shin-1さんの日記

○全日空ホテルでの講演

 昨日は朝9時半から松山全日空ホテル南館4階エメラルドルームという立派な会議場での講演会に望みました。「全国都道府県庁職員福利厚生事業協議会」の第52回総会だそうです。いわゆる全国の都道府県庁職員互助会の事務局担当者会義のようなもので、全国から200人余りの人が集まっていました。前日から一泊二日の会議ですので、重要な会議は全て終り、昨夕は懇親会や2次会で松山の夜を堪能したことでしょう。したがって今朝は少々酒臭い人もいるだろうし、交流会に重きを置いている人は束の間の休息の時間だと思える時間帯なのです。この手の類の会議だと一応地元の有名人が話すのでしょうが、どういう訳か無位無官の私にご指名があったのです。それでも私にとっては大事な役割があるわけですから、「新しい発想で生きる」t題して90分間お話をさせてもらいました。

 運良くなのか運悪くなのか、この公演に出る前立ち寄ったえひめ地域政策研修センターの坂本研究員が担当している「愛媛ふるさと暮し応援センターのパンフレットが出来上がているので配ろうかという相談がまとまり、事務局の担当者に打診したところいいだろうとゴーサインが出たため、急遽電話して会場まで持ってきてもらいました。松本研究員と坂本研究員が全国の人に愛媛の取組を紹介する絶好の機会となったことは運良くです。でも松本研究員と坂本研究員がそのまま会場の隅にでんと座って私の話を聞いたのには運悪くとしか言いようがないのです。それでも私の話を聞きながら松本研究員は小まめに私のデジカメで写真を撮ってくれました。

 壇上に上がりいきなり木になるカバンの話から始めてしまいましたが、会場といい、マイクの音量といい申し分のない話しやすい会場でした。懸垂幕もかなり重厚で私の姿が眩く見えるほどでした。

 この会場は普通結婚式にも使われる立派な会場で、私も何度か会場へ足を運んでいる見慣れた会場でしたが、皆さん熱心な方ばかりで、反応もよく誰一人として寝ないで話を聞いてもらいました。

 私への事務局からの注文は「若松様の現職時代から現在に至るまで、豊富な経験の中から、様々なエピソードや発想の着眼点等を中心に人生観やライフプランについて、ご講演いただきたい」との注文だったので、思いつくままに話をしましたが、さて反応はハガキくらいは来るかもしれないと淡い期待を抱き、最後はハーモニカを吹いて終了しました。


 「人が沢山集まって、飯や酒が美味しくて、講演が面白かったら集会は大成功」と、現職時代はよく言いました。人の集まりは申し分なかったようです。飯や酒もそれなりに満足したことでしょう。肝心の講演は参加者が決めることだけに、今後の評価となりそうです。様々な集会が持たれ、それぞれの人がそれぞれの思いで話をする記念講演も、受け手の取り方は人それぞれです。旅の土産話にでもなればいいのですが・・・・・。

 帰り際、高知から来たという女性と同じ方向の道を歩きながら、話の続きをしました。彼女は私に「今日は良いお話を聞かせていただいてありがとうございます。とても参考になるお話でした」とお世辞を言われお別れしました。

  「呼ばれたら 刑務所以外 何処へでも 積極的に 講演行脚」

  「講演を 聞かず寝るのは 話す人 お前が悪い 今日は一人も」

  「熱心に 聴いたお方へ 出る時に みかんを二個も 差し上げました」

  「ふと見れば 馴染みの二人 研究員 一番恥かし 人に聞かれて」 

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shin-1さんの日記

○一枚の版画

 昨日の早朝えひめ地域政策研究センターに立ち寄りました。午前9時半から始まる講演会に行く途中でしたが、昨日の朝はどういう訳か信号も順調、車もラッシュ時間だというのに空いていて僅か40分で松山市内へ入ったのです。余り早く行ってもいけないので、失礼とは思いましたが時間つぶしの感じで立ち寄ったのです。センターは夜が遅いのに朝が早い人たちが多く、どこかのまちの市役所のように「夜が早いのだから朝ぐらいゆっくり」という駆け込み姿とは偉い違いなのです。お茶を入れてもらいそれれぞれの職員とそれぞれの仕事の話を済ませましたが、色々と関われるものだと感心しながら所用を済ませました。

 松本研究員から一枚の版画を見せられました。見覚えのある版画です。えひめ地域づくり研究会議が今春20周年記念誌を作った折の記念誌の表紙を飾った版画なのです。

 20周年はこれまでを総括するという意味では夕景です。でも20年が終り新たな旅立ちであれば朝の景色です。この版画はそんな目で見るとどちらにでも見えるのです。ふと手元にある記念誌を机の上に出してみましたが表紙の裏に作者と作者の意図が書かれていました。

 この版画の作者山田清昭さんは画名が「山田きよ」です。プロフィルによると「1959年喜多郡五十崎町(現内子町)に生まれる。松山デザイン専門学校卒業後、会社員を経て家業の竹材加工業に赴く。1988年、喜多郡内子町にある内子座の企画集団「内子社中ふれだいこ」を仲間とともに結成、公演ポスター担当となったのを機に、シルクスクリーン(切り抜き手法)による版画ポスターの製作を開始、その独特の技法と色使いが評判となり、1993年から版画展を各地で開催、現在も精力的に創作活動を続けている。ふるさと愛媛の風景を題材にした作品が多く、その表現描写はいずれも詩情豊かで郷愁を誘う」とあります。

 表紙の言葉/山田きよにもこんな短文が添えられていました。「私は、生業が林業に関係している仕事なので、山間部にはよく行く。こういった棚田は昔よく見かけたものだが、今では殆ど荒廃している。先祖が苦労して造り上げた水田なのであるが、米は作るより買う方が安くつくというおかしなじだいになってしまった。泉谷棚田の人たちは、皆元気である。内子町御そぎ地区に陽しずむ・・・・。まさに日本の原風景といえよう」

 味のある表紙の言葉からすると夕景なのですが、見方によっては朝焼けにも見えるから不思議です。私は山田清昭さんとは古い友人で今は年賀状のやり取りしかしていませんが、彼と偶然にもNHKのテレビ出演で一緒になり、岡崎事務局長さんとのやり取りや私との出会いを経てこの版画をいただいたのです。この記念誌は今残部を一冊ワンコインで販売しており、私はノルマの50冊を完売したものの残りの30冊がまだ少し残っている状態です。この版画を見てまた少し頑張ってみようと思い始めました。

  「この版画 夕景描きし ものなれど 見方変えれば 朝にも見える」

  「原画見て 記念誌売れと 天の声 売れぬもんだな 本という奴」

  「ノルマ課し ノルマ達成 出来ぬ人 ノルマ嫌だと ノルマ逆らう」

  「早起きは 三文得と いうけれど 私は今朝も 大得したり」

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