shin-1さんの日記

○夕日のクルージング

 新山口から新幹線で広島経由で帰ろうと思っていたのに、新山口の駅に張り出した蒸気機関車山口号のポスターを見て、急に鳩子の海が見たくて、山陽本線各駅停車の列車に乗りました。車窓には一昨日の雨に濡れ、昨日の風に吹かれた黄色い田圃が何処までも広がり、日照りのために遅れていた赤い彼岸花の花が咲き始めているのが見えました。

 この沿線を通る度に若い頃に手で美で見た「鳩子の海」というアサドらを思い出すのです。その海の向こうには大分県姫島や国東半島あたりが手に取るように見えました。この海はかつて丸木舟に黒曜石を積んで姫島から松山まで十キロの航海をした思い出の海でもあるのです。

 柳井港の駅に降り立ち、歩いて3分ほどの船着場に着きました。1時間余り待ち時間があるので、椅子に座り木になるカバンを机にして今日お世話になった方々にハガキを書いていると、後から県庁に勤めていた西沢さんが「若松さんじゃありませんか」と声を掛けてくれました。西沢さんは砥部町在住だった坂村真民の娘さんのご主人で、お二人お揃いで所用での帰りだと聞きました。奥さんともお話をさせていただきましたが、この度砥部町に坂村真民記念館をたてる構想が具体的に進んでいて、色々なお話をさせていただきました。

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(周防大島の裏も表も染め分けて沈む夕日は見事で目を奪われました)

 フェリーに乗り早立ちで疲れた身体を大広間に横たえて、電波状況のすこぶる悪いテレビで大相撲を観戦しました。白鳳の60連勝というメモリアルを見ることができ、また海の向こうではイチロー選手が10年連続200本安打の記録を打ち立てた明るいニュースに心から大きな拍手を送りました。尖閣諸島の領有権や、中国漁船と巡視船の衝突、菅総理の国連総会演説の冷めた空気など、どちらかというと閉塞間の漂うニュースが次々放送されていましたが、大相撲もやっとゴタゴタから抜け出して、白鵬の活躍で少し明るさが戻ったような感じがしました。スポーツ紙で相撲を引退した朝青龍の相変わらず無責任な発言が水を差しているようです。


 午後6時前のフェリーの船上では、瀬戸内の海や島を染め分けて沈もうとする夕日が綺麗に見え、まるで夕日のクルージングに来ているようでした。今は大潮で満月の頃、周防大島と伊予二神島の境の瀬戸を海流が勢いよく流れ、夕日に映えてとても綺麗でした。

 遠くにわが住む双海町が、また青島やかつて20年間も無人島キャンプで訪れた由利島がこれまた夕映えに美しく見えました。相撲を気にしながら、そして夕日も気になりながら出たり入ったりしながら、綺麗な夕日をデジカメに収めました。

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 追伸  伊予灘を通る度に私の目を奪う島があります。それは無人島由利島です。20年間もひょうたん型由利島共和国と名前をつけて、今やれる青春を追い求め続けてきた島なのです。夕日に染まる由利島を見ているといつも心が熱くなるのです。


  「いつ見ても 夕日は心 和ませる 旅の途中で 出会う夕景」

  「島見つつ 消息切れた 人思う あの人今は 元気だろか」

  「デッキより 夕日に染まる 島を見る あの日あの時 昨日のように」

  「ああ今日も いい一日を 過ごしたと 夕日に感謝 両手合わせて」

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shin-1さんの日記

○私の心に染みこんでいる海のDNA

 山口県萩漁協女性部から講演依頼があった時には、「午前中の講演なのでこちらへ前泊して下さい」と勧められていましたが、先のことでもあるし前日夕方の予定が入っていたので、日帰りか広島に一泊して早朝新幹線で新山口へ午前8時に到着すれば間に合うはずだと、鷹を食っていました。

 ところが昨晩の松山での会議が長引き、広島へ渡ることが準備の都合上できなくなりました。仕方がないのでしまなみ海道を自家用車でと思って、インターネットヤフーで調べてみると、三津浜発午前3時40分のフェリーだと柳井に6時10分に到着、柳井港駅から山陽本線に乗って8時09分に新山口駅に着くことが分かりました。

 会議が終わって松山から自宅へ帰ったのは10時過ぎでしたが、急いで風呂に入り、支度を済ませて妻が目覚ましをセットして床に就きました。この歳になると目覚ましの世話にならなくても起きれる自信はありますが、失敗をしないようにと妻の配慮でした。

 今日は気温も平年並みに下がり、三津浜までの車も、三津浜からの船も、山陽本線も全て順調でした。電車が到着すると新幹線口に萩支店の宮崎次長さんが出迎えてくれました。早朝に送迎のため萩を出発したものと思われ、頭が下がる思いでした。それでも車内で次長さんと漁業に関するお話を随分して、参考になる話をいっぱい聞かせていただきました。

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(研修会会場はいっぱいの人でした)

 山口県漁業協同組合萩支店の3階ホールには100人ほどの女性部員さんが集まっていて、開会式の後早速私の講演が始まりました。今日の講演のそもそものきっかけは、今年5月20日下関市文化ホールで行われた山口県漁連女性部の総会に記念講演を頼まれて出かけていて、あの話をもう一度聞きたいというアンコールにお応えしての講演となったのです。

 私は以下のことで海と関係が深いのです。

 ①下灘の漁村に生まれ、家は漁家で母は漁協女性部長を6年、父も漁協理事などをしていた。

 ②宇和島水産高校に進学し、18歳の時実習船愛媛丸で珊瑚海へ遠洋航海に3ヶ月余り出かけた。

 ③親父がガンになり帰郷して若吉丸の船長として7年間漁師をした。

 ④役場に入り4年間水産を担当し、荷さばき所や漁村センターを担当して整備した。

 ⑤シーサイド公園を造り、漁協のおばさんたちとじゃこ天などを作って現在に至っている。

 ⑥愛媛大学農学部客員教授として農山漁村の地域活性化論を教えている。

 ⑦今は愛媛海区漁業調整委員をしている。

 ⑧家の横に海の資料館海舟館を設置している。

 ざっと指折り数えただけでもこれほどあり、そんなこんなで、今も漁業に関心があり死ぬまで海のことはライフワークにしたいと思っているのです。ゆえに女性部の皆さんの関心も高く大盛り上がりの中で1時間余りの講演はあっという間に終わりました。宮崎次長さんに新山口まで送ってもらい、岐路に着きました。

 私の心には海のDNAが流れているのでしょうか。


  「友人が 萩日帰りに 感心し 早速メール 俺も返信」

  「暑かった 気温も下がり 長州路 鈍行列車 長閑に走る」

  「ああここが 鳩子の海か 思いつつ 遠く見えるは 姫島あたり」

  「わが体 海の匂いが ぷんぷんと それもそのはず 海で生まれた」

 

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