shin-1さんの日記

○名残惜しい春の夕日

 「夕日は何時の夕日が一番美しいいですか」とか、「何処から見る夕日が綺麗ですか」と、夕日に狂ったように見える私によく質問されるのですが何とも答えようがなく、「あなたが見る時が一番、あなたの見る場所が一番」と答えにもならぬ回答で質問した人を煙に巻いています。

 暑くもなく寒くもない丁度良い季節がやって来ました。夕日を鑑賞するにはもってこいの季節です。明日から始まる連休も、外国や国内旅行を楽しむ人は多いと思われますが、花や旧所名跡を巡るのも一向なら、夕日や朝日など時間の移ろいを感じるのも一向だと思われます。

 早いもので今年も4月の春は終わりました。デジカメの写真を整理しながら名残惜しくも春の夕日の写真を取り出して見ました。この写真は私の家の裏庭から撮影したものです。春から夏にかけては、太陽の通るコースは最も北寄りです。6月の末には山口県周防大島の旧東和町辺りに沈むのです。その時期にはこのように私の家から居ながらにして美しく海に沈む夕日が見えるのです。

 この日私は、久しぶりにわが家へやって来た孫尚樹を抱っこして夕暮れ迫る庭を散歩していました。運良くポケットにカメラを忍ばせていたので、来月1歳になる孫を抱きかかえたまま裏庭に上ってシャッターを押したのです。今のカメラは手ぶれも殆どなく写せるため、それなりに撮れていました。そのうち夕日が丸くしっかりしたため自称夕観所と名付けた東屋へ行き、孫を台座の上に置いて少しズームインしてみました。今まで気付かなかった電柱や電線がやたら視界に入って、残念ながらいい写真は取れませんでしたが、それでも「夕やけこやけ」の歌を孫に歌って聞かせながら夕日のお話をしてやりました。まだ赤ちゃんと呼ぶようなゼロ歳の孫故、夕日の美しさなど知る由もありません。でも赤ちゃんの顔を真赤な夕日が染めて幸せそうに見えました。

 薄暗くなり不安なのか孫がぐずり始めたので家へ入りましたが、偶然最後の一枚はまるでローソクか線香花火を逆さにしたように電柱に夕日が重なって写っていました。電柱や電線を景観ではまるで悪者のようにいいますが、こんな生かし方を考えたりするとまた違った趣きがあるようです。まあ電線や電柱は心で消せばいいのです。

 最近の子どもたちは夕日を見る機会が殆どないと多くの人が指摘します。それもそのはず夕日が沈む頃は塾へ行って猛勉強したり、テレビのマンガに夢中になっているのです。かけがえのない一瞬の輝きを鑑賞するくらいな心の余裕を持ちたいものです。子どもが夕日を見ないのではなく、親が夕日を見ないから子どもが夕日を見ないのです。せめて明日からの4連休の一回くらいは親子で夕日を見ては如何でしょうか。お金はかからないと思うのですが・・・・・。

  「写真でか 見れぬ四月の 夕日見る 名残惜しむも 既に過去形」

  「電柱に かかった夕日 これもまた 面白いねと 一人ニヤニヤ」

  「赤ちゃんの 顔に夕日の スポットが 当りて一層 赤く染まりて」

  「わが家から 夕日見えると 自慢する これから当分 一人楽しむ」 

  

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shin-1さんの日記

○余りの美しさに立ち寄り

 ブログを書くようになった最近は毎日デジカメを持ち歩いています。しかし残念な事に「アッ、面白い」と思ってデジカメの行方を捜すと車の中に置き忘れていたり、時には食事の食べ物に熱中し机の下に忘れたり、「こんなに忘れ丈がいいなんてあなたももう歳ね」と妻から呆れた声が聞えるのもしばしばなのです。でもデジカメは充電さえしておけば、フィルムがいる訳でもなく、また適当に消去や保存が出来る便利さから、これからも重宝したいと思っているのです。しかし写真を撮る場合注意しなければならないのは相手の了解です。写真に夢中になり過ぎると、シャッターチャンスを逃すまいと気持ちが焦り、被写体にだけ気持ちが集中して、迷惑を感じる人だっているのです。

 私のパソコンの写真フォルダーにはそういう訳ですからあっという間に枚数が溜り、時折整理をしたり、CDに移したりしないと、パソコンの容量が増え過ぎて立ち上がりが遅くなるのです。相変わらずパソコン操作の苦手な私は、パソコン不具合の対処法やそんな場合のパソコン操作法を、息子にマニュアル化してもらっていて、虎の巻のように①スイッチをオンにする、②マウスの右を2回クリックするなどと書かれたメモを頼りに操作し覚えるのです。まるで子どものようですがこれが結構重宝で、暇さえあればやっているため、どうにかメールが送れ、写真が送れたりするようになって、トラブルさえなければそれなりの活動が支障なく出来るようになっているのです。

 写真を整理していると先日妻と大洲方面に行った折、目に留まった美しいい庭の風景が出てきました。大洲市五郎のとある民家です。民家というよりは和風ながら西洋料理のお店なのです。妻は妹からこの店の料理や民家の行き届いた設えの話しを聞き友人を誘って食事に行き、感激して帰ったことがあるので、道すがらその話をしながら車を走らせていたのです。その家が視界に入った途端、庭の見事な彩が目に飛び込んできました。私は思わず運転していた妻に寄り道するよう頼み、鉄道トンネルを抜けて細い路地道へ入りました。

 駐車場に車を止め、歩いてその家に行きました。見るとご主人と思しき人が竹箒で庭の掃除をしていました。「すみません。余りにも見事なので立ち寄りました。ちょっと見せてくれませんか。ついでに写真も撮りたいのですが」と頼むと、ご主人はわざわざ掃除の手を休めて案内しながら説明をしてくれました。ご主人はもう盛りを過ぎたいいながら、裏庭の斜面を埋めた霧島ツツジや岸ツツジの見事さに妻と二人は見とれてしまいました。わが家も同じように裏庭は斜面なのに、何とみすぼらしいことかと、妻と話しました。

 家の入り口の庭も立派で、料理屋といいながら個人の民家だけに圧倒されてしまいました。

 手を休めて案内してもらったお礼をいい、その場所を後にしましたが、気配りと手入れを欠かさずやるからこそ、この時期に美しい花を咲かせるのだと感心しながら、草の生えたわが家の庭を思い出しながら対比し、そのギャップを感じた次第です。

 美しいものを見ると、心に美しいものに憧れるような今までにない新しい風が吹きはじめます。しかしそこで立ち止まると自分の変容は期待できません。その風をいかに実践に取り込むかです。私も及ばずながら庭の手入れをしようと心に決めました。出来るかどうかではなく出来ると信じること、そして後は実践です。十年後私の裏庭もあんな人のうらやむ姿にしたいと絵を描いてみました。さあ実践です。

  「道すがら 視界飛び込む 美しさ 立ち寄り眺め デジカメ撮って」

  「感性を 磨いて庭の 造作を まずは設計 何を植えるか」

  「和風美を 田舎の民家 さりげなく 霧島ツツジ 彩り添えて」

  「金かけず 手間暇かけて 庭つくる 心次第で 美しくなる」

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