○92歳の誕生日
私の親父は大正7年9月1日生まれで、今日目出度くも92歳の誕生日を迎えました。親父が生まれた頃の日本は乳幼児の死亡率が高く、元気に育つことが確認されてから戸籍を入れる子どももいたようです。親父もその一人で、祖母や本人が言うのには2歳くらいになって籍を入れたというのですから、もしこれが本当ならば実年齢は94歳かも知れないのです。まあそんな過去の詮索よりも、92歳までどうにか元気で生きれたことを喜びたいと思っています。
親父は12人兄弟の長男として生まれました。家が貧乏だったため幼少の頃から辛酸をなめて育ちました。祖父が早くに病没したため兄弟姉妹の分家や結婚などは全て親父夫婦の肩に大きくのしかかり、これまた大変な苦労をしたようです。親父は2度も戦争に出征し傷痍軍人となり、抑留生活を経て九死に一生を得て帰国しました。親父は進取の気性に富み、僅か5トンの漁船で太平洋に挑み、伊豆半島まで県外出漁しました。私が高校を卒業する頃ガンに侵されこれまた生死の境を迷いましたがその後病状回復し、70歳までおふくろと二人で漁船に乗り組んで漁業を続けました。その母も10年前に先立ちましたが、その後隠居でひっそりと行き続けているのです。
親父はその後白内障や最近では鼠径ヘルニアの手術を受けましたが、まあ何とか元気でボケもせず、今でも7キロ先の下灘診療所へ自転車で通院するなど、私より元気だと思えるような高齢者で、日々を過ぎしています。親父の日課は朝4時に目を覚まし、夜は7時に寝るという太陽と共に暮らしていますが、家庭菜園は勿論のこと家の敷地内の草取りや片付けなど、目に見えない部分の役割を果たして、毎日忙しく振舞う私たち夫婦の名サポーター役をしてくれているのです。
親父は手先が器用で、毎日趣味の日曜大工や骨董品の手入れに余念がありませんが、家の横に海舟館という海の資料館を造り、色々なものを展示しています。その主流は瀬戸内海で活躍した和船の模型で、これはもう玄人はだしで、見学に訪れた人誰もが驚嘆の声を上げるほど精巧に造られていて、親父の説明を加えると漁業の歴史が分かるほどなのです。
息子でありながら親の血を受け継がないような私ゆえ、技術的に親を超えることは出来ませんが、これから先はこれらの資料をしっかりと守って校正に受け継いでゆきたいと思っています。
私が出版した自著本「夕やけ徒然草・地の書」の中で、「第19話 親父の言葉」の中で、次の言葉を書いています。
1、草鞋を履け・草鞋を脱げ。
2、酒は大いに飲め・ただし酒に飲まれるな。
3、金は入るを知りて使うを考えよ。
4、人生は一生懸命やっていれば必ずいいことがあるものだ。
5、学校へ行かずも勉強は何処ででもできる。
6、人生は運・根・鈍だ。
7、お前にしか出来ないことをやれ。
8、今を知りて遠い向うを見ると間違いはない。
9、体をいとえ・人生迷ったら元に戻れ。
10、一生にひとつぐらいは世の中のためになることをやれ。
小学校しか出ていない無知文盲な親父ながら、こんな戒めを今でも私に折に触れて語ってくれています。92歳の誕生日を迎えるに当たり、これからも元気で過ごして欲しいと祈る朝でした。
「わが親父 92歳の 誕生日 これから先も 元気で過ごせ」
「本当は 二歳も上と 言う親父 昔は二年も 無戸籍ままで」
「石灰を 畑に撒くと 言う親父 朝起き見れば 既に終了」
「時々は 言い争いも するものの 親子関係 すこぶる良好」