shin-1さんの日記

○ゴールデンゲートの思い出

若松進一ブログ

 地元紙愛媛新聞に、何の意味があるのか分かりませんが、点描米国西海岸というコラムがシリーズで紹介されるようになりました。既に⑥の番号が打ってありますが、アメリカ西海岸サンフランシスコの象徴として、長年親しまれてきたゴールデンゲートブリッジは、私にとっても思い出の橋なのです。

 私の乗った三井商船のにっぽん丸(1万5百トン)は、東京晴海ふ頭を出て咸臨丸が航海したであろう航跡を辿り、太平洋の荒波を越えて11日ぶりの朝サンフランシスコに到着したのです。私にとって少年の頃から憧れ、夢にまで見たアメリカ大陸なので黎明の中に見える赤いゴールデンゲートは、とてつもなく大きな夢の橋に見えたのです。入港手続きがが終わり白い船体のにっぽん丸はゆっくりとゴールデンゲートの下をくぐり、サンフランシスコの不当に停泊したのです。


 入港前日11日間の船内活動ですっかり親しくなった船長に、私はこんな笑い話のような話をしたのです。「私はふるさとの公民館主事をしています。日本を出る時沢山の方々から私たちも一緒にアメリカへ連れて行ってと頼まれました。叶わぬことなのでみんなの写真を持ってきました。ほらこの通りその数100人余りです。実は今日乗船している人の中で一番先にアメリカへみんなを連れて行ってやりたいのです」と説明すると、「あなたは面白いことを言う人ですね。船はみんなを同時にアメリカへ連れて行きます。それでは不満足ですか」。「はい不満足です。にっぽん丸がゴールデンゲートの下をくぐる時、船首部分に立たせてください。そうすれば私が一番にアメリカに着くのです」。怪訝そうな顔をしていた船長さんは、「分かりました。あそこは立ち入り禁止区域なのですが、一等航海士に説明して入れてもらいましょう」と了解を得ました。

 私は急いで身支度を整え、日本を出る時貯金箱を割って餞別をくれた子ども会の子どもたち、海の向こうは水が悪いからと梅干を選別にくれたおばあちゃん、日本を紹介して来いとカエルの鳴き声をテープに吹き込んで託してくれたおじいちゃん、勿論家族も含めて100人余りの人物写真を持ってにっぽん丸の船首に立ちました。まるでタイタニックの感動シーンを見ているような船首で、写真を両手で広げて「おーいみんな、これがゴーうでんゲートだ。これがアメリカ大陸だ。やっと来たぞ~」と大声で叫びました。この様子を見ていた私が班長を務める19班のメンバーは、「若松班長は長い船旅で頭が狂ったのでは?」と大笑いをしたようでした。

 その様子は帰国してからも班員の語り草となっていましたが、建国200年に沸くアメリカを訪れた35年も前の出来事はいつしか私の脳裏からも消えうせていました。

 首相官邸で三木首相から日の丸を貰い、その三木首相に東京晴海ふ頭で見送られ、アメリカで開かれたサミットに出席するためアメリカを訪れていた三木首相に、サンフランシスコで出迎えを受けるという奇遇や不思議にも出会ったアメリカでの思い出は私の脳裏から消えることはないのです。

 瀬戸大橋や鳴門海峡大橋、明石海峡大橋、しまなみ街道来島海峡大橋などがその後出来、世界に誇る大橋など珍しくもなくなりましたが、私がアメリカを訪れたのは1976年ですから、それより39年も前の1937年に全長2737m、主塔間1280mを誇る橋は出来ているのです。

 真っ赤な橋は残念ながらバスで見学となり、橋の上に降り立って見学はしたものの、歩いて渡ることは出来ませんでした。それにしてもアメリカの技術力や頭脳は凄いと感心したことを、今も忘れることが出来ないのです。


  「新聞の コラム切抜き 橋思う 三十四年も 前の出来事」

  「今でこそ 珍しくない 橋だけど 度肝抜かれた あの日あの時」

  「橋の下 船首に立ちて 大声で アメリカ来たと 写真広げて」

  「船長も 首相も既に 今は亡く この身も加齢 時は矢のよう」

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