shin-1さんの日記

○わが事務所

 「若松さん、会社を興したらどうですか」と、時々友人から話があります。というのも最近、講演依頼の際「会社名で講演の見積書を送ってください」という問い合わせが数件あるのです。その都度「私は会社は起していませんので会社名の見積書はできません」と答えると、「あなた個人の名前でも結構ですので見積書を」と言われれます。「私の講演料はそちら様のご都合もおありでしょうからお任せしますのでご提示下さい」と言うと、それ相応の講演料や旅費、宿泊費の提示があって、私は見積書を作らなければならない羽目になるのです。そんな時友人たちが「○○研究所」とか「××事務所」などの肩書きで講演などに出歩いている姿をよく見かけるのです。さてさてどうしたものか退職時には真剣に考えましたが、名刺の肩書きなど必要でないと軽く笑い飛ばして今日に至っていますが、私の日程調整や確定申告など少しハード過ぎる日々を考えると、心が動いたりするのです。でも今のような暮しをそんなに長くやる気持ちもないので、このまま軟着陸しようと心では思っています。

 さて私の書斎もいつの間にか、まるで事務所のような風采になってきました。狭かった机は長男の配慮で事務所のような大きくて広いものに替わり、机の上にはパソコンとプリンター、それにコードレスの電話まであって、まるで看板がないだけの事務所です。最近はこの書斎兼事務所で過ごす時間が多くなってきました。朝4時に起床すると真っ先に飛び込むのこの部屋で、さしずめ朝の時間は書斎なのだと自覚しますが、そのうち妻が「ご飯の用意が出来た」と呼びに来て書斎の役目は終わります。やがて8時30分になって妻が仕事に出かけて行くと、再び部屋に入ります。ここからが事務所で、電話が入ったりメールの処理をしたり、原稿を書いたりと仕事らしくもない仕事を片付けますが、週一のペースで大学の授業があるため、調べ物をしたり授業の準備などをしますが、昼間は殆ど家にいないため事務所は無人となります。幸い事務所の横の隠居には親父が年中在宅で門番守衛の役目を果たしてくれます。時折訪ねてくる宅配業者や郵便局の人、更には私設公民館煙会所や海の資料館海舟館を訪ねる人は親父が案内し、耳が遠いながらレクチャーするのです。そして私が帰ると、「○○さんが訪ねてきた」とか、「宅急便が届いたので受け取った」と、最低限の留守番をしてくれるのです。私の事務所は留守がちな私と留守番の親父と二人で経営しているようなものなのです。

 リタイアして丸三年が過ぎて四年目に突入しました。そろそろリタイア後のリタイアも視野に入れて考えなければならない年齢に達してきましたが、友人が「会社を興したら」というお勧めはどうやら夢物語に終わりそうな雲行きです。でも一方で坂本龍馬のように遊び心で「○○株式会社」なんてパロディー豊かな看板でも掛けたら面白いことが起こるかも知れないと、仙遊寺住職の小山田住職からいただいたタモの木の板を想像したりしているのです。

 私はある意味でこれまで、水先案内人のような生き方をしてきました。私に続くリタイア組みも私のような生き方がしたいと思ったり、言ったりしている人も何人かいます。そんな事を考えると、絶えず一歩前をアイディアを出しながら力強く輝いて生きて行かなければなりません。そんな事を考えながら書斎兼事務所をもう一度リニュアールしたいと思う朝を迎えました。

  「事務所兼 書斎のような 一部屋で 遊びも仕事も 三年過ごし」

  「会社でも 作ろう思う 日もあった 社長になるも 夢のまた夢」

  「はいこちら ○○会社の 社長です どうもしっくり いかぬ止めよう」

  「ご飯です 妻の呼ぶ声 我帰り 今朝もここから 一歩始まる」

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shin-1さんの日記

○1+1=6

 算数や数学だと1+1=は2なのですが、わが家では1+1=6なのです。つまり私と妻が昭和46年5月5日に結婚して4人の子どもが生まれたため、2人の親+4人の子どもで合計6人となったのでこんな計算が成り立つのです。結婚した時私は26歳、妻は一つ年下の25歳でした。私が23歳の時に描いた私の生活設計では26歳で結婚、相手は南予の人で2歳年下のK子さんという人と3つの条件を想定していましたが、自分の年齢は計画通り26歳だったのですが、年齢は1歳年下の繁子さんという人に落ち着きました。

 昭和46年は1971年ですから昨日5月5日は38回目の結婚記念日でした。朝布団の中で目が覚めると、同じ布団の横に寝ている妻が「お父さん、今日は5月5日だね。覚えてる」と唐突にいうのです。私はとぼけたふりをして、「今日は子どもの日で休みだ」と答えると、「それもそうだが、違う違う」というのです。結婚記念日は毎年こんな掛け合い漫才のような会話を続け、私からプレゼントを引き出そうとするのです。毎年決まったように「結婚記念日はお前だけでなく、私にとっても記念日なのでプレゼントは可笑しい」というのですが、少ないながら世話をかけたお礼にと、いつの頃からか始めたささやかなプレゼントの風習がいけなかったのです。毎年忘れたふりをする私にこうしてささやかながら強請るのです。私は毎年そんな妻への感謝というよりは、罪滅ぼしのつもりでプレゼントをし続けている素敵な亭主なのです。ところがこの日は毎年銀行や郵便局が休みで、私のささやかな小遣い帳用の通帳で小遣いが引き出せず、妻をいらだたせる結果になるのです。今年もそうなのです。実は私、金融広報委員会の金融広報アドバイザーをしていて、「カードは恐ろしい」などと人の前ではお話しするのに、カードでお金を引き出したことがない、変わり者なのです。変わり者というよりは要はカードでお金を引き出した経験もなく、カードでお金を引き出す方法を知らないのです。まあ明日は連休明けなので、妻へのプレゼントを今年も渡してやろうと思っています。

 5月5日の子どもの日が結婚記念日というのも珍しいことですが、私は密かにこの日に結婚しようと、実は結婚する日まで23歳の時に決めていたのですからお目出度い話です。そして結婚したら女・男・男・男と一女三男の子宝に恵まれてるよう考え、名前まで既に考え、その通り子どもが生まれ、その通り名前を付けたのですから、私の計画の凄さに自分ながら驚いているのです。

 そんな1+1=2の結婚から1+1に子どもが4人生まれ6になったのですから、少子化の現代において偉い社会貢献をしたものです。しかし残念な事に長女は1+1=4、長男は1+1=3でしかなく、次男は1、三男も未だ1のままなのです。長女や長男はさて置き、次男の1と三男の1は親として気になるところですが、こればかりはどうにもならない頭痛の種のようです。

 昨日は長男家族が帰ってわが家は大賑わいでした。人見知りする孫が泣いた笑ったと大騒ぎです。妻は子どもの日だからと、まだ9ヶ月の孫にプレゼントを用意していました。「お前の子どもでもないのに子どもの日だから

プレゼントするのは可笑しい」と反論したのですが、子どもはみんな子どもだから」と、私に結婚記念日のプレゼントをもらおうと当てつけのような仕草です。

 それでも、息子の家族が来たからではなのでしょうが、昨日は何時になく食卓が賑やかで幸せに満ちていました。今のところ退職離婚の話もなく38回目の結婚記念日を夫婦そろって健康で迎えることが出来た事を幸せに思うのです。これも大蔵大臣である妻のお陰と感謝してプレゼントで誠意を表すくらいの太っ腹でないと、駄目亭主のレッテルは何時までたっても剥がれないのです。

  「駄目亭主 今年も迷う プレゼント 退職離婚 ないのに何で」

  「わが子でも ないのに孫に プレゼント 記念日だらけ 俺にも欲しい」

  「日本中 国旗掲げて 祝日と 祝ってくれる 我ら記念日」

  「十二年 後に金婚 迎えるか それまで夫婦 元気でいよう」

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