日を/日本一にしたその想い/アイデア、実践の数々・・・・・/夕日のまちづくりは/日本一海に近い下灘駅での/夕日のコンサートから始まった。
地球のどこでも、夕日は必ず沈む、なんで過疎の町、双海町の夕日が「まちづくり」の資源になったのだろう。
▽夕やけこやけライン▽夕日のミュージアム▽夕やけ放送局▽夕日のメッセージポスト▽夕焼けコンサート▽夕焼け音楽祭▽夕焼けソフトクリーム▽夕日丼▽夕焼けフォトコンテスト▽夕日のモニュメントーなど。徹底的に夕日にこだわった。若松進一という夕日にとりつかれ、こだわり続けた一人の男がいたからである。
この本は、初版三千部は売り切れ、一年半後に再販された。若松さん、伊予市合併とともに退職し、「気になるカバンとハーモニカを持って」全国あちらこちらへ講演の旅をしている。(玉井恭介・考える村代表)
早速昨晩は大勢の方々から、「新聞を読んだ」「あなたのことが書かれていました」などと電話やメールが届きました。自分で夕日のことを記事に書いたり喋ったりしていますが、人に書かれるとどことはなく面映い感じがするものです。でも玉井さんは別格な鋭いタッチで文章を書いています。玉井さんは宇和島水産高等学校の先輩で、私と同じく愛媛丸に乗って遠洋航海にも行っています。故に私のことは知り尽くしている感じがします。また本作りを通して私の知識を知恵に変えてもらった大恩人なのです。もしあの本を出さなかったらと思うと人間は乗れといわれた船には乗ってみるものだとも思うのです。
玉井さんの四季録執筆はまだまだ続くので、一週間に一度ですが楽しみに読ませてもらいます。
「俺のこと 褒めて書かれて 恥かしや でも嬉しくて ブログに心境」
「若し彼が 本を出すよう 勧めずば 言われた船は 乗ってみるもの」
「五千部も 売れたお陰で 牧場を 手に入れ今は 三昧暮し」
「そこここに 恩人いるもの 彼もまた 大恩ありて 忘れ得ぬ人」