shin-1さんの日記

○【自悠くらぶ】に原稿を書き始めて一ヶ月

 愛媛新聞のウェブサイト【自悠くらぶ】に原稿を書き始めて約1ヶ月が過ぎました。これまで書いた記事は、次のとおり5本です。

 9月26日  夕日は今が旬です

 10月1日  秋には秋の花が咲く

 10月12日 風呂が恋しい季節です

 10月19日 手づくり遊び道具

 10月26日 星がきれいです

 私のテーマは「人間牧場だより」ですから、この一ヶ月は田舎暮らしの楽しみ方を書いているつもりなのですが、インターネットの時代を反映してか、それとも田舎暮らしを求めている人がいるのか、何人かから次のようなメッセージが寄せられました。

 ・夕日の沈む時間を教えてください。

 ・夕日は何処から見るのがいいですか。写真に載っていた場所は何処でしょう。

 ・ススキを取りに行きたいのですが、ススキは何処で取っても叱られませんよね。

 ・彼岸花、別名マンジュシャゲの花がわが庭にも咲いています。あなたの記事を読んで見てみると確かに不思  

 ? 議な姿です、自然は素晴らしい。

 ・わが家も昔、五右衛門風呂でした。懐かしい。一度入らせてください。

 ・人間牧場はどう行けばよいですか。一度テレビで見たので仲間と探して行きましたが、結局は道に迷って

  散々な目にあいました。地図を送ってくれませんか。

 ・「星は何でも知っている」という歌もありましたね。同年代です。

 ・私のすんでいる所は明る過ぎて星が余り見えません。

 まあざっとこんなメールが、私の所に届いているようです。この人たちの殆どは私のメール「shin-1さんの日記」の愛読者で、いつもメールにてお便りをいただく常連さんなのです。でもこのウェブサイトのお陰で人間牧場の訪問者が多くなり、俄然忙しくなってきました。それでも私の体は一つだし、人間牧場へ毎日通うことも出来ないので、只今順番待ちといったところなのです。

 時代遅れを自認し、時代遅れながら一周遅れのトップランナーだと自認する私ですが、このところの修行と、長男や友人の援助交際?で、からっきし駄目だった電子文字の世界が少し身近なものとなって、このように少しデジタルという深みに入る勇気を持ち始めました。でもやっぱりアナログなハガキも3枚、毎日書くと安心するあたりはやっぱり時代遅れなのかも知れません。

  「人の記事 読んで俺など まだまだと 自戒しきりに 次の号書く」

  「物好きな 人もいるもの 俺の記事 読んで感想 届けてくれる」

  「さて次は 原稿締め切り 早来たか 忙しい日々 追いかけられる」

  「手違いや 間違い指摘の メール来る はいその通り 次から気をつけ」 

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shin-1さんの日記

○年金暮し

 世の中を騒がせている年金問題ですが、一昨日愛媛県厚生年金受給者協会今治支部の「年金受給者のつどい」に招かれ講演をました。会場となった今治市総合福祉センターには職場をリタイアし年金暮らしをしている人が沢山来ていて、安心と不安が入り混じるような雰囲気の中でお話させてもらいましたが、年金が少ないだの何だかんだといっているものの、これだけの人に年金を差し上げなければならないのですから、国家も大変だと一瞬思いました。

 私の話は相も変わらず楽しい話で、笑いの中にもあっという間に1時間が終わってしまいました。私の前は年金の話し、私の後は地元有志によるアトラクションと午後からのプログラムは多彩で、時間を押してはいけないとの配慮から、5分前には進行役が客席から「5分前です」というメモ紙を見せる念の入れようですが、私は時間を守る方なので、反骨を見せて一分半オーバーさせました。多分司会はやきもきしたことでしょう。だって遠いところを話に来ているのですから、少しぐらいはいい話をしないと勿体ないと思うのは当然のことだと思うのです。

 それにしても皆さん元気です。金はある、暇はある、体も元気となるとこれ以上の幸せはありません。しかし人間は欲なもので、満ち足りればもう少しお金も欲しいし、長生きもしたいのです。要は何をしたいか、何が出来るか、それが生きている証なのです。最近は金・暇・元気なのに、生きがいも持てずにただボーっとして一日を過ごすただ生きているだけの人も増えてきているようです。役立ち感があればもっともっと充実した人生になるとお話しました。

 来月は新居浜市、四国中央市の同じような集会に招かれていますが、さて次はどんな話をしようか、今から楽しみです。ご来場を予定している皆さんも楽しみにしていてください。

  「年金で 遊んで暮らせる いい時代 国家の財布 火の車です」

  「ああ俺も 年金暮らしの 人となり 妻の眉間に しわ寄る日々だ」

  「時間です まるでテレビの リハーサル メモ出す人の 面白可笑し」

  「お目当ては 私の話しか 記念品 軍配どちら 気になる方へ」 

 
 

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shin-1さんの日記

○写真撮影

 「今日は私の写真撮影だ」と妻に言ったら、「レントゲンの?」と大笑いされました。この顔ですから極力写真に写る事を遠慮してきたのですが、どうしても間近に迫った「観光カリスマ塾」の小道具として写真が必要なための撮影と相成ったのです。写真撮影は人間牧場水平線の家で行う事になり、今治と新居浜から二人の青年がやって来ました。プロデュースする地域政策研究センターの清水研究員と私を含めると4人の大掛かりです。

 モデルは勿論4人の中で一番見栄えのする「みにくいアヒルの子」の私なのです。水平線の家の壁に白い紙が貼られ、スポット用の傘が広げられるなど、手際よい作業で特設スタジオに早替わりです。「さあモデルさん立ってください」といわれるのですが、イメージが浮かばず、とりあえず三つのパターンを考えました。一つは毎日全国を出歩く背広に木になるカバンの出で立ちで立ちました。「うんいい感じです」と清水さんの声が届きます。

 続いて私服に着替えました。カジュアルな姿がいいと思ったものですから、妻に用意させた普段着で写しました。帽子はなしですがこれもいい感じです。勿論どのパターンも私のトレードマークである木になるカバンは提げての登場です。

 続いて急な思いつきで魚梁瀬杉の台座に上がって始めようとしている落伍家の姿になりました。これは三崎の塩崎さんがくれた裂き織の半纏を着た姿ですが、いやあこれも中々のものです。

 落伍家とほら吹きを掛け合わせて、群馬県大泉町の町議会議長さんからから貰った南米産の角笛を片手の姿になりました。この角笛は最初は上手く吹けなかったのですが、今では人間牧場の人集めや時を知らせるすいっかりお馴染みの小道具になっているのです。

 最後は高座に上がって清水さんがシーサイドで買った大根を持っての登場です。私の高座名は夕日亭大根心なので、これもとっさの思いつきなのです。


 カメラはいいのに、清水さんの腕が悪く明るかったり暗かったりですが、これはあくまでも撮影風景のプロモーションフォトなので、本物は多分大丈夫だと思うのです。

 いい大人がこんな悪ふざけをしていいのかと思われそうですが、これもカリスマ塾の秘策ですのでご期待下さいと言っておきます。かくして「若松進一撮影会」は無事終わりました。さあ来月に迫った私が塾長を務めるカリスマ塾が俄然楽しみになってきました。

  「撮影と 言ったら妻は レントゲン? それは侮辱だ お前の夫」

  「大根を 持って高座の 人になる お後よろしい ヒント次々」

  「世の中は 色々色の 人ありて 出会い重ねつ 楽しさ倍加」

  「百五十 年輪刻んだ 切り株に 私の歳を 加えて二百+」

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shin-1さんの日記

○変貌する今治

 昨日は愛媛県厚生年金受給者協会今治支部の招きで講演会に行きました。最近は今治へ行くことが多いのですが、「人でも仕事でも愛する所に集まって来る」という私の理論からすると、今治には面白いことが増えているからではないでしょうか。事実しまなみ海道開通以来、市町村合併や色々な問題はあっても造船の好景気やグリーンツーリズムなど、愛媛県内20市町の中でも、合併後のまちづくりが順調に進んでいる証拠ではないかと思うのです。

 私はこの日少し早く家を出ました。というのも先月今治城の鉄御門ができたというニュースを聞いていたから、出来るだけ早く見てみようと思ったのです。今治城へは何度が行ったことがありますが、訪ねてみてその立派な仕上がりに目を見張りました。城山という一山の上に建つ松山城とは趣を異にしていますが、海水を取り込んだ平城らしく、威風堂々としていて、凄いと思いました。鉄御門と書いて(くろがねごもん)と呼ぶのだそうですが、鉄門形式をとる櫓門はどっしりとして、いい雰囲気でした。櫓門ができたため、後ろに聳える天守閣は一段と映え、秋より高い感じがしました。

?(北側から南に向って堀に映える今治城)
(今回整備された鉄御門へ通じる風景)

(鉄御門)

(城門)

(天守閣)
(今治城内)

(今治城内)

(櫓の中に展示されている鉄御門の模型)

?(築城主藤堂高虎の銅像)
(今治城の堀)

 それにしても今治は寄付金たるやまた凄いものです。今治造船の6千万円を筆頭に様々な企業が平成のお城普請に寄付を行っているのです。真新しい櫓御門の中は落成を記念した市民に無料開放をしているので、ちょっとだけ覗いて見ました。真新しい大きな梁が幾重にも組み込まれ、柱も床も全てヒノキの無節材が使われ、何ともいえない木の香りが漂っていました。私は市民ではないのですが、ご相伴にあずかりました。

 知り尽くし、見尽くしたと思っていた愛媛県内の各地もこうしてカメラでルポしてみると知らない部分や、新しく出来たスポットがいっぱいあって、楽しいものです。長崎諫早のめがね橋から始まった両目開眼の観光旅はまだ始まったばかりですが、ワンポイント付け加えるだけでこれ程旅が楽しくなるのですから、観光カリスマ百選に選ばれている私としては大失態の日々だったと、深く反省し、ブログ上で日本の各地の観光の魅力を紹介したいと思っています。

  「美しい 国だと言った 人既に その座奪われ 今は別人」

  「訪ねれば そこここにある 美しさ 一週なのに 二つも紹介」

  「城だけで たっぷり半日 楽しめる 今治おいで 橋と焼き鳥」

  「いいでしょう まるで自分が 金出した ような気分で 鼻高市民」 

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shin-1さんの日記

○名残の切符

 今朝背広のポケットから名刺入れを取り出して整理をしていると、中から2枚の切符が出て来ました。2日前長崎県へ行った時のものです。新幹線や特急を乗り継ぐとキセルの真ん中は渡す必要がないため手元に残るのです。一枚は行きの博多までの切符、もう一枚は諫早から博多までの指定席特急券なのです。旅に出ると何かの思い出を残したいような心境になるものですから、捨て切れず大事にとっていますが、やがてゴミ箱へ捨てられる運命なのです。

 若い頃は滅多に特急や飛行機に乗らなかったため、アルバムを整理する時一緒に貼れば楽しい旅の思い出が出来るだろうと、わざわざ改札口で駅員さんにお願いし再利用しない証明の印まで貰って持ち帰っていましたが、それもいつの間にか止めてしまったため、束の間のたしなみ程度に数日間机の上に置いて眺めているに過ぎないようです。でもこの切符にはマジマジと見ていると面白いことが沢山書かれていて、歴史の生き証人のような気がして、今朝は写真に撮りブログの記録に残す事にしました。まるでよくテレビでやっている火曜サスペンス「特急かもめ殺人事件」のような魅力があるようです。

 まず諫早から博多までの指定券ですが、今頃の切符は良くできていて、乗車日10月22日、乗車時刻15:10発、17:00分着と到着時刻まで小さい文字ながら出ています。指定席は3号車15番D席で禁煙マークが付いています。そして乗車確認を示す車掌さん検札の赤いスタンプが判読できないほどの無造作に押され、10月22日に乗車したことを証明しているのです。つまりこの切符は全国では毎日何百万人もの人が切符を買い求め、列車や飛行機を利用するのでしょうが、私だけのとっておきの歴史の生き証人とでも言うべき一枚なのです。

 私は普通は自由席を利用します。指定席やグリーン席は自分の性に合わないような気がするのです。レッsyが車での待ち時間をプラットホームで自分の順番を待って並んでいるのがとてもワクワクするからです。結果的に席が確保できず立たなければならなくなっても、多少疲れはしますがそれはそれとしていい思い出になるのです。最初から席が指定され、時には講演の相手がグリーン車の切符まで用意して送ってくることがあり、グリーン車の乗客が私一人何てこともありましたが、何故か寂しく不安な気持ちになるのです。

 「旅は道連れ世は情け」です。旅先の列車の中で席を同じくした方々と「どちらまで」「どちらから」「へえー」「あそこへ行くのはこんな方法があります」「あそこへ着いたらあそこは絶対見た方がいいですよ」何て方言で交わす言葉が楽しいのです。時には名刺などを交換し未だに文通している人だっているのですからいいものです。

 諫早から乗った特急かもめは、天気も良く比較的空いていたので、車窓から眺める景色に興味があって、博多に向う右側車窓には諫早の干拓地、右側には刈り取り真っ最中の稲穂が揺れていました。デジカメを持って右や左の空いた席へ移動して車窓の景色を追うのも楽しみです。また今回の旅のお供に持参した一冊の本を読みながら過ごす列車の旅は楽しいものとなりました。



 諫早から出発した特急かもめは、途中の肥前山口で前着の佐世保から来た特急みどりとドッキングするのですが、残念ながらその列車の到着が7分遅れ、私たちの列車は駅の構内に入れず信号待ちを7分も余儀なくされました。このままだと博多で4分の乗り継ぎ時間しかなにため、遅れるのではないかとやきもきしましたが、結果的には博多で私たちの列車到着を待っていて出発となりました。列車から降りてホームへ走るスリルは何ともいえないもので、これもいい旅の思い出でした。

  「一枚の 切符に残る 思い出に 浸る余裕の 朝を迎える」

  「この切符 残しておきたい 心境に デジカメ撮って ブログ書き込む」

  「目に浮かぶ 旅路思い出 蘇り 今度は妻を 連れてやりたい」

  「指定席 乗る人日経 普通席 乗る人エロ本 少し格差が」 

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shin-1さんの日記

○その犬の名前は花子だそうです

 今日は水曜日なので、愛媛大学法文学部非常勤講師として「地域振興とまちづくり」の講義日です。学生の前で教えるようになって早くも4年間が過ぎ、性懲りもなく5年目の教壇に立っています。大学に通うようになって思うのですが、水曜日の来るのが早いこと早いこと、あっという間に「えっ、早水曜日か」と思うのです。私は夜間主の学生に教えているので、秋が深まるこの頃になると夕闇迫る頃大学へ到着するように出かけるのです。5年目ともなるとすっかり慣れて、これじゃあいかんと「初心忘れるべからずと書いたノートを持って、いつも初々しい気持ちで望むようにしているのです。

 私が大学に通うようになって気がついた、いや気に入ったことがあります。お堅い「法文学部」という看板の下の玄関にダンボール箱で作った簡易な犬小屋があって、真っ白な犬が飼われているのです。察するにどこかで拾ってきた野良犬を買い始めたのでしょうが、今では東京上野公園の忠犬ハチ公」のように、すっかり学生の人気者になっているのです。私も名前も素性も知らないのに、何回かふたみシーサイド公園のじゃこ天を買って来て与えたことがるのです。

 玄関で何度か同じような人が餌を与えているのを見たことがあります。今日はその女性の方に出会いました。今日こそ「どなたですか」と聞きたいけれど、変なおじさんタイプの私ですから、その女性から「怪しい人」と思われてはいけないと、ついつい遠慮していました。でも気になって今日は声を掛けました。「あなたのことは存じております」と唐突に言われ「えっ」と驚きました。驚いたついでに名刺を渡してしまう図々しさで、人間牧場の話も知っているようでした。

 授業前のことだったので、話をそこそこに切り上げて授業に行きましたが、授業が終わって娘婿と偶然にも大学内で会ったため、「あの方はどなたでしょう」と聞きました。するとAさんという方で、犬の世話を献身的に行っていると紹介してくれました。

 この犬は5年前に会った時はまだ若かったようですが、もう12歳くらいになっているとかで、老化と肥満のせいか、歩く姿や反応も遅く少し気になりました。それでもAさんや学生さんに見守られて法文学部の星として門番を務めているのです。

 写真が間に合いませんでしたが、パチリ写真に収めています。動物愛護の話は微笑ましいものです。来週はじゃこ天でも持って行ってやろうかとも思いました。

  「野良犬に 生まれた運命 切り開き 今では立派な 大学門番」

  「ヨタヨタと 歩く姿は わが親父 似ているようで どこか寂しい」

  「俺だって 花子にあやかり 餌欲しい Aさん宜しく お願いね」

  「無表情 学生多い 中なれど ホッとするよな 花子の存在」

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shin-1さんの日記

○青いミカンの実る頃

 私の住む地方はミカンの産地です。かつては「耕して天に至る」と表現しても可笑しくないほどいたるところにミカンが植えられ、秋から初冬になると、山一面がオレンジ色になったものでした。高度成長期の日本の地方が元気なころは駅の引込み線に貨車が止り、木製のミカン箱に入れられたミカンが都会の市場へ向けて出荷されていました。しかしそんな活気ある時期は長く続かず、過疎や高齢化が否応なしに押し寄せ、ミカン山は杉林になったり、放任園はカズラが巻いて荒れ山になっているのです。往時を知っているものにとっては何とも心の痛む光景です。

 私の家も半農半漁の家で、凪の日には沖に漁に出かけて魚を獲り、時化るとミカン端の手入れや収穫といった作業が、主に母親の手でなされていましたが、当時は農道ももなく全て手作業や肩に背負っての作業でしたから、重い荷物をまるでアリの様に運んでいました。勿論子どもの私も貴重な労働力で、子どもは子どもなりの役割が決められて一生懸命働きました。

 「青いミカンの実る頃」という歌があります。「♭青いミカンが実った ふるさとの丘に 今年も取り入れの歌がまた聞こえる 甘く酸っぱい 胸の思いを 小篭に摘みながら 密かに思うの 遠くの町のあの人に 送ってあげたい♯」という歌です。この歌を聞く度に、亡くなった母親を思い出します。青かったミカンが少しずつ黄色に色づき始めるのがこの頃でした。昔は極早生なんてなかったから、早生系のミカンは秋祭り頃に少し色づく程度でした。白いタオルで姉さん被りの母親が一番摘みしてくれた青切りミカンの皮を剥ぐと、プーンとミカンの香りがして口の中一杯に甘酸っぱい味が広がりました。母と草の上に腰を下し「母ちゃん、美味しいなあ」といえば母親も「美味しいなあ」と応えてくれました。長閑な田舎の昼下がりでした。草の上に寝転んで空を見ると白い雲がポッカリポッカリ浮かんで流れて行く、沖を見ると白い船が長閑にゆっくりゆっくりと島影を走っていました

 わが家の菜園には何本か母が名残のミカンの木が残っています。極早生、早生、普通温州、甘夏柑などですが、数日前から極早生が色づき始めました。今年は夏の日照りが強く粒は小型ですが味は糖度が乗って程よい酸味も残り、とても美味しいようです。

 2~3日前、例によってミカンを30箱ほど知り合いの農家から分けてもらい、全国の仲間に送ってやりました。早い所は既に荷物が着いたようで、お礼のメールや電話が来ています。全国の仲間は色々な物を送ってくれますが、こちらの自慢は煮干しとミカンくらいなものです。でも私たちが信州のリンゴのなっているのを見て感動するように、ミカンの獲れない地域ではミカンの実る姿は中々見れないと思い、今朝家の横の菜園に行ってミカンの写真を撮りました。ブログ画面でご賞味下さい。

  「菜園の ミカン色づき 枝たわわ このままそっと 送ってあげたい」

  「青じゃない 表現可笑し 緑だと 孫が指摘の 色の表現」

  「そういえば 緑の信号 何故青と 言うのかいつも 偏だと思う」

  「手で摘みて ミカン食べれる 温暖な 地域に生まれ 幸せですよ」

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shin-1さんの日記

○社会教育に元気がない

 昔の仕事の関係で、社会教育や生涯学習など教育に関する講演の依頼が多いようです。でも全国何処へ行っても近頃感じるのは、社会教育に携わる人の元気がないのが少し気がかりです。合併によって公民館や社会教育の現場が効果効率という名の元、いとも簡単に指定管理者制度や委託に移行する姿を見るとまるで風前の灯のように感じるのは、私一人ではないと思うのです。行政から財政難を理由に突きつけられた三行半を跳ねつけれるだけの勇気のある教育長や教育委員会が少ないことも気になるところです。戦後60年も汗水たらしてやって来た社会教育の存在はこんなものだったのかと、多少のかかわりを持ってるだけに自責の念に駆られることだってあるのです。

 そんな思いを抱いていた矢先、長崎県から一報が入り、社会教育主事等研修会(専門講座)で「元気な社会教育づくりを目指して」というタイトルで話して欲しいと連絡が入り、一も二もなく他の予定を変更してもらって出かけて行きました。長崎といえば、私の住む四国からだと瀬戸内海を越え、関門海峡を越えねばならないかなり遠い土地です。それでも行きたい心境になるのは長崎と合併した香焼の武次さんや諫早の松本さんの顔が浮かんだからです。彼ら二人はわが家にも来るなど長年交友を温めている人たちなのです。それにも増して担当の菅さんから「元気がないので元気の出る話を」と言われたのが引き金になりました。

 諫早から大村駅まで行き、駅から会場となった大村市中央公民館までは結構な距離ですが、諫早で途中下車して遊んでも約束の時間より少し早く着いたので、歩いて会場入りとなりました。市役所の横にある中央公民館はスポーツ施設も併設する立派な文化会館で、余りの立派さに驚きました。

 集会はこじんまりとした集会でしたが熱心な人が集まっていて、100分近くを一気に喋ってしまいました。社会教育関係者には大きく分けると三つのタイプがあるようです。①不燃人、②可燃人、③自燃人です。

 ①不燃人はいくら話しても変化の兆しが見えない人です。左遷意識を持ったり、学歴に比較して自分の配置に

   不満を持っているような人です。正直こんな人は社会教育のお荷物で、早く辞めるか去ってもらった方が 

   いいといいました。 

 ②可燃人は研修に参加したり、燃える人に出会うと心に温かいものが生まれる可能性のある人です。ちなみに

   参加した人に手を挙げてもらったら圧倒的に多かったようです。将来を期待しましょう。

 ③自燃人は私のような人です。どんなに条件が悪かろうがその仕事に誇りを持って生きる人です。本物の人で

   す。岩手県一関室根公民館の金森さんや香焼の武次さん、諫早の松本さんもその部類に入る専門馬鹿な

   のです。昔はこんな人が一杯いました。


 私の話は公民館の主事だった頃を回想しどんな主事を目指しどんな事をやったか話しながら、「ないないづくしの公民館10ヶ条」や「社会教育ステップアップ7段階」の話を織り交ぜながら話しました。特に今の社会教育が読む・聞く・見るに終始していては大きな発展は望めず、書く・喋る・実践するに移行することが肝心だと氷の実験を例に話しました。

 撒き餌をいっぱいばら撒きましたので、食いついてくれる事を期待したいものです。


 帰りは後ろ髪引かれる思いでしたが、諫早まで送ってもらい、長崎を後にしました。車窓から眺める雲仙普賢岳や諫早湾、そしてその向こうには水俣に続く海が見えました。あれ程世間を騒がせた雲仙普賢岳の噴火も、諫早湾の干拓も、水俣病も日本人の記憶の中から残念ながら消え失せようとしています。社会教育は趣味・教養を高めるだけが仕事ではありません。社会のひずみや問題を掘り起こし、その問題点を学習によって明らかにし、社会活動や社会運動に発展させて人々の暮しを良くして行かねばなりません。意思半ばで亡くなった親友だった柳川の広松伝さんが、車窓の彼方に思い出となって過ぎる旅でした

  「不燃人 そんな人なら いらないと 声を荒げて 私は言うた」

  「いつの世も 思うようには なりません それでもやれば 何とかなるよ」    

  「要は人 人の良し悪し 言うけれど 不燃人には とんと響かず」

  「旧友に 愚痴を言うなと 伝言す 言うたところで 世の中変わらず」


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shin-1さんの日記

○旅の途中で

 長崎大村市への旅は博多から特急カモメに乗って諫早まで行きます。諫早駅で大村線に乗り換えなければならないため少しの待ち時間がありました。そこで前回は雨が降ってて諫早で見れなかった大楠とめがね橋を、途中下車のような形で見る事にしました。長閑な秋の一日は絶好の日和に恵まれ、歩いて一人散策しました。駅前の略図と看板を便りに街中を歩くと意外なものを見つけるものです。まず目についたのは諫早神社の前の川に行儀よく並べられた飛び石でした。列石の如く配置された石は台風で流れたため復元したものだそうですが、橋のなかった昔はこの飛び石が道だったし、人々が川を中心に暮らしていた頃は洗濯や野菜の洗い場として、時には子どもたちの遊び場として使われていたに違いありません。折角だからと川に降りて石の上を飛び跳ねるようにひい、ふう、みい、ようと渡りました。全部で37個あったと記憶しています。

 諫早神社の境内の楠木は凄いです。巨木というに相応しい楠木が7~8本も群生していてそれは見事でした。

(正面から見た大楠木の雄姿)

(裏から見るとシルエットの影が神木として神々しさを醸し、また違った趣きがありました)

 

 川沿いには柳の木が植えられていて、度重なる水害に見舞われたのでしょう、幾つもの水門が川と道を遮断しているようにも見えました。

 やがて諫早を代表するめがね橋のある公園に出ました。

(正面の眼鏡橋と書かれた石柱に歴史の重みを感じました)
(橋のたもとから見ためがね橋です)

(早朝なので観光客の姿はなく、講演の手入れをする人たちが忙しく働いていました、私は思いきって橋を歩いて渡りました。いい気分です)

(どうですか、この雄姿をとくとご覧下さい。水面に浮かぶ橋の姿を連想して作ったのでしょうが、いやあ立派なのに驚きました)

 この橋の故事来歴を知る由もなく急ぎ足での見学だったのに、これほど美しい橋を見たのは久々で、少し興奮気味でした。ついでに後ろの山に登り諫早の街を遠望しました。民俗学者宮本常一の「知らない土地に行ったらまず高い所から見よ」という常一の父善十郎の言葉を思い出したからです。

 頂上にも立派な楠木がありました。


(藤棚の向こうに青空が広がり、歴史に彩られた田舎町の風情を堪能しました)

 年中旅をしている私にとってこれまで、諫早という土地は長崎への通過地点でしかありませんでしたが、手持ちの携帯電話に備えた万歩計は1万歩を指す束の間の散歩となり、強烈なインパクトを与えてくれました。これからも少し視点を変えて旅を楽しみたいと思いました。

 私は元来た道をカバンを二つぶら下げて再び諫早駅に戻り、大村線に乗り込み目的地を目指しました。いいお土産話が出来ました。

  「頬撫でる 風に誘われ のんびりと めがね橋まで 意のむくままに」

  「一年中 全国歩く わが身だが この日の収穫 大いに満足」

  「この橋を 誰が考え 造ったか 昔の人の 偉さ讃える」

  「ひとり旅 人をへつらう こともなく 途中下車して ちょっと失敬」


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shin-1さんの日記

○テレビを見るのが嫌になる

 旅を続けて家に帰るとホッとします。妻の笑顔や親父の元気もその一つでしょうが、町の入り口に入るとどこか懐かしい雰囲気が漂って「お帰り」っといって迎えてくれるような気がするのです。しかし東京や大阪に出て田舎に帰ると、あのスピードとは比較にならないゆったりした動きにもどかしさを感じるのも事実です。田舎に3日いたら田舎のスピードに慣れてしまいます。逆に3日といわず1日間いただけでかなりのスピードが身につくようです。例えば歩く早さですが、私は歩くのが好きで、何処ででも極力歩くようにしています。特に都会に行くと都会の人の歩く早さに付いて行こうと必死に歩きます。背筋を伸ばして歩くよう心掛けて歩くと、まるで風を切るようで、その歩きをすると「進ちゃんは元気だねえ」と感心してもらうのです。田舎か都会か分りませんが、長崎へ行った今回の旅では携帯電話の歩数計が何と一日19867歩歩いていました。

 わが家へ帰ってまずすることは、何はともあれ書斎にこもってインターネットのメールの処理から始めます。たった一日しか家を開けていないのに迷惑メールが山のように入り、ゴミ箱へ捨てる作業をしたり、重要なメールには返信を書き込むのです。やっと終わって今で一服するためテレビをつけると、うんざりするほど不祥事が報道されています。守屋事務次官のゴルフ接待から始まり、大相撲の疑惑など、これでもかと言わんばかりに新たな問題がスクープされ、テレビを見るのが嫌になるほどです。

 守屋防衛庁事務次官などは、額に汗して働く人が一生かかっても手にすることのできない推定8千万円もの退職金が支払われているというから驚きです。それほど富を持つ人でも接待を受けて有頂天になるのですから、水戸黄門様に印籠でも出して懲らしめてもらいたいものです。今回の不祥事が本当だとすると日本の国も情けないといわざるを得ません。守屋さんたちエリートは人並み優れた能力を持っているはずです。熱意や使命感もあって人並み以上に努力して事務次官という地位に上り詰めたに違いありません。しかし生きる姿勢を間違いました。謙虚さや徳を忘れたのでしょう。日本は戦後の貧しい国から一躍世界のトップに上り詰めてきました。それまで重要視された人格などということよりも才覚や能力、それに学歴が重要視されてきたのです。政治家も皆同じで、国家より地元に利益を誘導する人が当選するのです。

 どこか間違っていると思うけど、今の腐った人たちには最早期待する方が無理のようです。政党間であら捜しをしてそれを追求すると国民の支持が清き一票に跳ね返るのですから野党も必死です。本当は政権交代などどちらでもいいのです。要はいい日本を作って欲しいのです。今のままのあら捜しを続けると、自分たちもあら捜しをされて、日本を論じることすら出来なくなるのです。

 テレビを見たくないという私の思いを分っていただけたでしょうか。

  「ああまたか うんざりチャンネル ひねれども 裏の番組 同じ報道」

  「八千万 毎日一万 使ったら 二十年間 使えるけれど」

  「ゴルフなど する暇あるの 隊員は サマワで危険 さらされてるに」

  「俺などは ゴルフの接待 ありません しない出来ない 良かったじゃない」

 

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