shin-1さんの日記

○フォグホーン

 今日は朝から濃い霧があたり一面立ち込めて、国道を走る車も昼間だというのにライトをつけて走っている様態です。海に目をやるともう100メートルも向うは完全に霧の中で、港に停泊している船の舳先さえも見えない有様です。

 私は若い頃漁師をして海に出ていましたが、このような日の海の上は陸上よりもひどく、視界がまったく効かなかったことを覚えています。当時私が乗っていた漁船にはレーダーなどの設備がなく、霧になると船のエンジンを止めて霧の晴れるのを待つ以外手立てはありませんでした。

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(濃い霧が立ち込めた伊予市向原交差点付近)

 霧は海水の温度と空気中の温度の差によって出るのですが、瀬戸内海ではどちらかというと霧は春の風物詩といわれていましたが、今年は季節が遅れているのかこの時期に濃霧注意報が発令され、地元の猟師さんたちは海も穏やかなのに漁にも出られず、イライラが募っているようです。

 わが家の海の資料館・海舟館」の展示物に一風替わった物が置かれています。興味のある方がから、「これは一体何をする道具なのですか?」とよく聞かれますが、じつはこれはフォグホーン」という、昔の船が必需品として船に備えていたものなのです。

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(今ではすっかり珍しくなったフォグホーン)

 手前の丸みを帯びた部分は蛇腹のようになっていて取っ手を慮手で動かすと中に空気が吸い込まれ、その空気が内臓の笛を鳴らし、真鋳製のラッパを通して音が出るような仕組みになっているのです。瀬戸内海を公開する船はこの音を聞いて相手の船の存在に気付くのですが、フォグホーンを持ち合わせていない船はバケツや船ベリを叩いて衝突回避をしていたようです。


 レーダーのない頃の船はこのように、「そんなに急いで何処へ行く」とばかりにのんびりしていたため、余程のことがないと衝突などしませんでした。つまり自然の力にひれ伏していたのです。ところがレーダーが開発されると、霧など無視してレーダーを頼りに生みの上を我が物顔に走り、結果としてレーダーを過信し過ぎて衝突事故を起こすのですから、遺憾に人間が愚かであるかがよく分かるのです。

 今日は朝からテレビやラジオで船の運転にはくれぐれも用心するよう再三再四注意を呼びかけていましたが、くれぐれも安全運転をして欲しいと願っています。


  「五里霧中 瀬戸内海に 霧が出る レーダー過信 用心航海」

  「フォグホーン これはどのよう 使うのか 知る人少なく 今に死後かも」

  「霧見れば 裕次郎など 思い出す 俺も古いな 年代ものだ」

  「切り晴る まもなく暑い 夏が来る 季節変わり目 自然いたずら」

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○私は外食嫌いです

 私は余り外食が好きではありません。ゆえに出張や会議があっても、余程のことがない限り、少し我慢してでも自宅へ帰って食事をするよう心がけているのです。何故外食が嫌いなのか、それはお金がいるからケチで行っているのでは決してないのです。外食嫌いには二つの理由があります。ひとつは外食を食べると何故か喉が乾いたりするほど、味付けが濃くて甘辛いのです。最近は塩分・糖分・油分の取り過ぎが問題になっていますが、外食は慨してこの3つの分が多く私の口には合い辛いようです。

 私は胆のう摘出手術をした10年前から肉や油類が欲しくなくなりました。勿論あれほど飲んでいたお酒もきっぱり止めた訳ですから、焼肉などはそれまでも好きではありませんでしたが、天ぷら類も余り食べなくなりました。まあ現代的にいえば草食人間なのです。

 草食ゆえに野菜は沢山食べます。毎朝食べているリンキャベ(リンゴとキャベツ)から始まって、色々な野菜を食べるのです。このごろは朝食の時に黒酢を加え、また玄米食を実行していて、高齢者には理想の食事をしているのです。これで長生きできなかったら可笑しいと思われる(自分で勝手に思っているだけ)くらい、いい食事をしています。

 もう一つの理由は妻が料理上手なからです。夫の私がいうのもおこがましく、何か持ち上げた手前味噌な感じもしますが、妻の料理は40年も食べ続けていると飼い慣らされて、舌に会うようになってきています。妻は嫁いで来てから大家族の中で料理の腕を磨いてきました。手早くてアドリブで、近頃は私や自分のため薄味にも気を使ってくれているのです。

 妻は母が亡くなってからもう10年も経ちましたが、その間毎夕親父の夕食を作り、隠居へ運んでくれています。最初は柔らかい、硬いと文句を言っていましたが、今では一切不平を言わず美味しく私と同じ食事を食べて元気に暮らしているのです。

 そんな妻ですから、時には食事を作るのと片づけを休みたいと言う気持ちがあって、外食を望む気持ちも分からない訳ではありませんが、私の外食嫌いに合わせて遅くなっても準備をして待っていてくれるのです。

 昨日は広島・山口と二日続きの出張で、夕方三津浜まで迎えに来てもらったついでに、回転寿司に立ち寄りました。美味しそうな寿司が目の前をぐるぐる回っていて、その中から二人で7皿ずつ食べました。お茶を飲みながらガリをかじって寿司を食べ終わり自宅へ帰りました。テレビを見ていると妻も私も何かのどの渇きを覚えました。濃い酢飯や紫醤油のせいかもしれません。塩分の量が多いのかもと言いつつお茶を飲み過ぎ、お陰で夜トイレへ2回も起きました。外食の味には合わないと少しだけ反省をした夜でした。


  「外食は 塩分糖分 油分 意外と多い 気になるところ」

  「妻作る 手料理一番 思い込む 元気源 妻のお陰だ」

  「何時の間に 飼い慣らされた 妻の味 四十年で 舌が覚える」

  「何気なく 三食食べて 暮らしてる 作るは妻で 俺は食うだけ」

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○一泊二日の講演旅行も無事終わりました。

 昨日の朝、雨や霧を心配して、もしや船が欠航になったら講演先の竹原市忠海の竹本干潮さんに迷惑がかかると思い、妻を少し早く起こして松山観光港まで送ってもらいました。案の定雨は強く降り、霧も欠航こそしなかったものの、途中の音戸の瀬戸などは霧にかすんで、行き交う船でさえフォグフォーン(霧笛)を鳴らして航行していました。広島呉の港に降り立った時は土砂降りでした。

 そんなこんなの中を無事忠海公民館での講演を終え、今日も午前中山口県下関市市民会館中ホールで行われた山口県漁協女性部第4回通常総会の記念講演を終え、帰りも行きと同じように急遽コースを変えて新下関~徳山~柳井港~防予汽船~三津浜ルートで午後7時前に三津浜に到着、港まで迎えに来てくれた妻の車で8時過ぎにわが家へ着きました。妻は特別なことがない限り新幹線にも乗らないため、「お父さんは新幹線に乗れてよかったね」とまるで修学旅行に行った子どもを褒めるような言葉で話しかけてくれました。

 一泊二日の小旅行でしたが、出発が朝早かったため、下関のホテルへ泊まったため、また家へ帰るのが遅かったため、少しだけけだるい疲れが残っているようです。でも忠海公民館でも、山口県漁協女性部でも大きな反響と反応をいただき、「私は幸せと元気を売るセールスマン」だと、出会った人々の笑顔を思い出しながら、ひとり書斎の机に向かって今日のノルマであるもう一本のブログ記事を書いているのです。

 今日講演した相手である山口県漁港女性部200人の参加者の反応は、旅の疲れも吹っ飛ぶほど上々でした。それは多分、今朝ホテルのロビーでブログに書いた、私の生い立ちが漁業と深い関係があるからなのかも知れないのです。漁業のDNAが色濃く残る私なので、今日はその辺の事にこだわって話をさせてもらいました。

 今日は通常総会の開会行事と議事進行が大幅に伸び、11時30分から始まる予定の私の講演は20分近くも押して始まりました。司会の方に「時間がないので私の紹介は省いて下さい」と前置きしたことも助けられましたが、事務局の方のお許しをいただいて一時間近くの持ち時間だけ延長させてもらいました。列車に乗って帰途につく時間が決まっているため、慌しい時を過ごしてしまいました。担当の課長さんに新下関駅まで送ってもらい、予定通り無事早く帰ることができました。

 妻が「お父さんは幸せだね。こうして日本全国から退職後も呼んでいただくなんて」と感心しながら話してくれました。「自分自身もそう思う。ありがたいことだ」と返事をしました。とりあえず忙しい仕事は終わりましたが、明日からはまた県内で忙しい仕事が待ち受けているようです。

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○下関での朝

 昨晩は本州の最西端下関市内のホテルに泊まりました。今日午前中予定されている市民会館での講演のため、珍しくも前泊したのです。山口県といえば私の住む愛媛県からは、朝な夕な毎日沖合いに浮かぶ姿を見ている馴染みの土地なのですが、どういう訳か交通アクセスが松山市三津浜と柳井市を結ぶ防予汽船フェリーの一本だけなので、なかなか来る機会がないのです。加えて山口県には講演などの仕事で度々訪れているものの、県庁所在地の山口市周辺が殆どで、下関までは中々足が向かないようです。

 下関へは何年か前、平成の大合併で周辺町村と山口市が合併した折、記念の講演会に招かれたり、西瀬戸交流圏の事業で愛媛県の皆さんをお連れしたことがある程度です。

 昨日の下関はあいにくの雨で、ホテルに着いて夕食に出かける8時ころになっても弱い雨が残っていました。今朝は旅の疲れて自宅にいるときより1時間も早い11時に床に就きましたが、今朝はその疲れも取れて、いつも通りの朝4時過ぎに目が覚め、ホテルのロビーに設置されているインターネット用の無料パソコンで、立ったままこの記事を書いています。

 このホテルは7時から無料の軽食が振舞われるので、外の様子を窓越しに見ると多少霧がかかっているように見えますが、テレビの天気予報だと、今日は徐々に天気が回復しそうなので、これから少しばかり周辺を散歩しようと思っています。

 さて今日は山口県の漁協女性部連合会の200人の前で講演をする予定です。私は役場に35年間勤めていましたが、実は漁業とは縁がとても深い男なのです。

 ①鯛網をやっていた漁家に生まれた。

 ②宇和島水産高校に3年間遊学した。

 ③実習船愛媛丸で珊瑚海へ遠洋航海に出かけた。

 ④高校卒業後ガンで倒れた親父に代わって若吉丸の船長として7年間漁師をした。

 ⑤母親は6年間下灘漁協の漁協婦人部長を務めた。

 ⑥体調を崩し役場に入った後4年間産業課で水産を担当した。

 ⑦海の直ぐ傍に道の駅シーサイド公園を整備した。

 ⑧漁協女性部の皆さんとともに名物のじゃこ天を開発した。

 ⑨2年前から愛媛海区漁業調整委員会委員をしている。

 ⑩愛媛大学農学部客員教授をしている。

などなど、ざっと拾い上げても10指に余るほどあるのです。


 今日はそこら辺から紐解きながら、「女性が輝くとき漁村が輝く」というテーマで思い切り話そうと思っています。午前中の講演なので、午後には下関を発ち、新下関・徳山を経由して防予汽船で柳井から三津浜を目指そうと思っています。帰りは多分夕方遅くなるものと思われます。


  「本州の 最西端に 来ています 霧に煙った 橋を見上げつ」

  「霧笛鳴る 海峡向こう 門司の街 ぼんやり霞み 旅情そそりて」

  「何年も 前にこの地を 訪ねたが 今は記憶も おぼろげながら」

  「さあ今日も 元気セールス するために 一汗かいて 仕事をするか」 

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○下関に来ています

 今日の朝松山観光港を出発して高速船で広島県呉港まで行き、そこからローカル線に乗って竹原市忠海まで行きました。忠海公民館長さんとは10年来の付き合いなので、開講式の記念講演を頼まれたのです。今日の瀬戸内海は前日の好天気と打って変わって雨が激しく降り、海にはまるで墨を流したように濃い霧が発生し、ひょっとしたら船が欠航するのではないかと心配しました。また呉の港に降り立つと激しい雨に見舞われ、重い荷物を両手に持って傘を差していたため、かなり濡れてしまいました。

 最初の行程計画では広島宇品まで行き、市内電車で広島駅から新幹線で三原まで行き、ローカル線に乗る予定でしたが、途中で変更して呉から忠海を目指す行程に切り替えられたのも、やはり旅慣れているためのなせる業だと自分に納得をさせました。

 忠海公民館に電話をかけ、雨のため忠海駅まで迎えに来てもらうよう頼みました。駅に着くとボランティアの方が出迎えていただき、過去に2回講演で訪ねたことのある懐かしい忠海の公民館に到着しました。忠海の公民館は昨年度の全国国優良公民館として文部大臣表彰を受けていて、竹本館長さんたちの長年の苦労が報われた感じがしました。

 公民館の大ホールはほぼ満員で、私の話は午後2時から90分、「まちづくりの新しい風」と題して楽しい話に終始しました。参加者は講座の受講生で関心も高く、ひょっとしたら私が講演した中では今年最高の盛り上がりだったような気がしました。

 さて講演会が終わり、私は忠海からローカル線で三原まで出て、そこから新幹線に乗り換えて新下関を目指しました。各駅停車のこだまだったため、各駅で3分から5分程度の待ち合わせ時間があって、急ぐ旅でもないのでのんびりゆっくり読書をしながら新下関へ向かいました。外は雨、社内放送だと岩徳線などが大雨のためスローダウンして運行しているため、列車の暮れが生じているらしいのです。幸い新幹線は遅れることもなく予定通り新下関に着きました。

 駅には明日の講演依頼先の課長さんがわざわざ駅まで迎えに来ていただき、予約している下関市内の東横インまで送っていただき、明日の打ち合わせを終えました。

 明日朝はは少しゆっくりした予定なので、今夜は旅先で一人さびしく寝ることにして、このブログを一本書いて部屋に入りました。


  「新幹線 こだまに乗って 向かう先 電光表示 新下関」

  「外は雨 本を読みつつ 小旅行 妻から電話 デッキで受ける」

  「行く先が ここにもあった 田舎者 今日もこうして 日本全国」

  「出迎えの 車乗り込み さらに先 目指して今日の 旅を終わりぬ」

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○今日から二日間広島・山口へ旅に出ます

 今朝は早立ちでこれから広島・山口へ旅に出ます。帰りは明日の夕方遅くになります。御用の方はメール化携帯電話にお願いします。

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○もう一つの学校

 私が教育長をしていた頃、つまり合併前の双海町時代から続いてやっている仕事が一つだけ残っています。双海町子ども教室の実行委員長という肩書きです。もともとこの事業はこども夢基金の助成を受けて平成13年度から行われていた双海町少年少女おもしろ教室なるもので、教育長就任と同時に全員者から引き継ぎました。しかし町が合併してなくなった後も事業が継続したため後任に引き継ぐことができず、ついつい断る理由もなくご念が経過した今も請われるまま実行委員長の職にとどまってお手伝いをしているのです。


 昨日は夕方6時から今年度の開校式があり出かけて行きました。実行委員会で練ったプログラムを基に募集をかけたところ町内の小学校から37人もの応募があり、殆どの子どもが折から降りだした雨にもかかわらず元気に親と一緒に参加してくれました。

 私は実行委員長なので、早速子どもたちに事業の目指すものや注意事項をできるだけ分かり易く話してやりました。子どもの中には毎年やって来るかおなじみも沢山いて、私の愛称である「進ちゃん」などと笑顔で語りかけてくれ、嬉しいスタートとなりました。

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 今年度は開講式・閉講式を加えると9回のプログラムが組まれていますが、早速今週の週末土曜日には人間牧場で第一回目の命のリレープロジェクトがスタートする予定です。

 この日とても嬉しいことがありました。子ども教室は小学生を対象としていますが、一昨年度と昨年度に修了して中学生になった先輩が5人、高校生が一人ジュニアリーダーとして参加してくれているのです。私はこれまでにも無人島に挑む少年のつどいなどのボランティア活動を主宰してきましたが、修了した子どもたちがその後の活動にボランティアとして参加してくれるくらいうれしいことはないのです。

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(ジュニアリーダーも参加してくれました)

 危機管理のための連絡網も親の協力でスムースに運び、拡販ごとの組織も一応整って、もう一つの学校ともいえるふるさと体験塾はいよいよスタートしました。子どもたちに夢と感動を与えるために、しっかりとみんなで力を合わせてゆきたいと思いました。

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(親の会の連絡網もスムーズにできました)
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(班の名前や役割も楽しく決まりました)

  「今年また 体験塾が 始まった 懐かしい顔 笑顔で会釈」

  「ふるさとの よさを体感 させるため 知恵を絞って 挑戦します」

  「修了生 心育って リーダーに なってくれるは 何より嬉し」

  「学校で 学べぬことを 学ばせる 生涯教育 力を入れる」

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○蒔いた種は生えにくいのにまかない雑草は良く生える

 「蒔かない雑草の種は自然に生えるのに、蒔いた種は中々生えない」とは私のけだし名言です。今年の春は寒暖の差が大きく、蒔いた金時豆の種が芽を出したものの霜にやられたのか全滅し、再び種を買い求めて二度目の種を蒔きました。暖地と言われる四国愛媛県のわが家庭菜園で冷害に合ったのは後にも先にも今回が初めてで、親父も私も記憶にないのです。二度目に蒔いた金時豆はさすがに時候を選んだのか発芽率100パーセントで、今はすくすくと育ち、親父の手で垣も作られて鶴の成長が待たれるところです。

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 一方わが家の庭は相変わらず雑草が伸び始め、草枯らし剤を散布しないため、どこもここも草がはびこって美観を損ねるまでになりつつあり、裏は私、前庭は親父、勝手口付近は妻と、暗黙の了解のような形で草引きが行われているのです。親父も私も自分の役目の場所はきっちり仕事をしているのですが、手入れが間に合わないのは妻の役目の場所です。それもそのはず妻は勤めていて休みは日曜日だけ、しかもその日曜日には息子や娘の家族が泊まりにやって来るものですから、手入れどころではないのです。

 そんな妻の苦労を少しでも軽くしてやろうと、殊勝にも今日は勝手口側の庭に生えた草を、草削り鍬で削ることにしました。庭といっても田舎の民家ゆえ結構広く休まずやっても午前中3時間ほどもかかってしまいました。

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 草に覆われていたときは余り気付かなかったのですが、庭の隅に綺麗な花が咲いていました。マーガレットの一種でしょうが食わし花の名前は分かりません。多分妻が植えた多年草で茎はしっかりと冬越しをしているように丈夫でした。一~二輪鋏で切って一輪挿しに刺し食卓とわが書斎に飾りましたが、何ともいえない清々しさです。昼食を挟んで削った草が初夏の日を浴びしなやかになったところで、手箕で一輪社に積み込み、畑の隅の雑草置き場へ運んでひとまず作業を終えました。

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 今日は日差しこそ弱いものの明日から雨の予報で天気が崩れるとあって、南西の風が吹き荒れ気温は夏日の様相でした。作業が一段落したところで裏山へ散歩に出かけました。少し地面がぬれた所に黒と白のまだら模様のアゲハチョウが3空匹羽根を休めていました。その姿は優美ですっかり見とれてしまいました。持っていたデジカメを向けてもアゲハチョウは動じることもなく束の間の急速を楽しんでいるようでした。

 季節はいつの間にかもう初夏です。チョウチョの飛び交う季節も終わり、あと2週間もすれば早くも衣替えの季節となります。充実しているのか、それとも歳をとったからそう感じるのか一日一日がとても早く過ぎて行きます。

 明日から二日間県外へ出張なので、その準備もそろそろ・・・・・。


  「蒔かぬのに 何で雑草 生えるのか 思いながらも 雑草削る」

  「妻の分 少し手助け お陰様 すっかり綺麗 花が顔出す」

  「アゲハチョウ はばかることなく 羽根休め 過ぎ行く季節 楽しむように」

  「蒔き直す 金時豆が 芽を出して 初夏が来たよと 言ってるようだ」

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○三日月と金星のランデブー

 私の所属しているアメーバブログは月に一回程度午前2時から午前8時頃までメンテナンスと称して、アクセスも書き込みもできない時間帯があります。毎朝早起きしてブログを書くことを日課にしている私としては、何とも手持ち無沙汰な時間帯で、今朝もメンテナンスの時間中書き込みができないため、読書をしたりメールを整理したり、お気に入りに登録している人のブログを覗いたりして何気なく過ごしました。ゆっくりのんびりメール読書をしながら、知人や友人の顔を思い出し、外が明るくなったので身支度を整え散歩に出ました。

 私の友人に浅野さんという人がいます。彼が国立大洲青少年交流の家に勤務していた頃知り合い、その後古巣の中学校へ異動した後も気心が合うのか、何かと出会ったり年輪塾ネット会員となって意見を戦わせているのです。浅野さんは私のブログの愛読者で時々感想コメントを書き込んでくれたりしていますが、浅野さんもこのほど「喜久家プロジェクト」というブログを立ち上げたようです。時々覗くのですが、中学校の先生らしく真面目なかなり長めの文章がこまめに書き込まれていて中々読み応えがあるようです。

 今朝はそういう訳でメンテナンスの時間中に喜久家プロジェクトのブログを読ませてもらい、散歩から帰宅後昨晩に引き続きコメントを書き込みました。浅野さんのブログに「三日月と金星のランデブー」の記事が載っていたので、夜空の月や星などカメラで撮影する技術がないので、その写真を私のブログに使わせてもらおうとコメントを送ったところ、早速早朝にもかかわらず送ってもらいました。私のパソコンの腕も少し上がったのか、浅野さんから送ってもらった写真をラウンロードしてブログ用に名前をつけて保存しました。

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(浅野さんから送られてきた三日月と金星のランデブーの写真)

 今日の地元紙にも載っていましたが、三日月と金星が接近して見えるのは珍しいそうです。たまたま一昨日妻と食後の散歩に出かけての帰り道、偶然にも西の空に綺麗なお月様とお星様が、まるで私たち夫婦のように仲良く(見せかけだけかも)ランデブーする姿を見つけました。二人でその姿に感心しながら歩いて帰りました。田舎の道は該当も殆どないため暗いのですが、逆に暗いので星が良く見えるのです。私は水産高校漁業科を卒業していて、若い頃は船乗りを目指していました。船乗りにとって星や太陽や月は、船の位置を計測するのに必要だったので、実習船愛媛丸の船上で仰向けに寝そべりながら天を仰いで星を覚えたものでした。時を経て星の名前は殆ど忘れましたが、今となっては懐かしい思い出です。


 金星と三日月が接近する話を浅野さんのブログで見ていたので、昨夕講演先から帰ると茜色に染まった西の空を、家の裏山に登ってしみじみ眺めました。雨間近という天気予報なので惜しむように夕日夕焼けをカメラに収めました。双海町の午後6時の音楽サイレンはいつの間にか「夕焼けこやけ」から「ぎんぎんぎらぎら」に替わっていましたが、双海町のわが家の裏山から鉄橋越しに見える夕景も一日との疲れを癒してくれる美しいものでした。

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  「三日月と 金星仲良く ランデブー 俺たち夫婦 畑中道を」

  「今日あたり 金星探査の 衛星を 種子島から 打ち上げ予定」

  「月・星も 夕日も綺麗 田舎ゆえ 田舎の人よ これも自慢ぞ」

  「ブログ書く 人のブログも 読みながら 長閑一日 今日も始まる」

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○ミツバチの世界に生まれなくて良かった

 自分でミツバチを飼い始めて1年余りが過ぎました。最初は「巣箱を置いて蜂蜜を塗るとミツバチが巣を作るだろう」くらいの簡単な思いつきで始めたものの、やればやるほどミツバチの不思議なメカニズムが分かってきて、まだ1年しか経っていないのに「ミツバチは奥が深い」としみじみ思うのです。幸い私には井上登さんという西予市野村町に住むミツバチのお師匠さんがいて、何かあるごとに手助けや教えを請うているのです。

 去年は初めてのこともあって全てが新鮮で、多分そのことが良かったのでしょう4升も蜂蜜を収穫することができました。しかし今年は巣箱を2個増やして6個にしたものの、5個にはどうにか分封してくれたものの未だ1個は音沙汰なく、去年よりも悩みが深くなっているようです。

 先月4月28日、井上さんはわざわざ人間牧場へ巣箱点検にやって来てくれました。その折ミツバチを誘うためランの花を持参してくれました。その花の名前がキンリョウヘンという日本ランの一種であることを学びました。高知馬路村の木下さんも加わってネットでラン談義に花を咲かせました。多分このランのお陰で分封を誘発したのではないかと思われるほど今のところ順調に、5つの巣箱にミツバチが入居してくれたのは、やはり井上師匠のお陰なのです。

 さてミツバチ飼育のつれづれに、ミツバチは殆どがメスであることを聞いていました。人間社会と違うミツバチ社会の不思議さに驚きながら、何故三津罰はメスが多いのか、考えれば考えるほど不思議な世界です。


 師匠の話によるとオスバチは特定の時期だけに発生し、普段はメスだけで生活しています。その特定の時期というのは巣別れの時期(4~5月ころ)、この時は新しい女王蜂誕生するのですが、この女王蜂が交尾するために押すが必要なのです。巣別れの時期が近づくとオスバチがどんどん増えて役割を終えたオスバチは働き蜂に刺し殺され、巣から外に追い出され、巣箱の前はオスバチの死骸の山になります。私も今年の春オスバチの沢山の死骸を見て驚いたものです。

 ミツバチの世界に生まれなくて良かったと、ミツバチの世界の非常さを見ながら思いました。今年は2年目なので去年よりは進化しないといけないと肝に銘じていますが、まだまだミツバチの世界は謎が多いようです。

  「女王蜂 誰が名付けた 名前だか 知らないけれど 巣箱を支配」

  「ミツバチも 人間社会も 働きは メスが中心 オスはチョメチョメ」

  「ふと見れば 巣箱の前に 沢山の ミツバチ死骸 なるほど納得」

  「後一つ 今年は空き家 覚悟して 実験しつつ 様子を探る」

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