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○四国地区里親研修会

 児童相談所に勤める友人から頼まれて、松山市にある愛媛県視聴覚福祉センターで開かれた四国地区里親研修会に出かけました。「児童は、人として尊ばれる。児童は、社会の一員として重んぜられる。児童は、良い環境の中で育てられる」という児童憲章とは裏腹に、社会が豊かになればなるほど何故か児童をめぐる社会環境は、いじめや虐待の急増、非行の凶暴化、不登校、引きこもりの増加など、色々な問題が横たわっているのです。このような状況の中で子どもたちの健やかな成長と未来を切り開く自立力を育むために、不幸にも温もりのある家庭を失った子どもたちに、親に代わって与えようとするのが里親なのです。

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 当日の資料の冒頭に里親信条が5つ書かれていました。

 1、わたくしたち里親は、家庭に恵まれない児童に対し、これにかわる家庭を与えます。

 1、わたくしたち里親は、親としての愛情と誠意をもって、児童の養育にあたります。

 1、わたくしたち里親は、児童に対し個性に応じた教育と技能修得の機会を与え、その社会的独立を助けます。

 1、わたくしたち里親は、児童の養育に必要な知識と技術の向上につとめます。

 1、わたくしたち里親は、自らの家庭をととのえ、また児童をめぐる社会環境の改善につとめます。

昨日の研修会には里親として活動している人やその活動にかかわる四国地区の人たちが110人も集まって、熱心な討議が行われていました。私は里親制度のに対して何の知識もないため、ほんのお口汚しのつもりで出かけましたが、たっぷり2時間近くも時間を取っていただいていたので、「心豊かに生きる」と題して日ごろの持論を展開させてもらいました。

 会場には顔見知りの方も何人もいて汗顔の至りでしたが、日ごろ里親として太陽のような心を持って活動している方々の心は温かく、終始笑いの絶えない熱心な温情に助けられて、ほのぼのとした研修会になりました。講演が終わって帰ろうとすると、何人かから名刺を求められ、今後も交流をしたいといわれ驚きました。

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 昨日は参加者に「童話の花束」という童話が一冊配られていました。私にも1冊いただきましたが、人間牧場に来る子どもたちにこの童謡集を読み聞かせたいのでもう2冊欲しいとお願いしたところ、快く10冊もいただきました。嬉しいことなので早速今日はこの童話を人間牧場・水平線の家の長くて大きな書棚に蔵書として置き、読み聞かせや貸し出し用にしたいと思っています。この童話はJOMO童話賞作品集なので18の優秀作品が収められていて、控え室で休憩時間を利用して一気に読んでしまいましたが、すばらしい童謡でした。昨日はそんなこともあって、知人友人とも久しぶりに顔をあわせ、何か浮き浮きしたような気持ちで会場を後にしました。


  「温かい 心を持って 人のため 尽くす人たち 多く集いて」

  「童話集 いただき帰る 嬉しさよ この本読んで 心育む」

  「二時間も 終始笑顔の 研修会 聞く人さすが 私汗顔」

  「又一つ 心の扉 開けた気が したよな気持ち 友に感謝す」


 



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○久しぶりの呑み会

 体の都合でお酒を断って早くも10年以上となりました。多分自分の体内からアルコール分は完全に消えたのではないかと思うのですが、酒を止めると呑み会の誘いが少なくなったことも事実で、あれほど飲んでいた酒代が手元に残るはずなのに、どういう訳か「下戸に建った蔵がない」といわれる諺どおり、手元にお金は残らないもののようです。それでも医者の忠告を受けて健康に暮らしているのですから、これからも下戸を通そうと思っています。

 今年のように暑いひが続くと、夕食の時やベールのコマーシャルなどを見るにつけ、ビールの味が恋しくなる時がありますが、自称意志の強い私は自分の決めた掟を守っているのです。でもやはりお酒は神代の昔から元気の出る水ですから、お酒に替わる元気の出る水を何か探したいと思っています。

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(仲間と共に居酒屋で楽しい語らいのひと時)

 そんな中でも気の許せる仲間はいるもので、一昨日は年輪塾の運営委員会と称して5人で集まり、行きつけの居酒屋で夕方6時30分から呑み会を行いました。塾長の私と塾頭の清水さん、小番頭の松本さん、それに筆頭塾生の浜田さんに年輪塾ネットに加わっている真鍋さんを加えて今後の塾の運営について話し合いました。酒が入れば胸襟を開く仲間たちは、飲むほどに酔うほどに色々な面白い話題を提供してくれ、11月の移動塾が楽しみになってきました。

 今ではすっかり行きつけになった居酒屋は食べるものも美味しいしボリュームもあり、その上安いとあって僅か2時間でしたが大満足です。私が絡む飲み会は余程のことがない限り2次会はセットしません。一次会で満足が行くように飲むので、帰りには小番頭の松本さんと伊予市まで色々な話をしながら帰れるのもまた味があります。9時30分には家に帰れる品行方正ぶりはこれからも維持したいと思っています。


 家に帰ると妻が決まったように近頃言うセリフは、「あらお父さん今日は早いのね」です。御前様を繰り返した昔から考えると雲泥の差ですから、このセリフは当然のことかも知れませんが、私にとってはこの言葉は癒しの言葉だと思うのです。「遅かった」と文句を言われるより、「早かった」と言ってもらう方がいいのです。

 わが家には相変わらず多くの仲間が集まり、来訪所も多いのです。その度に親しい付き合いをしてくれる妻に感謝をしつつ、妻の誕生日が近いことを予定表で気がつきました。はてさて100万本のバラや、ダイヤモンドの指輪などは甲斐性のない私には出来ません。おそらく妻もそんな希望もないものと思われます。はてさて、今年の誕生日にはどんなプレゼントをして、妻の機嫌を取ろうかと目下思案中なのです。


  「酒辞めて めっきり減った 呑み会に 久々参加 お茶で乾杯」

  「酒飲めぬ 体になりて 思うこと もう少し早く 気付いていれば」

  「飲むほどに 酔いが回って らりるれろ ろれつも回り ちゃらんぽらん」

  「迷惑を かけた分だけ 恩返し アッシー徹し 送り届ける」

 


 

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○学生たちと煙会所で座談会

 「若松さん、明日の夜は空いていますか?」と、昨晩年輪塾運営委員会の折、伊予市役所双海支所の松本さんに尋ねられました。「予定表を見ないと明日のことは分からんが、夜だったら多分大丈夫じゃない」とあやふやな返事をしてしまいました。自宅に戻って予定表を見ると夜は空いていたので、明くる日確認の電話で「午後8時に煙会所へ学生を5人連れて行きます」と言うことでした。

 外出先から午後5時に自宅へ帰り、急いで煙会所の掃除をしました。煙会所へ人を迎え入れる時は必ずやる作業です。まず掃除機で四畳半の畳の上を掃除して、それから雑巾を固く絞って畳を拭くのです。台風9号が去ってから朝夕は涼しくなったとはいえ、掃除をすると汗が噴出してきました。囲炉裏の周りの吹き掃除を終えたので今度はトイレの掃除です。煙会所横に併設している水洗トイレも人が来ないと掃除の機会を逸しているので、この際とばかりに掃除をしました。これもお客を迎えるための大事な心構えだし修行だと思っているのです。

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 妻と二人で食事を済ませ、お茶の準備をするよう頼んで待っていると自宅前に車が止まり、松本さんらしく10分前に私の携帯電話が鳴りました。「自宅前に到着しました」との知らせです。急いで玄関先に出て見ると、松本さんに連れられて5人の大学生が立っていました。軽い挨拶をして煙会所へ案内しました。前もって点けていた蚊取り線香を持って中に入り、ゴザ座布団を7枚用意した場所に座って、早速座談会を始めました。

 彼らは東京日野市にある明星大学の学生さんで、全国各地の過疎地小規模を訪ねて学習することを目的にしたクラブ活動で、双海町の翠小学校へ来ているのです。昼間は翠小学校で教育実習し、夜は潮風ふれあいの館に泊まって色々な人と交流しているようでした。昨晩は教育委員会の赤石さんが県下の公民館仲間に呼びかけて交流会をしたようです。

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 学生たちには赤石さんが用意した、私が北東総研に頼まれて書いたまちづくりの記事がプリントされ、事前に配られて読んでくれていたので、鋭い質問を矢継ぎ早に浴びせられいい座談会となりました。私もかつては教育委員会で社会教育を13年、また教育長として2年教育活動や教育行政にかかわった経験があるので、様々な視点で意見を述べました。学生たちは5人全員が教員を目指しているらしく、しっかりした教育観を持っているようでした。子どもの数も学校の数も減って、教員を目指す人にとっては狭き門の時代になっています。「世の中思うようにはならないが、思うようになる」というはなむけの言葉を送りました。世の中は思い通りには中々なりません。でも思いが強ければ夢は実現するのです。私は「夢はドリームではなくターゲットである」とよく若者たちに話します。松本さんだって教員になる夢を一度は持ったようです。でも役場に就職して教育委員会に私と一緒に勤め、広い意味での教育に目覚め、今もまちづくりという世界でその夢を実現すべく努力しているのです。「決して諦めない」強い信念を持ち続ければ、例え回り道をしても目標に近づくことは出来るのです。頑張れ先生の卵たち。


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  「東京の 大学生が やって来る 掃除して待つ 蚊取り火をつけ」

  「先生に なる夢語る 頼もしさ 日本の未来 背負う若者」

  「暑いゆえ 囲炉裏に火なく 寂しくも 議論は熱く 夜は更け行く」

  「煙会所 久方ぶりに 若者の 熱気白熱 嬉しじゃないか」


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○忘れたカメラが戻ってきた④

 この歳になると忘れ状がよくなり、何かにつけて覚えていたことを忘れたり、持って行かなければならない携帯電話や財布を忘れていくこともしばしばです。「お父さんもいよいよ歳ね」といつも妻に笑われていますが、今回も旅先で忘れ物の大失態をしてしまいました。

 私は合いに地ブログを書いているので、免許証と携帯電話、そして財布の次にデジカメが必要な道具なのですが、これまでにも何度かカメラを置き忘れて相手に迷惑をかけたことがるので、デジカメだけは忘れまいとズボンのベルトに挟んで持ち歩いていました。ところが別府のホテルを出て送迎用のバスに乗り込んだ時、デジカメを座席の前の網目の物置へ入れたまま佐賀関のフェリー乗り場でバスを降りました。

 やがてバスはもと来た道を引き返して行きましたが、バスが発車して直ぐにカメラを置き忘れたことに気がつき、幹事の渡邊さんがホテルに電話を連絡して、運転手にその旨を知らせてもらったのですが、あいにく運転中の運転手は電話を取ることもなくホテルまで帰ってしまいました。

 仕方がないのでもし見つかったら送り返してもらうようお願いして岐路に着きました。自宅に帰って間もなく渡邊さんからカメラが見つかったこと、渡邊さんがわざわざ別府のホテルまで受け取りに行ったこと、その足で荷造りして宅配便で送り返したので、明日中に荷物が到着することなどを電話で知らせてくれました。

 渡邊さんは私のブログの愛読者で、特に私のブログ記事は全て誤字脱字を修正してDVDファイルに集録して、私にプレゼントしてくれているのです。デジカメがなかったら困るだろうと私を思いやる心に、ただただ感激してしまいました。

 デジカメは定年に梱包され渡邊さんの手配どおり昨日の昼過ぎ宅配業者が届けてくれました。お陰様で昨夕の会議にも持参して、何事もなかったようにデジカメは活躍をしてくれているのです。妻からは人に迷惑をかけるような忘れ物はしないようにきつく注意をされました。ものを忘れるのを歳のせいにしないようにとの指摘も当たっているだけに、穴があったら入りたいような心境でした。


 
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 いい旅をした思い出に、今回はちょっぴりほろ苦い忘れ物の思い出も加わりましたが、忘れ物をする癖だけはないようにしたいと思っています。はてさて一泊二日の別府温泉旅行は、私が単身参加しただけで、あとの四人の仲間は全て奥さん同伴でした。ホテルの私の部屋はベッドが二つありました。こればかりは現地調達も出来ず少し寂しい感じと、妻のいない気楽さが半分半分の旅でした。帰宅後「俺だけが一人だった」と話せば、妻は意味深長な顔をしていました。

 今回の旅は大いに盛り上がり、次回は韓国へ行くことが決まりましたが、はてさて次の旅も一人になるのかも・・・・・?。


  「歳のせい カメラ忘れて そう思う いつの間にやら そんなお歳に」

  「忘れ物 明くる日届く 温情に ただただ感謝 九州の友」

  「同伴の 友ら一緒に 旅をする ちょっぴり一人 切なくなりて」

  「九州は よかとこですと 別れ際 本心伝え 船に乗り込む」

  

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○別府温泉地獄めぐり③

 別府温泉の地獄めぐりは小学校の修学旅行以来の、実に50年ぶりの訪問となりました。小学校6年生と言えば年齢的には11歳そこそこですから、大人の記憶に比べれば曖昧なものなのでしょうが、自分のふるさとを離れることなど殆どなかった時代のことゆえ、地獄の姿は鮮明に記憶に残っているのです。総額500円以下の決められた小遣い銭をポケットに忍ばせ、地獄めぐりをする若松進一少年の姿を思い出しながらの旅でした。

 最初に行った間欠泉の竜巻地獄は、周期的に約20メートルも105度の熱湯を噴き上げたり、摂氏98度もあるのに涼しげなコバルトブルーの海地獄や、真っ赤なお湯が煮えたぎる地の池地獄など、珍しいものばかりで、行ったこともないあの世の地獄を、この目で確かめました。

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(竜巻地獄)

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(血の池地獄)

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(白池地獄)

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(かまど地獄)
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(坊主地獄)

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(鬼山地獄)

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(海地獄)

 地獄めぐりをした後、レンタカーの運転手さんのご好意で背後にある十文字山に登りました。この山からは別府湾や別府温泉街が一望でき、はるか彼方に佐田岬半島や伊方の原子力発電所が見えました。また国東半島や高崎山も手に取るように見えました。この日は背後の山中で殺人事件があったため、報道のヘリコプターが低くホバーフライトを繰り返していました。

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 背後の鶴見岳付近を流れる雲は台風9号の接近でかなり早く、海も豊後水道から入ってきた風が吹き、下界の猛暑を忘れさせてくれるような清々しさでした。十文字山にはNHKなどのテレビ等が立ち並び、直ぐ下には誘致した大学の見事なキャンバスや、高速道路別府サービスエリアが手にとるように見えました。

 最近では奥座敷といわれる湯布院温泉や黒川温泉にすっかり任期をさらわれたように見えていましたが、年間1100万人を数える観光客や留学生4000人が暮らす12万人の人口を抱える別府は、やはり日本屈指の温泉地であることは間違いのない事実でした。


  「久方に 別府温泉 底力 感じながらも そこここ歩く」

  「湯煙が 風にたなびく 遠望を 裏に聳える 十文字から」

  「地獄とは こんなものかと 話しつつ 天国行きの 切符求める」

  「写真見て 地獄の名前 思い出す 余りの多さに こんがらがって」 

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○大分県別府温泉地獄めぐり②

 大分県別府といえば、日本一の湧出量を誇る一台温泉地です。市内至る所から温泉の立ち上る湯気が見え風景は、別府を訪ねる度に旅情をかき立ててくれるのです。私が別府を意識したのは小学校6年生の時の修学旅行でした。一泊二日の旅行など殆どしなかった時代ですから、関西汽船で高浜から別府へ関西汽船に乗って九州へ渡ることはまるで外国へでも行くような興奮でした。

 楽天地や高崎山、バス旅行など、50年も前の出来事ですが、私の心には強い印象として残っているのです。

 別府といえば油屋熊八といわれるように、愛媛県宇和島出身の人が中心になって一大観光地に育て上げた話は余りにも有名です。別府観光の父といわれている油屋熊八は亀の井旅館を創業、亀の井バスを設立して日本初の女性ガイドによる定期観光バスの運行を行いました。「山は富士、海は瀬戸内湯は別府」というキャッチフレーズを考案したり、温泉マークを別府温泉のシンボルマークに愛用したりするなど、様々なアイディアで別府の活性化に大きな足跡を残しました。

 渡邊さんの計らいで海沿いの花菱ホテルを手配してもらい、ホテルの車で佐賀関まで送迎してもらう幸運にも恵まれました。ホテルでの昼食をしたあと、塩崎さんの計らいで三崎出身の方の運転するレンタカーで念願の地獄めぐりに出発しました。修学旅行以来何度か別府へは来ているのですが、殊更な地獄めぐりなどしていなかったので、私のたっての希望を汲んで8つの地獄巡りツアーに出かけました。竜巻地獄から始まり、地の池地獄、白池地獄、鬼山地獄、かまど地獄、山地獄、鬼山地獄、海地獄と巡りましたが、50年前と地獄の様子も随分変わっていましたが、心に残る地獄めぐりを堪能させてもらいました。


 うだるような猛暑残暑の中で汗だくの地獄めぐりでしたが、小グループの小回りの効くツアーなので、足湯を楽しんだり、温泉卵を食べたりして束の間の休日を楽しみました。最後に行った海地獄は、中池に睡蓮の花が見事に咲いて、まるで地獄ならぬ天国を連想してしまいました。

 帰ったその火の内に渡邊さんからメールに添付して沢山お写真データーを送ってもらいましたが、写真を趣味としている渡邊さんの写真はやっぱり目の付け所やアングルが違うので、花の写真などを使わせてもらいましたが、此花の写真を見る限り、地獄と天国は大変な違いのようです(笑い)。

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  「八箇所の 地獄を巡り そこここで 半世紀前 思い出しつつ」

  「願わくば 地獄に行かず 天国へ 行ってみたいが 叶わぬ夢か」

  「そこここに 生きてる地球 体感し 地獄めぐりに汗を流して」

  「お土産は 何処も同じと 冷やかして ちゃっかり味見 買い物せずに」

 

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○海峡好夢員会に参加①

 「海峡好夢員会」などという、当て字ともいえる名前をつけた交流会が今週の日曜日と月曜日の2日間、温泉地大分県別府市で開かれました。大分県佐賀関と愛媛県佐田岬は豊後水道を挟んだ隣町です。旧佐賀関町は大分市と、三崎町は伊方町とそれぞれ平成の大合併で合併したため、寮長の自治体は地図上から消えましたが、関アジ、関さばというブランドを持つ佐賀関も、佐田岬半島の突端に位置する三崎もそれらの知名度によってかろうじて昔の名前で残っていますが、やがては変化する運命にあるのかも知れません。

 合併前の佐賀関町と三崎町はそれぞれの持つ特異性を認めつつ海峡交流会なるものを長年にわたって交流していましたが、合併によってその交流の歴史にも幕を綴じたようです。しかしその中心人物となって交流していた佐賀関の渡邊さんと三崎の塩崎さんとは、今も深い縁で結ばれていて、私たち友人・知人もそのおこぼれをいただいて、未だに行ったり来たりしながら交誼しているのです。

 前回愛媛で開いた交流会で「次は別府でやろう」と話がまとまり、渡邊さんが音頭を取ってくれて「海峡好夢員会」は開かれました。土曜日に夕焼けプラットホームコンサートが開催された私のわがままを聞き入れてもらい、当初土日で計画していたのを日月に変更してもらい、参加者にすっかり迷惑をかけてしまいました。

 愛媛から参加する7名は午前9時に三崎のフェリー乗り場に集合しました。少し早めに家を出た私は夕やけこやけライン~鼛声トンネル~メロディーラインを通って三崎入りしましたが、早朝だったため1時間20分で到着しました。勿論私が一番乗りです。三崎のフェリー乗り場は今年の春から新しく出来た桟橋に乗り場が移っていました。時間がるので車を駐車場に止めてそこら辺を散歩することにしました。岬を訪れる度に立ち寄るのは国の天然記念物になっているあこう樹です。フェリー乗り場の直ぐ近くに葉を茂らせている三崎のあこう樹はわが国では北限にある熱帯樹です。奄美や沖縄へ行けば何処にでもあるのですが、愛媛県でこれほどの大木はないのです。あこう樹の下の石柱には大正13年三崎村、説明版には遠い南の島から黒潮に乗って種が運ばれたであろうロマンが書かれていました。

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(国道を覆いつくすように葉を茂らせている国の天然記念物あこう樹の大木)

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(石柱には三崎村や大正13年などのと刻まれていました)
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(根回り7メートル以上のあこう樹)

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(大分に向かって伸びる日本一細長い23里の佐田岬半島)

 ほどなく仲間も集まりました。仲間といっても愛媛県松野町の芝さんご夫妻、高知県四万十市の和田さんご夫妻、それに三崎の塩崎さんご夫妻と私の7人なのです。私だけ妻の仕事の都合で単身での参加となりました。

 フェリーは定刻9時30分に三崎の岸壁を離れました。右手の佐田岬半島の頂上付近には風力発電の大きな風車がかなり沢山並んでエネルギーの町伊方を誇示しているように見えました。やがて「喜びも悲しみも幾歳月」という映画の舞台にもなった白い佐田岬灯台が見え、愛媛が次第に遠ざかり、替わって右手の高島や佐賀関の東洋一といわれたとてつもなく高いお化け煙突が私たち一行を迎えてくれました。

 桟橋には合流する佐賀関の渡邊さんご夫妻が、ホテルの車とともに出迎えてくれました。渡邊さんは何かにつけて細やかな気配りのできる人で、私たちのために資料まで用意してくれた念の入れようで、その資料たるや12ページにも及ぶ凄い資料なのです。バスの中では再会を懐かしむ話に花が咲き、渡邊さんのマイクガイドで別府一泊二日の旅はスタートしました。

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(渡邊さんの作ってくれた立派な資料には感心しました)



  「海峡の 豊後水道 ひとまたぎ 七十分の 短か船旅」

  「港には 懐かし人が 出迎えて お国なまりの 話も弾む」

  「海峡を トンネル橋で 繋ごうと 夢を語った 夢のまた夢」

  「マイク手に 資料説明 熱こもる 別府目指して バスはのんびり」  

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○夕日は今が旬です

 先日夕焼けプラットホームコンサートに遠路はるばる香川県からやって来た親友の溝渕雅子さんから、お土産をいただきました。エコバッグいっぱいに詰め込んだ香川県特産のしょうゆ豆など、大好きな食べ物に混じって四国電力の機関紙であるライト&ライフが入っていました。取り出すと表紙には、シーサイド公園恋人岬の夕日がオレンジ色に輝いて紹介されているのです。表紙裏に「今月の表紙」、「夕日に染まる『ふたみシーサイド公園』(伊予市)、撮影/大本幸和(愛媛県)と書かれていました。残暑が連日ことのほか厳しいので、秋は双海の夕日が旬であることをすっかり忘れていました。

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 色々な人から、「若松さん、双海の夕日を見に行きたいのですが、いつが一番綺麗ですか?」とよく尋ねられます。その都度私は、「あなたが夕日を見に来る時が一番綺麗」などと笑わせるのですが、冬の達磨の夕日も、春の黄砂煙る真っ赤な夕日も、はたまた夏の焼き尽くすような夕日も、人それぞれ趣があるのですが、本当は空気の澄んだ秋の頃が夕日に関しては綺麗に見えるのです。

 今回表紙に紹介されている恋人岬の夕日は、私が役場在職中に思いを込めこだわって造った新スポットなのです。春分の日や秋分の日になると、恋人岬の突端に設置されているモニュメントの穴の中にスッポリ夕日が入る仕掛けになっているのです。

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 上の写真は、夕日夕焼けフォトコンテストで最優秀賞に輝いた作品ですが、在職中はこの写真をあしらった名刺を一ヶ月に600枚も全国に配り続けてきたのです。退職して私の名刺は山口県のわたなべえつこさんが書いてくれた似顔絵の名刺になりましたが、これからが旬の秋の夕日は必見の価値があるのです。

 「しずむ夕日が立ちどまるまち」双海町という自治体は合併して地図上から消えましたが、美しい双海の夕日は永久に不滅なのです。これからも双海の夕日と共に生きてゆきたいと思っています。


  「暑いため 今が旬だと 気もつかず 夕日に思い かけるの忘れ」

  「一年中 日本全国 旅するが 双海の夕日 やはり一番」

  「あと十日 すれば岬の モニュメント 夕日スッポリ 入るの見える」

  「もう少し 若けりゃ俺も 岬にて 恋を語るが 時既遅し」


 

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○第2回の鱧まつり

 昨日の愛媛新聞の朝刊は、夕焼けコンサートが5面社会面に、鱧まつりが9面地方面の一番目立つところに載せられて、久しぶりに双海町の記事で埋まりました。

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 鱧祭りは昨年から始まった食のイベントですが、昨年は予想以上の反響と来客で商品が不足してブーイングをいただきましたが、今年は鱧を1トン以上、4千食を用意した結果、うだるような暑さにもかかわらず満足のいく成果を収めて無事終えることが出来たようです。浜まつりの実行委員長である若松利光組合長は私の従兄弟なので、その行方を陰ながら心配していましたが、どうにか面目を保ったようです。陰で支えてくれた伊予市文化協会長の門田さんや、大番頭米湊さん、小番頭松本さんの顔や鼻の上を真っ赤に日焼けした姿を、夕焼けコンサートの開場で見ましたが、苦労のあとが偲ばれました。

 私はこの日、鱧まつりや夕焼けコンサートに来た人が人間牧場へ次々とやって来るものですから、都合4回も人間牧場を往復して、夕焼けコンサートの頃には少しくたびれていました。それでも年に一回の夕焼けコンサート、しかも私が始めたコンサートなので、目立たないようにしながらも、しっかりと見届けたいと、今年は25回という記念すべき節目のイベントなので出かけて行きました。

 鱧まつりは、大町会館の人を案内しながら横目で見る程度となってしまいました。私は今年の夏も親類の漁師さんから鱧を何度も貰い、その都度鱧をさばいて骨切りを嫌というほどやりました。お陰様で骨切りの腕前も上達してきました。


 いっそのこと、鱧以外の肴の調理も磨きをかけて、お魚おじさんとしてお魚の普及運動に取り組んでみたいと思っています。猟師さんが獲る魚も結局は消費者の魚離れで魚の値段が一向に上向かないのです。かつて私の妻がお魚ママさん講習会を受けたと同じように、お魚おじさんを育成して、魚の普及活動に取り組んだらいいのにとふと思いました。妻にこのことを話すと大賛成だといいました。ただしその前提としてわが家の料理を少し分担して欲しいと釘を刺されてしまいました。虻蜂取らずになりそうなので、このことは密かに行動したいと思っています。


  「お魚を 食べさす工夫 しなければ いつになっても 魚は売れぬ」

  「なるほどな 魚に豊か 鱧という 骨切りすれば 美味しくなりて」

  「鱧まつり 行きたいけれど 行けなんだ 人間牧場 上がり下りして」

  「四面と 五面を飾る 双海記事 久しぶりだな 痛快ですね」

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○25回目の夕焼けコンサート

 「えっもうそんなになるの?」と、誰もが言うほど25年は過ぎてしまえばまさに「あっ」というほど短いものです。でも私にとっては夕日によるまちづくりの出発となっただけに、それなりの抵抗や失敗もあって、結構ドラマチックなものでした。

 今から25年前、私は40歳でした。保存している私の卓上カレンダー1986年版の6月30日(何故か月曜日、多分NHKの取材で期日指定があったからこの日にしたような記憶があるのです)の欄に「下灘駅プラットホーム野外コンサート(18:00~)」とメモしているのですが、何よりも嬉しいことは私の後を引き継いだ若い人たちが、しっかりと続けてくれていることなのです。そして余り知られていませんが陰の功労者であって、第2回目から今回まで深くかかわってくれた音楽プロデューサー小林真三さんの巧みな司会も心に染みました。

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(演奏の合間に司会の段取りをする小林真三さん)

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(その模様は昨日の愛媛新聞5面社会面に印象的に紹介されていました。)

 私も誘われるままに仲間と一緒に夕日や歌を大いに楽しみました。その模様を写真に撮りましたので紹介しておきます。

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(毎年やって来る木村さんたちは、酔いどれコンサートでとばかりにお酒を飲みながら音楽を楽しんでいました)
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(高松市三谷から溝渕雅子さんがお孫さんを連れ、お土産を持ってて今年も参加してくれました)
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(夕日が落ちる頃、仲間が私のカメラで写真を撮ってくれました)
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(残暑厳しい中でコンサートを楽しむ人たち)
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(メインゲストSING-Oさんの歌声は心に染み込みました)

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(フィナーレは双海恋歌、運営委員全員がステージに上がり、勿論私も壇上に上げられ大きな声で歌いました

  「いつ見ても 下灘駅から 見る夕日 心に染みる 思わずジーンと」

  「あのころの 俺は反骨 若かった 反対されて 余計闘志が」

  「光陰は 矢のよう過ぎて 早俺も 高齢者という レッテル張られ」

  「恋歌を 歌う隣で 泣きじゃくる 女性につられ 私もうるる」 

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