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○故障したエプソンプリンター

 今年の暑さは尋常ではないようで、各地で40度に近い気温の上昇が記録されて、いよいよ温暖化の影響だと報道されているようです。水村高校で気象学を習った私としては、気圧配置による偏西風などの風向きに加え、海水温度の影響が多分にあることを知っているので、それほど驚きはしませんが、それでも今年の私は今まで出たことも無いようなあせもに悩まされているのですから、やはり歳のせいのお肌の曲がり角なのでしょうか。

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 そんな人間のオーバーヒートと同じように、手元のパソコンに接続しているエプソンのプリンターの調子が悪くなり、印刷を支持しても、またプリンターヘッドをワイパーモードにしてもまったくプリントアウトが出来なくなってしまいました。このプリンターは2年前私の誕生日に子どもたちがお金を出し合ってプレゼントしてくれた代物だけに、故障させた私の未熟さを悔やみましたが、仕方なく長男に電話をして助け舟を出しました。息子は設計の仕事をしていて、このところは土日も無いような忙しい日々を過ごしているようで、助け舟にやって来たのは仕事を終えた12時近くでした。ヘッドクリーニングをしたりありとあらゆる手を尽くしましたが、残念ながら復旧には至りませんでした。

 息子はそのまま帰った明くる日、プリンターを新しいものにしようと相談がありました。臨時出費は年金暮らしの私には痛手ですが、仕方が無いので息子に頼みました。息子は現代人らしくインターネットで私の最低欲求であるエプソン、今のインクカートリッジが利用できる、スキャナー機能などを取り入れ、1万2千円のプリンターを探し当てました。二日後代引きで送られてきたプリンターを、一昨日息子は深夜にやって来て接続やソフトを入れてくれやっと使えるようになりました。試し印刷をしましたがこれまでのと殆ど変わらない使い勝手にひとまずホッとしました。

 しかしエプソンプリンターカラリオEP-702Aという機種に、普通電気屋さんで買うと6千円もする6色インクがついて1万2千円とは、どういう計算になるのか不思議でたまりませんでした。1万2千円からインク代6千円を差し引けば本体価格は送料込みで6千円なのです。機種が少し古いといえばそれまでですが、合点のいかぬ安さです。清野さえ確保されれば安いのに越したことはありませんが、まあ妻が言うように「安かろうボロかろう」ではないことを祈りつつ、使い始めています。

 さてさて故障したプリンターは結局電子ゴミとなって引き取られる運命になってしまいました。勿体ないと思いつつ、修理をすると2万円もいるという見積もりなので、今回は目をつむって現代ゴミ出し人間になってしまいそうです。罪の意識も多少あって嘆かわしいことです。


  「プリンター 子供がくれた ものだから 名残り惜しいが 電子ゴミなる」

  「計算が 合わぬ買い物 ネットにて 息子注文 代引き払う」

  「使い捨て これでいいのと 悶々が 頭浮かぶも どうしようもなく」

  「テキストを 読む暇さえも ない私 息子直伝 プリンター使う」


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○日土小学校見学会のカメラ散策③

 このところブログのネタが多過ぎて、書きたいことに書くスピードが追いつかないのです。やはり歳のせいなのかと納得しながら書いていて、気がついて書いた記事を読んでいると、昨日は一日に3本もの記事を書いていました。しまったと思いながら、一日朝夕2本は自分で決めた一応の目安だし、これもまたよしと思いました。ところがこの暑さでボケているのか、肝心のデジカメで撮影した写真や、清水幸一さんが撮影して、清水塾頭がメールで送ってくれた写真を記事に添付することを忘れてしまっていたので、今朝思い出して「日土小学校見学会のカメラ散策③」を付録として目次を起こし、羅列的に掲載することにしました。

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(日土小学校見学会に参加した年輪塾のメンバー)

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(喜木川にせり出したテラスは子供の冒険心をくすぐる素晴らしい発想です)

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(上の写真は清水幸一さんが窓から顔を出して望遠で撮影してくれました。写真を撮る人を写真に撮るとは面白いですね)

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(向こうが見える靴箱はまるで幾何学模様の玉手箱のようでした)

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(足洗い場とウッドデッキは裸足で運動場で遊んだり運動することの多かった当時をよく表現しています)
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(菊池さんの説明にも力が入ります。手の下の物置台や細い三角形の持ち受けがお洒落です)
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(今はホワイトボードになっている目に優しい白板、教壇もありません)
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(柱は全て面取り、入り口のドアには縦細いガラス戸が入って中の様子が光となって見えました)

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(書棚も全て一段浮かせて作っていました)

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(学校には珍しい障子窓からの優しい採光、後で取り付けたのでしょうかランプのミスマッチも楽しいものでした)
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(一段が12cm、踏み板ふみづら35cm、傾斜21度のゆるやかな階段は子供目線でした)
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2階の廊下も両名採光、しかもまるで美術館のような内出窓型飾り棚と長い廊下ベンチ)

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(西洋的な印象のある浮いたタイル張りの手洗い場)
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(喜木川に向かってせり出した二回のテラス)

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(柱が2本になって窓枠を隠していました)
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(淡い採光が何ともいえない優しさを感じさせてくれました)

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(新校舎は松村イズムを真似て作られていました。素敵ですがやはりどこか違和感を感じました)
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(環境に優しいペレットストーブは、むしろ達磨のストーブに限ります。コストが高い)

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(岡崎直司さんがメールで送ってくれた日土小学校や喜木川などが写った写真)

  「接触が 悪いカメラを 叩きつつ 撮った写真を ブログに載せる」

  「気がつけば 一日三本 書いたけど 写真忘れて 付録で載せる」

  「あちこちに これぞ松村 イズムだと 思い感心 アイデアずらり」

  「いいものを 見せてもらって また一つ 目からウロコの 落ちるの覚え」

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○日土小学校見学会に参加して思いました②

 ・家は木の癖組み

 日土小学校を訪ねて感じたことが幾つかあります。まず学校とは一体どんな意味を持っているのでしょう。宮大工で有名な西岡棟梁が「家は木の癖組み」という言葉を残しています。木が沢山あれば森、少しだと林、一本だと木と呼びますが、一本の木にも育つ生い立ちによって癖があるようです。松村さんは設計という立場で学校を造りました。ガイドブックの始めに手づくりの学校というも記事がありました。名前こそ記されていませんが地元の大工さんが自分たちの村の学校だから、自分たちの子供や孫がそこで勉強するのだから、一生懸命やろうという気概で金銭勘定を度外視して、持てる技術を出し切って取り組んだ手づくりの学校なのです。

 「金閣寺は誰が作ったか?」という問いに、足利義満というのは普通ですが、子供は「大工さん」と答えます。松村さんにスポットを当てるのもいいですが、この学校にかかわった地元の大工さんのことをもっと子供たちに教えて欲しいと思いました。大工さんは木一本一本の癖を見抜いて癖組をしているのです。人間の社会も同じで、人間は育つ環境によって様々な癖があるものです。その癖を組み合わせながらいい社会を作らねばなりません。

 ・学校は木に交わって学ぶ場所

 学校とは木が交わって学ぶとも読めます。日本は貧しかった戦後の一時期を脱して、アメリカや西洋の物真似をしてきました。建築はいい例で、高温多湿の気候風土にありながら鉄筋コンクリートの建物をどんどん造ってきました。半永久と思えた鉄筋コンクリートの建築物は海砂をたかったこともあって、50年も経たないのに殆どが老朽化し、耐震基準に合わなくなってしまったのです。高温多湿な日本にありながら東大寺五重塔などは千年を超えて現存していることを思うと、木造校舎を危険校舎という名の元に壊してしまった行政や建築家の無責任さは、説明責任も果たさないまま今に至っています。木を使っていない学校は学校と呼べません。

 そのことに気がつき、木造建築の木に交わって学ぶ学校も少しずつではありますが増えてきています。私は木と土壁の家に住んでいますが、室内の結露も無く、シックハウス症候群という病気の心配も無いのです。木造校舎の日土小学校も、翠小学校も様々な人の思いの深い運動によってかろうじて残りました。これこそ私がいつも言っている「一周遅れのトップランナー」なのです。

 ・学校は地域の中心よりどころ

 私は仕事柄、学校が少子化の影響という名の元にいやおう無く廃校や閉校した地域を見てきました。これも時代の流れで仕方がないと、何の抵抗も無く諦める人が殆どですが、運動会や学芸会など村中の人がこぞって学校に足を運んだ時代があっただけに、何とも寂しい感じがするのです。

 私の持論は「小学校は歩いて行ける距離」が基本ですが、20キロも離れた小学校へ毎日登校するような統合は最早子供たちにとっては余りにもリスクが大きいのです。効果効率の名の元に学校を統廃合するくらいなら、昔のようにたとえ人数が少なくても分校方式のような寺子屋構想を考えてはどうかと思ったりするのです。

 今の学校は門を閉ざさねばならないほど、危険だと思われています。ゆえに地域に開かれるはずの心までも閉ざそうとしています。地域が学校を地域づくりの中心に据えていくためには、地域の人ももっと大きな心を持つべきです。残念ながら地域の人は虫の目になり過ぎて、鳥の目という対極を見れなくなっていることも事実なのです。せめて地域をリードする人たちは今をテーマにするのではなく10年後20年後をテーマにして生きて欲しいのです。今だと好きか嫌いか、損か得の判断になります。未来は善悪で判断せねばなりません。建築家の手から地域づくりをする地元の人たちの手に学校を受け取る時が来たような気がしました。

  「木も人も 癖があるから 面白い 癖組みすれば 家人立派に」

  「コンクリの 学校木がなく 学校と 言えるかどうか 疑問感じる」

  「学校は やはり地域の 宝物 無くなり思う 後の祭りか」

  「校庭に 登る木ありて 学校と 言いたいけれど それさえもなし」

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○木霊の学校日土小学校を訪ねる①

 先週の日曜日、木霊の学校という愛称で呼ばれている日土小学校の見学会に出かけました。これまでにも日土小学校の見学会は何度も機会がありましたが、仕事の都合や建築学などに弱くて疎いため足が遠のいていましたが、年輪塾の仲間に加わっている菊池さんと清水さんが案内するので是非という清水和繁塾頭の口車に乗って、恥も外聞も無く妻同伴で出かけて行きました。木造校舎といえば県内双璧と思われる翠小学校の近くに住んでいて、学校を見学しようと思えばいつでも快く迎えてくれる年中開放の学校と比較すれば、見学会とは何とも仰々しく窮屈な感じのする学校ですが、住民を二分するような学校保存運動の経緯を考えたり、学校のセキュリティのことを考えると、仕方がないことだと思いつつ、この小学校の卒業生で保存運動に深くかかわった菊池さんと清水幸一さんの案内で学校を1時間半かけてゆっくりと見て回りました。

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(案内してもらった日土小学校卒業生の左清水幸一さん、真ん中清水塾頭、右端が菊池さん)

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 私は民俗学者宮本常一流なのでしょうか、まず学校の周りの風景が気になりました。日土は私たちの地域と同じように急峻な地形に民家がへばりつくように点在しています。段々畑に囲まれた学校はまるでカガスのそこのような位置にあって、学校の直ぐ横に喜木川が流れています。多分民家や畑からも学校が一望できるのです。岡崎さんからメールで送られてきた一枚の写真も学校の全景が見えるものでした。運動場の向うに見える日土の集落は夏の青い空や流れ行く雲が印象的に見えました。

 運動場に車を止め玄関先に入るとまず目に付くのは両側が吹きぬけた靴箱と台形の靴脱ぎ場です。菊池さんと清水さんの説明を聞きながら、この学校を設計した日本の建築10傑に名を連ねている松村正恒さんという人のことを思いました。


 大洲市新谷に生まれ、八幡浜市役所に勤務したことのある松村さんは無級建築士自筆年譜に、「わたしは、小学校をつくるとき、まずは子供になったつもりでプランを考え始めるのです。マルローの空想美術館というのがあるでしょ、あれにならって空想の学校を思い浮かべるのです。ふとんのなかで目をつむる、子供に変身する、童心にかえる。学校のなかを走りまわる。座ってみる、変化と感動を探りだす。決められた敷地がよみがえって学校のかたちが現れる。歓声が聞こえてきます。」と述べています。建築家ではなく建築稼、つまりのぎへんに家というのは稼ぐという意味ではなく、ものを植えつけて育てるという意味なのだと述べる松村さんの思いを強く感じることが出来ました。

 清水さんから手渡された日土小学校ガイドブックには、手作りの学校、光と色の魔術師、開放された昇降口、両面採光の教室、開かれた空間、うるおいのある生活、子供のための色々な工夫、教室と外のつながり、傾斜21度の緩やかな階段、廊下とベンチと飾り棚、風空間へ、室でなくホール、室のカドまでとっちゃいました、座る人のことを考えた椅子、本当の意味での恵まれた環境などの目次が並び、菊池さんや清水さんの説明にいちいち納得しました。いやあ素晴らしい学校でした。


  「この学校 学んだからこそ 言えること 次々飛び出し 納得しつつ」

  「いいものは 無駄と手間隙 かけている だから意味つけ 遺し伝える」

  「新校舎 松村イズム 真似てるが どこか違うと 素人私」

  「この学校 なければ日土 ただ田舎 もっとみんなで 知恵出し活気」

 

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○長崎の鐘をハーモニカで吹く

 昨日8月9日は65年前、長崎に原爆が投下された祈りの日でした。同じ原爆の被害を受けた8月6日の広島とはどこか違うものを感じながら、僅か4日間しか違わない日々を、戦争について色々考えさせられました。広島は平和公園原爆資料館と焼け爛れた世界遺産原爆ドームを見ただけで原爆の恐ろしさを体感できますが、長崎は力強い北村西望作平和の像や長崎の鐘に象徴される祈りの街の感じがするのです。一方ではオリンピック招致を目指す100万都市の力強さを強調する広島市長と、銃弾に倒れた後を引き継いだ長崎市長とでは、同じ核廃絶を訴えてもどこか違う気がするのは何故でしょう。

 8月9日11時02分、最初の標的は北九州小倉だったそうですが、小倉地方の天候が悪く長崎に変更されるという悪運に見舞われた長崎に、広島に続いて2発目の原爆が投下されました。地獄絵を見ているような惨状や、その後の後遺症は広島と同じだと広島原爆資料館を頭に描きながら想像できますが、私の心に残っている長崎は、やはり藤山一郎さんが歌った「長崎の鐘」という歌詞とメロディーなのです。

 昨日は所用で松山へ行っていて、カーラジオから流れる長崎の平和式典の模様を聞きながら昼過ぎわが家へ着きました。昼食を終え書斎に入りパソコンのスイッチを入れ、ヤフーで検索して「長崎の鐘」の歌詞を探しプリントアウトしました。

「長崎の鐘」

        サトウハチロー作詞・小関祐而作曲

(歌詞掲載不可のため割愛)

ご存知永井博士を歌った歌ですが、原爆の悲惨さなど何処にも詠われていない歌なのに、長崎の原爆を象徴する悲しみや祈りが込められているのです。私は戦争中に生まれ戦後の窮乏時代に育ち、この歌を聞いて育ちました。成人になってからもこの歌は音痴ゆえに上手く歌えないものの口ずさめるのです。そしてハーモニカを吹き出してからこの曲を練習しましたが、この歌は前半がAmマイナーと後半Aマイナーの2本のハーモニカを併用しないと吹けないのです。幾ら練習しても吹けなかった難曲でしたが、2本のハーモニカを手に入れてからはどうにか吹けるようになりました。

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昨日はハーモニカを木になるカバンから取り出して書斎で一人吹いてみました。プリントアウトした歌詞に楽譜はありませんでしたが、体感音楽とでも言うべきメロディーはある意味物悲しく私の心を打ちました。昨年講演で長崎を訪ねた時も平和の像の前で恥も外聞も無く「長崎の鐘」をハーモニカで吹いて鎮魂の祈りを捧げましたが、この歌を聴く度吹く度に長崎の原爆を思い出すのです。

私の年齢と同じ65年を経た長崎原爆の日、私は私の人生の続く限りこの歌を忘れず口ずさむことでしょう。平和への祈りを込めて・・・・・。

「長崎は 祈りの歌の 懐かしく 鎮魂願い ハーモニカ吹く」

  「天候の いたずら小倉 免れて 長崎悲劇 今も尾を引く」

  「長崎の 鐘という曲 忘れまじ 生きてる限り 歌い続ける」

  「核の無い 日本にしたい 思えども 安保傘下 アメリカ意識」 

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○伊能忠敬の地図と面会③

 しおさい公園の体育館に子どもたちと一緒に入りました。二階からフロア全体に敷き詰められた大中小の伊能図を見ましたが、見学者が小さく見えるほどの圧巻でした。順路に従って一階のフロアに降りましたが、黒山のような人だかりはやはりご当地愛媛県付近でした。参加した人たちは自分にまつわる場所を見つけて座り込み、写真に収めたりしていました。私たちのような古い人間には昔の地名はとても懐かしく感じられましたが、子どもたちにとっては大字や小字の地名は縁遠く、質問の都度説明をしてやりました。会場には黄色い帽子を被った説明する顔馴染みのスタッフもいて、地図の勉強にぴったりでした。

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 体育館フロアの周りではパネル展もあって、ビデオコーナーでは見学疲れの参加者が休憩を兼ねてビデオ放映に見入っていました。

 今年は伊能忠敬が測量を始めて210年の記念すべき年だそうです。伊能忠敬は足がけ17年で日本全国をくまなく歩きこの地図を完成させました。江戸幕府に提出された伊能図は明治6年皇居の火災で全て焼失したようですが、10年前頃から熱心な研究者の手によって伊能図の副本・摸写が日本国内や遠く海の向うのアメリカで次々と発見され、大図・中図・小図全てが原寸大で展示されているのです。しかもその地図の上を自分の足で歩いて見えるという大胆な展示方法はとても新鮮に感じました。

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 江戸中期、上総の国小関村(現千葉県九十九里浜町)に生まれた伊能忠敬は、隠居をしたのを機に50歳を過ぎて江戸に出て、幕府天文方高橋至時に入門して測量技術を学び、全国測量という偉大な仕事を成し遂げましたが、測量技術の整っていない江戸期にこれほど正確な地図を作っているのですから驚きです。

 大器晩成、しかも目的を完遂した体力と信念は、華やかな政治経済の表舞台で紹介していないだけに全てがミステリーで、とても興味の持てる人物なのです。一度ゆっくりと偉人伝の裏に隠されたその生き方を書物などで勉強したいと思いました。

 双海町とも縁の深い伊予市灘町の宮内邸に当宿していることもあって、益々身近な人となりました。

 関門海峡、北方領土、間宮海峡、樺太、津軽海峡、瀬戸内海の島々などなど、興味を持った場所を次々と巡りながら、1時間余りのフロア展見学を終え、一緒に歩いた人たちと迎えのバスに乗って双海町まで無事帰りました。


 追伸

 伊能図フロア展では、佐田岬半島の方々や松山の人など、中日土曜日の午前中でしたが、様々な知人友人に出会いました。中には10数年ぶりの人もいて、地図上で楽しいおしゃべりをしました。


  「久々に 老いても生きる 生き方を 伊能忠敬 扉開けぬ」

  「日本には 偉大な人が いるものと 少し誇りの 気概見つける」

  「あっあった 地図上座り 子どもたち 自分の町を 見つけ歓声」

  「生きるには 遅くは無いが 遅いかも 胸は躍るも 凡人ゆえに」

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○伊能忠敬の足跡をたどる小さなウォーキング②

 双海町高野川から伊予市森の海岸まで真夏の道を歩く途中で、かなり大規模な土砂崩れの現場を通りました。崩れた土砂が海まで迫り、倒れた木々が行く手を阻んでいました。私道や県道、国道であれば完全に通行止めで新聞沙汰になるのでしょうが、訪れる人も殆どいない自然海岸なので、このまま風雨にさらされ、理科の教科書に出てくる、谷や渓谷の成り立ちのような運命を辿るのでしょう。

 横倒しになった木々の下をまるで障害物競走のようにくぐり越えると、向うに目的地である森の海岸やしおさい公園の体育館の屋根が見えてきました。

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 一行は影を選んで3回目の給水休憩を取りました。真夏の暑い時期なので熱中症にでもなったら大変と、一般参加で同行した井上保健師さんの助言を得ながら休憩し、記念写真を撮りました。竹田一男さんや若松良樹さんなど高齢者教室参加の皆さんも元気に歩いていただきホッとしました。

 歩いたメンバーの中には年輪塾や史談会で一緒に学ぶ松本さんや中尾さんもいて、色々なことを話しながら歩くことが出来ました。

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 やっとたどり着いた森の海岸には県指定天然記念物埋もれ木の存在を示す看板がありましたが、この埋もれ木が1500万年前のものであることに子どもたちは驚いた様子でしたが、そこから体育館まではまだ少々距離があるため、教育委員会の配慮で小さなマイクロバスをピストン輸送して乗せてもらい、冷房の効いた体育館の中へ揃って入りました。

私たちは伊能忠敬の足跡を訪ねるだけのウォーキングでしたが、伊能図を見に来ていた他の人よりもはるかにいい経験をさせてもらいました。会場では実行委員長で双海町出身の武智利博さんや、双海史談会の磯田会長さん、事務局の門田さん、岡崎さんなどとも出会い、早速伊能図の上を靴下のままで歩かせてもらいました。

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  「空青き 真夏の浜を 黙々と 2時間弱で 一万(歩)近く」


  「崩れたり 谷が出来たり 繰り返す 自然営み 目の当たりしつ」

  「高齢者 元気に歩く 姿見て 俺もまだまだ 弱っちゃならぬ」

  「携帯に ついた万歩の 数を見て 意外少なく 少々気落ち」

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○伊能忠敬フロア展①

 何ヶ月か前、伊予文化協会の会長である門田真一さんから、伊能忠敬の測量した地図の展示会を伊予市で行う話を聞いていました。また双海史談会でも伊能図に関する研究者を招いた学習会があり、四国で初めて伊予市のしおさい公園体育館であるフロア展を楽しみにしていました。

 フロア展は8月6日から8日までの3日間でしたが、青少年を対象にしたおもしろ一日大作戦でも、高齢者教室とタイアップして、高野川から伊予市森まで伊能忠敬が測量のために歩いたと思われる海岸線を、歩いてフロア展を見に行こうと、二日目の7日にその小さなイベントが行われました。

 日本列島全体が猛暑日を記録するような日のイベントなので、高齢者の殆どはバスで直接しおさい公園まで行きましたが、子どもや大人が約30人約一時間半をかけて高野川から森の黒磯海岸を汗をかきながらひたすら歩きました。

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 三秋峠の現在の道が通じていなかったころは、私たちの町から松山方面へ行くのには海路か海岸線を徒歩するしか方法がなかったのです。私の親父など固陋の話を聞くと修学旅行は松山方面でこの海岸の道を一泊二日で歩いていったとのことでした。

 今は道路の立ち退きで無くなった旧海楽園の表の海岸に降りる急な道を通って、渇水期で水の少なくなった高野川川を渡り9時半頃一行は海岸に出ました。この日は運よく潮が引いていて、所々生い茂った雑草や雑木が作る木陰浜部分を利用しながら進みました。午前中といいながら夏の日差しがきつく、汗をかきながら時々休んだり、時には素人ながら私が沖合いに浮かぶ島々の話や、海岸の埋もれ木などの話をしながら、極力楽しく遊びながら歩きました。

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 中でも愛媛県の天然記念物になっているメタセコイアの化石の露出した部分を囲んで改札学習をしたりしましたが、海岸の所々は地すべり地帯ということもあって、今年の梅雨の雨で崩落を繰り返していて、その土分が海岸に流れて海の水を茶色く濁らせていました。土分が海に流れ込むと貝類や海藻類に甚大な被害をもたらし、時には死滅することだってあるのです。

 また扶桑木(メタセコイア)の化石も露出風化や土分によって埋没して、手だてもせず放置されたままになっていました。このままだと残念ながら貴重な資料がなくなる危険性もあるようです。

 海岸は生息する動植物や流木をはじめとして見方によれば結構面白いものです。何かに似た石や流木を見つけて歓声をあげましたが、最後は手段の列が一際長くなり、森に到着したころは少々バテ気味でした。それでも貴重な体験をしたと参加者は一応に皆さん喜んでいたようです。


  「その昔 父母の歩いた 海岸を 猛暑汗出し 一歩一歩と」

  「海岸線 伊能忠敬 測りつつ どんな思いで 歩いたのだろう」

  「足元を 見れば炭化の 埋もれ木が 興味津々 暑さ忘れて」

  「あの島も この島だんだん 形変え 私の横を 同じ速度で」

 

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○蘇り胸うずく8月6日8時15分

私は1944年、昭和19年10月3日に生まれました。私が生まれた10ヵ月後、日本はポッダム宣言を受諾して敗戦を迎えました。その引き金になったのは人類の歴史上初めて日本に原子力爆弾が投下され、多くの犠牲者を出した広島・長崎の忌まわしい惨状だといわれていますが、私の年齢と同じく65年経った今も核爆弾はこの地球上に存在し、その脅威におののきながらも人間は暮らしているのです。

 オバマアメリカ大統領のプラハ演説が引き金になって、軍縮や核拡散への期待が高まり、今年の広島平和式典にはアメリカ駐日大使や国連事務総長も姿を見せたものの、出席して非核三原則をこわくぁかに叫んだ日本の菅首相はその2時間後、秋葉市長の核の抑止力傘下方針の離脱を訴えた秋葉市長の平和宣言をまったく無視するように、記者会見で抑止力を強調する迷走ぶりは、この65年間に出来上がった日米暗黙の信頼構図が、そうおいそれとは崩せない胸のうちを物語っているようです。

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(母の背中でキノコ雲を見たであろう、下灘豊田下浜から、8月6日8時15分、水平線の向うに広島を望む)
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 私は戦時中生まれの65歳といいながら戦争を知らない世代です。でも戦争中に母親のお腹に身ごもり、覚えていないといいながら10ヶ月も戦時下で生き、敗戦後の物のない時代に育っているのですから、自分の人生における基底的なスタート部分ゆえに胎教や感化を受けているに違いないのです。

 母親の背中に負われて私は8月6日の朝を迎え、伊予郡下灘村下浜豊田の海岸で対岸にアメリカ軍の爆撃機エノラゲイから投下後発生した原爆のキノコ雲を見ているのです。キノコ雲が原爆だとは直ぐには気がつかなかったものの、その日のうちに村中が大騒ぎになったと母親は、少し大きくなった私に語っていたのを思い出すのです。ゆえに私の体の中の潜在能力そうするのか、毎年8月6日の8時15分が近づくと頭の中に当時の悲惨な惨状が蘇り、まるで金縛りに合うような錯覚になるのです。

 私でさえこうなるのですから、原爆に遭った人たちの心の傷は癒えるどころか、死ぬまでその恐怖は付きまとい恐怖におののくのは当然なのです。

 平和式典は一種セレモニーのように見えますが、不戦や平和、反核の誓いでもあります。正解唯一の被爆国日本がノーモアヒロシマ・ノーモアナガサキをスローガンに、今こそその先頭に立って国を挙げて世界をリードしてゆかねばならないのです。その先頭はやはり日本国首相のリーダーシップだと思うのですが、アメリカの抑止力に甘んじるなと当時の自民党政権を厳しく糾弾し続けてか政権を奪取した民主党ですら、秋葉市長の平和宣言を踏みにじるのですから、政治への期待は無意味なようにも思えるのです。

 でも諦めることなく国民運動の勢いを強め、次の世代に核を引き継がせない強い意志を持つべきと、秋葉市長の平和宣言を聞きながら今一度心新たにしました。今年の救いはアジア韓国から選出されている国連事務総長が初めてヒロシマを訪れ温かいメッセージを世界に向けて語ってくれました。これはオバマ大統領ののように言葉巧みなたった一回の演説で、ノーベル平和賞をもらったことよりも、春賀に価値のある演説だったと思いました。胸うずく8月6日は来年も再来年も、私の人生が続く限り続いて行くことでしょう。

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(8月6日の灼熱の太陽は水平線の彼方に平和の願いを込めながら沈んで行きました)

  

  「一回の 演説だけで ノーベル賞 オバマお前は それでいいのか」

  「毎年の ようにうずいて 胸騒ぎ これも胎教 母の土産か」

  「ことの他 猛暑の多い この夏も 八月六日 姿現す」

「母背中 背負われ見たと 言う雲の 辺り入道 モクモク湧きて」

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○人の縁の不思議を感じました

 人の縁とは不思議なものです。1ヶ月も前西予市役所を退職した薬師寺智彦さんから、宇和町のふれいセンターで人権教育の話をして欲しいと照会依頼がありました。いつもは「呼ばれたら刑務所以外何処へでも行く」と洒落ていますが、同和教育や人権教育は中々難しいだけにやんわりお断りしかけましたが、旧友のたっての頼みを断わることもできず受けてしまいました。

 数年前といってももう10数年前の話です。シーサイド公園で海開きの準備をしていると海岸が何やら騒々しいいのです。人が溺れた。人工呼吸、救急車などの言葉が渚で乱れ飛び、一応公園の全責任を負っていたじきでもあったのでことの重大さを知りました。友だちと海に飛び込んだ若い男性が心臓麻痺を起こし仮死状態になったのです。その後はパニック状態の中で救急車搬送、警察への連絡、一緒に泳いでいた友達からの事情聴取、心臓麻痺を起こした親への連絡と、矢継ぎ早の仕事がどんどん舞い込んで、私も大汗をかきながら対応に追われました。

 結果的には心臓麻痺を起こした宇和町出身のこの若者は病院へ搬送する救急車の中で息を引き取り帰らぬ人となりましたが、若者の両親を探し当て連絡に奔走してくれたのが薬師寺さんでした。その後葬式や見舞い、仏事、一周忌に寄付をいただいたことなどなど、相手のご両親と私の個人的な付き合いが始まりました。

 その後お父さんは病魔に襲われ長い闘病生活の末今年の3月息子さんの後を追うように天国へ旅立たれたのです。偶然とでも言おうかその人の弟さんのお嫁さんがふれあいセンターに勤めていて、今回の講演の窓口になっていたのです。

 その方と電話で講演の打ち合わせをする中でお父さんが亡くなったことを知りました。昨日はいい機会だと思い、少し早めに出て三好さんのお宅へお邪魔して亡くなったお父さんの仏前にお参りし、線香を手向けて色々な思い出話をさせてもらいました。お盆が近いこともあって初盆を迎えた白い灯籠が座敷に印象的に飾られ涙を誘いました。

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 奥さんは暑い最中なのにわざわざ会場まで足を運ばれ、薬師寺さんとともに私の講演を聞いていただきました。時代の歯車はどこかで狂い、どこかで噛み合うものだと縁の不思議を感じながら、超満員の参加者を前に90分の講演をさせてもらいましたが、会場には百人一首カルタの第一人者の和気先生や町並み保存で知り合った若い大氣さんも吟舞の一員として参加していて、嬉しい再会を果たしました。

 この日外は猛暑日、そして時折スコールのような雨が降るあいにくの天気でしたが心はポカポカで、センター館長さんの温かい心にも助けられいい思いの一日を過ごさせてもらいました。

 ふれあいセンターまつりらしく入り口には七夕飾りが飾られ、入り口ロビーでは小さなフリーマーケットも開かれていました。


  「縁不思議 まるで芋づる 次々と まるでドラマを 見ているようだ」

  「逝きし人 白い灯篭 走馬灯 初盆悲し 涙を誘う」

  「人権の 話頼まれ 断わるが 断わり切れず 意の向くままに」

  「ああ今日も 人のご縁を いただいて 感謝しながら 心熱くし」


 

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