shin-1さんの日記

○黒板に書かれた教え

 私は仕事柄色々な場所に出かけますが、町中を歩いていてお寺の山門に書かれた文章をふと見てなるほどと思い、手持ちの紙に走り書きすることなよくあります。昨日は全国大会の実行委員会があり、会場となった西予市中央公民館に出かけました。この会場は講演会や集会でよく訪ねた場所なのですが、前3回訪ねた時も今回も同じ言葉が、二階の廊下に面した場所に設置されている黒板にチョークで書かれているのです。会議は3階なのですが歩いて階段を上ると2階の踊り場を通らなければなりません。踊り場付近は昼休みのため全て電灯が消されており今回も歩いて上がる途中にこの書き言葉を見つけました。電気が消えていて薄暗いのでどうかと思いましたが、ちょっとメモをさせてもらいました。時折通る職員さんが、木になるカバンの上でメモを取る私の姿を見つけて、不思議そうに通り過ぎて行きました。

 親のあり方10ポイント(会話やあいさつがとても大切)

 1、子どもの良い面をみつめ褒めよう。

 2、食事は出来るだけ家族一緒に。

 3、子どもの良い手本になろう。

 4、夫婦円満が大切。

 5、家庭で互いの悪口をいわない。

 6、子どもを家事に参加させる。

 7、子どもにお金や物を安易に与え過ぎない。

 8、感情的にガミガミ叱らない。

 9、注意した成果を性急に求めない。

 10、気分によっていうことを変えない。

 いやあ実にいい言葉です。誰が書いたか知りませんが、この言葉の前をどれ程の人が通り、どれ程の人が立ち止まって見、どれ程の人が暮らしに役立てたのか想像してみました。多分メモを取るような変った人間は私一人でしょうが、それにしてもこの言葉に気付き、この言葉を知ってもらいたいと書いた人がいることは事実ですから、その人にも会ってみたいと思ったりもしたのです。

 昔のように兄弟姉妹が沢山いる時代と違い、少ない子どもの数が故に子育てが難しくなったといわれています。子どもをこの10のポイントで育てたらいい子どもに育つとも思いました。

 昨日はお陰様でプラスワンの少し得をした気持ちになりました。

  「何気なく 通る廊下の 黒板に 書かれた文字を メモして帰る」

  「この言葉 子育て娘に 贈りたい 子育て実は 親の生き方」

  「子育てを 終りて気付く ことばかり 後は宜しく 娘嫁託す」

  「何となく 得したような 気持ちにて 会場後に 家路を急ぐ」

 

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shin-1

○母の命日

 今日10月4日は母の命日です。母は6年前80歳で亡くなりました。私の誕生日が10月3日ですから母は私の誕生日の明くる日に亡くなっています。優しかった母親ですから多分「進一は私の命日など忙しくて覚えていないだろう。自分の誕生日の明くる日だったら覚えていてくれるかも知れない」と思ったのでしょうか、偶然の重なりなのです。私のような男の子にとって自分を産んでくれた母親の死は自分のルーツを断ち切られたようなショックでかなり長い間落ち込みました。母が死んでから丸6年が過ぎましたが、死んだはずの母は死んだ頃の姿のままで老いることもなく私の心の中に生き続けているのですから、人間の心とは不思議なものです。

 昨日届いた瀬戸町(現伊方町)の緒方二三子さんからの便りに「母の思い出を聞かせて欲しい」旨の記述がありました。私の母の一番の思い出は働く母の姿です。五人の子どもを育てながら船にも乗り、暇を見つけて畑を耕しました。女・嫁・妻・母・職業人の中で女はさて置き、どれも気を抜くことなく働きに働いて生涯を閉じたといっても過言ではありません。

 私が学校から帰ると、母は私へのメッセージを台所の小さな黒板に書いていました。「池窪の畑にいるから「背負子にくくった荷物を持って来るように」との伝言です。遊びたい少年にとってこれはかなり嫌でした。でも登りのきつい勾配を休みながら登って行くと母はせっせと野良仕事をしていました。母に背負子を渡すとしばらくの間の山を駆け巡ったりして遊びました。時には畑の隅にある大きなヤマモモの樹に登ったり樹の空洞に隠しておいたハーモニカとジョン万次郎という本を取り出し、吹いたり読んだりしたものです。間もなく背負子にみかんや芋が括り付けられ、私は母と元来た道を連れられてわが家へと帰って行くのです。

 2年前、人間牧場をつくる目的で母亡き後荒れていたみかん畑へ行きました。ヤマモモの樹の根元にある空洞を掘ると、何と40数年ぶりに土になりかけたハーモニカと本の背表紙が出て来ました。それ以外にも母が使っていた愛用の鎌や鍬、それにみかん取り用の採果ハサミが赤茶け錆て土の中から出てきて驚いたり感動したりしました。人間牧場を造らなかったら来ることもなかったであろう母と私の思い出の場所に、今では再々足を運び、母の思い出を探しています。人間牧場はいわば母の思い出に出会える場所なのです。

 わたしはここで、時々ハーモニカを吹きます。妻が買ってくれたスズキのハーモニカは今や人間牧場水平線の家の大切な備品になって来た人に母の思い出を込めて吹いています。私が思い出す母親へ捧げる歌は「みかんの花咲く丘」です。通知表音楽2の私ですが、今ではどうにか160曲吹けるようになりました。

 今朝は母の命日です。仏壇に線香を手向けて手を合わせ、母のために一曲「みかんの花の咲く丘」を吹きました。このハーモニカも妻が買ってくれたものです。

 ♭みかんの花が咲いている 思い出の道 丘の道 はるかに見える 遠い海 お船が遠く浮かんでる♯

 ♭いつか来た道 母さんと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・♯

 ハーモニカを吹きながらうろ覚えの曲を心の中で歌いました。母ちゃんと呼んで母親に捧げる歌です。天国にいる母に届けとばかりに・・・・・。「お父さんいつの間にか上手になったねえ」と感心し、妻が拍手をしてくれました。

  「天国の 母に届けと ハーモニカ 下手糞ながら 命日の朝」

  「仏壇に 線香手向け 合掌す 亡き母偲び 命日の朝」

  「誕生日 明くる命日 重なって 複雑今朝は 亡き母思う」

  「耕せし みかん畑の うたかたも 母が一緒に あの世持ち去る」  

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shin-1さんの日記

○誕生日に花束プレゼントの定期便

 私の誕生日は昭和19年10月3日です。昨日目出度く63歳になりました。昨日誕生日を迎えた感想は「エッ、早63歳になったのか」「62年間もよく生きてこれたなあ」「歳をとったなあ」と複雑な気持ちです。「早63歳」はあっという間に62年間が過ぎたという実感ですし、「62年間も」は62年間生きて色々な時代背景の中で頑張ってこれた半生の重みでしょう。また「歳をとった」というのは、若い若いと思っていたが自分もいよいよ高齢化といわれる社会の当事者になりつつあることへの不安かも知れません。いずれにしても63歳という年齢を重く受け止め、これからどう生きるかしっかり見極め、私が提唱しているニコニコ・ピンピン・コロリンシャンの豊かな人生を生きて行きたいと決意したのです。

 私には誕生日に毎年嬉しい出来事があります。もう10年も続いている花束プレゼントの定期便が来るのです。そもそもの発端は10年前、私はシーサイド公園で視察に来れれた人を案内していました。その時二人の女性がやって来て私に「誕生日おめでとうございます」と大きな大きな花束を渡すのです。藪から棒とはこのことでしょうが、降って湧いた思わぬハプニングに驚いている私を、バス1台40人の方が大きな拍手と歓声で祝福してくれたのです。その日は朝から忙しくて自分の誕生日すら忘れていたものですから、その2人の女性の名前や住所を聞き出すことも出来ないまま立ち去られた、あっという間の出来事で終わりました。

 花のプレゼントはその次の年も偶然にも居合わせたシーサイド公園でまたもや再現、その人が松山市吉田に住む西岡真由美さんと、瀬戸町潮成に住む緒方二三子さんだと知りました。一度ならず二度までも花束をいただくにはそれ相応の理由があってのことだと思いましたが、この時も接客中で聞くことが出来ませんでした。私は必死になって記憶を捲り「何処であった人なのだろう」と考えましたが結局分らず終いでした。二人と私の出会いが瀬戸町で開かれた講演会で、私の話を聞いてファンになったという信じられない出来事だと知ったのはずっと後のことでした。

 それ以来私の元へは10年間も花束プレゼントの定期便が届いているのですが、若かった二人も今は子育て真っ只中のお母さんとなって、昨日は仕事の都合で来れない緒方二三子さんの心を携えた西岡真由美さんだけが、一歳の子どもを連れてやって来ました。毎年予告なしに来るものですから、昨日も西岡真由美さんはシーサイド公園で私を探したそうですが見つからず、留守のわが家へ花束とプレゼントの品を持って来られ、玄関にそっと置いて帰られたそうでした。昨日は朝日新聞の取材が入り、たまたま記者を送るためシーサイド公園に立ち寄りました。挨拶をして別れ際中学校の同級生に会いました。立ち話をしていると、西岡真由美さんが子どもを連れて立っていました。いやあ、心の糸が引き寄せた出会いに両方がびっくりし感激一入です。昨年見た時は小さかった子供ももうヨチヨチ歩きが出来るように成長していました。

 家へ帰ると昼休みで妻が帰っていました。毎年のことなので立派な花を見て恐縮しきりでした。妻は早速大きな花瓶を取り出し玄関に活けてくれました。不具合なデジカメも不思議な事にこの時ばかりはバッチリ取れているのですからこれまた不思議です。花束に添えられたメッセージも、プレゼントに添えられた西岡真由美さんの手紙にも、また玄関に帰った途端に郵便局員が手渡しで届けてくれた緒方二三子さんからの便りにも温かい言葉が綴られていました。妻は早速緒方二三子さんから届いた瀬戸金時芋を蒸す準備をしているようです。

 ある意味で呆れるほどに長く続いている花束のプレゼントは、私に新たな生きる勇気を与えてくれました。妻は毎年花束が届く度に追々細りながら私を見直してくれるのです。西岡真由美さん、緒方二三子さん今年もありがとう。

 追伸

 いただいたプレゼントの中にブログの主人公孫朋樹が登場しますが、朋樹が恐竜に凝っていることを書いたのを見たのでしょう。恐竜の飛び出す絵本がありました。昨日は愛媛大学後期授業のスタートで講義日でした。私は早速朋樹の元へ「おばちゃんからのプレゼント」と理由をいって持って行ってやりました。朋樹も大喜びで、娘は恐縮しかりでした。娘は「朋樹がおじいちゃんに誕生日祝のハガキを書いたからプレゼントが届いたんよ」説明し、朋樹も納得しているようでした。

  「今年また 誕生花束 いただいて 嬉しさいっぱい 鼻も高々」

  「世の中にゃ 奇特な人が いるもんだ 毎年届く 花を飾りて」

  「このくらい 嬉しいことは ありません 値千金 変えるものなし」

  「幸せは 幸せ感じる 心なり 若さの秘訣 感じて動く」


 

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shin-1さんの日記

○初めての孫からのハガキ

 昨晩は広島県尾道市瀬戸田町での講演が終わってからの深夜帰宅だったし、妻も2日ほど民生委員の役員研修で家を留守にしていたため、郵便ポストの大まかな郵便物は妻が取り込んでくれていましたが、今朝開けてみると、ポストの底に2枚のハガキが残っていました。1枚はこの春学校を退職した春田勝利先生からでした。先生とは社会教育や学校教育で何かと気の会う間柄で、様々な分野で深いご縁をいただいた方です。先生がハガキに書いていただいた「高市小学校に(教頭として)赴任した一年目(平成4年)の夏に灘町の浜にテントを張って、(妻の作った)たこ飯を食べたり、(北風組合長にお願いして)クルージングをした思い出はいつも思い出されます」は、私にとってもよき思い出です。毎日毎月毎年どれ程の人に会い、どれ程の思い出があっても、このシーンは記憶に残っているのです。子どもたちの嬉しそうな笑顔や、春田先生の笑顔も忘れられない記憶のスナップ写真なのです。

 もう1枚のハガキは何と孫朋樹からのハガキです。4歳にして始めて書いたハガキなのです。今日は私の63回目の誕生日なのですが、自分さえも自分の誕生日を忘れるような歳になっているのに、娘が教えたのでしょうかたどたどしいひらがなで、誕生日のメッセージメールなのです。

 おじいちゃんへ

おたんじょうびおめでとう

これからもむしをいつも(の)よ(う)にとってあそんでね

ともきより

 (の)と(よ)が抜けてはいますが、自分の主張がよく分る嬉しい便りです。今朝は気付くのが遅れてしまい、孫はもう幼稚園に出かけた後でしたので、今日から大学の後期講義が始まって大学へ出かけるので、久しぶりに立ち寄ってお礼を言おうかと思っています。

 「子どもことは10時10分、孫のことは8時20分」、つまり自分の子どものことは目を吊り上げ、孫のことになると目尻が下がることを私が勝手に言い表している言葉なのですが、このハガキは私にとっては大切な宝物にも値するメッセージなのです。それにしてもまだ4歳だというのに、私なんぞは小学校へ上がっても文字も書けず10までの数さえ数えられなかったのですから、驚きの進歩です。

 いい歳になりましたが、最初の21歳までの21年間は分らずまま過ごしました。次の42歳までの21年間は仕事に明け暮れた21年間でした。でも「町に吹く風」という厄年で書いた本がその生き方を総括してくれました。その次の63歳までの21年間は自分の思いや主張で仕事をしてきました。こうして21年間刻みの不惑の21年、がむしゃらの21年、主張の21年がこれから過ごすであろう1年で終わります。今年は3クルー目の仕上げと同時に4クルー目への準備期間です。じっくり頑張ってみたいと決意をさせてくれた孫からのハガキでした。

 朋樹君誕生祝のハガキありがとう。

  「いつの間に ハガキが書ける 人となる 孫から嬉し ハガキ一枚」

  「じじ馬鹿と 言われる程の 馬鹿でなし 素直に嬉し 孫からハガキ」

  「気がつけば じいちゃん呼ばれる 歳になり 後なき半生 いかに生きるか」

  「カマキリや バッタが好きな 孫だけに 自分の主張 忘れず書いて」

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shin-1さんの日記

○久しぶりのしまなみ海道

 朝晩と日中の温度差が気になり始めました。温度の変化に敏感な妻は朝晩の涼しさに対応して、早々と薄めの布団を掛けて寝ていますが、今朝は朝起きるとその布団が私の上にも掛けられていました。夫婦同床は夫婦円満の秘訣といわれていますが、夫婦喧嘩をして別々に寝た何日かを除いて結婚以来36年間、私たち夫婦は夫婦同床を実行ているのです。人生の3分の1を眠っているのですが、その無意識な時間こそ夫婦が一緒の床に入り身体を寄せ合って体温を感じるようにすることは意味があると思うのです。

 私と同じ八幡浜から妻を娶り、子どもの数も4人と同じ広島県瀬戸田の金本さんから講演の依頼を受けてしまなみ海道沿いにある因島と瀬戸田を訪ねました。因島市も瀬戸田町も平成の大合併で対岸の尾道市と合併し人口15万人のまちが誕生しています。私が瀬戸田を訪ねたのは合併前でしたから、因島も瀬戸田も合併後初の訪問となりました。それでも合併前に知り合っていた顔なじみの何人かは気軽の声を掛けていただき、名前と顔が一致しないものの嬉しいい出会いのご縁を深めることができました。

 昨日は金本さんの配慮でダブルヘッターでした。朝家を10時ごろ出てゆっくり瀬戸内の海岸線を走って今治北インターチェンジからしまなみ海道に上がりました。幾つもの橋を渡る度に眼下には瀬戸内の島なみが美しく広がり、特に途中で休憩した瀬戸田パーキングエリアから見る県境をまたいだ橋の美しさは格別な風景でした。持参したカメラがいう事を聞かず写真には撮れず読者に見せることが出来ないのは返す返すも残念です。この辺りは橋が開通した直後みんなで歩きに来た場所であり、あの橋の上をみんなで一緒に歩いた10年前を懐かしく思いながら、いつかまた県境に架かるあの橋の上をまた歩きたいとも思いました。

 因島南インターを降りて、近くの写真屋さんに立ち寄りカメラの不具合を見てもらいましたが、散々いじった挙句「故障です。修理には1万2千円くらいかかります。記念品で貰った大切なものなら別ですが、この程度のカメラなら今はそんなに高くないので修理するよりも安いですが如何ですか」とケチをつけた挙句に売り込みをかけられました。考えて見ますとお礼と断りを述べ店を出ました。

 午後1時30分から因島重井公民館で始まったいきいき講座には予想以上の100人以上がつめかけ大盛況でした。公民館とまちづくりの話がテーマでしたが、あまりその事に特化すると一般住民は専門的過ぎて分らないと思い、急遽話の中身を変えてお話をしましたが、まあ熱心で聞く耳持った反応は凄いものです。

 ここら辺の小学校はまだ運動会が終わっていないのか、直ぐ隣の重井小学校では運動場でマーチングバンドの練習が賑やかに行われていました。

 講演が終わり隣の島ながら再び高速に乗り橋を越えるだけで350円の通行料を払い瀬戸田北インターで下り、ベルカントホールや平山郁夫美術館、耕三寺を横目に見ながらサンセットビーチまで行きました。シーズンを終えた夕暮れ時のビーチは人影もなく散閑とした佇まいを見せていました。散歩する見ず知らずの親子連れと声をかけたり、浜辺をゆっくりと歩きました。長さ800メートルの美しい曲線美を描いた人工砂浜はどこか私の町のシーサイド公園に雰囲気が似ていて、私は何故か瀬戸田へ来る度にこのビーチに足が向くのです。交通量の少ない場所にあるので運営も難しかろうと人の懐を心配するあたり、やはり職場を去って自由人になったとはいえ昔の癖は治らないなあと一人苦笑してしまいました。

 夜の集会はベルカントホールの横にある中央公民館で行われました。顔見知りの方も多くいて、先立って打ち合わせを兼ねた夕食会場には橋本和子さんという司会をする人もご一緒しました。妻の同級生に同姓同名の方がいて、前回出会っているので懐かしくお話しましたが、ご馳走になったオムライスの味は格別でした。

 「はーとふる講座」はやる気満々の女性が主流を占め、「ロマンとは考えを形にする行動力」という、私の「昇る夕日でまちづくり」という自著本から引用したタイトルがつけられていました。90分間の四方山話も実に和気藹々、気がつくと午後9時終了の時間です。ダブルヘッター合せて3時間の話は途中に長めの休憩時間を入れてもらっていたのできつくもなく、無事終わりました。

 夜のしまなみ海道を再び走り11時過ぎにわが家へ到着、2日間香川県に研修旅行に出かけていた妻の思い出話を聞きながら出会った顔々を思い出しながら床につきました。

  「久しぶり あなた痩せたね いう人は 少しふっくら 肥えたね言えず」

  「橋結ぶ 二つの島で それぞれに 思いを話す それぞれ話」

  「十年も 前にこの橋 歩いたな 記憶辿りつ 県境渡りぬ」

  「同姓の 人にダブらせ 会話する 何処か似ている どこか違って」

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shin-1さんの日記

○ありがとう

 先日シーサイド公園で車椅子のおばちゃんがトイレへ行こうとしていました。この公園は私が発案して私が中心になって造った公園です。造った頃は造る事に夢中で、まだバリアフリーなんてことは意識しない時代背景もあって、車椅子の身障者対応を設計者から提案された時も、そのスペースがあるのなら団体対応の便器が三つも増やせると思ったほどでした。でも設計者は将来を見越し設計者のプライドをこともあろうに発注者に押し付けたのです。結果的には設計者の予言が当りましたが、身障者対応はトイレのみでそこここには段差が多く、後に急ごしらえでスロープをつけるなど、不自然な姿を今もさらけていて、今は汗顔の思いなのです。

 車椅子のおばあちゃんは窮屈そうにトイレへ向って進んでいましたが、僅か1センチにも満たない段差に車椅子の車輪を引っ掛けストップです。私は縁もゆかりもないけれど車椅子の後ろから「押させてください」と声をかけ、トイレまで押してあげました。思わずおばあちゃんは私の手を握り「ありがとう」と言ってくれました。

 昨晩外出先から帰り夕食を済ませて妻と二人で風呂に入りました。二人の入浴は別に怪しくも卑しくもない結婚以来変わらない見慣れた暮しです。私は毎日頭をシャンプーで洗います。短い頭のためドライヤーなど使ったこともないほど簡単な頭の手入れです。私が頭を洗っていると妻がどういう風の吹き回しか湯桶で頭にお湯を掛けて洗ってくれました。ザブン・ザブン・ザブンと3回も掛けてくれました。私は妻に「ありがとう」と言いました。

 私たち夫婦は一yその布団に寝ます。二人が同じ布団に寝ることは別に怪しくも卑しくもない結婚以来変わらない見慣れた暮しです。妻は夏の疲れが溜っているのか肩や足にサロンパスを貼ろうとしていました。私が「肩を揉んでやる」といって、肩や背中を整体に行った時の要領で揉んでやりました。10分も揉んだでしょうか、妻が「ありがとう。随分楽になったわ。お父さんが私を揉んでくれるなんて明日は雨でも降らなければいいが」と、少し皮肉を言われましたが、「ありがとう」と言って眠りにつきました。

 おばあちゃんの「ありがとう」も、妻の「ありがとう」も何気ない言葉のようですが、心に爽やかな風が吹いたような感じがしました。毎日のように起きる事件事故の危ない時代に生きていると、人を見たら危険や泥棒と思う人間不信の世の中でも、こうして少しばかりの奉仕や感謝の気持ちを持ったなら、世の中は随分暮らしやすくなるものだと思いました。今朝は毎日の日課である親父の腰にサロンパスを貼りましたが、親父が「ありあとう」と言ってくれました。夫婦でも親子でも「ありがとう」はいいものです。

  「ありがとう 五つひらがな 言う度に 心爽やか そよ風吹いて」

  「未熟者 だったと反省 車椅子 押して気がつく 段差多さに」

  「この体 俺を支えて 三十年 揉んでやりたい そんな気持ちに」

  「ありがとう 何遍言って 来ただろう これから先も 感謝の道を」


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shin-1さんの日記

○送られて来た一冊の本

 真夏の太陽がギラギラと照りつける今年の夏7月24日、私は株式会社いろどりの横石副社長さんに頼まれて、今をときめく徳島県上勝町へ講演に出かけました。まちづくりの世界で葉っぱの上勝を知らない者はもぐりといわれるほど有名な町なのです。今はお互いに「知ちゃん」「進ちゃん」と呼び合う間柄なのですが、彼と私の関係はそんなに古いものではないのです。

 昨年2月24日に松山市道後のメルパルクで開かれたまちづくりサロンの打ち合わせを兼ねた顔見世が高知県馬路村であり、朝日新聞の砂場さんたちと乗り込みました。馬路村の東谷組合長さんとは出会いもありましたが深いご縁をいただいたのはこの時でした。そして「地域の自立とは何か」というテーマで開いたシンポジウムは、仕掛けたえひめ地域政策研究センター清水研究員も驚くほどの注目を集め、機関紙舞たうんなどでも度々紹介されてきたのです。

 7月24日の上勝町での講演窓口になってくれたのが株式会社いろどりの上野あやさんでした。彼女は東京の大学を卒業した才媛でとにかくかゆい所に手が届くような気配りのできる女性です。講演が終わった後も今も小まめな配慮や手紙が届き、今では上野あやさんのファンになっているのです。

 その上野あやさんからラブレター?が届きました。開けてみると一冊の本が出て来ました。

 そうだ、葉っぱを売ろう!。過疎の町、どん底からの再生。ニューズウイーク日本版「世界を変える社会起業家100人に選ばれた男の壮絶な生き様!。おばあちゃんが、葉っぱを売って1000万円!?。地方再生、老人福祉、事業改革など成功のヒントが満載!。マスコミで大反響!徳島の小さな町の軌跡が遂に書籍化。などの文字が表紙に躍っているのです。ページを開けてみると、

 男は朝っぱら大酒をあおり、女は影で他人をそしり日々を過ごすどん底の田舎町、この町でよそ者扱いされた青年が、町民の大反発を買ったことから始まった再生ストーリー、今では70代、80代のおばあちゃんたちが売上高2億6000万円のビジネスを支え、人口の2倍もの視察者が訪れる注目の町に変貌した。著者が二十数年をかけて成し遂げた命がけの蘇生術の全貌が明らかになる!と書かれています。

 裏表紙には横石知二さんの略歴が記されています。

 1958年徳島市生まれ、79年徳島県農業大学校園芸科卒業、上勝町農協に営農指導員として入社、86年つまもの商品「彩」を開発、販売、91年特産品開発室長、96年上勝町役場産業課に転籍、99年第三セクター「株式会社いろどり」取締役、2005年同社代表取締役副社長、02年アントレプレナー・オブザイヤー日本大会特別賞受賞、03年日本ソフト化大賞受賞、07年地域活性化担当大臣から「地域活性化伝道師」に、経済産業大臣から「地域中小企業サポーター」に、内閣官房および経済産業省から「地域産業おこしに燃える人」に、ニューズウィーク日本版「世界を変える社会起業家100人」に選ばれる。

 中身はお金を出して買って読んで下さい。

 それにしても農協と役場の違いこそあれ、あるいは夕日と葉っぱこそ違え、私とよく似た経歴の持ち主であることに気がつきました。私は横石さんのことを「葉っぱで金儲けするなんてまるで狐か狸の世界だ」と茶化せば、横石さんは「夕日なんて何処にでもあるのに自分のものだ何てひど過ぎる」とお互い酒の肴にして大笑いです。世の中面白いですね。

  「世の中にゃ 俺とよく似た 人がいる 夕日と葉っぱ 品こそ違え」

  「憧れの 人から本の プレゼント なるほど彼女 狐の親戚」

  「どの人も 苦労あるから 今がある 何度も壁に その度起きて」

  「思い出す 上勝町の 夜のこと 楽しかったね 元気だろうか」

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shin-1さんの日記

○カメラの調子が悪くて

 4年半前教育長を拝命し、地域振興課長を最後に33年勤務の役場へ辞表を提出した時、役場の後輩たちが退職記念にと餞別にくれたデジカメは、教育長退職後も活躍して私の手足になっていましたが、4年半も経つのに未だに使いこなせることが出来ず、先日ふとしたことからいじっていると調子が悪くなり、写った写真が白くなるのです。お陰で先日の高知県春野町の写真は取り込むことが出来ませんでした。今日も人間牧場の草刈りに持参し、仕事休みにいじっては見たのですが思わしくなく、聞く人もないままついに日没時間切れです。取扱説明書を出して読むのですがこれが中々分らず、明日からの広島県尾道行きの仕事のお供もおぼつかなく、少し気が重い状態です。何せこのカメラを手に入れてから4年半の教育長在任中は殆ど使わず、退職後も息子がセットしてくれたまま撮影し、言われたままに画像を取り込んだり消したりしているだけに過ぎないのです。ここに来てメカに弱いメッキがはがれそうなのです。

 いじり回してテスト撮影しては消し、また撮影するといった動作で、我が家の回りの様子を試し撮りしてみました。最初に写したのはわが家のわが書斎です。書斎の中から写すことはありましたが、外から写したのは初めてです。

 続いて裏の道から周辺の全景を撮ってみました。稲刈りは8月下旬に済んで、稲の彦生えがまるで田植えが済んだ初夏のように緑を保っています。友人の家も完成し先日入居したようです。

 ところが今朝から近所で家を取壊す音が聞こえ始めました。ご主人も奥さんもあいついで亡くなり、3人の娘さんも嫁いでいることから空き家となっていました。残念ながら人手に渡ったのでしょう。家を建てるのは景気がいいが、空き家や取り壊しは何処か寂しい気がします。特に同じく組内で酒も飲んだりした間柄だっただけに複雑な気持ちです。

 家の上の小高いところから見ていると日没時間が近づきました。妻が民生委員の役員旅行で高松へ行っており、車を役場裏に止めているので取りに行かねばならないので、思い切ってシーサイドへ出かけました。いいアングルの夕日が今まさに沈まんとする絶好のシャッターチャンスとばかりに2~3枚、カメラの調子が今一ながら狙ってみました。



 先日始まった【自悠くらぶ】の執筆記事に添付したような綺麗な写真ではありませんが、何とかカメラがいう事を聞いてくれたようです。こんな時佐賀関の渡邊さんでもいたらいじってくれるのにと、ふと思い出しました。それも適わず、明日は広島県尾道市へ出掛けます。

  「いう事を 聞いてくれない カメラ持ち じれったいたら ありゃしない」

  「仕方なく いじくり回し この程度 回復兆し 薬も効かず」

  「カメラ向け わが家界隈 変化あり 時の流れを 偶然写す」

  「雲切れて 覗く夕日が 穴に入り シャッターチャンス ものの見事に」

 

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shin-1さんの日記

○10代の若者を理解するヒント

 平成生まれの若者が世の中に出て働き始めました。昭和生まれの私たちが若い頃、大正や明治生まれの人を見て随分古い時代の人だと思ったように、平成生まれの若者から見れば昭和生まれの、しかも戦前・戦中・戦後なんて言葉さえ知らない若者に私のような昭和19年生まれのおじさんなど、まるで骨董品にしか見えないのかも知れないのです。そんな私が今大学で彼らより2~4歳年を食ってる若者を前に教えなければならないのですから容易なことではありません。しかし世の中は否応なしに動き、間もなく彼らは新入社員として社会に出て働き、生産や消費の担い手として十年後の日本を背負う世代なのです。次世代の若者の特長や動向を知っておくことはマーケティングやマネージメントに関わらず、社会を作り上げてゆく上で非常に大切なことだと思うし、いくら「今の若者は」といって拒絶してみたところで、何の特効薬にもならないのです。

 最近の若者を見てコミュニケーションが下手だとよく言われますが、会って話すとそんなことは全然ありません。中にはそんな子もいるもののコミュニケーションは上手いと思います。それは多分彼らが小中学校の頃から友だちより大切な友だちとして持ち歩いている携帯電話の影響ではないかと思うのです。私たちの時代の友だち付き合いといえば目や声の届く範囲でした。ところが今の若者は驚くほど広範囲な仲間と付き合い多くの情報を仕入れ、目に見えるメールという手法や声でコミュニケーションしあっています。特にメールを通して相手がどんな事を欲しているかということを瞬時に判断出来る能力が身についているように思います。幼稚だった私たちの10代とは比べものにならないのです。ただしメールのやり取りは、対面でないバーチャルの世界なので相手に不快感を与えてもメールを切ればそれで嫌な人間関係に終止符が打てる冷たい部分もあるようです。

 インターネットの影響も見逃す訳にはいけません。自分の知らないものを知りたいというのは若者の特権です。インターネット上には大人の情報が山ほど溢れ、検索能力さえあれば大人以上に大人の情報に近づけるのですから、これはもうお手上げです。情報という知識が処理できないままで独り歩きするのです。時にはそのことが引き金になって犯罪に巻き込まれることだってあるし、親の知らない誘惑の世界が広がっているのです。

 もう一つ今の若者の影響で大きいのは漫画だと思います。私はこの10年間どんな漫画を見てきたのだろうと振り返ってみると記憶にないのですが、この10年間漫画喫茶は驚くほどの繁盛ぶりを示していますし、ベストセラーになっている漫画だってあるのです。そういえば息子の部屋に「島耕作シリーズ」の漫画本がいっぱい置いてありました。かくいう私は今漫画と書いていますが、若者は丸文字でマンガ本と書くのです。私は古いです。

 でも今の若者と話していると中々本音を見せないというのが正直な感想です。私の周りにいた自分の子どもという10代の若者も20代後半から30代前半になり、10代を学習するきっかけがなくなりました。もう少し10代の若者たちと出会って学習させてもらいたいと思っています。

  「美しき 十代なんて 歌があり 昔その気で 歌ったもんだ」

  「若者は 携帯電話 漫画本 二つの親が 教えて育つ」

  「えっ?昭和 昔明治?と 聞いた時 古いと思う 同じ思われ」

  「十代に 挨拶したら 変な人 そんな目つきで 通りすがられ」


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