shin-1さんの日記

○懐かしいふるさとの道

 人間牧場への帰り道、今は市道になっているのでしょうか、下灘下浜の旧道を通りました。この道は昔の県道で、県道が国道に昇格して海岸に国道バイパスが通るまでは、バスも通った懐かしい道なのです。旧道沿いにあった下浜公民館は既に移転して取り壊され、旧道を通る人も殆どいない寂しい道となっています。

 私の結婚相手に今の妻が決まり、わが家へ始めて挨拶がてら遊びに来た折、県道から入る玄関が2階で、台所や居間はまるで地下室へ入るような錯覚をしたと述懐するほど珍しい造りになっていました。

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(私が生まれ育った生家の辺り)

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(同級生磯田コズエさん宅辺り)
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橋本酒屋さん宅から農協辺り)
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(共同酒販さん辺り)

 旧道は人家と県道の上を走る予讃線の鉄道に挟まれているため狭隘で、所々に少し広い待避所のような場所があるにはあるのですが、トラックのような大きい車が対面すると、どちらかが譲り合ってバックしないと、接ぎからつげへ車が突っかけ、幾ら交通量が少ないからといっても、暫くすると抜き差しならない長蛇の列が出来るのです。下がる下がらないでお互いの運転手同士が喧嘩になり、駐在さんの出番まであるほど長閑な時代でした。ゆえに民家の屋根は時々トラックの荷台に引っ掛けられ、時には当て逃げされ、これも駐在さんの仕事になっていたのです。

 旧道の中ほどに田舎には珍しい鉄筋コンクリートの建物があります。旧下灘農協です。かつては下灘唯一の金融機関で、若い女性が沢山勤めていたので、青年たちは用もないのに農協と役場へ頻繁に顔を出していたようです。私はこの農協の2階で結婚披露宴をしました。結婚式は我が家の座敷でしたが、披露宴は農協の大ホールにゴザを敷き、その上に座布団を敷いて座りました。当時の結婚披露宴は料理は勿論自分の家に親類縁者や近所の人が集まって三日三晩をかけて作りました。いつ終るとも分からない披露宴の酒宴にみんな酔いしれていました。

 河村理髪店と金辰旅館、それに丸岡食堂のある鉄橋下がメインストリートでしたが、今はその面影もなく、車は全て海岸国道をスピードを上げて走るのです。子どもの目の高さでは広いと思っていたこの道も、居間通ってみると、「よくもまあこんな狭い道をバスが走っていたなあ」と感心するばかりです。

 それでもこの道は水仙の花が咲く頃になると、水仙畑を目指して多くの人が歩いてくれるのです。久保田という新潟のお酒の販売代理店をしている共同酒販さんのご主人も亡くなり少し寂しくなりました。この道界隈には同級生も沢山いましたが、殆どの人はここを離れ都会で暮らしているのです。それでもふるさとの道はどこか懐かしさを感じるのです。


  「この道も 子どもの目には 広い道 何度通った ことであろうか」 

  「軒先の 瓦ひっかけ 知らぬふり 完全犯罪 何度かあった」

  「下がらぬと 意地を通して 喧嘩する 最後駐在 大岡裁き」

  「同級生 指折り数え 顔浮かぶ 今はどうして 暮らしているか」


  

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○漆器食器を地下室へ移動

 昨日の朝6時、いつものように裏山へ散歩に出ました。空が曇り前日とは打って変わった少し肌寒さを感じました。折り返し点まで辿り着くと小雨がぱらつき始めました。森林の中の道なので木々の緑が笠の役目をしてくれて、雨が体には当たらなかったのですが、雨の様子が少し可笑しく感じました。やがて森林を抜ける頃になるとその雨が霙交じりであることに気がつきました。「えっ子の時期に霙?」と思いましたが、その雨はいっそう激しくなって、小走りに走って我が家へ急いだものの、すっかり濡れ鼠のような姿になってしまいました。着替えるため昨晩の残り湯に少しお湯を足して朝風呂を楽しみましたが、多分寒冷前線が通過したのではないかと思いました。

 その後雨は直ぐに止みましたが、風波が増し強風波浪注意報が発令され、春のこの次期としては珍しい北西の季節風が一日中吹き荒れる寒い一日となりました。昨日は前日に続いて家倉庫と物置倉庫の大掃除をしました。家の外に設えた2つの倉庫から収納しているものを全て取り出しましたが、まあ凄い量です。私の家は代々漁家なので、貧乏ながら少しはぶりの良い時代も合ったのか、ここら辺では名器といわれる漆塗りの桜井漆器が、沢山あるのです。お膳から始まり、お客事に使う食器は全て漆器で、幾つもの皿類がセットで50人分全て揃っているのですから、その数や相当な量なのです。加えて皿鉢料理のための双環台や大絵皿が幾つもあって、何年ぶりかに対面しました。

 わが家は漁師として結束深い頃は本家だったため、分家にも30人分の桜井漆器が配られて、結婚式や船下ろしなどの慶事には分家から持ち寄った漆器で150人分の料理を、料理屋に頼まず全て自宅で作っていたのです。私の結婚式も150人分の漆器食器が集められ、本家の亜たたりの結婚式とばかりに3日3晩の大宴会が繰り広げられました。その時使った鯛はおびただしい量だったし、近所の農協会館ホールに150人を集めた結婚披露宴は、参列してくれた友人の語り草になったほどでした。

 その漆器食器類を長男家族の同居が始まるため手狭になったため、親父とすお団して海の資料館海舟館の地下室へ移動することを考えました。親父は思い荷物が持てないため、私一人が腰を痛めないよう慎重に運びました。

 運よく漆器類は地下室にきっちり収まりました。これらの漆器食器を利用して料理をすることなどもうないものと思われるので、古きよき時代はこうして地下室にタイムカプセルのように終われて封印される運命となるのです。でもこうして記録にとどめておくことで息子や孫の代へのバトンタッチが出来るのです。

 多分無理かも知れないけれど、いつの日かこの食器を使って庶民の郷土料理を再現したいものです。時代は急速に進んで、昭和も遠くなりました。わが家ですらこんなに暮らしが変わるし、食文化も伝承できないのですから、圧して計るべしです。

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