○私の心に染みこんでいる海のDNA
山口県萩漁協女性部から講演依頼があった時には、「午前中の講演なのでこちらへ前泊して下さい」と勧められていましたが、先のことでもあるし前日夕方の予定が入っていたので、日帰りか広島に一泊して早朝新幹線で新山口へ午前8時に到着すれば間に合うはずだと、鷹を食っていました。
ところが昨晩の松山での会議が長引き、広島へ渡ることが準備の都合上できなくなりました。仕方がないのでしまなみ海道を自家用車でと思って、インターネットヤフーで調べてみると、三津浜発午前3時40分のフェリーだと柳井に6時10分に到着、柳井港駅から山陽本線に乗って8時09分に新山口駅に着くことが分かりました。
会議が終わって松山から自宅へ帰ったのは10時過ぎでしたが、急いで風呂に入り、支度を済ませて妻が目覚ましをセットして床に就きました。この歳になると目覚ましの世話にならなくても起きれる自信はありますが、失敗をしないようにと妻の配慮でした。
今日は気温も平年並みに下がり、三津浜までの車も、三津浜からの船も、山陽本線も全て順調でした。電車が到着すると新幹線口に萩支店の宮崎次長さんが出迎えてくれました。早朝に送迎のため萩を出発したものと思われ、頭が下がる思いでした。それでも車内で次長さんと漁業に関するお話を随分して、参考になる話をいっぱい聞かせていただきました。
山口県漁業協同組合萩支店の3階ホールには100人ほどの女性部員さんが集まっていて、開会式の後早速私の講演が始まりました。今日の講演のそもそものきっかけは、今年5月20日下関市文化ホールで行われた山口県漁連女性部の総会に記念講演を頼まれて出かけていて、あの話をもう一度聞きたいというアンコールにお応えしての講演となったのです。
私は以下のことで海と関係が深いのです。
①下灘の漁村に生まれ、家は漁家で母は漁協女性部長を6年、父も漁協理事などをしていた。
②宇和島水産高校に進学し、18歳の時実習船愛媛丸で珊瑚海へ遠洋航海に3ヶ月余り出かけた。
③親父がガンになり帰郷して若吉丸の船長として7年間漁師をした。
④役場に入り4年間水産を担当し、荷さばき所や漁村センターを担当して整備した。
⑤シーサイド公園を造り、漁協のおばさんたちとじゃこ天などを作って現在に至っている。
⑥愛媛大学農学部客員教授として農山漁村の地域活性化論を教えている。
⑦今は愛媛海区漁業調整委員をしている。
⑧家の横に海の資料館海舟館を設置している。
ざっと指折り数えただけでもこれほどあり、そんなこんなで、今も漁業に関心があり死ぬまで海のことはライフワークにしたいと思っているのです。ゆえに女性部の皆さんの関心も高く大盛り上がりの中で1時間余りの講演はあっという間に終わりました。宮崎次長さんに新山口まで送ってもらい、岐路に着きました。
私の心には海のDNAが流れているのでしょうか。
「友人が 萩日帰りに 感心し 早速メール 俺も返信」
「暑かった 気温も下がり 長州路 鈍行列車 長閑に走る」
「ああここが 鳩子の海か 思いつつ 遠く見えるは 姫島あたり」
「わが体 海の匂いが ぷんぷんと それもそのはず 海で生まれた」