○萩にて思う
昨日幸いにも山口県萩に講演で出かけました。しかし不幸にも往復のアクセスの関係で講演会場以外何処へも立ち寄ることなく萩を後にしたのです。もっと不幸は松下村塾ゆかりの松蔭神社を車の中から見ながら立ち去ったことでした。
かつてフロンティア塾を開く時も、今回私塾年輪塾を開く時も緒方洪庵の適塾と吉田松陰の初夏村塾について随分本を読み漁りました。そして大阪の適塾跡、萩の松下村塾も移動のついでではありましたが訪れているのです。
何年か前萩に行った時、大切に保存されている松下村塾を見学しましたが、幕末動乱期に活躍した多くの人材を輩出したとはとても思えぬ質素な造りに驚きましたが、私が自宅横に造った私設公民館「煙会所」も、標高130mの瀬戸内海を見下ろす場所に作った人間牧場も、比較どころか足元に及ばないものの、実は恥ずかしながら松下村塾がフェイスシートになっているのです。
吉田松陰を書物などで読みながら、いつも不思議に思うのは、あれほどの人が嘉永6年ペルーが浦賀に来航すると師の佐久間象山と黒船を視察し、安政元年に日米和親条約締結のため再航した時、同郷の金子重輔と二人で、停泊中のポーハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否され、奉行所に自首し、伝馬町の牢屋敷に送られたという事実です。不安定政権の当時の幕府は思想家を極端に嫌って弾圧していますが、意思は立派なものの軽率という他はないのです。
助命されて長州へ送還され野山獄に幽囚され幽囚録を書しますが、安政6年10月27日斬系刑に処せられ満29歳の若き命を散らしているのです。
門弟たちに向けて書き残した「留魂録」には、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」や、家族宛「永訣書」に書かれた「親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」は、時を越えても瑞々しくもほとばしる愛国心や、親への敬愛心が切々と人の心を打つのです。
「村塾を 訪ねて心 洗われた 若き想いは 消えることなく」
「国思う 親をも思う 辞世句は 何度読んでも 心打たれる」
「享年を 聞いてびっくり 二十九 何故こんなにも 完熟か」
「旅先で 己戒め 帰郷する 地道に進化 一歩ずつだが」