shin-1さんの日記

○親父の姿は冬モード

 朝6時、いつものように書斎の窓を一杯開けて外気を取り込みました。今朝は少し肌寒いような感じがして秋も少しずつ深まっています。散歩から帰って来た親父の姿を見て驚きました。昨日までは半袖姿だったのに、今朝はたった一日違いでジャンバーを羽織っての散歩です。「寒いと思ってジャンバーを着て出かけたら汗が出た」というのです。風邪でも引いたら大変とジャンバーを脱がせ少し汗ばんだ背中の汗をタオルで脱ぐってやりました。私たちにとっては快適な季節の変わり目も、年老いた親父にとっては寒さに向かう厄介な季節となるのです。暑かった夏も過ごしにくいようでしたが、寒さも親父の活動範囲を更に狭めるようです。

 この4~5日、親父の仕事は長い畑の畦に植えているツツジの剪定でした。私が結構忙しいため親父から手助けするように言われても、予定を変更することが出来ず、「2~3日待って」といっても自分流を貫いて作業をしてしまうのです。ですから少しオーバーワーク気味で今朝は肩が痛いというので、サロンパスを腰に加え肩にも張ってやりました。それでも親父のアリにもにた作業ながら何と100メートルものツツジの生垣を全て剪定し終わってしまったのです。2日前の朝その剪定くずを下の田んぼの持ち主の了解を得て焼却処分する事にしました。稲刈りが終わった田んぼは稲株から彦生えの稲がスネ辺りまで伸びていました。田んぼの真ん中に一輪車で集めた剪定くずをうず高く積みました。剪定くずは緑のままで燃えないため、少し灯油をかけて火種を作り燃やしましたが、天候もよく無風だったので僅か1時間弱で処分してしまいました。野焼きは余り好ましいことではありませんが、それでも背に腹は変えられずしょぶんしてしまいました。

 昨日の親父の作業はツツジの足元に生えた雑草取りでした。茅やハズが生い茂っていましたが、下の田んぼから梯子を掛けて鎌で刈り取るのです。気の遠くなるような作業を上がったり下りたりを繰り返し、私が帰った午後2時ごろには既に終えていました。折から降り出した雨にも濡れず、良かったと一安心のようでした。

 親父はガンの手術で片目は殆ど見えません。見える片方も白内障とかで来月には軽い手術をする予定にしています。日ごろの不義理を払拭するため今回の手術は私が付き添いする予定にしていますが、今日までの作業のように自分の予定に合わされるとまた困ってしまいます。まるで子どものように今から言い含めなければならないのです。

  「凄いです あれ程長い 生垣を たった一人で 剪定作業」

  「秋なのに 親父の姿 冬モード 汗ばむ背中 捲り拭き取る」

  「年寄りにゃ 夏の暑さも 堪えたが 冬の寒さも 骨身に染みて」

  「あの仕事 やがては俺が やるのかと 横目見ながら 気遠くなる」 


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shin-1さんの日記

○酒が恋しくなりました

 七年前に体の都合で酒を止めました。それもきっぱりです。妻は私の潔さに多少惚れ直したようです。だって血気盛んな若い頃は結構短気者で、職場で爆発できないうっぷんを家庭に持ち込んで八つ当たりするものですから、妻がビールを冷してないのを見て怒り心頭に達し、そこら辺のものを投げたそうです。私は「エッ、そんなことあったっけ」ととぼけていますが、今の穏やかで丸みの出来た心技体から考えると想像もつかないような悪態・悪戯だったようで、深く反省しているのです。

 私の友人には結構酒好きがいて、酒で体を壊した人が何人かいます。胃を切った、肝臓の数値が悪い、糖尿病だと大騒ぎし、何度か検診に引っかかったり入院したりするにもかかわらず、少し回復すると「ビール一本ぐらいなら」「酒は一合くらいなら医者が飲んでも良い」と自己判断して飲み始め、少量が中量・大量となって元の木阿弥になるようです。私のようにかたくなに強い意志を持って禁酒を貫く人は案外少ないようです。昨日出会った友人も、2年前に胃の殆どを取りながら、体力的回復はしていないのに既に酒の量は回復していました。みんな酒を飲まなくなった私を見て、盛んに基に戻して再び盃を交えようと言ってくれますが、私は頑として受け付けないのです。彼は酒を飲みながら、「胃を取った時、命が惜しくて酒は止めようと思ったし、看病してくれた妻に対しても酒は止めなければならないと心に誓ったのに、友達が誘うものだから一杯が二杯になって・・・・」と自分が酒を回復した事をさも友人のせいにするような言い草なのです。また彼は「酒を止めるのなら死んだ方がましだ」ともいいました。「じゃあ死んだら」と水を指すと一瞬彼の顔が曇りましたが、「俺には俺の生き方がある」とささやかな反骨を示したようです。

 私のようなまちづくりに関わる仕事の世界は酒がつき物です。酒が人の心を開いたり結んだりするのも事実です。でも適量を楽しむことができないのです。私の知り合いが多い高知県などは酒を平気で返杯し合う悪しき?風習があります。まさに一気飲みの昔版なのです。こうなると自分流に酒を楽しんだりする余裕はなく、結局明くる朝頭が上がらない二日酔いに悩まされることになるのです。私も若い頃は随分彼らと盃を交え、負けるのが嫌いな性格もあって返杯を繰り返していました。でも彼らには絶対適わないと思って脱帽してからは、自流・我流の酒の飲み方を貫けるようになりました。

 人間は弱いものです。「もう酒は絶対飲まない」と心に誓った入院生活が終り退院すると、ついつい盃が恋しくなるものです。ましてや新酒の話題や旬の魚などが手に入ると喉が鳴り、脳が体中に指令を出して酒飲みモードとなりもうたまらなくなるようです。秋刀魚を焼く匂いがプーンと匂ってきました。安いといいながら結構高値のマッタケもおすそ分けで一本いただきました。たまりませんね。でも私は意志の強さを公言し、酒ゼロ宣言を守っています。私に適量はありません。ゼロか100かです。私はゼロを選びました。

  「ゼロか百 私はゼロの 道を行く 酒など足蹴り 今では平気」

  「胃を切って それでも酒を 止めぬ友 誘惑負ける 心が弱い」

  「若松さん 主人に言って 止めるよに 妻さえ出来ぬ 俺には出来ぬ」

  「秋刀魚焼く 匂い連想 酒の味 元気出る水 恋し季節」

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shin-1さんの日記

○いやあ驚きました

 昨晩から今日の午前中にかけて、しまなみ海道の三連吊橋来島海峡大橋の橋脚のある馬島へ出かけました。昨晩は夜だったものですから何処をどう通ったのか余り分りませんでしたが、何でも島の人だけしか通行が許されず、普通の人は利用できない小さなインターを降りて島の中へ入って行きました。橋にはイルミネーションがつけられていて、夜空に光が弧を描いている姿もおつなものでした。交流会が深夜にまで及んだため夜の散策が出来なかったため、早朝6時に部屋を抜け出し、黎明の島道を一人で歩いてみました。夜明けの清々しい空気が漂い気持ちの良い朝でした。民宿の前はまるでプライベートビーチのような海が広がり、吊橋が美しく海上に映え見えました。いやあ美しいです。まるで絵を見ているような光景でした。


近くに灯台があるようなのでその灯台を目指して歩くと、神社に着きました。三島神社の社紋が彫り込まれた玉垣や石段を登ると社殿がありその裏には白い灯台がありました。

 白い灯台の深く刻まれた銅版にはうずの鼻燈台・昭和十二年と右から左へと読むような形で書いてありました。私が生まれる前に設置された70年も経た灯台なのです。ふと今治のまちづくりグループの名前がうずの鼻だったのでは?と思ったりしました。四方はウバメガシで視界を遮られていましたが、樹間に見え隠れする海はその名の通り渦が巻いて荒々しい姿を見せていました。元来た道を引き返し堀切らしき所を抜けると港に出ました。朝の釣りを楽しむ人、散歩をする人、小船に乗って漁に出かけようとする人それぞれの朝を楽しんでいました。橋の橋脚部分の近くまで行ってみました。凄いの一言です。この上を尾道方面へ、また今治方面へと何度も通った橋ですが、橋を下から見上げるのは初めてです。改めて人間の力の凄さにも敬服したのです。

 昨夜泊まった海鮮料理民宿みはらしへ帰って朝食を取り、少し休憩して9時から今治造船職員組合代議員研修会に望みました。20人ほどのこじんまりとした集会でしたが、昨夜の酒が聞き過ぎて多分研修会にはならないだろうと思っていましたが、あにはからんや2時間も話したのに殆ど寝る人もなく熱心に目と耳を傾けてくれました。90分の予定がつられて2時間になってしまいました。熱を入れたと思ってご勘弁を願います。



 帰りは車でなく民宿のクルーザーで直接今治造船の岸壁に着きました。今治造船は日本一の造船所として名声をほしいままにしている造船所ですが、南ル同組合委員長の案内で工場内を正門前まで歩きましたが、いやあ驚きです。こんな大きな30億円もするような船が僅か2~3ヶ月で出来るというのですから、時代も進んだものです。一度工場見学でもさせてもらいたいと思いました。この日は今治地方の秋祭りとかで工場は休みだそうで、急ぎの仕事をしている現場しか動いていないとのことでした。今回も良い出会いをいただきました。

  「うずの鼻 神社灯台 同居して 沖行く船の 安全祈る」

  「馬島の 下から橋を 見上げれば 人の力の 偉大さ知れる」

  「海見れば 何処か懐かし 風景と 磯の香りに 亡き母思う

  「横文字で パナマと書いた この船が 僅か2ヶ月 程で出来るか」  


 

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shin-1さんの日記

○アバウトな私とアバウトな相手

 「若松さんですか。実はある人から面白い話をする人はいないかと聞かれたので、あなたの名前を出しておきました。いずれ連絡がると思いますので、その時は私の顔を立てて引き受けてください」と高松へ主張中の運転中に電話がかかってきました。数日前携帯電話でパトカーに咎められたこともあって、路側帯へ車を止めて話の中身も聞かぬまま一応引き受けました。その後追い討ちをかけるようにその人から電話が入り、何度も車を止めると高松での会合に間に合わなくなる恐れがあるので、「はい了解しました」と電話を切りました。その時は10月20日と21日で了解を得ていたはずなのに、こちらも忘れそうになり、不安な中で日が迫っても相手の電話が誰だったか、電話連絡しようにも分らないのです。「弱ったなあ」と思っていたら相手から電話がやっと入りましたが、この時もあいにく運転中で、「10月20日と21日を一週間前にずらせないか」というのです。呆れましたが一度引き受けたことなのでシブシブ了解しました。

 しかしその後も何の連絡もなく、文章での依頼もなく結局前日を迎えました。「明日になりました。本社前で6時に待ってます」でチョンです。毎回運転中、毎回メモ持たない時に限っての電話なので、その本社が何処にあるのかさえも知らないのです。しかしこんなアバウトな話があるでしょうか。といっても私もアバウトですから仕方がありません。結局2時間かけてその会社に電話番号入力のカーナビの力を借りてたどり着きました。しかいその会社は大きくて現場があちこちにあり、本社前が何処なのか困りました。昨日の携帯電話が入った時間を思い出し、着信番号を確認して電話を入れました。「今何処ですか」「なたは今何処ですか」お互いがチンプンカンプンな話をしていると、電話の目と鼻の先にそれとおぼしき人が携帯電話をかけながらお互い手を挙げあい、やっとの思いで目的地、目的人にたどり着いたのです。ああ嘆かわしや、それにしてもお互いにアバウト過ぎますね。

 事務所へ通されましたが、集まった人が何か怪しい雲行きです。私の不安は益々募るばかりです。そこへ妻から電話が入りました。妻「お父さん着いた?」、私「うん着いた」、妻「今何処?」、私「よう分らん所」、妻「よう分らん」、妻「よう分らんて、そんなんのでよう行くわね」、私「うん俺もそう思う」、妻「後でまた電話してね」、私「うん」。で電話を切りました。

 さて、そこからがまたアバウトです。相手たる私は場所と話の内容を全て知ってるし、私のデーターもインターネットで持っているようでしたが、私はその人を知りませんし、ましてや何処の会場か、そこでどんな話をどの程度するのか全く雲を掴むような話なのです。この日はバスで移動して島へ行くというのです。「えっ何処の島?」、途切れ途切れに聞こえる電話の話で「洗面道具を持って来るように、前夜は大いに飲んで話しましょう」「私は酒が飲めないのですが・・・」も相手には通じていないらしく、「若松さんお酒はどれ程」とまた聞かれてしまう有様です。

 こんな不安な気持ちではいい仕事は出来ないと思いましたが、その夜は酒が滅法強い20人ほどの参加と懇親会が延々と午前様まで続き、明日の私の講演などまるで眼中にないようなノリノリの手合いでした。帰りたい気持ちも半分、こういうこともあるだろうと諦めの気持ちも半分でしたが、島ゆえ帰るに帰れず眠れない島の一夜を過ごしました。アバウト人間若松進一はそれでも健気に生きて仕事をしているのです。「あー俺も気が長く、人間が丸くなったものだ」としみじみ思いました。

  「これは夢 そんなに思う 集会に 招かれ不安 夜も眠れず」

  「アバウトな 性格だから いいのかも 寝食共に 心うち解け」

  「島へ行く バスに乗せられ 拉致されて 帰るに帰れず 腹をくくりて」

  「知っている 積もりで話 するけれど 私何にも 知らないもので」

 

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shin-1さんの日記

○全日空ホテルでの講演

 昨日は朝9時半から松山全日空ホテル南館4階エメラルドルームという立派な会議場での講演会に望みました。「全国都道府県庁職員福利厚生事業協議会」の第52回総会だそうです。いわゆる全国の都道府県庁職員互助会の事務局担当者会義のようなもので、全国から200人余りの人が集まっていました。前日から一泊二日の会議ですので、重要な会議は全て終り、昨夕は懇親会や2次会で松山の夜を堪能したことでしょう。したがって今朝は少々酒臭い人もいるだろうし、交流会に重きを置いている人は束の間の休息の時間だと思える時間帯なのです。この手の類の会議だと一応地元の有名人が話すのでしょうが、どういう訳か無位無官の私にご指名があったのです。それでも私にとっては大事な役割があるわけですから、「新しい発想で生きる」t題して90分間お話をさせてもらいました。

 運良くなのか運悪くなのか、この公演に出る前立ち寄ったえひめ地域政策研修センターの坂本研究員が担当している「愛媛ふるさと暮し応援センターのパンフレットが出来上がているので配ろうかという相談がまとまり、事務局の担当者に打診したところいいだろうとゴーサインが出たため、急遽電話して会場まで持ってきてもらいました。松本研究員と坂本研究員が全国の人に愛媛の取組を紹介する絶好の機会となったことは運良くです。でも松本研究員と坂本研究員がそのまま会場の隅にでんと座って私の話を聞いたのには運悪くとしか言いようがないのです。それでも私の話を聞きながら松本研究員は小まめに私のデジカメで写真を撮ってくれました。

 壇上に上がりいきなり木になるカバンの話から始めてしまいましたが、会場といい、マイクの音量といい申し分のない話しやすい会場でした。懸垂幕もかなり重厚で私の姿が眩く見えるほどでした。

 この会場は普通結婚式にも使われる立派な会場で、私も何度か会場へ足を運んでいる見慣れた会場でしたが、皆さん熱心な方ばかりで、反応もよく誰一人として寝ないで話を聞いてもらいました。

 私への事務局からの注文は「若松様の現職時代から現在に至るまで、豊富な経験の中から、様々なエピソードや発想の着眼点等を中心に人生観やライフプランについて、ご講演いただきたい」との注文だったので、思いつくままに話をしましたが、さて反応はハガキくらいは来るかもしれないと淡い期待を抱き、最後はハーモニカを吹いて終了しました。


 「人が沢山集まって、飯や酒が美味しくて、講演が面白かったら集会は大成功」と、現職時代はよく言いました。人の集まりは申し分なかったようです。飯や酒もそれなりに満足したことでしょう。肝心の講演は参加者が決めることだけに、今後の評価となりそうです。様々な集会が持たれ、それぞれの人がそれぞれの思いで話をする記念講演も、受け手の取り方は人それぞれです。旅の土産話にでもなればいいのですが・・・・・。

 帰り際、高知から来たという女性と同じ方向の道を歩きながら、話の続きをしました。彼女は私に「今日は良いお話を聞かせていただいてありがとうございます。とても参考になるお話でした」とお世辞を言われお別れしました。

  「呼ばれたら 刑務所以外 何処へでも 積極的に 講演行脚」

  「講演を 聞かず寝るのは 話す人 お前が悪い 今日は一人も」

  「熱心に 聴いたお方へ 出る時に みかんを二個も 差し上げました」

  「ふと見れば 馴染みの二人 研究員 一番恥かし 人に聞かれて」 

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shin-1さんの日記

○一枚の版画

 昨日の早朝えひめ地域政策研究センターに立ち寄りました。午前9時半から始まる講演会に行く途中でしたが、昨日の朝はどういう訳か信号も順調、車もラッシュ時間だというのに空いていて僅か40分で松山市内へ入ったのです。余り早く行ってもいけないので、失礼とは思いましたが時間つぶしの感じで立ち寄ったのです。センターは夜が遅いのに朝が早い人たちが多く、どこかのまちの市役所のように「夜が早いのだから朝ぐらいゆっくり」という駆け込み姿とは偉い違いなのです。お茶を入れてもらいそれれぞれの職員とそれぞれの仕事の話を済ませましたが、色々と関われるものだと感心しながら所用を済ませました。

 松本研究員から一枚の版画を見せられました。見覚えのある版画です。えひめ地域づくり研究会議が今春20周年記念誌を作った折の記念誌の表紙を飾った版画なのです。

 20周年はこれまでを総括するという意味では夕景です。でも20年が終り新たな旅立ちであれば朝の景色です。この版画はそんな目で見るとどちらにでも見えるのです。ふと手元にある記念誌を机の上に出してみましたが表紙の裏に作者と作者の意図が書かれていました。

 この版画の作者山田清昭さんは画名が「山田きよ」です。プロフィルによると「1959年喜多郡五十崎町(現内子町)に生まれる。松山デザイン専門学校卒業後、会社員を経て家業の竹材加工業に赴く。1988年、喜多郡内子町にある内子座の企画集団「内子社中ふれだいこ」を仲間とともに結成、公演ポスター担当となったのを機に、シルクスクリーン(切り抜き手法)による版画ポスターの製作を開始、その独特の技法と色使いが評判となり、1993年から版画展を各地で開催、現在も精力的に創作活動を続けている。ふるさと愛媛の風景を題材にした作品が多く、その表現描写はいずれも詩情豊かで郷愁を誘う」とあります。

 表紙の言葉/山田きよにもこんな短文が添えられていました。「私は、生業が林業に関係している仕事なので、山間部にはよく行く。こういった棚田は昔よく見かけたものだが、今では殆ど荒廃している。先祖が苦労して造り上げた水田なのであるが、米は作るより買う方が安くつくというおかしなじだいになってしまった。泉谷棚田の人たちは、皆元気である。内子町御そぎ地区に陽しずむ・・・・。まさに日本の原風景といえよう」

 味のある表紙の言葉からすると夕景なのですが、見方によっては朝焼けにも見えるから不思議です。私は山田清昭さんとは古い友人で今は年賀状のやり取りしかしていませんが、彼と偶然にもNHKのテレビ出演で一緒になり、岡崎事務局長さんとのやり取りや私との出会いを経てこの版画をいただいたのです。この記念誌は今残部を一冊ワンコインで販売しており、私はノルマの50冊を完売したものの残りの30冊がまだ少し残っている状態です。この版画を見てまた少し頑張ってみようと思い始めました。

  「この版画 夕景描きし ものなれど 見方変えれば 朝にも見える」

  「原画見て 記念誌売れと 天の声 売れぬもんだな 本という奴」

  「ノルマ課し ノルマ達成 出来ぬ人 ノルマ嫌だと ノルマ逆らう」

  「早起きは 三文得と いうけれど 私は今朝も 大得したり」

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shin-1さんの日記

○あんたは暇だから・・・・

 昨日古い友人からメールが届きました。「パソコンをいじっていると若松さんのブログに行き着きました。懐かしさの余りに読んでいると、結局寝れなくなって朝方まで読みふけりました。お陰で今日は寝不足です。間もなく定年を迎えリタイアする予定の私ですが、あなたのような定年後の生き方が出来るかどうか不安です。でも来年の退職までには何とか生き方を見つけたいと、あなたの文章を読みながら感化されました。それにしてもあなたのブログは凄いです。あるわあるわで毎日2本、しかもあれだけ長文の文章をよく書けますねえ。よっぽど暇なのでしょうね」で結んでいました。

 確かに言われるとおり私はあの文章を書くための時間があるのですから暇といえば暇なのでしょう。でもあの文章を書くためには朝4時に起きて1本、12時就寝までに1本と人が休んでいる入る間の時間を利用して書いているのですから、時間の有効利用といった方が正しいのかも知れません。

 文章の長さですが、私には今の文章の長さがないと舌足らずになって上手く表現できないのです。最初は少し短めの文章からスタートしましたが、結局は今のスタイルになってしまいました。

 「毎日何でそんなに書くことがあるの」とも書かれていましたが、書くことが多過ぎて困るほど話題には事欠きません。それというのも日々の暮しを素材にしているため、毎日ご飯を食べるのと一緒です。ブログは他人に読んでもらうドキドキ感もあるのですが、見えない読者ゆえに、嘘や見栄を張ってカモフラージュすると、読者の目は厳しくそのことを見抜いてしまうのです。ですから自由人になった今が誰からも束縛されず本音で書けるので、好評を得るのかも知れませんね。

 文書はその視との能力にもよりますが、書けば書くほどスピードが早くなり、表現も豊かになることは事実です。私などは相変わらずの拙文で、幼稚文のそしりを免れません。でもこの2年間で随分書くスピードも早くなりました。書き続けていると四季の移ろいや日々の暮しもそういう目で見るから何処かメリハリが効いて豊かになります。新聞を読んでも雑誌を見ても学びの心が頭を持ち上げるのです。お陰様で知的エネルギーが随分蓄積されました。後はこの知識を知恵に変えるための努力が必要です。これからも出来る限り努力してブログを続けてみたいと思っています。

  「旧友の 送りしメールに 暇とある 確かに俺は 暇かも知れぬ」

  「ブログ読み 寝不足だよと メール書く 友の笑顔が 思い出される」

  「来年は 彼自由人の 仲間入り 見本のような 生き方します」

  「ブログ書き 只今俺の 生きがいだ 

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shin-1さんの日記

○コマーシャル出演

 数日前水産高校の大先輩である玉井さんから電話が入り、アマチュアカメラマンのグループが30秒のまち紹介コマーシャルを作る計画なので相談に乗って欲しいと連絡がありました。第一線を退くまでは様々なテレビや新聞雑誌に登場していましたが、最近は出来るだけ表舞台から引くよう心掛けているのでと断ったのですが、結局渦の中に巻き込まれてしまいました。まだ企画の段階だし断ればいいと思いつつ現地下見などに付き合っていると私の石と違う方向へどんどん向いていってしまい、今日は試作のビデオに出演してしまう羽目になってしまいました。

 私は木のカバンを持って全国歩いています。昔は双海町の動く広告塔を自認し日本全国へ双海町を売り歩きました。ところが平成の合併によって双海町という自治体が日本地図の上から消えたものですから、売り歩く「もの」がなくなってしまったのです。それでもかろうじて残っている双海町に伊予市という冠をつけて売り歩いているのです。私は双海町のセールスマンから伊予市双海町のセールスマンになったのです。「愛媛県双海町の若松です」と言っていましたが、今は「愛媛県伊予市双海町の若松です」と舌を噛みそうなぎこちなさでこの2年半伊予市双海町のセールスマンに徹してきました。

 正直言って伊予市は伊予の国を連想するいい名前だと思いますが、知名度は下から数えた方が早いほどで無名に等しいのです。20年前の双海町と同じくらい無名で、伊予市を紹介するのに愛媛県・松山市・道後温泉・瀬戸内海に面したなどの枕詞を出さねばつうじないのです。でも合併して伊予市民になったのですから、このまま見過ごすわけにはいけないし、市民として伊予市を誇りに思わねばなりません。またそれが市民としての責務と考え、一生懸命伊予市を宣伝しているのですが、行政もその辺のことには余り無頓着なようで、このままだと20の市町がありますが、400メートルトラックをヨーイドンで2年半前にスタートしたのに、ビリあたりを走っているような錯角さえ持つのです。

 世の中はコマーシャルや情報発信の時代となりました。何にもせずにただ指を加えていたのでは観光客も素通りし、産物も売れず衰退の一途を辿るのです。人が集まるということはどういう意味を持っているのか少し考えてほしいものです。

 私が出ると煙たい人もいるでしょう。それは20年前に始めたまちづくりの活動でも同じようなことに何度も出くわしました。でも誰かが批判覚悟で革新運動を起こさなければ、折角合併して誕生した新生伊予市が発展しないのです。みんなで目立ちましょうよ。

  「このまちは 死んでいるのか 静かだね それでも時は 流れています」

  「鞄持ち 日本全国 北南 伊予市を売って 歩く気概を」

  「ヨーイドン 一斉スタート したけれど レベルはいかに あるのだろうか」

  「もし俺が 市長だったら こんなこと 指折り数え 悲し運命」

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shin-1さんの日記

○魚の料理

 私は漁村に生まれ、若い頃漁師を7年間も経験しました。水産高校を出ていて漁村・漁師・水産高校と聞くと魚に縁のある人間だと思われがちですが、以外や以外魚は食べても料理は余りしたことがなく、もっぱら「お魚ママさん」の講習を受けた妻に任せて、この30年余り殆ど包丁を握りませんでした。それがひょんなことから退職後、妻の勤めの関係もあって、時間的な余裕がない時はまだシブシブですが、魚の処理を任されやるようになりました。双海町は魚どころです。わが家の親類にも漁師さんが多く、時々売りに行くほど沢山の魚をトロ箱で頂くのです。今日も夕方親類から魚を取りに来るよう電話がありました。妻はあいにく夜の会合があって魚を処理する暇がないと、少しだけ厚めの化粧と、少しだけ着飾ってさっさと出かけて行きました。さあ困ったものです。その処理を私が一人でしなければならなくなったのです。

 今日の魚は腕首もあるような1メートルほどの大きなハモが一匹、それにホウボウやシズなどの小魚もありました。さて出刃包丁を出して砥石で研ぎ、目打ちを頭に打ち込んで格闘です。大きなハモは骨切りが大切な仕事で、上手く骨が切れていないと食べられないのです。夏の旬を過ぎたといってもハモはあっさりとした食感がたまらなく、吸い物や湯引き梅酢和え、この頃だとマッタケ組み合わせれば土瓶蒸しもおつなものです。

 私の仕事は下ごしらえで、骨切りや他の小魚の鱗や内臓、それに頭を取って調理するように子切りすることなのです。格闘の末1時間ほどで調理を終りパレットに入れてサランラップを掛け冷蔵庫に治めようとしましたが、サランラップが芯にに絡まって取れないハプニングに右往左往してやっと終わったのは7時過ぎとなりました。今夜の夕食は私一人なので小魚の中に混じっていたアジでお刺身を造りました。研ぎ澄ました包丁は面白いように切れて、私の腕もまんざらではないと自認しましたが、妻の前でこんな自慢をすると、「父さん上手ねえ」と妻の褒め殺しにあって、次から調理しなければならなくなるので努々そんな言葉は口が裂けても言うことはできないのです。

 一人が玄米ご飯を茶碗によそい、妻の盛り付けたおかずを食べながら、今頃親父も同じように一人でご飯を食べているのだろうと、妙に気になって隠居へ出かけて行こうと玄関を出ました。あいにくそこへ宅急便が届いたり、御用聞が来たり、またPTAの役員さんが注文していた煮干しを届けに来たりと、、結局は親父の隠居へ行くことすら忘れてしまうような来客対応となってしまったのです。

 ブログ上のここだけの話ですが、今度は少し料理にも挑戦してみようと思っています。

  「包丁を 研いで魚と 格闘す 大きなハモを 骨切り三昧」

  「透明の サランラップに 悪戦し こんなことでは 生きてゆけぬわ」

  「アジ刺を 造って一品 追加して 鬼の霍乱 至福の時を」

  「沢山の 魚貰って 捌くのは 俺の役目か 妻はさっさと」

 

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shin-1さんの日記

○ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が愛した夕陽

 日本で何処の夕日が一番美しいか訪ねられたらあなたはどう答えるでしょう。夕日は日本中何処でも見られる現象ですから、ご当地自慢は必ずあるのです。私がこれまで旅した地域でも「若松さん、あなたの町の夕日も日本一かも知れませんが、私のまちの夕日には適わないでしょう」と、逆に自慢されるのです。特に離島や日本海に行けば夕日を自慢している人はかなりの数のようです。私はすかさず「それがどないしたん」と関西弁で喧嘩を売ります。追い討ちをかけるように「夕日が綺麗といって自慢するばかりでは何にも進歩はありません。要は夕日をどう道具立てして物語を作り、それを賢司に結びつけるかでしょうね」と・・・・・。「ウーン、参った」です。

 そんな中で私が一目置くのは島根県松江宍道湖の夕日です。私が湯日を地域資源にまちづくりを始めた頃、当時宍道湖嫁ヶ島に沈む夕陽が日本一だと聞いていました。私はその夕陽を見たくてなけなしの財布をはたいてわざわざ見に行きました。その日はあいにく雨で夕陽を拝むことは出来なかったものですから、ようし宍道湖の夕日に勝ったと心に決めました。以来宍道湖の夕陽を追い越そうと様々な物語や仕掛けを作り、オンリーワンの夕陽を目指したのです。私はその日から夕陽と呼ばれていた呼称を夕日とシンプルにして夕偏に日と書いて、旭に対抗する造語まで作ってしまいました。その後宍道湖周辺も美術館が出来たり夕陽スポットが整備されたりして夕陽を売り込んでいますが、さてどちらに軍配が上がるかはそれぞれの地域の人の想いの高さや深さだろうと思うのです。

 私が適わないと思うのはラフカディオ・ハーンの存在です。明治23年に来日したハーンは島根県尋常中学校の英語教師として松江に赴任し1年3ヶ月をこの地で過ごしました。そしてその体験を「知られざる日本の面影」という本にまとめたのです。松江の自然や文化、人情の美しさを讃え、愛したハーンは、宍道湖嫁ヶ島に落ちる夕陽も見たに違いないのです。小泉セツと結婚して5ヵ月半を暮らした八雲旧居を見た時そう思いました。私の愛した夕日はたかだか20年です。明治半ばという途方もない時代にハーンは夕日の美しさに気付いていたのでしょう。ひょっとしたらハ小泉八雲は日本人で最初に夕日の美しさに気付いた人かも知れないと思うのです。

 今年の7月2日、この日もあいにくの雨でしたが、嫁ヶ島界隈を訪ねました。この湖畔に立つと何故か自分が小泉八雲になったような不思議な錯覚を起こすのです。それは八雲が松江を「現実と幻が見分け難い国」といっているからかもしれません。夕景は確かにあの世とこの世や、現実と幻が混在すると思います。これはあくまで私的な考えですがハーンが日本に帰化する大きな要因となったのは嫁ヶ島に落ちる夕陽を見たからではないでしょうか。ああー、また私の幻想の世界が広がってゆくようです。

  「ラフカディオ ハーンは今も生きている 日本の面影 松江に残し」

  「日本で 最初に夕陽 感じ人 八雲に違い ないと確信」

  「名に恥じぬ 夕陽のメッカ 嫁ヶ島 思わずカメラ 持ちて車外へ」

  「今日あたり 綺麗な夕日 探す旅 出かけてみたい 心境なりぬ」


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