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〇長男息子家族の引越し

 昨日は4月29日昭和の日でしたが、かねて予定していた通り長男息子家族4人が私たちと同居をするため引越しする日となりました。娘も長男の子ども二人の子守をするため二人の子どもを連れて里帰りしてくれました。サカイという引越し業者さんの都合で息子夫婦が荷物と共にわが家へ帰ってきたのは午後5時近くになっていました。荷物を積んだ大型トラックは入り口が狭いためわが家の敷地内に入ることができないので、下の道を通行止めにして荷物を運ぶのですが、テレビのコマーシャルは見ていたものの、引越しに縁遠い私は引越し荷物を運ぶ様子を目の当たりにするのは初めてなので、そのきびきびした姿に感動しました。

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 大きな家具から小さい玩具や自転車まで大小さまざまな荷物が運び込まれました。まだ台所のシステムキッチン工事が東日本大震災の影響で入らないため、とりあえず台所用品は全て入り口近くの応接間に入れました。冷蔵庫は置く場所がまだ決まっていないので、見苦しいのですが玄関先へ置いているのです。荷物運びは6人の従業員で2時間ほどかかりました。また引越しの条件の中に入っている2台の空調設備の据付も同時進行で行われ、やっと辺りが薄暗くなり始めた午後7時過ぎに荷物の運び込みを終えました。

 引越しのさかいでは10分間サービスというのがあって、引越しをした人の要望に応えて奉仕をしてくれるらしいのです。わが家ではシステムキッチンを入れるため不要になるであろう、食器棚を私たちの部屋へ移動してもらうことにしました。

 そのため私は一昨日の午後食器棚の中の食器類を、モロブタに入れて外の倉庫に仮置きするため取り出して運びました。その数と重量は相当なもので、足や腰に堪えてしまいました。全てを動かしたころ妻が仕事から帰り、驚きながら褒めてくれました。その重い食器棚をいとも簡単に移動してもらった皆さんに感謝しました。

 この一週間私たち夫婦は息子たちの引越しの日に照準を合わせて毎日夜遅くまで押入れやタンスなどから道具類を引っ張り出し、大掃除や整理に明け暮れました。幸いこの一週間ほど私が手伝いをすることができたため、妻の指示に従って、不用品をゴミ袋に入れたり焼却処分にしたり、中には処分できないものは大工さんに処分費用を出して持ち帰っていただきました。その量たるや大変なもので、結婚以来、自宅を新築以来最初にして最大の大掃除・整理整頓大作戦となりました。

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 孫たちはまだマンションを引っ越したことが分からないようで、引越しそばを食べに伊予市のそば吉へ午後8時過ぎに家族で行きましたが、「松山へ帰りたい」とうわ言をいいながら疲れたのか帰りの車の中で眠ってしまい、風呂も入らずに夢の世界へと旅立ちました。

 連休明けからは孫もここから保育所へ通園します。昼間畑の草で頭飾りを作って遊んだり、夏みかんをもいで食べたりと、早くも田舎暮らしモードになっています。腕白でもいい、逞しく育って欲しいと願っています。育爺の役割をこれからじっくり果たしてゆきたいと思っています。


  「待っていた ついにその日が やって来た 息子ら家族 引越し帰る」

  「孫はまだ ここで暮らすと いうことを 知らないらしく 帰る帰ると」

  「田舎ゆえ 田舎の遊び教えたい 孫も喜び イキイキしてる」

  「引越しの 荷物運んだ 人たちが たった10分 奉仕サービス」

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〇大栄の案山子に思わず「ウフッ」

 双海町のあちこちの集落も過疎化と高齢化と少子化が同時に進行し、限界集落と準限界集落がどんどん増えて、このままでは10年後どうなるのだろうと思うと不安でなりまりません。私のように灘町という300戸近くの集落に住んでいてもドーナツ現象で、独居家庭や空き家も目立ってきました。

 私はいつも「今が適正」と思っていますから、適疎、適高齢、適少子だと現状を受け入れているものの、少し知識のある人はやれ「行政や議員、市役所職員は過疎や高齢化や少子化を見て見ぬふりをして、何もしないのはなっとらん」などと、不満の糸口を税金で給料を貰っている人たちに向けているようですが、そういう人は何もせずただ人を批判ばかりして、寂しく一生を終えるのです。私はそうした人を見るにつけ、少し腹立たしさを覚えながら、「それ程言うのならあなたがしたら」と言ってやりたい心境になるし、「あんな人にはなりたくない」と、自分でできることを少しずつ仲間を増やしてやっているのですが、私も時には元役場職員、元教育長という剥がれかけた古いレッテルがあるばかりに、その人たちの批判の対象にされているようです。

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 一昨日旧広田村へ講演に中山回りで行く途中、大栄という集落を通りました。ご多聞に漏れずここも限界集落なのですが、そのさらに奥には「奥大栄」という集落があって、ここはもう廃集落寸前になっているようです。「大栄」の集落を通ると道沿いに突然異様な光景が見えてきました。それは集落内のいたる所に置かれている案山子なのです。案山子といえば秋の実りのころ田圃に立って、雀やカラスの脅しに使うものですが、この集落では何人かが案山子を作って楽しんでいるのです。

 案山子で町おこしをしている話は聞いていたし、何度かこの道を通りましたが、置かれている案山子は暫く見ない間に随分バージョンアップしていました。嬉しくなって広い道沿いに車を止め、失礼ながら車の中から手持ちのデジカメで2~3枚写真を撮らせてもらいました。案山子さんの肖像権があるようでしたら「ごめんなさい」。


 それにしても何処で習ったのか、案山子はどの顔も表情が豊かで、思わず「ウフッ」と顔が緩んでくるようでした。今年は警察のアンダー作戦にもかかわらず交通死亡事故が多発し、非常事態宣言が出る程で、案山子で交通通安全を訴える姿はさすがだと思いました。

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 あちらこちらに置かれている案山子を見て、私はこの集落の人に感心しました。この集落では谷間に鯉幟をあげたり、沿道に花を植えたり色々な自分で出来る地域づくりをしています。先日もこの集落の市会議員さんが中心になって、翠小学校で学校の将来を考える講演会が行われました。色々言う人もいますがやらないでやれないという人よりは、まず一歩踏み出してやることは地域づくりの基本なのです。

 過疎を嘆くより案山子を増やして住民票を与えれば、それこそ人口急増です。そんな開き直ったパロディーが必要なのかも知れません。地域づくりにとって何より大切なのは、やっている人たちが楽しいと思うことなのです。


  「ドライブの 途中道端 案山子たち 交通安全 一役かいて」

  「どんな人 作ったのだろう 思いつつ 案山子に会釈 しながら通る」

  「嬉しいね こんなパロディ 持った地区 地域づくりは こうでなくっちゃ」

  「県警の 本部長さん 物申す 交通安全 案山子表彰」  

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〇旧広田村を訪ねる②

 高市からの道は一旦内子町小田へ抜けます。かつてあった旧小田町田渡小学校も今は廃校となっています。国道379号線に出て広田へ向かいましたが、少し時間があるので会場となる施設をやり過ごし、峡の里という道の駅へ立ち寄りました。直売所では品物の納入に来た人や従業員が、忙しそうに開店の準備をしていました。道の駅に勤める従業員さんが目敏く私の顔を見つけて、「若松さんじゃないですか。朝早くから何事ですか?」と尋ねられました。少しの間立ち話で四方山話に花を咲かせました。最近の不況で売り上げが伸びない、同じような直売所が沢山できて客数が少ない、山里のハンディはこれからも続くと予想される、これといったホームランやヒットを思いつかないなど、いずれも苦しい胸のうちを明かして、「観光カリスマのあなたに何か妙案はないか」と逆に相談を受けてしまいました。

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 再び引き返し会場となっているひろた交流センターへ入りました。この施設は役場支所と公民館の複合施設で1年前にできたようで私も初めてです。中に入ると保健師の佐伯直子さんがいました。他の人の殆ども顔と名前は一致しないものの見覚えのある顔ばかりでした。

 そのうち中村町長さんや大平町会議員さん、日野さん、上岡さん、石田さんなどなど懐かしい顔ぶれが揃い、広田地区老人クラブの総会が始まりました。総会は約一時間ばかりかかりましたが、中村町長さんは「若松さんがが講演するので今日は話を聞いて帰ります」と、ビックリするような言葉を挨拶で述べられました。やばいと思いましたが成り行きに任せました。総会が行われている間何を話そうか迷いに迷いましたが、まあいいかと思いつつ紹介されて演壇に立ち「ニコピンコロの人生設計」という演題で一時間ばかり話をさせてもらいました。

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 会場には元村長の肥田さんも来られ、講演後挨拶をさせてもらいましたし,居並ぶ民生委員さんたちの殆ども知り尽くした顔であり、皆さん熱心に私の話を聞いてもらいました。

 お弁当を貰い会場を後にして上尾峠を越えて砥部町~松前町~伊予市を経由して1時ころ自宅へ帰りました。昨日は久しぶりに旧伊予郡を思い出させるような懐かしい一日でした。老人クラブの世話をしている砥部町社会福祉協議会によると、5月10日は砥部町西地区、5月12日には東地区、5月17日には麻生地区、5月18日には宮内地区と、昨日を含めて5回も同じような話をしなければならないようです。対象が違うので同じ話をするよう言われていますが、はてさてテープレコーダーでもあるまいし、エンドレステープのような話も芸がないと、少しだけ気を揉んでいます。


  「あの顔も この顔もみな 見覚えが ゆえにうかうか できない話」

  「町長さん あなたの話 聞くという いきなり挨拶 私うろたえ」

  「道の駅 似たよう施設 あちこちに ゆえに苦戦と 立ち話にて」

  「何年か 前まで同じ 郡だった 今は行き来の 少なくなりて」


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〇旧広田村を訪ねる①

 7年前まで伊予郡は松前町・砥部町・双海町・中山町・広田村の4町1村で構成されていました。町村長・議会議長・公民館・消防団・PTA・婦人会・青年団などは伊予郡〇〇会という広域連合組織組織があって、交流や研修目的の活動が活発に行われてきました。しかし平成の大合併と団体の盛衰で、その殆どは姿を消してしまったのです。

 私は23歳で双海町青年団長となり、翌年には伊予郡連合青年団の団長を務めました。当然活動は広域的になり暇さえあれば、また諸行事の度に傘下の町村へ足繁く通ったものでした。私が団長になった頃はまだ道も今ほど整備されてなく、私も自動車の運転免許を持っていなかったので、もっぱら他の役員さんの車に乗せてもらって、遠路悪路を心をときめかせながら通ったものでした。


 その後免許を取り公民館に勤め、多くの諸行事に参加するようになってからは、友人や知人も増えて郡内が近くなり、伊予郡公民館連絡協議会の主事部会長になったこともあって、わが町へも郡内の沢山の人を迎え入れました。その当時はよもや伊予郡が合併しようとは夢にも思いませんでした。

 合併の協議も最初は愛媛県の示した伊予市・伊予郡が合併する構想に基づいて始まりましたが、松前町が単独、広田村が砥部町、双海町・中山町が伊予市とそれぞれ分割合併することになり、伊予郡の全盛時代は平成17年の3月で幕を閉じたのです。当然かつて伊予郡だった町村へ行く機会も激減しましたが、幸い私は退職後も講演などに招かれ、峠や谷間を越えていまも時折お邪魔しているのです。

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 昨日は砥部町社会福祉協議会の招きで広田地区の老人クラブ総会に講演に出かけました。昨日は絶好の春日和だったため、かつて知ったる道を往路は中山経由、復路は砥部経由で行こうと思い出発しました。中山と広田の間には大佐礼隧道というトンネルが抜けています。交通量も殆どない山道周辺の山々は燃えるような新緑で、杉や桧の間に程よく欅や榎、モミジなどの雑木林があって目と心を癒してくれました。

 中山や広田辺りにも過疎化や高齢化の波が押し寄せ、見慣れた光景の中に時折崩れしままの廃屋が見え胸が痛みました。これも時の流れでしょうか。少し車を止めて感慨深げに見ていましたが、不審者と見間違われては大変と再び急な坂道を目的地に向かって走らせました。

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 山の暮らしは長閑でトンネルを出た辺りには気温が低いためかボタン桜が今を盛りと名残の花を咲かせていました。高市集落に入ると道の真ん中の頭上にわらで作った草鞋やお札が吊るしてありました。悪魔祓いの伝統的習慣のようでした。珍しい光景なので車の中からデジカメで一枚写しました。谷間に降り注ぐ朝の光がまるで光臨のように神々しく写っていました。

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 高市小学校の直ぐ横には広田村山村留学センターがありました。少し時間に余裕があったので、知人の武智先生に会うためアポも取らず立ち寄りました。玄関先には留学に来ている子どもたちの洗濯物が沢山干してあり、長閑な佇まいを見せていました。幸い先生に出会い少しの間積もる話をしましたが、私が敬愛している先生だけに話は尽きないものの、先生の見送りを受け先を急ぎました。

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  「何年か 前まで同じ 郡だった 懐かしき道 一人で走る」

  「山里に 廃屋見つけ 胸痛む これも時代の 流れだろうか」

  「山村の 里の入り口 草鞋吊り 悪魔祓いの 風習脈々」

  「懐かしき 人に出会って 談笑す 時間止まった ような気がして」


 

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〇炊き出しとおにぎり

 役場に勤めていた初期のころは常備消防がなかったため、当時の町長さんがいち早く火事などの現場に駆けつけれる条件があるのは役場だと言って、役場消防班というのを作りました。その後広域の常備消防が設置されてからも暫く消防班は災害や火災が起きる度に大活躍をしていました。

 災害といえば炊き出しです。台風などの災害で出動した時には役場の女性たちが公民館の調理室へ集まり、ご飯を炊いておにぎりを沢山作ってくれました。塩の効いたおにぎりに沢庵だけというシンプルなものなのに、合羽を着て手も洗わぬほどに頬張るおにぎりは、空腹の胃袋へ吸い込まれて行くようでした。

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 今はおにぎりも24時間開いているコンビニに行くと、色とりどりのおにぎりが陳列に所狭しと並んでいて、若者たちはおにぎりを非常食ではなく常食として食べているようですが、外国からやって来たハンバーガーにどこか似ていて、さしずめおにぎりは和風ハンバーガーといったところです。

 東日本大震災の被災地では今なお避難所で、行政やボランティアによる炊き出しが行われていて、その主流は手っ取り早いおにぎりだそうですが、避難所生活も長期化するとただ空腹を満たすだけの食事では栄養不足となり、体の偏重を訴える人が多いと聞きました。私のようにパンよりどちらかというと米食を好む純日本調な人間でも三度が三度おにぎりでは、嫌気が差すのは当たり前なのです。温かい握りだちのおにぎりは何ともいえないお米の味がして美味しいものですが、冷めて堅くなったおにぎりはどこか無機質な気もするのです。


 地震と津波に加え、原子力の不安におののきながら避難所暮らしをしている人のことを思うと、一日も早い仮設住宅の完成と移転が望まれますが、人間は集団生活もそれなりに意義はあるものの、個人のプライバシーが保てない環境では、隣や集団を意識しなければならず、ストレスが溜まって病気にすらなるのです。現代の日本では個室、個食、孤独な暮らしが主流を占めていて、集団で何かをするような暮らしには慣れていない人が多いのです。

 こんな非常時ゆえ、個人のプライバシーは二の次にされがちですが、これからの災害時の避難のあり方も時代と共に変えて行かなければならないとしみじみ思いました。それでも冬の厳しい寒さに耐えて長年生きてきた東北地方の人たちは、殆ど不平を言うこともなく整然として、一ヶ月余りの避難所生活をしています。今回の震災で私たちが見習うべきことが山ほどあるような気がする今日この頃です。

 

  「おにぎりは 日本文化と 胸を張る それでも毎日 食べれば飽きる」

  「避難所で 炊き出し励む 人がいる 感謝しながら 食べる人あり」

  「みんなより 一人で過ごす 人多い 日本の暮らし 変化している」

  「おにぎりは どこかおふくろ 味がする 頬張る度に 逝きし母顔」

 

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〇舞たうん108号連載記事vol.15号

 2011.4発行の舞たうん108号に私の書いている連載記事が、見開き2ページにわたって掲載されました。この連載も早いもので早15号となりました。今回のテーマは商店街の活性化で、私の記事のタイトルは「商店街に灯が消えつつある」でした。いつもながらの拙文です。

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  「何とまあ 連載早くも 十五号 いつもながらの 拙文汗顔」

  「話なら 後が残らず いいのだが 記事は記録に 残る大変」

  「どのまちも 頭悩ます 商店街 俺の町など 買い物できず」

  「いつの間に こんな世の中 なったのか ブツブツ言いつ 進展もせず」

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〇昨日の出来事

 昨日はおおよそ3つのことが心に残った一日でした。まず一つは午前中自宅でリフォーム工事に来ていた従兄弟の電気工事屋さん夫婦が、突然「あれは何?」と空を指差すのです。その方向を見ると家の裏の空にミツバチが大群をなしてブンブン飛び交っていました。私はとっさにこれがミツバチの分蜂だと分かり、色々説明してやりました。従兄弟の奥さんは始めてみるミツバチの大軍にすっかり驚いた様子でしたが、私が説明したとおりミツバチの大群はものの10分ほどで、一昨日人間牧場から分蜂の予感がして持ち帰り、設置していた巣箱に綺麗に収まり、ミツバチの喧騒は収束したのです。私にとってはこの上ない喜びで、これで家の裏山に設置した4つの巣箱は全て入居が完了したのです。この様子をブログで配信していますが、読むであろう高知県馬路村の木下さんやミツバチの師匠である西予市野村町の井上さんは、私のことを「新参者のくせに」と羨ましがるに違いないのです。でもこの蜂の大群はどの巣から分蜂したのかが少し心配です。

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(裏山第4巣箱に入居したミツバチ)

 二つ目は昨日の午後3時に下灘コミセン前で待ち合わせして、人間牧場へお客様を案内しました。この20年余り私と深い関係を持っている、えひめ地域政策研究センターから新任の森所長さんと大西部長さんが挨拶がてらやって来ました。お二人とも始めて訪れる人間牧場の眺望の良さに驚いた様子でしたが、一時間余り雑談めいた話をさせてもらいました。

 昨日は地元では通称やまぜと呼ばれる南西の強風が吹いて、大分では30度を越えて真夏日になったと報じていましたが、残念ながら春霞で自慢の眺望は次にお預けとなってしまったようです。

 お二人とも県庁職員でセンターに出向していますが、お互いこれから交流や活動を重ねて、愛媛県の地域づくりを盛り上げて行くことで意見の一致をみました。

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(右が森所長さん、左が大西部長さんです)

 三つ目はお二人が帰られた後の出来事です。畑で芽が出たコンニャクに、目印のつもりで持参した竹の支柱を立てました。また苗床のサツマイモにジョロで水をたっぷりやりました。人間牧場へは4月8日ミツバチの師匠である井上さんがやって来て、蜜蝋を塗った巣箱を三つ設置して帰りました。しかしその後分蜂の兆候も入居確認も出来ていまっせんでしたが、人間牧場第4巣箱の入り口辺りをミツバチがウロチョロしているのが見えました。思い切って下の引き出しを抜いて、持参していたデジカメを差し込むと、巣箱の中には分蜂したと思われる群れが小さいながら蜂球を形成しているのが確認されたのです。井上さんの持参した2つの巣箱はまだ兆候は見られませんが、種蜂の飛び交う人間牧場2号巣箱も活発なので1号と3号への入居を期待して待ちたいと思っています。

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(分蜂が確認された人間牧場第4巣箱の中の様子)

 帰宅して後片付けをしていると、西の空が明るくなり、町のシンボル本尊山が残照で真っ赤に染まり、わが家から綺麗な夕日が見えました。こうして何気なく過ぎたたった一日の出来事でしたが、振り返ってみると様々なことがありました。リタイア後は極力自然や人と穏やかに向き合い、一日一日をごく自然に生きていることを実感しながら、生きていこうと決意をして日々を暮らしていますが、私にとって昨日もいい一日だったようです。今日もいい一日でありますように・・・・。
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(双海の夕日はとても美しいです)

  「何気なく 過ぎて行くよな 日々だけど その気になれば 結構楽しい」

  「田舎ゆえ 自然相手に 穏やかに 暮らして行ける これも特権」

  「今日ゆえに 戻らぬ昨日 記録する 色々ありて 色々書いて」

  「ミツバチも 愛さえあれば 集めれる そんな気がした 昨日一日」

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〇日本語の魅力(益荒男と手弱女)

 生まれてこの方66年間の殆どを日本に住み、母親や父親、それに社会で出会った多くの人や書物、時にはテレビなどの媒体から多くの日本語を習いながら、日々の暮らしの中で日本語という言語を喋ってきました。時にはその意味も分からず使ってきた日本語も数多くあり、外来語を含め広辞苑などの世話になりながら意味を調べて今日まできたものの、近頃になって日本語は間口が広く奥が深いとしみじみ思うのです。


 先日テレビを見ていると「益荒男」と「手弱女」という言葉を喋っている人がいました。「ますらお」といえば相撲の好きな私が一番に思い出すのは「男」が「雄」と一字違いの、益荒雄という力士の名前でした。既に引退していますが端正なマスクと機敏な取り口などを想像しながらその意味を思い、インターネット辞書」で調べてみました。「益荒男」と「は勇気のある強い男」と書いていました。私がおぼろげながら想像していた意味と、一致していたのです。

 続いて同じような方法で「手弱女」という言葉の意味を調べました。「手弱女」は「益荒男」の反対語ですから優しい女性くらいかなと想像していましたが、「たおやかで優雅な女性」と当たらずも遠からじでした。じゃあ「たおやか」とは一体どういう意味なのか?、疑問の淵を行ったり来たりです。「手弱女」は「たおやめ」と呼ぶことは知っていましたが、私の軽薄なこれまでの暮らしの中では多分使わなかった言葉なのです。


 日本語は難しいし奥が深いと思いつつ、最近の男性と女性について考えました。現代は男と女の区別が付きにくくなっています。男性が化粧をしたり装飾品をつけたりする時代です。一方女性も男性オンリーだった社会や職場に進出し、むしろ男性をしのぐ活躍をしている男性的な女性が多くなっているようです。また性差のない社会を象徴するように、これまで聖域として踏み込めなかった、性転換なども行われ、性差のない社会は今後も進むものと思われるのです。


 私は男性は男性らしく、女性は女性らしくなんて考える古いタイプですから、男が家事や育児をすることが当然という現代からは疎んじられるような人間です。男性の理想は「益荒男」、女性の理想は「手弱女」と勝手に決めていますが、これには多くの批判が集中しそうなので、この話はこの辺でお開きにしたいと思います。でも東日本大震災の被災を思う時、これからの復興には「益荒男」という強い心と「手弱女」という優しい心が必要ではないかと、しみじみ考えました。

  「何気なく 意味も分からず 使ってる 日本語調べ 深さ感動」

  「益荒男や 手弱女という 日本人 ついぞ見かける ことも少なく」

  「性差ない 社会といわれ 久しいが 理想は矢張り 益荒男・手弱女」

  「日本語を 喋っているよう 見えるけど 乱れてしまい 何語分からず」

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○東日本大震災と賽の河原

 東日本大震災が起こってから1ヶ月余りが過ぎました。大地震・大津波・放射能というトリプル被災は私たちの想像以上に深刻ですが、それでも復興の足音が少しずつ大きくなっていることに、多少安堵の胸を撫で下ろすのです。地震と津波が襲った三陸地方の町や村を見る度に、不謹慎かも知れませんがあの瓦礫の山がどこか賽の河原に似ているようだと思ったりします。

 日本全国には奥尻島賽の河原、積丹半島賽の河原、恵賽の河原、恐山賽の河原、今泉賽の河原、川倉賽の河原、岩崎賽の河原、浄土ヶ浜賽の河原など幾つもの有名な賽の河原がありますが、ふと何年か前に訪ねた青森県むつ市の恐山賽の河原の光景を思い出しました。

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賽の河原は幼くして、親よりも早く亡くなった子どもが行き、いつ終るともなく石を積み続けるという苦を受ける、三途の河原を賽の河原だというのです。現世と来世の境界にあるとか、冥土の手前にあるといわれています。観念上は地獄の一つですが、これを現世に現出させた場所でもあります。

 平安時代の僧空也による西院河原地蔵和讃の、「一重積んでは父のため、二重積んでは母のため」というむなしい旋律が涙を誘い、ここは子どもの霊が浮遊する霊地のイメージがあるのです。大津波と大地震は多くの人の命を奪いました。その中には子どもたちも沢山含まれているし、逆に両親を亡くし震災孤児となった子どもたちもいるのですが、身内を亡くした人たちはこの瓦礫の山を、どのような気持ちで見ているのでしょうか。思い出すだけでも胸が痛むのです。

 今回の災害は大規模かつ広範囲に及んでいるため、亡くなった方々を荼毘に付す余裕すらなく、止むを得ずユンボで掘った穴に刈り埋葬するという、今の時代に考えられないような遺体の処理をしているようです。私たちが子どものころは土葬が主流で、遺体を焼くなどという風習は田舎では余りありませんでした。お年寄りが死んで焼かれるのは痛いから焼かないで欲しいと、冗談を言ったことがまったく?のようで、遺骨を傍に置いたりお墓に安置して安心する日本人に、少なからず衝撃を与えています。復興が進んで落ち着けば掘り返して荼毘に付すのでしょうが、何とも痛ましい光景です。

 日本人の宗教心の根源はどうやら死にあるようです。人間は生まれて死ぬまでは意識が働きますが、死んでからは無の世界です。ゆえに科学的には何の根拠もないのですが、死ねば極楽や西方浄土があると信じられています。科学的に説明が付かない死後の世界を持っているからこそ、生きている間はまっとうな生き方をしようと思うのであって、最後の砦といわれる死生観がなくなれば日本人は、魂の抜けたセミの抜け殻のようになってしまうのです。

  「震災の 瓦礫の姿 何処となく 賽の河原に 似ているようだ」

  「何年か 前に訪ねた 恐山 賽の河原は どこか寂しい」 

  「千年に 一度の震災 根こそいで 跡形もなく 寂し光景」

  「この歳に なると感じる 死生観 日本人ゆえ 最後の砦」

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○私は何故選挙に出なかったのか?

 東日本大震災の影響で街宣車の自粛があったため、賑やかでもなかった統一地方選挙がやっと終りました。民主党の退潮、自民党の横ばいなど選挙結果は様々でしたが、それにしても気になるのは投票率の低さです。一票の重みや格差を論じるのであれば、投票率の高いところへ議員定数を傾斜配分するくらいな智恵があっても、いいのではないかと思ったりします。私的には愛媛県議会議員選挙で、限界集落研究会で行動を共にしてきた地元の泉圭一さんが、鳥取県議会議員選挙で元朝日新聞松山支局デスクだった砂場さんが、そして新居浜市議会議員選挙で地域教育実践交流会の実行委員である篠原さんがそれぞれ当選し、政治家として活躍してくれそうなので安心しています。

 

 かつて町長選挙や町議会議員選挙がある度に、「選挙に出てみないか」と私の元へ色々な人が話にやって来ていましたが、それ相応の年齢になったし、また言っても選挙に出ないため諦めて、最近はすっかりそんな上ずった話もなくなってしまいました。

 でも地域づくりの現場で出会う人たちからは、「あなたは何故選挙に出ないのですか?」とよく質問されるのです。「ない」といえば?になるので私は常日頃そんな質問には、二つの答を用意しています。

 その一つは「選挙に出ると妻に離婚されるから」です。妻は私が若い頃青年団活動にのめり込み、愛媛県や四国の会長をしていたため、いずれは政治を志すかも知れないと思っていたようです。


 しかし小さい田舎町の役場に勤めていると、選挙の度に巻き込まれたり翻弄される姿を目の当たりにして、あんな人たちのようになって欲しくないと思ってか、「選挙に出るんだったら私と離婚してからにして」と口走るようになりました。私は政治家と妻とどちらを取るかと二者択一を迫られたら、やはり妻を取ります。それ程私は妻に弱く甲斐性のない人間なのかも知れません。

 選挙に出たことがないので分かりませんが、選挙に出ると家族は要らぬ腹を探られたり、デマ中傷の対象となるものです。それを超えなければ当選もしないのですが、地盤、カバン、看板を必要とする政治の世界は、カバンに詰め込むお金のこともあって、まあ選挙とは左様に煩わしいものなのです。

 もう一つは「政治家は平気で?を言う」ことと、選挙で落選した友人・知人の「末路を見ていて哀れだ」と思うからです。その人が好きでもないのに、当選するためにはその人のことを「好きだ」と媚を売らなければなりません。選挙公約を声高に選挙中いいながら、選挙が終れば元の木阿弥で、4年間胸にバッジをつけて胸を張る姿は?の塊のような気がするのです。また選挙に負ければ世間の冷たい目と仕打ちが待っているし、加えて今まで積み上げてきた信用と実績がまるで積み木崩しのように、跡形もなく消えて行くのです。

 私は政治を志さなかったお陰で、地位や名誉を手に入れることは出来ませんでしたが、妻を失うことも、築き上げた郷土愛やボランティア精神を失うこともなく今日を迎えることが出来たのです。村議会議員から国会議員まで、政治家の中には信用に足りる政治家も多少いますが、その殆どは残念ながら能力と信用、それに期待感の持てない、責任の取り方や身の引き方を知らない政治家がやたら多いように思われるのです。

 戦居に出なくて良かったとしみじみ思う今日この頃です。

  「喧騒の 選挙終わりて 平穏に 多く望めぬ 早くも落胆」

  「政治家は ?がいえぬと 大成は 難しいかも 知れないようだ」

  「政治家に どんな期待を すればいい 期待する方 無理かも知れぬ」

  「妻からは 選挙に出ると 離婚する 三行半で 身動き取れぬ」

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