shin-1さんの日記

○日土小学校見学会に参加して思いました②

 ・家は木の癖組み

 日土小学校を訪ねて感じたことが幾つかあります。まず学校とは一体どんな意味を持っているのでしょう。宮大工で有名な西岡棟梁が「家は木の癖組み」という言葉を残しています。木が沢山あれば森、少しだと林、一本だと木と呼びますが、一本の木にも育つ生い立ちによって癖があるようです。松村さんは設計という立場で学校を造りました。ガイドブックの始めに手づくりの学校というも記事がありました。名前こそ記されていませんが地元の大工さんが自分たちの村の学校だから、自分たちの子供や孫がそこで勉強するのだから、一生懸命やろうという気概で金銭勘定を度外視して、持てる技術を出し切って取り組んだ手づくりの学校なのです。

 「金閣寺は誰が作ったか?」という問いに、足利義満というのは普通ですが、子供は「大工さん」と答えます。松村さんにスポットを当てるのもいいですが、この学校にかかわった地元の大工さんのことをもっと子供たちに教えて欲しいと思いました。大工さんは木一本一本の癖を見抜いて癖組をしているのです。人間の社会も同じで、人間は育つ環境によって様々な癖があるものです。その癖を組み合わせながらいい社会を作らねばなりません。

 ・学校は木に交わって学ぶ場所

 学校とは木が交わって学ぶとも読めます。日本は貧しかった戦後の一時期を脱して、アメリカや西洋の物真似をしてきました。建築はいい例で、高温多湿の気候風土にありながら鉄筋コンクリートの建物をどんどん造ってきました。半永久と思えた鉄筋コンクリートの建築物は海砂をたかったこともあって、50年も経たないのに殆どが老朽化し、耐震基準に合わなくなってしまったのです。高温多湿な日本にありながら東大寺五重塔などは千年を超えて現存していることを思うと、木造校舎を危険校舎という名の元に壊してしまった行政や建築家の無責任さは、説明責任も果たさないまま今に至っています。木を使っていない学校は学校と呼べません。

 そのことに気がつき、木造建築の木に交わって学ぶ学校も少しずつではありますが増えてきています。私は木と土壁の家に住んでいますが、室内の結露も無く、シックハウス症候群という病気の心配も無いのです。木造校舎の日土小学校も、翠小学校も様々な人の思いの深い運動によってかろうじて残りました。これこそ私がいつも言っている「一周遅れのトップランナー」なのです。

 ・学校は地域の中心よりどころ

 私は仕事柄、学校が少子化の影響という名の元にいやおう無く廃校や閉校した地域を見てきました。これも時代の流れで仕方がないと、何の抵抗も無く諦める人が殆どですが、運動会や学芸会など村中の人がこぞって学校に足を運んだ時代があっただけに、何とも寂しい感じがするのです。

 私の持論は「小学校は歩いて行ける距離」が基本ですが、20キロも離れた小学校へ毎日登校するような統合は最早子供たちにとっては余りにもリスクが大きいのです。効果効率の名の元に学校を統廃合するくらいなら、昔のようにたとえ人数が少なくても分校方式のような寺子屋構想を考えてはどうかと思ったりするのです。

 今の学校は門を閉ざさねばならないほど、危険だと思われています。ゆえに地域に開かれるはずの心までも閉ざそうとしています。地域が学校を地域づくりの中心に据えていくためには、地域の人ももっと大きな心を持つべきです。残念ながら地域の人は虫の目になり過ぎて、鳥の目という対極を見れなくなっていることも事実なのです。せめて地域をリードする人たちは今をテーマにするのではなく10年後20年後をテーマにして生きて欲しいのです。今だと好きか嫌いか、損か得の判断になります。未来は善悪で判断せねばなりません。建築家の手から地域づくりをする地元の人たちの手に学校を受け取る時が来たような気がしました。

  「木も人も 癖があるから 面白い 癖組みすれば 家人立派に」

  「コンクリの 学校木がなく 学校と 言えるかどうか 疑問感じる」

  「学校は やはり地域の 宝物 無くなり思う 後の祭りか」

  「校庭に 登る木ありて 学校と 言いたいけれど それさえもなし」

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shin-1さんの日記

○木霊の学校日土小学校を訪ねる①

 先週の日曜日、木霊の学校という愛称で呼ばれている日土小学校の見学会に出かけました。これまでにも日土小学校の見学会は何度も機会がありましたが、仕事の都合や建築学などに弱くて疎いため足が遠のいていましたが、年輪塾の仲間に加わっている菊池さんと清水さんが案内するので是非という清水和繁塾頭の口車に乗って、恥も外聞も無く妻同伴で出かけて行きました。木造校舎といえば県内双璧と思われる翠小学校の近くに住んでいて、学校を見学しようと思えばいつでも快く迎えてくれる年中開放の学校と比較すれば、見学会とは何とも仰々しく窮屈な感じのする学校ですが、住民を二分するような学校保存運動の経緯を考えたり、学校のセキュリティのことを考えると、仕方がないことだと思いつつ、この小学校の卒業生で保存運動に深くかかわった菊池さんと清水幸一さんの案内で学校を1時間半かけてゆっくりと見て回りました。

若松進一ブログ
(案内してもらった日土小学校卒業生の左清水幸一さん、真ん中清水塾頭、右端が菊池さん)

若松進一ブログ

 私は民俗学者宮本常一流なのでしょうか、まず学校の周りの風景が気になりました。日土は私たちの地域と同じように急峻な地形に民家がへばりつくように点在しています。段々畑に囲まれた学校はまるでカガスのそこのような位置にあって、学校の直ぐ横に喜木川が流れています。多分民家や畑からも学校が一望できるのです。岡崎さんからメールで送られてきた一枚の写真も学校の全景が見えるものでした。運動場の向うに見える日土の集落は夏の青い空や流れ行く雲が印象的に見えました。

 運動場に車を止め玄関先に入るとまず目に付くのは両側が吹きぬけた靴箱と台形の靴脱ぎ場です。菊池さんと清水さんの説明を聞きながら、この学校を設計した日本の建築10傑に名を連ねている松村正恒さんという人のことを思いました。


 大洲市新谷に生まれ、八幡浜市役所に勤務したことのある松村さんは無級建築士自筆年譜に、「わたしは、小学校をつくるとき、まずは子供になったつもりでプランを考え始めるのです。マルローの空想美術館というのがあるでしょ、あれにならって空想の学校を思い浮かべるのです。ふとんのなかで目をつむる、子供に変身する、童心にかえる。学校のなかを走りまわる。座ってみる、変化と感動を探りだす。決められた敷地がよみがえって学校のかたちが現れる。歓声が聞こえてきます。」と述べています。建築家ではなく建築稼、つまりのぎへんに家というのは稼ぐという意味ではなく、ものを植えつけて育てるという意味なのだと述べる松村さんの思いを強く感じることが出来ました。

 清水さんから手渡された日土小学校ガイドブックには、手作りの学校、光と色の魔術師、開放された昇降口、両面採光の教室、開かれた空間、うるおいのある生活、子供のための色々な工夫、教室と外のつながり、傾斜21度の緩やかな階段、廊下とベンチと飾り棚、風空間へ、室でなくホール、室のカドまでとっちゃいました、座る人のことを考えた椅子、本当の意味での恵まれた環境などの目次が並び、菊池さんや清水さんの説明にいちいち納得しました。いやあ素晴らしい学校でした。


  「この学校 学んだからこそ 言えること 次々飛び出し 納得しつつ」

  「いいものは 無駄と手間隙 かけている だから意味つけ 遺し伝える」

  「新校舎 松村イズム 真似てるが どこか違うと 素人私」

  「この学校 なければ日土 ただ田舎 もっとみんなで 知恵出し活気」

 

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shin-1さんの日記

○長崎の鐘をハーモニカで吹く

 昨日8月9日は65年前、長崎に原爆が投下された祈りの日でした。同じ原爆の被害を受けた8月6日の広島とはどこか違うものを感じながら、僅か4日間しか違わない日々を、戦争について色々考えさせられました。広島は平和公園原爆資料館と焼け爛れた世界遺産原爆ドームを見ただけで原爆の恐ろしさを体感できますが、長崎は力強い北村西望作平和の像や長崎の鐘に象徴される祈りの街の感じがするのです。一方ではオリンピック招致を目指す100万都市の力強さを強調する広島市長と、銃弾に倒れた後を引き継いだ長崎市長とでは、同じ核廃絶を訴えてもどこか違う気がするのは何故でしょう。

 8月9日11時02分、最初の標的は北九州小倉だったそうですが、小倉地方の天候が悪く長崎に変更されるという悪運に見舞われた長崎に、広島に続いて2発目の原爆が投下されました。地獄絵を見ているような惨状や、その後の後遺症は広島と同じだと広島原爆資料館を頭に描きながら想像できますが、私の心に残っている長崎は、やはり藤山一郎さんが歌った「長崎の鐘」という歌詞とメロディーなのです。

 昨日は所用で松山へ行っていて、カーラジオから流れる長崎の平和式典の模様を聞きながら昼過ぎわが家へ着きました。昼食を終え書斎に入りパソコンのスイッチを入れ、ヤフーで検索して「長崎の鐘」の歌詞を探しプリントアウトしました。

「長崎の鐘」

        サトウハチロー作詞・小関祐而作曲

(歌詞掲載不可のため割愛)

ご存知永井博士を歌った歌ですが、原爆の悲惨さなど何処にも詠われていない歌なのに、長崎の原爆を象徴する悲しみや祈りが込められているのです。私は戦争中に生まれ戦後の窮乏時代に育ち、この歌を聞いて育ちました。成人になってからもこの歌は音痴ゆえに上手く歌えないものの口ずさめるのです。そしてハーモニカを吹き出してからこの曲を練習しましたが、この歌は前半がAmマイナーと後半Aマイナーの2本のハーモニカを併用しないと吹けないのです。幾ら練習しても吹けなかった難曲でしたが、2本のハーモニカを手に入れてからはどうにか吹けるようになりました。

若松進一ブログ

昨日はハーモニカを木になるカバンから取り出して書斎で一人吹いてみました。プリントアウトした歌詞に楽譜はありませんでしたが、体感音楽とでも言うべきメロディーはある意味物悲しく私の心を打ちました。昨年講演で長崎を訪ねた時も平和の像の前で恥も外聞も無く「長崎の鐘」をハーモニカで吹いて鎮魂の祈りを捧げましたが、この歌を聴く度吹く度に長崎の原爆を思い出すのです。

私の年齢と同じ65年を経た長崎原爆の日、私は私の人生の続く限りこの歌を忘れず口ずさむことでしょう。平和への祈りを込めて・・・・・。

「長崎は 祈りの歌の 懐かしく 鎮魂願い ハーモニカ吹く」

  「天候の いたずら小倉 免れて 長崎悲劇 今も尾を引く」

  「長崎の 鐘という曲 忘れまじ 生きてる限り 歌い続ける」

  「核の無い 日本にしたい 思えども 安保傘下 アメリカ意識」 

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