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○石鎚登山④

 苦しかったけれど子どもたちの頑張りで全員が登りきったため、下山は楽勝と思っていました。のぼりは1班から5班としましたが、帰りは5班を先頭にして1班をしんがりにしました。ところが私に続く5班はしっかりと着いてくるものの、600mの西条との合流地点で足を痛めた子どもがいて、大幅に遅れ始めました。このまま足を痛めた子どものペースで歩くと元気な子まで体力を消耗するので、私の判断でその子を最後尾にして体力のあるリーダーをつかせました。もしも歩けなくなったらおんぶして下山するしか方法がないのです。そのうち頭が痛い子や戻してしまった子、トイレがしたい子などが出てかなり心配しましたが、園子たちを後ろに回して、本隊は予定通りのペースで減算したのです。ゆっくりペースを守った4、5人も20分ほど遅れて無事下山することが出来て、土小屋の建物の前で最後の子どもを迎えた時は思わずホッとしました。

 一番しんがりで体調不良の子どもたちを励ましてゴールしてくれた松本さんご夫妻に感謝します。一番前を歩いて引っ張りながらゴールするのも、一番最後尾で後押ししてゴールするのも同じような心配があります。でも最後尾で頑張る子供やリーダーの存在はとても勇気付けられました。この話は今晩の「夕焼け村の」夕日の話

で紹介したいと思っています。

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(やっと辿り着いた土小屋)

 土小屋付近は相変わらず霧雨が降っていましたが、早くも秋の訪れを告げるようにアキアカネトンボが群れを作って飛んでいました。下界より早い秋の訪れを感じさせてくれるように、秋の七草であるススキの穂も出始め、葛の花や萩の花も満開のようでした。

 しかし登山道の道端に目を向けると、様々な高山植物の花が咲き乱れ、目を楽しませてくれました。途中で植物観察をしている高知大学理学部の学生さんたちに出会いましたが、その気になって見れば20や30種類は見つけられるほどの多さです。植物に関心がある人にはたまらない魅力なのでしょうが、登山というきつい目的のために、足元の美しい光景など見えなかったのが残念でした。

 又歩いていると、樹間に見事な遠望が開けることがあります。昨日は西条付近の市街や瀬戸内海まで眺望が開け、みんな疲れを忘れて「綺麗」と感嘆の声を上げていました。

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 登山道を歩いているとよく人に出会います。親子連れ、夫婦連れ、仲間連れなどなどですが、時には一人で歩いている人に出会います。熊除けの鈴をつけたりしている人にも出会いました。お互い声をかけ、「ご苦労様」とか『頑張って」などと励ましの言葉も貰います。縁もゆかりもない人たちなのにです。

 昨日の下り道で珍しい顔見知りの夫婦に出会いました。役場に勤めていた時、県からの出向で建設課に来られていた西条の菅野さんです。もう10年近く出会っていなかったのですが、お互い汗をかきながらの出会いに思わず嬉しくなりました。在職中に菅野さん宅へ出かけ西条祭りを見学したり自宅ですっかりおご馳走になったことがあるのです。奥さんも「いつも新聞やテレビでご活躍のご様子は」と気軽に声を掛けていただきました。

 山は思わぬ出来事や思わぬ人に出会います。これもまた山歩きの楽しみでしょうか。

 何はともあれ全員元気で下山し、待機していた奥島観光のバスに乗り、美川道の駅、砥部焼き観光センターでトイレ休憩をして6時過ぎ夕闇迫る双海潮風ふれあいセンターに帰ってきました。

  「登るより 降りるは楽と 思ったが 故障者二三 少々遅れ」

  「道端に 高山植物 咲き誇る 歩くの必死 見る余裕無し」

  「あれが海 あれがススキと 説明を するも耳など 貸さず黙々」

  「登山道 懐かし人に めぐり合う 別れた道を 次第に離れ」

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○西日本最高峰石鎚山登山③

 私はこれまで石鎚山に5回くらいしか登っていません。しかももうかなり前のことなので、当時の記憶は断片的でしかないのです。やはり記録しないことは記憶されないのでしょうか。そういう意味では今回の登山は短いコメントながら記録する絶好の機会なのです。

 前日の夜のミーティングで石鎚登山について色々と打ち合わせをしました。天候判断、健康判断など状況を判断する幾つかのポイントを話し合いましたが、夏山シーズンも終わりに近づいたこの時期の天候は変わりやすく、私たちのような海沿いに暮らす人間には、気象情報が進んだ現代とはいえ計り知れないものがあるのです。

自然の家を出るときは曇り空でした。石鎚スカイラインに入るとバスの前が見えないほどの霧雨でした。不安が過ぎりましたが、「山のことは山の人に聞け」といわれるように、まず自然の家の職員さんに天気具合を聞き、また登山最前線である土小屋に勤める人の話も聞いた結果、登山を注視するほどではないという最終判断から、ら、登山を決行することにしました。

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(一列になって登山道を進む一行)
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(途中休憩場所で休憩する一行)

 今回の登山では比較的登山経験の多い私が先導役を努め、子どもたちを挟んだ最後尾は事務局の赤石さんがついて対応処理することになりました。私は子どもたちの体力のことを考えて、片道4.6キロをいかに疲れず安全に歩けるように心を配りました。65歳の私の体力が小学生程度であることも功を奏したようです。

 途中見晴らしの良い場所に設置している休憩所のような場所3ヶ所で給水休憩を取りましたが、ぬかるんだ登山道は石段や丸太を組んだ場所が沢山あって、雨に濡れて滑りやすく子どもの中には足を滑らせて転ぶものもいたようです。西条側の登山道と合流する4キロ付近までは、尾根を歩くコースなのでそれほどきつくはないのですが、後の600mは難所中の難所で1~3の鎖の道が続くのです。しかし天候のこともあって私たち一行は迂回路を選びましたが、綺麗に整備された迂回路でさえもきつく、山頂についたころには2時間半の登山で疲労も極限だったようです。でも全員列を乱すこともなく山頂に登ることができました。

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(最後の難関一の鎖付近の迂回道を進む一行)
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(実が得た頂上付近に夏空が広がりました)
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(ほんの一瞬天狗岳が見えました)
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(頂上付近で昼食を取る子どもたち)

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(頂上に設置してある方位板)
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(頂上の看板には1982mと石鎚山の高さが刻まれていました)

 ラッキーなことに山頂に到着すると一気に天気が回復して吹き上げる冷たい風に体を冷やしながら下界のす場らしい眺望を味わうことが出来ました。山頂では30分間昼食の時間を取り、思い思いの場所で自然の家で作ってもらったベントに舌鼓を打ちました。そのうち山の天気は一変し雨が降り出しました。トイレを済ませ持っていた合羽を着て下山を開始しました。


  「降水の 確立聞いて 戸惑うが どうにか全員 石鎚登る」

  「先達に なった気分で 前歩く 後気にして 4,6キロ」

  「山がある だから登ると 言うとおり 理屈は要らぬ とにかく登る」

  「近いじゃん 4,6キロ 聞いた子が こんなに遠い 思わなんだと」

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○心に残った山里初秋晩夏のの風景スケッチ②

 前日の夜のミーティングで気になっていた雨の心配をしながら目覚めの朝を迎えました。私はそっと布団を抜け出して外に出て、急な坂道を一人で歩いて下り、アーチ橋を渡って川沿いの道を散歩しました。我が家では夏の日照りでとっくに枯れた金時豆やインゲン豆が畑でスクスク青々と育っていて羨ましいと感心したものです。

 アーチ橋はとてもお洒落で、橋の下を流れる面河川の清流がいかにも長閑に流れていました。早朝ながら早くも畑仕事をしていたおじいさんとお話をさせてもらいました。このおじさんもご多聞に漏れず耳が遠いようで、多少チンプンカンのようでしたが、面白い話を聞くことが出来ました。

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(面河少年自然の家絡みえる山里の端のある風景は絵になる風景でした)

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(橋の上から見える晩夏の面河渓谷)

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(端のある風景も下に下りると違った趣でした)

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(ど根性白百合とでも命名したくなるような石垣にしがみついて咲く由利の花)

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(間もなく稔りの季節を迎える栗の実)

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(長い廊下)

 晩夏を迎えた山里にはもう初秋を感じさせるような爽やかで心地よい風が吹いていましたが、様々な場所で考えさせられるような光景に出会いました。ひっそりと山里に暮らす独居のおばあちゃんがマイピアに乗ってゴミを出す姿、薪で沸かす風呂の煙、黙々と畑を耕すおじいちゃんなどは過去にタイムスリップしたような印象さえ受けました。印象的だったのは元学校だった面河少年自然の家の長い廊下で、過疎化と高齢化、少子化、限界集落、学校廃校など、様々な問題を抱えて苦悩する中山間地を象徴しているように思いました。

 この地域も平成の大合併で久万高原町となりましたが、不便さはこれからも解消されず、むしろ行政サービスは遠のかざるを得ない厳しい現実が待ち受けているのです。


 かくいう私も、海沿いとはいいながら過疎や高齢化、少子化、限界集落など同じような問題を抱えて苦悩する地域に住んでいて、これからも同じような宿命を背負って生きてゆかなければならないのです。しかし幾ら現実を嘆いて目をそらせても問題は解決しないのです。宿命だと思っていることを運命と思って努力すれば多少なりとも暮らしは向上し、いい人生が送れるのですから頑張らなければなりません。最近「頑張る」という言葉が否定されるような世の中になってきました。世の中には頑張ってもできないことや、頑張っても出来ない人もいることは事実です。でも身の丈サイズの頑張りをすれば多少なりとも生きる勇気は湧いてくると、個人的には思っています。人や社会がどうであれ、私はこれからも自分サイズの頑張りを続けたいと思っています。


  「朝起きて 周辺散歩 清々し 山里長閑 時計止まりぬ」

  「朝早く もう畑出て 鍬振るう 山のおじさん 働き者だ」

  「一本の 橋も絵になる 風景を カメラに収め 深呼吸する」

  「夏終わる 目にはさやかに 見えねども 栗の実少し 色づき始め」

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○ふたみ夕焼け村始まる①

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(支所ロビーホールでの開会式)
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(見送りに集まった家族)

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(指導するスタッフの皆さん)

 例年のことながら「ふたみ夕焼け村」という小学生の合宿が始まりました。私もそのスタッフに一員として参加することになりました。夏休みも終わりに近づいた昨日から始まった夕焼け村最初のプログラムは、面河少年自然の家に前泊して明くる日、西日本最高峰といわれている1982mの石鎚山に登山するのです。

 そのため昨日は午後1時に双海町をバスで出発し、国道33号線を通って面河にある少年自然の家に着きました。ここは元小学校の建物を使っています。急な石段を登ると、運動場の横に長くて高い石垣があり、その上に長屋のような建物がありました。職員さんの勧化に入所の挨拶をいただいて中に入りましたが、雑巾がけで磨き込まれた82メートルもある長い廊下は何とも落ち着く風情で、早速子どもたちは決められて宿泊等の2段ベッドに入って楽しそうにはしゃいでいました。

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(現地入りした子どもたち)
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(面河少年自然の家)
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(飯ごう炊飯)

 午後4時からは近くの炊飯場へ出かけ、各班に別れて勘合でご飯を炊いたりカレーを作ったりしました。時折小雨がぱらつくあいにくの天気でしたが、ジャガイモやニンジンの皮を剥いたり、タマネギの皮を剥いて細かく切って、それぞれ下手糞な火起こしをして煮炊きをしました。

 子どもたちは日常生活で火を焚くことなどまったくないため、火を炊くことが余り上手にできず、特に飯ごうでご飯を炊く水加減と水加減や火加減にかなり疎く、家や学校で習っていないことが一目瞭然でした。また野菜を切るのも傍で見ているとイライラするほど下手糞でしたが、それでもみんなの努力の甲斐あって、美味しいご飯と美味しいカレーが出来上がりました。私たちは手伝った畔に潜り込んでご相伴に預かりましたが、チキンカレー味は中々のもので、5つの畔全てが完食でした。

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楽しいレクリェーション)
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(キャンドルサービス)


 予定されていて楽しみにしていたキャンプファイヤーも雨のために中止となり、キャンプファイヤーに替わって食堂を片付けてキャンドルサービスをすることになりました。この日はボランティアで参加したまつやま東雲大学の学生や愛媛大学の学生、それに中学生ボランティアの協力もあっていつになく盛り上がり、楽しい合宿となりました。子どもたちが寝静まった10時からはリーダー会議が行われ20人ほどのスタッフが色々と語り合いました。酒もなく夜食のカップラーメンを食べる程度のサービスでしたが、いいミーティングとなりました。

 少年自然の家の壁には至る所に思い出の感想文が張り出されていました。見覚えのある先生や子どもたちのコメントもあって、この自然の家で研修した思い出を読むだけでも楽しいものです。私たちも11時には床に着き、軽いいびきに悩めされながらもいつしか夢の中へ旅立っていました。夜中に屋根の上を何かの動物が走る音が聞こえたり、遠くを流れる仁淀川水系面河川の瀬音も過ぎてしまえばいい思い出となりました。


  「海沿いの うだる暑さを 後にして 天然クーラー 二日を過ごす」

  「包丁や 火さえ使えぬ 現代子 それでもカレー 上手に作る」

  「久しぶり 飯ごう炊飯 懐かしい 思い出しつつ 子どもと一緒」

  「キャンドルの 前で寸劇 披露する 意外と受けて ホッと安心」 

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○食事の門限破り

 若い頃には随分無茶苦茶なことをしたものだと昔を振り返りながら思います。酒を飲んでいたころは「10円タクシー」などと得意げになって酒を飲んだ挙句、酒代は工面できてもタクシー代が勿体ないと妻を平気で迎えに呼び出して、深夜の道を自宅まで酩酊して帰りました。その都度何処かのラーメン屋に立ち寄り、仕上げのラーメンや餃子を食べていたのです。若い頃はそのことが健康に悪いなんてことはまったく気付かず、若さが故の新陳代謝で切り抜けていたのです。ところが私に付き合ってラーメンを食べていた妻の体重が少しずつ増えて、ジーパンが合わなくなっていました。

 食う物とてなかった戦後ならいざ知らず、飽食の時代の現代は体重を増やすことは簡単です。甘いもの油濃いものを食べて運動をせねばあっという間に体重はうなぎのぼりに増えてゆくのです。


 ところがどうでしょう。一度増えた体重を減らすことは容易なことではありません。あれから妻は改心して一生懸命痩せるため涙ぐましい努力をしましたが、体重は乱高下して、今もその後遺症に苦労をしていますが、どうにか目標であった体重まで辿り着くことができたようです。

 私たち夫婦の食事の門限はよほどのことがない限り9時と決めています。ところが昨日の夜、次男が出演する演劇を見に行っての帰り食事の門限を破ってしまいました。昨日は愛媛大学での実行委員会を終えてから友人との打ち合わせ時間が長引いて、夕食をつることが出来なかったのです。演劇が終わっての帰り道、一緒に出かけた友人をお茶でもと誘い、伊予市の高坂というレストランに立ち寄りました。私は空腹の余りにここで食事の門限を気にしながら、和風ツナスパゲティを頼んで食べてしまいました。

 門限を破るとき「今日ぐらい」と軽い気持ちになるし、一回門限を破ったところで今朝の体重はそんなに増えるものでもありませんが、「今日ぐらい」が連続するともう危険信号なのです。昨日は夏休みも終わりに近づいていましたが、お店は9時半を過ぎているというのに家族連れで賑わっていました。家族の輪の中には子どもたちも何人かいて、外食をしっかり食べていました。親の何気ない行動が子どもたちの肥満や病気を誘発するのではないかと、要らぬ心配をしながら家族の食事する様子を遠目で見ていました。

 外食をしたら必ずといっていいくらい食事の後に喉の渇きを覚えます。多分砂糖と塩の味付けが濃いいのではないかと思われます。事実妻の薄味になれた私の舌はパスタに絡めたツナの塩味が辛いと思いました。出されたものは全部食べることを教わった古い時代の人間ゆえに、残さず全部食べましたが、朝になって後悔しきりです。食べるよりはお腹を空かせて寝た方が体にいいと、思った朝でした。


  「門限を 破って食事 今朝後悔 気をつけなくっちゃ 自分の体」

  「砂糖と塩 味付け濃い 喉乾く 妻のお陰で 舌も敏感」

  「九時過ぎて 外食食べる 親子連れ 危険信号 どこかで仕打ち」

  「明日から いや今日からと 反省す 体いとおう 九時の門限」

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○劇団イリュージョンの公演

 幻影、幻想、錯覚、特に芸術作品における意識的な錯覚のことをイリュージョンといいますが、愛媛県の県庁所在地松山市に、このイリュージョンという名前のついた劇団があります。毎年夏休みのこの頃になると、劇団員である次男息子とそれを支援する妻の手によって何枚かのチラシと前売り券切符が届き、私も寸暇を惜しんで殆ど毎年この夏公演演劇を見に行くのです。会場はコミセンホールや市民会館中ホールなのですが、25周年を迎えた今年は市民会館中ホールでした。

 猛暑日となった残暑厳しい昨日は、11月に予定されている地域社会教育実践交流集会の実行委員会が愛媛大学構内であって、私はそこから会場まで直行して6時に、開場を待つ長い長蛇列の中に加わりました。


次男息子が劇団イリュージョンの団員になったのは、高校1年生の時でした。松山工業高校機械科に進学してサッカーやラグビーなどの部活に入ったものの、長男のような体力がなくて、また長男に比べ口数も積極性もない次男を見て長男が、勝手に劇団のオーディション受講の葉書を出してしまったのです。「僕は絶対に行かない」と固辞していた次男が長男の説得に負けてオーデションに参加したのです。ところが不思議なことに、そのオーディションに合格してしまい、やがて次男は劇団員とし初舞台を踏むことになったのです。昭和51年生まれの次男は現在34歳ですから実に18年間も、しかも社会人になった今も劇団員として舞台に立ち続けているのですからわが息子ながら立派というほかないのです。今は看護師として日赤松山病院に三交代勤務しているためかつてのような自由は利きませんが、劇団代表の井上佳子さんの信頼も厚く、舞台監督や振り付けにその名を連ねているようです。

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 さて、今年は「八月のアリス」という題名です。ストーリーは「高熱を出し、病院で目を覚ました少年が、うさぎ男に促されるまま着いたところは、四人の少女たちが楽しそうに集まりお話作りしている朝の庭だった」というところから物語が始まり展開していくのですが、途中休憩もなく2時間余り続く楽しい場面に、妻や妻の友人もすっかり引き込まれてしまいました。

 公演やカーテンコールも終わり、例年通り玄関先で舞台衣装や化粧をしたまま交流する息子の姿を見て、少し胸が熱くなりました。妻は今日も友人を誘って息子の追っかけのように再度見に行くそうですが、私は双海少年少女面白教室子ども体験塾のプログラムで石鎚登山に出かけるため加わることが出来ないのです。

 まあ何はともあれ病院の三交代という激務と演劇を両立させている次男のひたむきな生き方に、わが息子ながら敬意を表したいと思います。次男は誰に似たのでしょうか?。


  「学業や 仕事しながら 演劇を 続ける次男 誰に似たのか」

  「演劇の 常識破る イリュージョン 私の感性 少し高まる」

  「わが息子 舞台監督 名を連ね 今更ながら 継続力」

  「八月は 私と妻の リフレッシュ 友を巻き込み 観劇席に」



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○出てきた辞令書と報告書

 私は整理整頓が余り得意な方ではありません。机の上や書斎はいつも妻から注意を受けているのです。それでも月に1度や2度は片づけをするのですが、片付けが追いつかないほど紙類が増えるのです。整理整頓のコツは捨てることが基本だと分かっていても、捨て切れないのが私のまずいところだと自認をしつつ、昨日は久しぶりに大掃除をしました。前回の大掃除で必要書類と思っていた資料なのにこの1年、まったく目を通していない資料は思い切って後ろ髪引かれる思いで捨てることにして、用意したみかんのコンテナに5杯分も処分したのです。処分したものの中にはシュレッダーにかけなければいけないものもあるので、夏野菜の終わった畑の隅に小さな穴を掘って時間をかけて焼却処分にしました。リサイクルも考えるのですが、綺麗さっぱり灰になると諦めもつくので、いつもこの方法をとっているのです。

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 整理整頓が出来ていないと必要な書類を捜すのに一苦労で、ものを探す度に日々の暮らし方を悔いるのです。昨日の大掃除で思わぬものを見つけました。私の最後の辞令です。私は役所に35年間勤めましたが、教育委員会、産業課、企画調整室、地域振興課、教育長など、数えるほどしか異動していないのです。ゆえに異動辞令もそんなに多くはないのですが、今回見つかった辞令は封筒に入っていて、教育長になるため退職した時の辞令と、合併前夜に出された夕日のミュージアム名誉館長の辞令書などでした。探したものののけ忘れて

見つからなかったものだけに、捨てるのも惜しいと思い取っておくことにしました。人から見ればどおってことない紙切れでも、合併して任命権者である双海町長そのものがこの世に存在しないものなので、私のお宝にしたいと思っています。

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(右ページには東京晴海ふ頭からタラップを手を振ってにっぽん丸に乗船する私の写真もありました)

 もう一つ、これも探したけど見つからなかった総理府派遣第10回青年の船の報告書が出てみました。偶然にも前日新聞のコラムでゴールデンゲートの記事を目にしたこともあって、私のブログのその模様を書いていただけに、懐かしくなって掃除をそちのけで読みふけりました。

 私の人生において197年6月23日が日付変更線を越えたため2日あったり、にっぽん丸の船上で過ごした懐かしい日々が蘇ってきました。そういえば書斎書架の引き出しには、沢山のスライドネガが使われることもなく眠っています。これも何とかデジタル化して保存したいと考えていますが、いかんせん私のパソコン能力では叶わず、もう少し先のことになりそうです。

 整理整頓は過去の清算です。過去を今という手段で清算しないと未来認識は出来ません。これからも機会を捉えて過去を清算し未来に向かって一歩を踏み出したいと思う今日このごろです。


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○未利用海草資源活用実験プロジェクトは成功するか

 未利用海草資源である浜に打ち上がった天草を拾い集めて帰ってから5日間が経ちました。最初は他の海草やゴミ交じりだった天草も、丹念な選り分け作業と水に浸したり観想したりを繰り返す晒し作業で徐々に純度が上がって、今はもうすっかり白髪のような姿に変身して、思ったよりも晒し作業が早まり、来週早々にもトコロテンにする実験が始まりそうです。トコロテンにする作業は、時々トコロテンやデザートにフルーツ入りのゼリーを作って、慣れている妻でないと出来ないため妻に頼み込んでいますが、妻はこの材料に「上手くいくかどうかは分からない」と少なからず否定的なようです。

 実は「未利用海草資源活用実験プロジェクト」と、自分で勝手に命名しているこの自分ひとりだけの取り組みは、今年の春先から始めているのです。自分が深くかかわって整備したシーサイド公園の西側に、冬の北西の季節風から人工砂浜を守るために造った長い突堤があって、その突堤を守るためにテトラポットが沢山置かれていますが、いつの間にかこの突堤にヒジキの種が付着し、春になるとヒジキが育つのです。多少危険なため採る人もなく、毎年流れ藻になってなくなってしまうのです。またこの突堤の影響で館長にしか顔を見せない石ころ砂浜が出来、そこに春の西風が吹いた明くる日には大量のワカメが打ち上がるのです。これも採る人もなく自然上かのような形でやがてなくなってしまうのです。

 ヒジキもワカメもキャリーで運び、特にヒジキはわが家の庭で大きな釜で茹でたり干したりという、田舎でしか出来ないかなりきつい作業をしなければ食用にはなりませんし、ワカメもビニール紐を庭中に張り巡らしてまるで簾のように干さなければ保存食にはならないのです。

 でもヒジキもワカメもこうした地道な作業によって見事食用に変身して、わが家の食料となりわが家の健康作りに一役かっているのですから、これは嬉しいことなのです。加工食品は生のものより味が落ちるといいますが、ヒジキもワカメも海のメカニズムで春先にしか採れないため、乾物にして利用する方法が一番なので、味は多少落ちてもこの方法しかないのです。

 ヒジキとワカメでスタートした「未利用海草資源活用実験プロジェクト」に、今回天草という新しい素材が加わりました。私の考えではアオサ、トサカノリ、カジメ(クロメ)も利用できるものと考えていて、考えるだけでもワクワクするように由真は次第に広がってゆくのです。このプロジェクトの最大の難問は全ての素材を収集するのは人間の手間と暇と潮選びですが、自分だけで楽しんだりおすそ分けする程度なら、サンデー毎日の私ですから造作もなく取り組めるのです。

 海草は陸にない様々な養分を含んだ優良栄養食品で、その効能は誰もが認めています。しかしいざ食用にするとなると手間隙がかかり、そのために市販のものは高価でいつも口にすることはできないのです。とりあえず私は今回目をつけた天草を人間牧場のコンニャクと同じようなメニューに加えて、みんなで楽しみたいと思っています。プロジェクトの企画書と作業工程や作業日誌も今年の冬にはまとめたいと思っています。


  「朝夕に 天草晒す 作業する 傍でニヤニヤ 今に見ていろ」

  「天然で 晒した天草 予想より 早い仕上がり 成果を期待」

  「海草は 健康食品 あれこれと 未利用資源 生かす手立てを」

  「もしこれが 食用適と なったなら 夢は広がる 次から次へ」


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○ネットの時代の買い物事情

 インターネットで注文すると居ながらにして宅配便で注文品が送られてくる、便利な世の中になったものです。直接自分で買う買い物売り上げより、ネット販売の売り上げの方が金額的に上回るという、国民の消費動向変化には信じ難いものがあるようです。

 自分のつい最近の消費動向を見れば、人間牧場のロケ風呂の風呂釜も、寒さしのぎの薪ストーブも全てネットで買い求め、先日故障して新しく買い換えたエプソンのプリンターもネットで代引き購入しているのですから、驚くことは無いのです。しかも不思議なことに店頭販売だと高い商品が、「えっ、こんなに安いの?」と目を疑うほどなのです。私がこの度購入したエプソンプリンターはEP-702Aというタイプです。コピーとプリント、それにスキャナー機能があって、インクカートリッジの買い置きが使えるような同じ機種機能を条件にネットで買ったのですが、付属品としてついていたインクカートリッジはお店で買うと6色セットで五千円余りします。だのに代引き生産金額は1万2千円、つまり本体価格は7千円という計算になるのです。首を傾げたくなるような不思議さです。

 ところでペットショップもインターネットの世界では珍しいことではなくなりました。生きているものを死なせずに送る宅配は、「珍しいものを買いたい」というお客のニーズにぴったりで、自分がお店に行って品定めをし仮に買い求めても輸送中のリスクはつき物なのです。そこへ行くとネットだと輸送リスクをカバーできるような技術があるので、玄関先まで荷主が責任を持ってくれるのでかえって安心なのです。

 夏になるとカブトムシ、秋になるとスズムシはもう宅配の定番になってきました。そのカブトムシも今や子どもたちがあこがれる外国産のものまでネットで購入できるのですから、親も子どももお金を出せばある意味夢を叶えることが簡単に出来るのです。でも折角買って貰ったカブトムシやクワガタも、子どもたちの飼育能力ではおのずから限界があって、短い寿命で終えるケースが多いようです。


 それはカブトムシやクワガタを苦労せずに手に入れるから愛情が湧かないのかも知れません。私たちが子どもの頃は夏休みになると、朝早く起きて近くのクヌギ林に行き、樹液の出たクヌギの木に群がるカブトムシやクワガタを探したものでした。勉強は今いちでもカブトムシやクワガタを捕まえる能力に長けた友達も沢山いて、一緒に秘密の場所へ連れて行ってもらったものです。

 当時はカブトムシやクワガタを育てるための腐葉土やゼリー状の餌など手に入らなかったので、林に出かけて腐葉土を集め、餌も砂糖水や蜂蜜を親の目を盗んで虫たちに与えていました。スイカの皮も与えたような気もするのです。だからこそ「死ぬまで大切に育てよう」と思ったに違いないのです。自然の中にいる小動物を虫かごの中や段ボールに閉じ込め結果的には死なせてしまう胸のうずきはまた、小動物ながら生と死を垣間見る勉強の機会にもなっていたようです。お金で買える社会は一見便利ですが、子どもの時代に育まれる生きるものへの愛情や死の悲しみ、自然の営みなど様々な子ども時代の学びは人間の人格形成にとって大切なものなのです。今年も孫に変わって妻が玄関先でせっせとカブトムシやクワガタの世話をしています。はてさて・・・?。


  「朝早く 起きてクワガタ 追いかけし 昔懐かし 夏が来る度」

  「目を盗み 砂糖はちみつ クワガタに 自分食べたい 堪えてやった」

  「何故子ども カブト・クワガタ 欲しがるか いつの時代も 子どもは子供」

  「宅配で 届くクワガタ 何処となく 元気がないな 子どもと同じ」


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○ゴールデンゲートの思い出

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 地元紙愛媛新聞に、何の意味があるのか分かりませんが、点描米国西海岸というコラムがシリーズで紹介されるようになりました。既に⑥の番号が打ってありますが、アメリカ西海岸サンフランシスコの象徴として、長年親しまれてきたゴールデンゲートブリッジは、私にとっても思い出の橋なのです。

 私の乗った三井商船のにっぽん丸(1万5百トン)は、東京晴海ふ頭を出て咸臨丸が航海したであろう航跡を辿り、太平洋の荒波を越えて11日ぶりの朝サンフランシスコに到着したのです。私にとって少年の頃から憧れ、夢にまで見たアメリカ大陸なので黎明の中に見える赤いゴールデンゲートは、とてつもなく大きな夢の橋に見えたのです。入港手続きがが終わり白い船体のにっぽん丸はゆっくりとゴールデンゲートの下をくぐり、サンフランシスコの不当に停泊したのです。


 入港前日11日間の船内活動ですっかり親しくなった船長に、私はこんな笑い話のような話をしたのです。「私はふるさとの公民館主事をしています。日本を出る時沢山の方々から私たちも一緒にアメリカへ連れて行ってと頼まれました。叶わぬことなのでみんなの写真を持ってきました。ほらこの通りその数100人余りです。実は今日乗船している人の中で一番先にアメリカへみんなを連れて行ってやりたいのです」と説明すると、「あなたは面白いことを言う人ですね。船はみんなを同時にアメリカへ連れて行きます。それでは不満足ですか」。「はい不満足です。にっぽん丸がゴールデンゲートの下をくぐる時、船首部分に立たせてください。そうすれば私が一番にアメリカに着くのです」。怪訝そうな顔をしていた船長さんは、「分かりました。あそこは立ち入り禁止区域なのですが、一等航海士に説明して入れてもらいましょう」と了解を得ました。

 私は急いで身支度を整え、日本を出る時貯金箱を割って餞別をくれた子ども会の子どもたち、海の向こうは水が悪いからと梅干を選別にくれたおばあちゃん、日本を紹介して来いとカエルの鳴き声をテープに吹き込んで託してくれたおじいちゃん、勿論家族も含めて100人余りの人物写真を持ってにっぽん丸の船首に立ちました。まるでタイタニックの感動シーンを見ているような船首で、写真を両手で広げて「おーいみんな、これがゴーうでんゲートだ。これがアメリカ大陸だ。やっと来たぞ~」と大声で叫びました。この様子を見ていた私が班長を務める19班のメンバーは、「若松班長は長い船旅で頭が狂ったのでは?」と大笑いをしたようでした。

 その様子は帰国してからも班員の語り草となっていましたが、建国200年に沸くアメリカを訪れた35年も前の出来事はいつしか私の脳裏からも消えうせていました。

 首相官邸で三木首相から日の丸を貰い、その三木首相に東京晴海ふ頭で見送られ、アメリカで開かれたサミットに出席するためアメリカを訪れていた三木首相に、サンフランシスコで出迎えを受けるという奇遇や不思議にも出会ったアメリカでの思い出は私の脳裏から消えることはないのです。

 瀬戸大橋や鳴門海峡大橋、明石海峡大橋、しまなみ街道来島海峡大橋などがその後出来、世界に誇る大橋など珍しくもなくなりましたが、私がアメリカを訪れたのは1976年ですから、それより39年も前の1937年に全長2737m、主塔間1280mを誇る橋は出来ているのです。

 真っ赤な橋は残念ながらバスで見学となり、橋の上に降り立って見学はしたものの、歩いて渡ることは出来ませんでした。それにしてもアメリカの技術力や頭脳は凄いと感心したことを、今も忘れることが出来ないのです。


  「新聞の コラム切抜き 橋思う 三十四年も 前の出来事」

  「今でこそ 珍しくない 橋だけど 度肝抜かれた あの日あの時」

  「橋の下 船首に立ちて 大声で アメリカ来たと 写真広げて」

  「船長も 首相も既に 今は亡く この身も加齢 時は矢のよう」

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