shin-1さんの日記

○久しぶりに人間牧場で寝ました

 昨日、「第2回ソーシャルアクションスクールin四国」という10人ほどの小さな集会が人間牧場で開かれました。松山駅前を出発した一行はシーサイド公園を中継して2時過ぎに人間牧場へやって来ました。私の話を中心に対話形式で私をしゃぶり尽くそうという企てのようですが、公務員、民間、学生など様々な異業種の人の集まりなので私も楽しみに出かけました。

 この日は今年の秋一番の冷え込みで、北西の季節風がかなり強く吹くあいにくの天気でしたが、遠望も利いてまあ寒さを辛抱すればまずまずといったところでした。私は午前中孫朋樹を連れて人間牧場へ行き、お客を迎えるための準備をしました。水平線の家の掃除機かけ、ロケ風呂の拭き掃除、ロケ風呂周辺の草引きを一通りこなし、風呂にお湯を張りました。皆さんが風呂に入るのは9時過ぎですが、先日タンク設置工事を行ったばかりなので、水やお湯の出具合を確かめたかったのです。お湯も順調に出てタンクへの流入も順調なことを確かめて、孫を家へ連れて帰るため一旦下山しました。

 急いで昼食を済ませ毛布や資料などをトラックに積み、再び人間牧場へ向いました。一行は少し遅れての到着となりましたが、早速私の話が始まりました。まちづくりや人づくりに興味のある人ばかりですが、私の話を聞かれた人もいるので、私のこの2年半の話をプロローグとして、今まで比較的話していないような事を中心に話し、その後聞きたい話を質問のような形で回して行きました。「時間はたっぷりあるので」と主催者代表の山本さんから言われていたので、夜の会への導入のつもりでお話しました。


 夕方になるとかなり冷え込んできたようなので、暖を取るためことしの秋になって初めてストーブを焚きました。多分深夜はもっと冷えるだろうと、囲炉裏の座蓋を取って火を入れ、先日大洲青少年交流の家の田中課長さんからいただいた炭を入れました。赤々と燃えるストーブも囲炉裏も人の心をほのぼのとさせてくれました。囲炉裏を囲んだ座談会は飲むほどに酔うほどに熱を帯び、夢や思いを大いに語り合いました。特に大学生の存在も大きかったようです。

 明くる日に長崎への出張を控えているため私は11時過ぎに話の輪からはずれ、その日のノルマであるハガキを3枚書きました。1枚目は先日お世話になった株式会社システムブレーンの斉藤純一さん、2枚目は少し遅くなりましたが今治造船労働組合の南盛由さん、3枚目は先日松山全日空出の講演を聞いた熊本県の飯田真志子さんにです。人間牧場でハガキを書くこともそんなにはなかろうと、思いをめぐらせて書きました。12時になって時計の針が明日が今日になったのを見計って私のとっておきの個室に入り夢の世界へ旅立ちましたが、酒に酔った若者たちはさすがにいびきがひどく、何度となく起されましたが、4時過ぎからは小さな灯りを便りに読書にふけり、6時前に起床しました。



 

  「牧場で 夜を徹して 話する 何時の間にやら 若い人たち」

  「掃除して 風呂を沸かして もてなしを 何時の間にやら 旅籠の主」

  「山道を 一人散歩の 見慣れ人 何時の間にやら 歳を重ねて」

  「黎明に 浮かび上がるや 沖の島 何時の間にやら 夏から秋へ」


 

黎明の人間牧場界隈は前回泊まった夏とはすっかり趣を変えていました。強く吹いていた風も夜のうちに止み、秋祭りを二日後に控えた漁船が沢山エンジン音を響かせて沖を目指していました。陸風が海風に変わる7時半には全員で大掃除をして解散し県内のあちこちへ散って行きました。私はトイレの掃除と風呂の抜き取りなどを終え、昨夜風呂の水をためるタンクが空になった原因を調べるため、水元へ出かけました。地主さんの都合で水抜きが行われたようで、取水口より水面が下になっていて、故障でないことが分ってホッとしたのです。今週の土曜日には子どもたちが芋掘りのため再び人間牧場へ上がってくるので地主さんにお願いして水をためてもらうようにしたいと思っています。

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shin-1さんの日記

○あるセールスマンの嘆き

 今日私の家へひとりのセールスマンがひょっこりやって来ました。見るからに実直なこのセールスマンと知り合ったのは、私が教育委員会で社会教育をしていた頃ですからもうかれこれ30年も前のことです。彼は出版会社のセールスマンをしていましたが、一念発起独立して教育教材を売る仕事を始めたのです。それ以来4人の子持ちである私の所へやって来て、児童文学全集のような本を私に勧めました。私も子どもにとって本は大切だと思ったので、彼から本を買い求め、毎月5千円程度のお金で随分本を子どもに買い与えました。子どもたちの本好きなのはそのせいかも知れないと一人思うのです。その後私は産業課、企画調整室、地域振興課と移ったため彼との出会いも次第に遠のいていましたが、私が教育長になって再び出会い始めましたが、教育の激しい変化の中で彼とは取引をすることもなく、私は退職したのです。

 「ちょっと気になって立ち寄りました」といいつつ、玄関で立ち話のような形でお話をしました。彼の話を要約すると、「時代が変わった」「教育教材を持って家庭訪問すると変な人に間違われ全く相手にされない」「成績が上がらないから夫婦の間に不協和音が聞こえる」「65歳になった昨年から国民年金を貰っているが、食うことさえ厳しい」「将来が不安だ」「あんたが羨ましい」など等でした。

 私は、「2年半前に退職して今は自由人になった」「大学へ教えに行ったり全国行脚して楽しく暮らしている」「人間牧場を作り多くの人と交流している」「飯が食えたらいい」「後22年しか生きない予定」など等近況を伝えました。確かに彼の言う通り私の生き方は自由奔放で楽しいものです。またこれから生きるであろう後22年の人生もそんなに不安はありません。ないというよりあってもそれを笑い飛ばして行くだけのしたたかさを持ち合わせて生きようと努力しているのです。

「あんたが羨ましい」と言うように、人の一生は人との比較をし始めるときりがありません。世の中にはお金を沢山貯えて生きている人も、定年後に天下りして悠々暮している人も沢山います。でもそんな人全てが幸せかといえばそうではなく、むしろ程々な生き方をしている私の方が幸せかも知れないのです。

 靴を何足も履き潰すほどセールスに明け暮れた彼がポツリ、「65歳からが本当の人生なのに、夫婦でののしり合い、年金の安さにあたふたしている自分の姿がつくづく嫌になります。私は人生の生活設計を間違っていました」と本音を漏らしました。

 今の若い人の生き方を見ていると年金も払わず、今がよければそれでいいという考えで生きている人が以外と多いような気がしてなりません。このセールスマンのように必死に生きても老後は何かと不安なものなのです。幸い私は金融広報委員会のアドバイザーをしています。講演会や研修会で生活設計の必要性を説いてきましたが、これからも及ばずながらいい人生を組み立てるサポーターの役割を果たすよう努力したいと思っています。

  「人生を さげすみ生きる 人がいる 胸張りゃ少し 元気出るのに」

  「何足も 靴履き潰す 働きも 蓄えもなく やがて終わるか」

  「結局は 何しに来たか 俺の家 同情するが 役にも立たず」

  「まだ先は 長いと思い 前向きに 生きなさいよと 励まし別る」

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shin-1さんの日記

○叔父と叔母を訪ねる

 私には叔父と叔母が沢山います。当然その子どもたちは全て従兄弟ですから、その親族となると顔と名前が一致しないほどいます。子どもの頃正月かるたにあった「(り)律儀者の子沢山」という手合いでしょう。ところが一番年上の親父が90歳ですから、親父の兄弟姉妹はみんな高齢になったり高齢になりつつあるのです。母方の叔父や叔母10人は既に亡くなっていますが、父方にはまだ15人も叔父や叔母が健在なのです。

 昨日の朝、親父が兄弟の夢を見たから近況が知りたいというので松前町に住む叔父と叔母の家を訪ねました。妻は手土産に双海町のみかんを一箱づつ用意をしてくれましたので少しの野菜も添えようと、ナスと蕪菜と里芋を持参して出かけました。

 まず叔母の家に伺いました。叔母の旦那は書道が得意です。私が今回小さな本を出版するので、その本の表紙を飾る墨字を書いて貰うべく頼んでいたのが出来たと、電話連絡を受けていたことも好都合でした。叔母は床に伏せっていました。母の七回忌法要の前日救急車で病院に入り、入院していた分少し体力が落ちているようにも感じましたが、それでも回復の兆しが見えて一安心しました。墨字の書は既に出来上がっていて何枚かいただきおいとましました。

 次に叔父の家を訪ねました。折からどしゃ降りの雨が降り出し車から降りるだけで多少濡れましたが、叔父の家の玄関に入りチャイムを鳴らすのですが反応がありません。中ではテレビの声が聞こえているのにです。勝手知ったる家なので玄関から声を掛けて中に入ると、電気もつけない薄暗い居間で叔父はテレビを見ていました。私の時ならぬ侵入に驚いた様子でしたが、私と分ってか細い手を差し伸べてきました。老衰と認知が少し垣間見えました。丁度叔母が外出先から帰って来た所に出くわし、四方山話をしました。叔母の話によると叔父の様子も一進一退で、叔父の世話も中々大変だと、これからの暮しの不安を話していました。あれ程凛としていた叔父がこんなになるのかと、改めて老いの寂しさを思いました。叔父の家は小さな鉄工業を営んでいます。先日叔父の息子に人間牧場の風呂用の水タンクをステンレスで作ってもらったので、お礼にビールを一箱添えて差し出しおいとましました。

 私たちが子どもの頃は、秋祭りも行き来があって盛んに交流していましたが、今はそのような交流も途絶えてしまいました。帰宅して親父に叔父や叔母の消息を詳しく話してやりましたが、安堵したようでした。その親父も来月には白内障の手術を控えています。身近な所で身近な人が老いて行く、当然の成り行きながら少し寂しさを感じる一日でした。妻は「深夜や早朝に電話があるとハッとする」そうです。叔父や叔母が何かあっても不思議でない年齢を迎えているからです。折りしも昨夜から今年の秋一番の冷え込みで北西の季節風が吹き始めました。風が心に染みます。

  「叔母叔父の 老いを見舞いに 訪問す 涙流して 喜んでくれ」

  「あれ程に 元気矍鑠 叔父や叔母 見る影もなく 老いて寂しや」

  「暗き部屋 水戸黄門が 映ってる 何処も同じだ 今頃父も」

  「寒さ増し 早くも親父 冬支度 寒さ暑さも 老いには厳し」

  

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shin-1さんの日記

○夕刊です

 「夕刊でーす」と思わず新聞少年から手渡しで頂くような、10月13日付け朝日新聞夕刊が昨日届きました。私たちの町は田舎ですから夕刊など来る筈がないのですが、新聞の編集に携わった寺脇毅さんから丁寧にも掲載紙に添えて写真が二枚送られて来たのです。封を切って中から新聞を取り出すと、プーンと真新しいインクの匂いが漂って、思わず開けた一面に下灘駅の夕景が色鮮やかに載っているのです。若いカップルが二組シルエットに写し出され、豊田漁港の灯台辺りに夕日が沈もうとしている一瞬はまさに絵になる光景です。

 2面にはスタンプ印風の「ぶらっと沿線紀行」という丸いイラストが目につき、24JR予讃線下灘駅、「何もない。すべてがある。」という大見出しの下に、三枚の組写真が貼り付けてありました。一枚は本谷の棚田辺りを走るマッチ箱のような一両列車、一枚は酔芙蓉の咲く石久保辺りの高台を走る列車が写っていました。そしてもう一枚は孫朋樹と私が人間牧場の水平線の家でくつろぐ様子が写っているのです。

 文章中にこんな記事がありました。



 ―前略― 「旧双海町職員だった若松進一さん(63)は「今年も多くの人の出会いの場になった」と喜んだ。

1979(昭和54)年、地元の青年団長でもあった若松さんは、行き詰っていた。伊予灘と四国山地に挟まれた双海町は、漁業のほか、棚田の米作やミカン栽培が主な産業。観光名所もない。毎晩のように仲間たちとまちづくり談義をたたかわせたが、妙案はなかった。

 そんな時、NHKの番組「明るい農村、の取材が入った。ディレクターは下灘駅まで一駅乗り越してしまった。迎えに行くと、丁度夕暮れ時。相手がつぶやいた。「こんなきれいな夕日は見たことがない」

 あたりまえだと思っていた夕日が訪れる人を感動させる―。その驚きがスタートだった。「なぜ夕日なのか、100人中99人に反対された」。ならば、と青年団でプラットホームコンサートを企画した。

 そのころ、予讃線は内陸を短絡する新線の建設が進んでおり、「海岸回りは廃線にある」といううわさが飛び交っていた。駅を舞台に選んだのは、鉄路を守るためでもあった。

 6月30日。コンサートは、1千人もの観客が足を運んだ。幹部は驚いた。以後、次々採用される。95年には世界の夕日を紹介する「夕日のミュージアム」をもつ「ふたみシーサイド公園」を建設、年間55万人が訪れる。「夕やけこやけライン」と命名した国道は、ドライブの名所になった。

 住民たちも思い思いの草花を沿線に植え始めた。漁師の金山洋一さん(58)は下灘駅の南西の山腹にある約3千平方㍍の段々畑に約10万株のスイセンを育てている。身頃を迎えると眼下の海との対比が美しい―中略―

 教育長を最後に行政から離れた若松さんは今、母親が残した旧ミカン畑に「人間牧場」と名付けた無料の宿泊・休息施設を運営する。口コミで月に20人ほどが訪れる。

 「海と空が見える以外は何もない。だから心の中を無にできるし、ほっとできる。自分や町の将来について考えをめぐらせるには、この場所がぴったり合うと思うんです」

 双海町は05年に伊予市と合併し、歴史を閉じた。若松さんのつむぐ物語も、新しい章に入ったようだ。」

                                                   文 藤橋 一也

                                                  写真 寺脇  毅

 この文章を読むと、大見出しの「何もない。すべてがある。」の意味がよく分ります。お二人の取材で訴えたかった私の心のメッセージはこの大見出しに凝縮されていて、さすが朝日新聞の記者だと敬意を表したいと思います。いつも言うことですが、夕日の町を朝日新聞が紹介するチグハグさも面白いですね。

 追伸

 朝日新聞広島総局駐在カメラパーソンの寺脇さんは取材のため人間牧場へやって来ましたが、タクシーとはいいながら迷うことなく人間牧場へ来たのですから「偉い」の一言です。運良く何のアポイントもなしに私と孫が人間牧場へ行っていた幸運も、たった一回で一面を飾る下灘駅の夕景を写真に撮れるなんて神業ですね。

  「送られし 夕刊届き しみじみと 記者の偉さに 私脱帽」

  「記事を読み 昔のことが 懐かしく あれやこれやの 思いが浮かぶ」

  「そういえば 音楽祭が 出世作 あれがなければ 俺は唯人」

  「新聞を 読んだと訪ね メール来る 凄い反響 和歌山からも」

        

              

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shin-1さんの日記

○秋の夕焼け鎌を研げ

 秋も深まってあちらこちらから秋祭りの賑やかな話題が届くようになりました。特に東予地方は西条のだんじり、新居浜の太鼓台など優美や豪快が売り物の祭りが多く、一二度しか見学したことはありませんが、感動して見たものです。機会を見つけてまだ見たことないという妻を連れて行きたいと思っています。

 私たちの地方では自然とともに生きるような第一次産業を仕事にしている人が多く、昔から天気を予測することが大事だったことから様々な気象に関する言い伝えが残っています。例えば「秋の夕焼け鎌を研げ」です。秋の「夕空が夕焼けになると明くる日の天気は請け合いだから、鎌を研いで明日の仕事に備えよ」というのです。いかにも長閑な時代でした。気象衛星ひまわりなどなかったのですから、天気を良く見れる人は地域で重宝がられ、私たちも子どもの頃、運動会や遠足になると日和見のよいおじいさんに、「明日の天気はどうですか」と聞きにいったものです。ところがそのおじいさんが「明日は雨かも知れん」と言おうものなら、てっきりこのおじいさんが天気をあやつっていると勘違いして、そのおじいさんの悪口を言ったり、たまに当りはずれがあるともう二束三文に言ったものです。今にして思えば悪い事をしたものです。日和見的と人の顔色を伺って行動する人を言いますが、面白い表現です。子ども時代に下駄を投げて日和を予測したのも懐かしい思い出です。

 ところが「秋の夕焼け鎌を研げ」と反対に、同じ夕焼けでも「夏の夕焼け川向こう渡るな」と言います。つまり夏の夕焼けは当てにならないほど局地的に大雨が降り、馬の背を分けるのです。

 私の家は代々漁師です。子どもの頃から様々な天気に関する諺を聞きながら育ってきました。「八島や平郡島に雲がかかると大やまぜ(南風)」「お日様が高入りすると雨が近い」「雲が出れば雨、雲が入れば晴れ」など、いずれも長年の暮らしの中から生まれたものだけに、今でも通用する諺が多いのです。かつて夕日のミュージアムを造る時、気象に関する諺を古老からの聞き取りで調査したことがあります。その当時160を越えてありましたが、あの時の資料が役場の倉庫に眠っていると思われるので、一度担当者にお願いして見せてもらいたいと思っています。

 私たちの暮しに欠かせない気象ですが、【自悠くらぶ】の〈感〉コーナーに清水さんが気象予報士として記事を書いていますので、じっくり勉強させてもらいます。



 一昨日は愛媛大学の学生が双海町にやって来ましたが、自慢の夕日を見ることもなく帰って行きました。片づけが終り支払いを済ませてわが家へ帰る頃、背中に夕焼けを感じたため急いでわが家へ帰ってデジカメを持ち出し、シーサイド公園へ行きました。期待したような夕焼けではありませんでしたが、それでも西の空の夕焼けがとても綺麗に見え、大勢の夕日ファンが見とれていました。

 早速写真をパソコンに取り込んで、ハガキを作りました。オリジナルな絵ハガキもどうにか出来るようになって、毎日三枚のハガキも書くのが楽しみです。でもこのところ到着する私宛のハガキが多過ぎて、少々ストック気味で馬力を掛けないと追いかけられそうです。



  「昔人 秋の夕焼け 鎌研げと 上手い表現 きつい労働」

  「明日天気 下駄を投げては 遊んでた 下駄割り親に 叱られべそを」

  「今が旬 双海の夕日は 日本一 俺の自慢が またまた始まる」

  「シルエット 夕日に向かい 恋語る ほのぼのとして そちらに目やる」 

 
(絵ハガキに採用した写真です)

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shin-1さんの日記

○フィールドワークで学生散策

 今治市・伊予市・西予市と巡ってきたフィールドワークの現地視察研修もいよいよ特別地区の双海町で最後となりました。県内外から集まり愛媛大学総合政策学科で学ぶ24人の学生が今日は双海町へやって来ました。本来なら大学まで出迎え大学まで見送るのですが、一昨日奈良へ出張していて忙しかったため、班長の谷川君に全権を委任して、手配した送迎バスで来てもらう事にしました。心配になって谷川君に早朝携帯を入れましたが、連絡のあった欠席者を除いて全員バスに乗って出発したと連絡が入りました。

 私は彼らがやって来る間に役場でパンフレットを貰い、政策研修センターの清水さんと間近に迫ったカリスマ塾の印刷物について打ち合わせをしました。原稿の締め切りも近づき尻に火がついた感じです。それでも朝早くから私の日程に合わせて双海町までやって来てくれるのですから、お礼の言葉もありません。

 学生たちの中にはこの夏シーサイド公園へ泳ぎに来ている人もいるのですが、この町のことは殆ど知らない様子で、所長さんにお願いして夕日のミュージアムでの研修となりました。短い1時間弱の時間に双海のまちづくりを語ることは出来ないので、シーサイド公園に絞って話をしました。

 一通りこれまでの経過を説明した後、私のサービスした夕焼けソフトクリームを食べながら戸外に出てシーサイド公園を散策しました。


 この日は天気も良く、空も海も絶好の日和に恵まれ、夏の喧騒を感じさせない静寂なシーサイド公園を見て回りました。酔芙蓉も今が満開と咲き誇っていました。

 一行はマイクロバスに乗って私の人間牧場へ向かいました。畑ではみかんも色づき始めて秋の訪れを肌で感じる中、本道から歩いて森林浴を楽しみながら到着です。学生たちは一様に驚きの声を上げるほど素敵な眺望で、思い思いに束の間の休憩を楽しみました。


 お昼が近くなったので再び元来た道を引き返し、愛媛県内現役木造校舎では一番古いといわれる翠小学校へ出かけました。3日前視察のお願いに行ったのですが、あいにく日曜参観の振り替え休日でお休みとのことでしたが、今朝電話を入れていたので学生の数だけちゃんとするっぱが並べられてあり、さすが客のもてなしの極意を知り尽くしていると思いました。校長先生はじめ給食中にもかかわらず歓待していただき、校長室、和室、教室の順に見せてもらいました。子どもとの穏やかな交流も出来て学生にとっても嬉しい学習が出来たようです。

(車座になって和田校長先生の話を聞きました。

(休職中の教室にまで入れてもらい、子どもたちと交流も出来ました)

 この学校には何処か「学校」という昔の懐かしさが感じられます。学生にとっても自分のふるさとや学校、先生、友人の顔が浮かんだに違いなく、感慨深げでした。

(ギンモクセイの花も一応終わっていましたが、残っている花柄からほのかな香りが感じられました)

 遅くなった昼食を食べながらわが家で楽しい談笑をしました。地産地消とでもいうべき地元の食材を使って妻は沢山の料理を作り、学生も久しぶりの尾ご馳走と感じたのでしょうか、わが家に帰ったようなリラックスした気持ちでのんびりと、そしてワイガヤガヤと交流をしました。家の横にある私設公民館煙会所、海の資料館海舟館、夕日の観覧所という東屋を見学して3時過ぎ、食べ残したものをパックに詰めるしたたかさも見せて、再びバスに乗り大学へ帰って行きました。

 私も学生も忙しく、束の間のフィールドワークの一日でしたが、学生たちの目にこの双海町という町はどう写り、どう評価するのでしょうか。4回のフィールドワークも無事終わりました。その結果は個人レポートとして私の所へ提出される予定です。

  「美味しいね 舌で鼓の 昼飯を 作ってくれた 妻に感謝」

  「学生は 何を食べてる のだろうと 思うくらいに 食べも食べたり」

  「若者が 町を散策 いいもんだ エネルギッシュな 歩きがいいね」

  「ポケットの マネーで買った ソフト食べ 美味しかったと お礼を言われ」

 

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shin-1さんの日記

○桜が咲いた

 今年の夏は例年になく暑く、全国各地から40度を超える猛暑記録が報告され、誰もが地球温暖化を意識したのではないでしょうか。わが家でも九十歳になる親父が「90年間生きてて今年ほど暑かったことは経験がない」と、農作業をしながらの体感温度を説明していました。10月の初旬まで尾を引いていた暑さもさすが各地から秋祭りのニュースが入る頃になるとグッと冷え込み、天気の良い今朝などは放射冷却現象で、「ブルッ」と顔を洗う水も幾分冷たく感じる朝でした。

 遅かった人間牧場のススキもしっかり開いて秋を感じさせているようですが、海岸国道を走っていると、葉っぱが少し色づき始めた桜の枝に、ポツリポツリと桜に花が咲いているのが見えました。季節を勘違いして咲くこれを狂い咲きというのでしょうが、植物の世界でも気象異変は起こっているようで、愛媛新聞の「自悠くらぶ」サイトでも清水さんが松山城の桜の話題を書いていました。

 ふと何日か前に偶然見つけた狂い咲きの桜のことを思い出し、シーサイド公園で人と待ち合わせるまでに時間があったので出かけてみることにしました。場所は伊予市双海町上灘小網、通称通り穴のトンネル近く、国道沿いの緑地帯です。交通量もかなり多く、追い越し禁止が解除になりスピードを上げる場所なので、左右の安全を確認し安全な場所に車を止めて見上げると、満開と見まがう程とまではいえませんがかなりの桜が咲いていました。顔見知りの方が通りかかり、私が頭上目がけてカメラを向けて写真を撮っているものですから、「何をしているのですか?」と怪訝そうに近寄ってきました。次々と4~5人が集まり、ちょっとした季節外れの花見となりました。通りかかった車も減速して危ないのに「何事だ」とわき見運転です。


 

 久しぶりにカメラを提げた私を見て、地元の人は「若松さん痩せたが体大丈夫?」「写真を撮って何に使うん?」「お元気そうで何よりです」「お互い歳をとりましたなあ」など等会話も弾んで、待ち合わせの時間にあいにく遅れそうになりました。「先を急ぎますので」と言葉を遮り車に乗り込みましたが、とんだハプニングの花見となってしまいました。それにしても見事な桜の狂い咲きで、今年は春と秋に桜の花見が出来て幸せでした。

 しかし、立ち話したある人が「狂い咲きは異変だからこの反動はどこかで出てくる」というのです。確かに自然の変化が今年は異常といえば異常でした。10月になっても残暑が衰えず30度を越えたのも異常です。このままでは青森でみかんが栽培出来るのではないかという人さえいるほどです。極早生みかんの最盛期なのですが夜温が下がらずみかんの色づきが悪いという話も聞きました。人間が便利さを追求し過ぎた付けは、こうして自然の変化にも微妙に絡んでいるのでしょうが、凡人の私には知る由もありません。環境に警鐘を鳴らし活動を続けているアメリカのゴアさんがノーベル平和賞を受賞するそうです。アメリカの副大統領として強いアメリカの片棒を担いで環境を壊した人が今度は環境を守るという何とも皮肉なめぐり合わせです。でも今からでも遅くはない、私たち一人一人が環境について考え行動しなければ、本当に手遅れになるのかも知れませんね。

  「暑かった 今年の夏を 感じたか 桜狂って 二度目の開花」

  「青空に 無数の桜 綺麗だね でも変思う みんなも思う」

  「この桜 来年春は 咲くかしら 思い寄せたい 気になる一本」

  「俺の痩せ 姿と桜 重ねたか こもごも感じ 言葉に出さず」

 

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shin-1さんの日記

○旅の思い出

 今回の奈良県への旅で二つの思い出が出来ました。一つは30年ぶりに旧友に会ったことです。その人の名前は谷川さんです。昭和51年に私は総理府派遣第10回青年の船の班長としてアメリカ・メキシコ・ハワイを旅しました。その時に同じく班長として乗船していたのが谷川さんでした。県庁に勤めていた彼はその後課長や次長を歴任して退職後の今は県市町村会の事務局長として活躍しています。班長は30人いましたが、彼はわたぼうしコンサートなど障害者の支援に積極的なボランティアでしたので、、船内でも何かと気の会う二人でした。毎朝狭い甲板を二人でジョギングし、朝食はいつも二人が一番乗りでした。彼は忙しさを理由に出席しなかった私と違って、毎回のように班長会に出席し皆さんの世話をしてきました。したがってこの30年間殆ど出席した谷川さんと殆どではなく1回だけで後の全てを欠席した私とは歯車が噛み合わず、今回の嬉しい出会いとなったのです。

 明日香村の芳山議長さんは県町村議長会の会長です。今回の講演依頼が谷川さんの耳に入り、わざわざ電話をかけてきてくれたし、東京出張中にも関わらず公園終了間際に会場近くまで足を運んでもらって再会となり、加えて谷川さんは天王寺の駅まで私を見送って、食事までご馳走になりました。

 30年の時の流れは私を少し細くし、谷川さんを少し太くしました。私は酒を止めたのに彼は未だにお酒が強そうです。本来なら盃を交わしたいのですがそれも出来ず、再会を約束して別れました。

 もう一つは高松塚古墳、石室解体ごの作業風景を窓越しではありますが見れたことです。1300年前の石室壁画は私たちが最初写真や新聞で見た時ほどの鮮明さはありませんでしたが、それでも日本の歴史を覆すような大きな発見として注目を集めた壁画は何枚かの石に分けられ、仮設修理施設に運ばれて細かい保存に向けた作業が地道に進められているのです。

昭和47年に壁画が発見された当時、私はまだ教育委員会に入って間もない頃でした。古墳全体が特別史跡に指定されその後国宝に指定されたのです。漆喰上に

多数の色彩を用いて四神図を表したものは、現在高松塚古墳とキトラ古墳の二つだけの大変貴重なもので

星宿図、日月像及び四神図、人物群像(女子群像・男子群像)が描かれた壁画古墳は極めて珍しいものなのです。

 旅の目的外でこんな二つの出会いがあるなんて、とても信じられない出来事でした。お陰様で随分充実した旅となりました。私のように日本全国をまるでフーテンの寅さんのように出歩いていると、あちこちを見て歩く余裕もなくついつい目的地と自分の町を往復する単純な旅になりがちです。勿体ないと思いつつ忙しさに追いまくられて旅は終わります。その証拠にいつも持参するデジカメの枚数が減っているようです。また出歩く場所についても事前に調べたり、結果をブログで記録したいと思っています。もう一度初心に帰って色々なものに興味を示したいのですが・・・・・・。私の旅はまだ当分続きそうです。

  「仕事旅 思わぬ出会い ありました 人も史跡も 心に刻む」

  「三十年 時の流れは お互いを 少し変えたか 痩せたり太り」

  「あの笑顔 記憶の彼方 変わらずに 戻りて握手 体温伝う」

  「友が言う 変わらないね 吾もいう 変わらないのは 心の絆」

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shin-1さんの日記

○明日香村へ行きました

 奈良県といえば京都や大阪と並んで関西の中心地に位置していて、近い距離なのに何故か行く機会が少ないいようです。弟が大和郡山に住んでいるので、奈良県は馴染みがあるのにお目出度くらいしか行かないため、いざ奈良県へ行こうとすると、はてどんな行程で行こうか一瞬迷ってしまいました。今回の私の旅は新幹線で大阪まで入り、環状線で天王寺まで出て、阿部野橋から近鉄特急で橿原神宮前まで行き、駅へ迎えに来ていただく事にしました。少し時間があったので一度行ったきりの橿原神宮を散策しましたが、橿原神宮がこんなに立派な神社だったのだろうかと目を疑うほど立派な神社で、朝の静寂と深まり行く秋の玲瓏たる空気が余計神社の威厳を高めているようでした。

(橿原神宮)


 外宮から内宮へと進むにつれて掃除が行き届いて、境内の玉砂利も熊手の目がすっきりと入れられ、踏みしめて歩いていいのか迷うほどでした。賽銭を投げ入れ二礼二拍手一拝して、家庭円満、家内安全、家族健康などを祈りました。神様には殆ど頼んだこともなく、自分頼みでこれまで生きてきましたが、この歳になり子どもが結婚したり孫が出来たりするとやはり神仏のご加護を祈らない訳にはいかないのです。

 お参りや内宮を散策した後、橿原神宮の池に出ました。一周できるようにウッドデッキの橋が架かっていて、池の3分の1には睡蓮が咲いていました。合鴨と野鴨が仲良く羽根を休めて戯れていました。「お散歩ですか」と見知らぬお方に声を掛けられました。元学校の先生というその方は「名刺を交換させて下さい」と一枚の名刺を差し出されました。「少年刑務所面接委員」とありました。私の名刺も「珍しい名刺ですね」と見ず知らずながら30分間も話し込んだのです。その方の奥さんは病院で精密検査をしている最中だとも言われ、その時間に散策してるとのことでした。袖すり合うも何かの縁のようでした。

 システムブレーンの斉藤さん、議長会の菊川課長さんと橿原神宮前で落ち合い、明日香村役場まで行き、芳山議長さんと花井副議長さんを訪ね、昼食までの時間を割いて石舞台古墳や飛鳥飼料館などを見学させてもらいました。凄いという言葉以外に言葉が見つからないくらいの凄さです。全てが国宝級のものばかりで、声も出ないほどでした。ある所にはあるものです。

(有名な石舞台古墳です。古代人はどのようにしてこの石を積み上げたのでしょう。考えただけでもワクワクするような、ロマンに富んだ古墳です。

(古墳の内部は入って見学ができるようになっていて、秋の風と柔らかい日差しが程よく差し込んでいました)

(資料館前庭の復元模型猿石)

(昔の噴水と思われるレプリカの屋外展示)

(500分の1の飛鳥地域の復元模型)

 駆け足で巡った飛鳥資料館でしたが、今度ゆっくりと一日をかけて見学してみたいと思いました。

 さて今回の研修は明日香村と高取町で組織する高市郡議員研修会へのお招きでした。「地域の自立にむけたまちづくり」が主要テーマでしたが、今回はシステムブレーンというプロデュース会社が仲立ちしました。お陰様で打ち合わせもかゆい所に手が届くような気配りで大変助かりました。やはりプロは違うと感じましたが、参加した議員さんや議会事務局の方々も熱心に私の話に耳を傾けていただきました。この2町村ともまだ合併をしていませんが、財政難を理由に国や県の強力な誘導もあるようですが、合併の選択はその地域の人が決めることなので、国内の情勢や合併したところ、しなかったところの見聞きした反応を述べるに留めておきました。合併をするにしてもしないにしても地域の自立は必要だし、その事を考えずに手を出し過ぎた日本の地方自治に猛省して欲しいと思うのです。

  「日本の 歴史が全て ここにある そんな錯覚 明日香を訪ね」

  「日本の 文化を壊す 行政の やり方首を 傾げたくなる」

  「明日香には 調査と称し 東京へ 運べぬ理屈 用意されてる」

  「自立とは 自律のことだ 挨拶す 議長の思い 伝わりました」


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