shin-1さんの日記

○イノシシの被害甚大

 昨日山奥組の井上さんがロケ風呂の見学をしていて、風呂下の畑の異常に気がついてくれきました。「若松さん、芋掘りしたのですか?」、見れば子どもたちの実習畑のサツマイモが無残にも荒らされているのです。井上さんたち一行が帰ってから私は一人で芋畑へ入り、被害の状況を調べてみました。松山方面の2畝は全滅の状態で、芋づるが無残な姿をさらけ出していました。

 進入場所はどうやら入り口で、誰が開けたのかは定かでありませんが、囲い網の継ぎ手を利用した入り口がイノシシが通るほど開いていました。3年前にもこれと同じような被害に遭ったことがあります。当時の教育委員会の職員さんが草引きにやって来て、作業終了後うっかり入り口の網を閉め忘れて被害に遭ったのです。

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 先日私が周りの草刈をした時には、周りを見回って網の状態を確認していたので、まさかイノシシが入り口の戸を開けたとは考えられないのです。そうかといって防犯カメラを設置している訳でもないので、警察でもないのでこれ以上の詮索は出来ず、まあ今回もイノシシの悪知恵のせいだと、イノシシを犯人にしたいと思うのです。それにしてもいのししは鼻や口、それに手足で、鍬を持たずによくもまあこれほどまでに芋を掘るのが上手いのか、ただただ感心するばかりでした。

 今回も被害届を出すことが出来ず、ゆえに操作もなく結局は泣き寝入りで一件落着となりそうです。早速現場から教育委員会の赤石さんに被害の状況を伝えましたが、収穫を楽しみにしている子どもたちの落胆が目に見えるようです。

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 帰り道すがら人間牧場の近所に住む西嶋さんに出会いました。西嶋さん宅はもう当の昔にサツマイモはイノシシの被害に遭って全滅したそうです。西嶋さんはもうこの4~5年は植えても植えてもイノシシに取られるので、来年から作付けをやめるのだそうです。落胆を隠せず山を下りましたが、人間牧場の入り口付近の道沿いには西嶋さんの仕掛けたイノシシの捕獲箱が見えました。利口になったイノシシはあざ笑うように、捕獲箱の直ぐ近くの斜面を無数に掘り返していました。

 こんなこともあろうかと家の横の畑にサツマイモを植えていて、収穫祭でサツマイモが足らなければ、わが家のサツマイモを回す予定です。今年も私たち人間は残念ながらイノシシの知恵に負ける結果となりました。


  「情けなや 今年も猪に 芋食われ 被害届も 出せないショック」

  「つるだけを 残して食べる 手の内は まさに名人 よっ、イノシシ」

  「楽しみに している子ども 裏切った 心沈んで 囲いを補修」

  「あいつらも 生きんがために 日々必死 理解はするが やはり憎いな」 

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○3人の美女と1人の付き添い野獣

 「今下灘鱧祭りに来ています。同行の女性3人が人間牧場を見たいというので、勝手に出かけていいですか」と、野村町山奥組の井上登さんから2時過ぎに携帯電話が入りました。他ならぬミツバチの師匠の申し出に、何

としても都合をつけなければならないと思い、「あと15分後に人間牧場で逢いましょう」と返答し、身支度を整えて単車を走らせました。昨日の2時過ぎはうだるような暑さの中でしたが、海岸国道を単車で突っ走ると心地よい風が体にまとわりついてとても清々しく走りました。

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 井上さんは、松本小番頭が年輪塾ネットで配信した鱧まつりへのお誘いメールを見て、はるばる山道を3人の昔の美女を連れて賑やかしに来てくれたのです。私は井上さんの「昔の美女を3人連れて行くから」という誘いにスケベ心が頭を持ち上げ、淡い期待を持って出かけました。

 私は近道、井上さんは遠道を通ったため私のほうが5分ばかり早く着きました。早速水平線の家の窓を開けたり、ロケ風呂の鍵を開け戸を押し上げたりしました。昨日は人間牧場へ3組目の来客で、その度に自宅と人間牧場の往復でした。

 やがて井上さんは3人の女性を連れてやって来ました。想像していた通りの聞きしに勝る昔の美女でした。井上さんの同級生2人に井上さんの奥さんを加えた戦中派の女性だけに、初めての出会いとは思えない馴れ馴れしさ、話は大いに盛り上がり、海のない野村町ゆえ沖合いにかすむ島影を水平線の彼方に見ながら1時間ほど過ごし、再会を約束して帰って行きました。いつもは農作業着でやって来る井上さんと、農作業着で出会う私ですが、この日は井上さんも私も少しおめかしをしていても、やはり野獣の領域を超えれませんでした。聞けばこの女性たちもミツバチを飼っているそうで、次の出会うのがすっかり楽しみになって、いい予感が漂い始めました。


  「三人の 昔の美女を 連れ回す ミツバチ師匠 今日はおめかし」

  「同じ頃 産まれた人は 打ち解けて 話大いに 盛り上がりました」

  「いつの世も 男は女 求めてる 歳はとっても ワクワクしつつ」

  「海はいい ないものねだり その言葉 聞いて納得 確かに俺も」 

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○人間牧場へ大町会館の皆さんが研修に来ました

 西条市大町会館の越智館長さんから、人間牧場の視察に来たいと何ヶ月も前に連絡が入っていました。越智館長さんは几帳面な方で、その後何度か電話をいただいていたので、今日の日を楽しみにしていました。大町会館へは講演にも出かけて講演もしていて、何人かの人の顔は思い出すのですが、毎日のように知らない人に会っている私ゆえ全ての人の顔を覚えることは出来ないのです。

 何日か前、大町会館の関係者から、「人間牧場へ行きたいのだけれど、足が不自由なので長い歩きは出来ません。どのくらい歩くのですか?」と電話がかかってきました。わたしは「ほんの五分程度なのでお越しください」と軽はずみにも答えてしまいました。

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 その人たちを乗せた西条市役所のマクロバスが待ち合わせ場所のシーサイド公園へ到着したのは、待ち合わせ時間より早い9時20分でした。私は9時20分にシーサイド公園に行っていたので、携帯電話で居場所を確認して早速私もマイクロバスに乗り込み、人間牧場へ向けて出発しました。

 山道を縫うように走ったマイクロバスを人間牧場への進入路で降りて歩いてもらいましたが、今日は35度を越すような猛暑野中を下り道は何とか下りました。やがて壊れるまま車座に座ってもらい、1時間ほど落伍ライブをやりました。来られた人たちはどの方も熱心に耳を傾け、何人かにはご意見もいただきました。外は暑くても人間牧場・水平線の家は少し秋を感じるような心地よい風が吹き込んで、いい研修会となりました。

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 しかし研修を終えて風呂を見学し、車まで歩いて登る頃には、猛暑日に近いのではないかと思うほど温度が上がり、みんな汗が一気に噴出し、特に歩くのが不自由な人に迷惑をかけてしまいました。でも上の道で車を回転して待っていてくれた運転手さんのお陰で、冷房の効いた涼しい車内に入り、一気に汗が引くのを覚えました。

 今日はしもなだ運動公園では鱧まつり、下灘駅では夕焼けプラットホームコンサートと二つの大きなイベントがジョイント開催されていて、しもなだ運動公園の広場は車が沢山駐車していました。私はシーサイド公園でマイクロバスを降りて皆さんとお別れしましたが、妻の大好物である星加のゆべしをお土産にいただきました。

 連日人間牧場に研修にやって来る人たちのテーマは様々です。私もそのテーマに合わせてできる限り適切なアドバイスをするよう心がけていますが、ゆりかごから墓場までの言葉の通り、子どもから大人まで、又職種も性別も雑多で、時には悩み事の解決を求めてやって来る人生相談まがいの人もいるのです。まあこれからも多くの人と対話しながら生きて行こうと思っています。


  「どのくらい 歩くのですか? 電話聞く ほんの五分と 思わず答え」

  「歩くのが 不自由な人 汗をかき 必死に歩く 弱者の目線」

  「猛暑日と 見まがうほどの 暑き中 山道歩く 汗が噴出す」

  「聞きますが 元気源 何ですか? 歯の浮くように 家族と答え」


 


 

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○第50回愛媛県老人クラブ記念大会

 かつてえひめ地域政策研究センターの所長をしていた青野さんは、退職後老人クラブ連合会の事務局長に就任されています。その青野さんから昔のよしみで講演依頼の声がかかり、第50回愛媛県老人クラブ記念大会の記念講演を頼まれ、昨日会場となっている県民文化会館へ出かけて行きました。

 私も県内外へ講演に行き、これまでにも県民文化会館のステージに立ったことはありますが、メインホールの大舞台での記念講演は初めてなので、1000人余りの参加者に多少緊張した面持ちになるであろうと思っていましたが、以外に落ち着いて話すことが出来ました。

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(講師はこんな立派な県民文化会館の応接室で、分相応でないお茶をいただくのです)

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(メインホールの会場を埋めた参加者の皆さん)

 長い人生の機微を生きてきた百戦錬磨の人たちを前に、講演時間は僅か1時間余りなので、はてさて何を話そうか迷っているうちに司会者から講師紹介され、「心豊かに生きる」という演題で講演は始まりました。いきなりレクリエーションをやりました。「皆さん、私が『しんちゃん』何々しましょうという枕詞をつけた時だけ動作をしてください。分かりましたね」と前置きで納得させる話をして始めたのに、「では皆さん手を上げてください」と言えば殆どの人が手を上げてしまいました。「しんちゃんがついていないのに何故手を上げるのですか。じゃあしんちゃんその手を下ろしてください」と、まあ言葉巧みに誘って大爆笑で大いに盛り上がりました。「皆さん、この遊びは小学生でも出来るのですが、皆さんは小学生以下です。だから交通事故や振り込め詐欺に遭うのです。思い込みでなく人の話は最後までちゃんと聞いて行動しましょう。」でスタートしました。いやあわれながら実に愉快な講演会でした。

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(ステージにはおこがましくも私の演題が吊り下げられていました)

 今高齢者を取り巻く社会は、指折り数えただけでも10指に余る大変大きな問題を抱えています。①交通死亡事故や運転免許証の返納、②振り込め詐欺や住宅床下工事の水増し請求、③熱中症による死亡事件、④百歳以上の安否確認不明、⑤痴呆症の発症、⑥高齢者福祉施設のあり方、⑦後期高齢者年金問題や介護保険、⑧地震や津波の時の安否確認、⑨葬祭センターの出現と死に方や死の尊厳、⑩家族の人間関係などなど、長寿大国日本を象徴するような大きな問題なのです。

 かくいう私も昨年65歳の誕生日を迎えて高齢者となり、また自宅に92歳になったわが親父がいて他人事とは思えないのです。

 講演はあっという間に終わりましたが、情報化時代を反映しているのでしょうか、昨晩参加した高齢者から3件の感想メールがインターネットで寄せられました。いずれも「楽しい講演会でした」とか、「老いを迎えて色々と考えさせられました」に加え、「近々あんな面白い話を地元でして欲しい」という講演依頼まで含まれ驚きました。私にとっても記念すべき思い出に残る大会となりました。


  「千人の 人を相手に 話する メインホールの 壇上立ちて」

  「思いつき いきなりレクで 大爆笑 心を掴み あっという間に」

  「いつの世も 悩みが多い 高齢者 弱者がゆえに 大切したい」

  「よくもまあ こんな大きな 舞台立つ ビビルことなく 役目を果たす」


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○ミツバチの巣箱の中は

 昨日は採蜜を終えて一段落したところで、井上師匠とミツバチ談義に花を咲かせながら、他の巣箱を見て回りました。種蜂を入れて2年前に人間牧場へ興し入れしてきた、一番元祖の巣箱は井上師匠から借り受けている古い巣箱です。今年は自然分蜂して入居しましたが、残念なことに余り元気がないのです。今年も越冬して種蜂保存くらいにしか思っていませんでしたが、掃除のためひっくり返してみると、黄色い巣がかなり成長しているように見えましたが、予断を許さないようです。

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(1号巣箱の点検をしてくれている井上師匠)

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(1号箱の様子)

 今年8合の採蜜をした2号箱は、その後群れに逃げられましたが、私が柿の木に群がった群れを米袋に入れて無理やり連れ戻したものです。何とか居座って元気に活動しているようです。7月30日に細密してからまだ1ヶ月しか経っていないので、これから秋の働きに期待したいと思っています。

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(2号箱の様子)

 さて重箱だった3号巣箱も、馬路村式巣箱に変えて7月30日に、逃げたミツバチの群れをヤマモモの木の上に登って巣箱に引き戻したものですが、どうにか収まっているようです。このすばこもこれから成長するだろうと思われるので1号、2号箱とともに越冬して種蜂となり、来年に備えて欲しいと願っています。

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(3号箱の様子)

 いずれにしても昨年と違って、人間牧場の4つの巣箱は全て種蜂がいるので、来年は大いに期待が持てそうです。はてさて家の裏の巣箱も決断の時を迎えています。このところの暑さのせいなのか、はたまた巣箱の中が窮屈になったのか、巣箱の前に大量のミツバチが羽根を休めてたむろしているのです。4月30日に設置し間もなく入居したものなので、採蜜も考えたいと密かに策を練っている今日この頃です。

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(5号巣箱の今朝の様子、ミツバチが沢山入り口でたむろしていました)

  「少しずつ 少しずつだが 進化して ミツバチ狂い 当分続く」

  「ミツバチの 世界は未だ 知らぬこと 多過ぎ学び ついて行けない」

  「明日の朝 採れた蜂蜜 パンに塗り 試食洒落込む 喉が鳴るわい」

  「後一つ 巣箱採蜜 する予定 秘策練りつつ 刺されぬように」

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○順調だった採蜜作業

 このところ終わりに近づいた夏の総決算を急いでいます。採蜜作業もその一つで、5個設置しているミツバチの巣箱も順調に入居していますが、4号巣箱と名前をつけているツリーハウス近くの巣箱の様子が、随分良くなったようなので、ミツバチ飼育の師匠である西予市野村町の井上登さんの協力を得て、昨日決行しました。

 井上さんは採蜜作業の七つ道具を軽四トラックに積んで9時にはもう人間牧場へ到着していました。私は前夜広島県福山市からの帰りが遅く、加えて早朝に鱧の下ごしらえを妻から頼まれて手間取ったため多少遅れ、それでも待ち合わせ時間の9時には人間牧場へ行ったものの、師匠に先を越されてしまいました。

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(巣箱を二つ引っ付けて斜めにした採蜜作業風景)

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(巣箱の中に進入していたスズメバチの雌)

 採蜜作業には色々な方法がありますが、井上師匠と私が選んだ方法は、巣箱を横に並べて三つ葉位置を追い込む方法です。昨年はござの袋に追い込む方法でやりましたが、蜂蜜は取れたもののものの見事に失敗をしてに、蜂の群れを逃がしてしまいました。

 井上師匠の指導の下、巣箱を作業のしやすいウッドデッキまで運び、別の巣箱を連結して斜めにしてミツバチを暗い方へ追い込む作戦です。巣箱の天板の釘を抜いて外しました。そしてミツバチの巣をテグスで天板から切り取り巣箱を叩くと、ミツバチは驚いてブンブンと移動し始めました。適期とばかりに巣を巣箱から取り出してプラスチック容器に取り出しました。巣は予想通りかなり蜜が溜まっていて、2升くらいは採れるのではないかと、笑顔で話しました。

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(天板を外すと中からたっぷりの蜜が出てきました)

 結局この日の作業では、天板を外して採蜜をしたためミツバチの本隊は移動せず箱の側面に群れて、天板を再び釘で止め元の場所に戻した結果本体を逃がすこともなく作業を終えました。思わぬ作業の順調さに多少驚きながらも10時30分には全ての作業を終え井上師匠は帰って行きました。

 私も収穫した巣を入れたポリ容器を積んで山を降りました。さあそれから急いで流下式採蜜道具を倉庫から取り出して手入れをして際蜜です。夏の暑い日差しが照りつける家の庭で汗をかきながらポリ容器の蜂蜜をたっぷり含んだ巣を移し替えました。ミツバチが何匹か犠牲になりましたが、私も薄い手袋をしていたものの、人差し指と小指の2箇所も不用意にも刺されてしまいました。今朝は刺された左手が赤く腫れ上がり、少し熱があるようですが幸いなことに左手だったために、パソコン操作や食事には支障がなく不幸中の幸いだったようです。

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(威力を発揮する手づくりの流下式採蜜器)

 流下式採蜜器は順調に作動し、今朝の時点で一升瓶に2本、つまり2升も蜂蜜を採取することができました。多分今日の午前中に残りが落ちる予定なのでまあ先日の八合と合わせると3升となるようで、昨年よりも1升少ないのですが、家の裏に設置したのを採蜜すると軽く目標どおりの成果を得られるようでホッとしています。

 それにしてもよくミツバチに刺されます。今年も2回やられました。免疫が落ちることを心配していますが、自戒は刺されないようにしようと心に誓いました。

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(ミツバチに刺され赤く腫れ上がった左手の人差し指と小指)

  「採蜜は 全て順調 思いきや 蜂に刺されて 後味悪く」

  「今回も 二升蜂蜜 取れました 今朝は取れたて 食パン塗って」

  「少しずつ 上達してる 養蜂も 奥が深くて 難問次々」

  「お師匠が いるからできる ひ弱さに 納得しつつ 採蜜学ぶ」


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○トコロ天の試作

 今年の夏の収穫は天草を手に入れたことです。先日黒磯海岸を歩くイベントに参加した時、海岸に打ち上がっている天草らしき白い海草を見つけたのがきっかけです。早速別の日に背負子を持ってたった一人で出かけました。黒磯海岸までは干潮の時でないと歩けないため、大潮を選んで出かけました。その日も暑い一日でしたが、綺麗な淡草だけを拾い集めて家に持ち帰りました。そして発泡スチロールに水をため、他の海草やゴミを選り出して純粋な天草だけにする作業を何度か繰り返しました。今の時期は直射日光が強いため、朝水を一杯含んだ天草も夕方になるとカラカラに乾き、まるで白髪のようになるのです。

 朝晩暇を見つけてその作業を繰り返した結果、天草は晒されてさらに白くなり、二日前もう潮時とばかりによく乾燥させた天草を大きなナイロンの袋に入れて保存できる状態にしました。

 妻に頼んで一昨日の夜、この天草を使ってトコロ天の試作をやりました。まず天草の分量を測り、おお大きな鍋の中に天草の分量に見合った水と天草を入れ、ガスコンロに火をつけました。間もなく沸騰しましたが、煮こぼれないように火を弱くして10分間かき混ぜながら煮ました。そして食酢を適量鍋の中に入れると、天草からゼリー状のエキスが出てくるのです。そこで火を止め、裏ごし用も木綿のふくろを用意して、平タッパーの中で絞るのですが、これがまた熱いため最後のエキスまでは絞れませんでした。

 木綿の袋には搾りかすが残りますが、それを捨てて木綿袋を洗います。平タッパーに入れたエキスはそのまま固まるまでその場で自然に冷やします。やがて余熱が取れたら切り分けて冷蔵庫で冷やすのです。さあこれでところ天の出来上がりです。

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 冷蔵庫で冷やされたトコロ天はトコロ天つき器という木の箱に入るように切って箱の中に入れ、お椀の上に押し出すのです。その上にだし汁かポン酢をかけ、生姜かからしを添えて食べますが、夏の定番風物ともいえるトコロ天は癖になるほど美味しいのです。

 子どもの頃にはこんなものの何処が美味しいのだろうと思っていましたが、この歳になると懐かしさもあって、何よりのご馳走なのです。試作のとおころ天を食べてみましたが、実に美味しく天草採り作戦は大成功に終わりました。手間隙はかかりますが来年はどっさりとって、人間牧場の色々なプログラムに応用したいと思っています。次回の試作品はトkロ天に砂糖やオレンジジュース、それにフルーツの缶詰などを加えてカラフルなスィーツを作る計画です。トコロ天が予想以上に上手くいったので十中八九上手くいくと妻も太鼓判を押してくれました。


 天草はアルカリ性食品で、カロリーも殆どないことからダイエットにぴったりだそうです。私はむしろ痩せ過ぎで別にダイエットは必要ないのですが、階層はお腹の掃除屋さんともいわれています。これからは健康維持のために極力トコロ天を作って食べたいと思っています。

 時期が過ぎましたが今年はもう一回、黒磯海岸へ行って天草の収集をしたいと密かに思っていますが、果てさてどうなることか・・・・・。


  「この夏は 手間隙かけて 天草を 白く晒して 備蓄に励む」

  「ダイエット サプリメントに 頼らずも 手間隙かけりゃ 自然に痩せる」

  「暑かった 今年の夏も もう終わり いつの間にやら 虫の鳴き声」

  「美味いねえ 昨日も今日も トコロ天 腸内掃除 しっかり出来た」 


  

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○広島福山青年会議所の講演会に参加

 本州と四国には瀬戸大橋、明石海峡大橋・大鳴門橋、しまなみ街道という3本の橋が架かっています。大阪や東京を目指す高速バスは明石海峡大橋・大鳴門橋、鉄道利用は瀬戸大橋、中国地方へ車で行く時はしまなみ街道と、目的に合わせて使い分けますが、愛媛県にある一番近いしまなみ街道でも、私たちの町からは高速道路を利用しないとかなり遠い位置にあるため、時には松山観光港から高速船やフェリーを使って広島宇品や山口柳井へと渡るのです。広島も山口も沖合いに見える対岸の県なのに、橋は東京や大阪に便利なように架かっているため、やはり遠い印象を受けるほどアクセスが悪いのです。

 それでも船を利用しないと渡れなかったり、夜になると船がストップするため変えれなかった一昔前のようなことはなく、いつでも車で行き来が出来るのですから、やはり便利な世の中になったものと感心感謝しているのです。

 昨日は広島県福山青年会議所の招きでしまなみ海道を渡りました。ギノー味噌の田中社長さんにお願いしていたバラの花のドレッシングを午前中に受け取る約束をしていたため、久しぶりにこの橋を渡るので夜の会合ながら少し早めに出かけ、沿線のあちらこちらを散策しながらのドライブをしました。昨日は衝きも変わり9月だというの真夏を思わせるうだる残暑で、瀬戸内海も鏡のように凪いでいました。

 中国路は国道2号線を走り、福山駅前の会場となるニューキャッスルホテルに到着したのは午後4時前でした。駐車場に車を止めて駅舎内を通り福山城公園辺りを散策しましたが、たっぷり汗をかいてしまいました。

 着替えを持っていたので車の冷房をつけて着替え、約束の時間より少し早い5時40分に開場入りしました。開場ではリハーサル最中で、講演の出の部分に出くわしたため私もリハーサルに参加しました。

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(うずみを紹介するパンフレット)

 青年会議所の講演会は何度参加しても出の演出が凝っていて、私のプロモーションビデオが既に出来上がっていて、恥ずかしく穴があったら入りたいような心境になりました。スタッフの方々はこの日のために2度も双海町を訪れ、自慢の夕日や町の様子を映像にして3分間の物語風ビデオを作成しているのです。

 夕食をいただき未来創造室長の長鋪さんとお茶を飲みながら色々な話をさせてもらいました。直前の会議が5分延びたため、「5分延長して下さい」と9時3分まで時間をいただいていましたが、5分前、2分前、1分前の画用紙出しは元のままだったため、結局は頼まれていた郷土料理うずみの話をすることができず多少戸惑い、「夢はドリームでなくターゲットである」という演題の講演は終わりました。


 会終了後近くの居酒屋で懇親会があり、1時間ほどの短い時間でしたがうずみという郷土料理を2種類もいただきました。うずみという郷土料理は倹約政治の副産物として生まれたもので、福山青年会議所が福山の名物にしようとプロジェクトを立ち上げ取り組んでいて、既に市内40の飲食店がうずみをメニューに取り入れているようです。既にイベントでのパフォーマンスやパンフレットも出来上がり、着実にその成果は上がりつつあるようです。マツタケや鶏肉、エビ、鯛などをご飯の下にうずめてたべるため、多少インパクト不足で地味な料理ですが、味はさっぱりして中々のもののようです。

 私はこの日、ギノー味噌が造ったバラの花の飲む酢と今ブームの食べるラー油を持参して、バラの街福山を売り込む作戦を話しましたが、単年度勝負の青年会議所のメンバーの心の窓は残念ながら開きませんでした。商品開発や地産地消などは青年会議所にとってまだまだ未知の分野のようでした。

 居酒屋を11時頃に出てしまなみ街道を走り、自宅へ帰ったのは2時前でした。ホテルを用意していただいたのに、どうしても今日の仕事の段取りがつかず。キャンセルして帰ったことを少々悔やみましたが、今回もまたいい人たちとのご縁が出来ました。


  「うずみいう 茶漬けのような 料理喰う 鯛やまつたけ 驚くばかり」

  「しまなみを 巡る海道 行き帰る 初秋の海は 穏やか凪て」

  「バラの酢と 食べるラー油を 見せながら 嗜好の変化 話すも通じず」

  「驚いた 私主役の プロモーション 穴があったら 入りたいよう」 

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shin-1さんの日記

○92歳の誕生日

 私の親父は大正7年9月1日生まれで、今日目出度くも92歳の誕生日を迎えました。親父が生まれた頃の日本は乳幼児の死亡率が高く、元気に育つことが確認されてから戸籍を入れる子どももいたようです。親父もその一人で、祖母や本人が言うのには2歳くらいになって籍を入れたというのですから、もしこれが本当ならば実年齢は94歳かも知れないのです。まあそんな過去の詮索よりも、92歳までどうにか元気で生きれたことを喜びたいと思っています。

 親父は12人兄弟の長男として生まれました。家が貧乏だったため幼少の頃から辛酸をなめて育ちました。祖父が早くに病没したため兄弟姉妹の分家や結婚などは全て親父夫婦の肩に大きくのしかかり、これまた大変な苦労をしたようです。親父は2度も戦争に出征し傷痍軍人となり、抑留生活を経て九死に一生を得て帰国しました。親父は進取の気性に富み、僅か5トンの漁船で太平洋に挑み、伊豆半島まで県外出漁しました。私が高校を卒業する頃ガンに侵されこれまた生死の境を迷いましたがその後病状回復し、70歳までおふくろと二人で漁船に乗り組んで漁業を続けました。その母も10年前に先立ちましたが、その後隠居でひっそりと行き続けているのです。

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(家の裏の水源で朝の見回りをする親父)

 親父はその後白内障や最近では鼠径ヘルニアの手術を受けましたが、まあ何とか元気でボケもせず、今でも7キロ先の下灘診療所へ自転車で通院するなど、私より元気だと思えるような高齢者で、日々を過ぎしています。親父の日課は朝4時に目を覚まし、夜は7時に寝るという太陽と共に暮らしていますが、家庭菜園は勿論のこと家の敷地内の草取りや片付けなど、目に見えない部分の役割を果たして、毎日忙しく振舞う私たち夫婦の名サポーター役をしてくれているのです。

 親父は手先が器用で、毎日趣味の日曜大工や骨董品の手入れに余念がありませんが、家の横に海舟館という海の資料館を造り、色々なものを展示しています。その主流は瀬戸内海で活躍した和船の模型で、これはもう玄人はだしで、見学に訪れた人誰もが驚嘆の声を上げるほど精巧に造られていて、親父の説明を加えると漁業の歴史が分かるほどなのです。

 息子でありながら親の血を受け継がないような私ゆえ、技術的に親を超えることは出来ませんが、これから先はこれらの資料をしっかりと守って校正に受け継いでゆきたいと思っています。


 私が出版した自著本「夕やけ徒然草・地の書」の中で、「第19話 親父の言葉」の中で、次の言葉を書いています。

 1、草鞋を履け・草鞋を脱げ。

 2、酒は大いに飲め・ただし酒に飲まれるな。

 3、金は入るを知りて使うを考えよ。

 4、人生は一生懸命やっていれば必ずいいことがあるものだ。

 5、学校へ行かずも勉強は何処ででもできる。

 6、人生は運・根・鈍だ。

 7、お前にしか出来ないことをやれ。

 8、今を知りて遠い向うを見ると間違いはない。

 9、体をいとえ・人生迷ったら元に戻れ。

 10、一生にひとつぐらいは世の中のためになることをやれ。

 小学校しか出ていない無知文盲な親父ながら、こんな戒めを今でも私に折に触れて語ってくれています。92歳の誕生日を迎えるに当たり、これからも元気で過ごして欲しいと祈る朝でした。


  「わが親父 92歳の 誕生日 これから先も 元気で過ごせ」

  「本当は 二歳も上と 言う親父 昔は二年も 無戸籍ままで」

  「石灰を 畑に撒くと 言う親父 朝起き見れば 既に終了」

  「時々は 言い争いも するものの 親子関係 すこぶる良好」

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○夕焼け村で夕日の話をしました

 昨日は8月最後、夏休み最後の日でした。暑さも峠を越えたかに見えましたが、全国各地で猛暑日となったようで、今年の気象新記録が沢山生まれたスーパーをつけた暑い暑い夏でした。それでも熱中症にもならず、多少あせもに悩まされた程度でこの夏を過ごすことができたことは、何よりも幸いです。

 昨夕は3日前に始まった通学合宿「夕焼け村」で、夕日の話をして欲しいとの要請があって、宿泊先である潮風ふれあいの館へ出かけました。到着すると子どもたちは夕食準備に追われていました。私も誘われてその輪の中に加わり食事をいただきましたが、メニューはハヤシライスと野菜サラダでした。

 この日は更生保護女性部の3人のおばちゃんが食事づくりのボランティアとして汗を流してくれたようで、毎年のことながら感謝せずにはいられません。子どもたちが食材の買い物をし、子どもたちが食事を作る手はずなのですが、烏合の衆を指導しないと出来ないため、こうして毎日ボランティアの指導を受けているのです。

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 私が2005年に作った夕日の時刻表によりますと、昨日8月31日の日没は午後6時36分でした。食事の終わった子どもたちは全員前庭に出てコンクリート電柱で造ったベンチに一列に座って、夕日の沈むのを待ちました。昨日は100パーセントの夕日ではありませんでしたが、それでも晩夏初秋の綺麗な夕焼けが見れました。また昨日は一年に数回しか見えない大分県国東半島や姫島がくっきりと見えたり、殆どの島影がまるで墨絵のように印象的に見えました。

 そんなこともあって夕日の話の最初はまず姫島の黒曜石と、わが双海町東峰遺跡の3万年前の石器が同じ石であることからロマンの物語を話してやりました。古代人はどのようにして黒曜石を東峰まで運んだのか、まさにミステリーの世界なのです。子どもたちは蚊に足元を悩まされながらも約40分熱心に耳を傾けてくれました。

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 最後は私の下手糞なハーモニカに合わせて「夕焼けこやけ」の歌を大合唱して終わりました。この20年間夕日に魅せられ夕日を売り出すためにありとあらゆる場所で雄飛の話をしてきました。その結果双海町の夕日は自称日本一と思えるほど町民の自慢になりました。しかし人の記憶など直ぐに消えてゆくものです。ほおっておくといつしか記憶から消えてしまうのです。

 子どもたちにとって昨日夕日も見ながら聞いた夕日の話は、心に残ったに違いありません。これからの長い人生で何処かの町やどこかの国の夕日を見た時、この夜の夕日を思い出してくれるかも知れないのです。子どもたちの記憶の中に潜在能力として残す作業こそがふるさと教育なのだと思いながら、これからも折に触れて夕日の話をしたいと思っています。

 さあ今日から二学期がスタートします。子どもたちは夕焼け村からそれぞれの学校へ通って始業式を迎え、また夕方この潮風ふれあいの館へ帰って来ます。楽しい思い出を一杯作ってくれることを願っています。


  「子どもらに 夕日の話 熱っぽく 今年も話す 大きな声で」

  「一年に 何度か見えぬ 姫島が 見えてラッキー 古代を語る」

  「子どもらの 心に残る 思い出に 夕日夕焼け 天も見方す」

  「この夕日 二度とは見えぬ オンリーワン 心焼付け 心の糧に」

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