○25回目の夕焼けコンサート
「えっもうそんなになるの?」と、誰もが言うほど25年は過ぎてしまえばまさに「あっ」というほど短いものです。でも私にとっては夕日によるまちづくりの出発となっただけに、それなりの抵抗や失敗もあって、結構ドラマチックなものでした。
今から25年前、私は40歳でした。保存している私の卓上カレンダー1986年版の6月30日(何故か月曜日、多分NHKの取材で期日指定があったからこの日にしたような記憶があるのです)の欄に「下灘駅プラットホーム野外コンサート(18:00~)」とメモしているのですが、何よりも嬉しいことは私の後を引き継いだ若い人たちが、しっかりと続けてくれていることなのです。そして余り知られていませんが陰の功労者であって、第2回目から今回まで深くかかわってくれた音楽プロデューサー小林真三さんの巧みな司会も心に染みました。
(その模様は昨日の愛媛新聞5面社会面に印象的に紹介されていました。)
私も誘われるままに仲間と一緒に夕日や歌を大いに楽しみました。その模様を写真に撮りましたので紹介しておきます。
(毎年やって来る木村さんたちは、酔いどれコンサートでとばかりにお酒を飲みながら音楽を楽しんでいました)
(高松市三谷から溝渕雅子さんがお孫さんを連れ、お土産を持ってて今年も参加してくれました)
(夕日が落ちる頃、仲間が私のカメラで写真を撮ってくれました)
(残暑厳しい中でコンサートを楽しむ人たち)
(メインゲストSING-Oさんの歌声は心に染み込みました)
(フィナーレは双海恋歌、運営委員全員がステージに上がり、勿論私も壇上に上げられ大きな声で歌いました)
「いつ見ても 下灘駅から 見る夕日 心に染みる 思わずジーンと」
「あのころの 俺は反骨 若かった 反対されて 余計闘志が」
「光陰は 矢のよう過ぎて 早俺も 高齢者という レッテル張られ」
「恋歌を 歌う隣で 泣きじゃくる 女性につられ 私もうるる」