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〇元気に草を引いてくれる親父

 毎日自宅にいる91歳の親父は、日が昇ると起き、日が沈むと寝るといった極めて健康的な日課で過ごしています。午前中は家の敷地内にある畑に出て、せっせと畑仕事をしています。本来なら年齢的にもリタイアした私がその役目を負わねばならないのでしょうが、幸せなことに親父は歳の割には元気で、私の代役をこなしてくれているのです。

 わが家の畑は1反以上あるので、草を生やさないようにしようと思えばそれはもう大変で、庭木の剪定や雑草取りをを加えると年中休みなく働かないといけないのです。今年のように春からよく雨が降ると草は伸び放題になるのですが、たまに来た人が褒めるぐらい、庭も畑も草取りがほぼ完璧に行われているのです。お陰で親父はかなり日焼けして、外目には元気そうに見えるのです。

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(庭の草を引く親父は今年も何とか元気に春を迎えました)

 ところがやはり歳のせいでしょうか、最近脛や腰の具合が思わしくないと言い出しました。農作業も草引きも中腰や河岸での仕事が多いため、その労働が堪えたのかも知れません。幸い歩いて5分ほどの近くに「たけます医院」が昨年開業したため、時々通っているようですが、肌に合わぬのか7キロ向うの下灘診療所へ今でも自転車で通っているのです。

 親父の話なので定かではありませんが、親父の本当の年齢はもぅ二つ上のようなのです。聞けば親父は生まれて2年ぐらいして籍を入れたようです。昔はよくある話で乳幼児の死亡率が高かったため、丈夫に育つようになって籍を入れることがよくあったようです。しかしDNA鑑定でも難しい年齢ゆえにそのことは定かではありませんが、亡くなった祖母も同じよう案ことを言っていたことを記憶しています。


 私の知人や友人も私と同じように、実年熟年となって親の面倒を見ていますが、老々介護という言葉があるように、老人がもうひとつ上の老人の介護をしなければならない時代を迎えています。そしてお互いが痴呆になると介護の悩みは深くなり、特別擁護老人ホームなども満杯で行き場のない老人が増えていることをよく耳にするようになりました。

 これまで艱難辛苦に耐えて生きてきた親ですから、これからも大切に守ってやりたいと思っています。昨日も親父より若い老人が亡くなり、そのことを聞いた親父は少し落胆したようで、「いよいよわしの番がきた」などと弱気な発言をしていました。老いは悲しむものでなくむしろ喜べ」なんて言葉をかけましたが、いずれ私も行く道、厳しいですねえ。


  「来た道も 坂道だらけ 回り道 行く道厳し 親父見予感」

  「俺にでも 出来るだろうか 家周り 掃除重ねて 喜ぶ人に」

  「腰や脛 痛いと嘆く 親父だが 何とか今も 元気に暮らす」

  「本当は 二つ歳足す 年齢と 言ってはいるが 分からぬままに」


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shin-1さんの日記

〇行き場を失ったブーメランテーブル

 平成元年と記憶しているのでもう20年も前の出来事です。今から29年前の昭和56年に結成した21世紀えひめニューフロンティアグループでは、無人島に挑む少年のつどいやセスナ機をチャーターしてふるさとを空から見る運動を華々しくやっていました。その活動のつれづれに討論激論をやっていましたが、もっと素敵な会議は出来ないものかと思案した挙句、組み立て自由自在なテーブルの製作を思いつきました。早速国内の有名な家具メーカー、事務機器メーカーに公開質問状を出しました。早速何社かから企画書が送られてきたものの、当時のお金で制作費は2百万円もするというのです。そんな余力のない私たちは提案してくれたメーカの了解を取り付け、自分たちで製作することになりました。

 幸いメンバーに大工をしている日浅さんがいるので、小柱を沢山使い集成財のように繋ぎ合わせて、とんでもない大きさのテーブルを四つ造りました。想像以上の出来栄えは当時新聞にも載りましたが、会議の度にこのテーブルは出張を重ねました。南吉田公民館、文教会館などで使った懐かしい思い出がありますが、その後このテーブルは平成3年から始まった10年で40回開いたフロンティア塾の占有物として、地道な活動の一助となりました。

 フロンティア塾が平成13年、永六輔さんを呼んでフィナーレとなって暫くは、フロンティア塾のために借りていた双海町東越の廃屋で眠っていましたが、廃屋が身売りされたため止む無く内子の大野産の癒えに間借りを経て、大洲の佐々木さんの倉庫に移動し最近まで保管されていました。

 倉庫を占有し続けたテーブルは行き場を失い、結局は製作に携わった日浅棟梁の元へ払い下げと相成ったのです。年輪塾を開いた先日メンバーの佐々木さん、湯山さんを伴って日浅棟梁は佐々木さんの自宅までトラックで積みに行き、慰安張りへの道中途中に人間牧場へ立ち寄ってくれました。二つは日浅さんが持ち帰り、途中でつなぎの一個を私と相談の上わが家へ降ろして帰ったのです。

 はてさてわが家の玄関横にでんと置かれたこのテーブルの残骸を私はどう使うか、ただ今のところ思案の最中なのです。


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 これまで若気の至りで前後の見境もなく考えずに、ただただ走り続けてきた私たちのグループですが、ここにきて後始末の大切さを嫌というほど実感した次第です。人間牧場でも私設公民館煙会所でも使うことは出来るのですが、その保存となると「千日持って一日の用をなす」ようなものは中々持ち堪えられないようです。

 ふと昔のことを思い出し、結成20周年を記念して私が執筆した「今やれる青春」という本を書棚から取り出して中を捲って見ました。フロンティア塾の記録には県内外から集まった多くの若者がブーメランテーブルを囲んで写真に納まっていました。

 ブーメランは「元の場所に戻る」という意味もあります。もう一度そのことを考え年輪塾に引き継がれている精神をしっかりと考えて見たいと思っています。


  「見境も なしに走った 三十年 テーブル行き場 なくして帰る」

  「結局は その名の通り ブーメラン 手元に戻り 次の出番を」

  「記念誌の そこここ見える 懐かしさ 彼ら今頃 どうしているか」

  「幾つかの 案が頭を 過ぎってる 早速行動 善は急げだ」 

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shin-1さんの日記

○久しぶりの煙会所にて

 人間牧場が出来てから、利用することが少なくなったわが家の迎賓館ともいえる「煙会所」に、久しぶりに来客がありました。普通の仲間は私の本宅にある書斎に裏窓から入り、所要を済ませるのですが、込み入った話になるとどうしても本宅の応接間か「煙会所」となるのです。

 先日は西予市の企画職員が2名やって来ました。私が前年度審査委員を務めた地域づくりグランプリの2年度の企画を練るためです。私のようなリタイアした人間でも声がかかると、ない知恵を絞ってアドバイスするのですが、はてさて3人寄れば文殊の知恵となるのでしょうか、その行方が楽しみです。

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 「煙会所」は私がアメリカへ青年の船で行ったあくる年に造りました。建国200年のアメリカを訪問したことで、心にフロンティアスピリッツなるものが芽生え、私と親父、それに青年仲間たちの協力を得て、私設公民館として昭和52年に建てました。以来33年経っていますが、これまでにどれ程の人を向かい入れたことでしょう。他の人のように人が来たら芳名録を書いてもらうような形ばかりの足跡は好きでないので、全てを記憶してはいませんが、人生の都度都度に煙会所で話したことや浮かんだアイディアは今も私の人生の生き方に大きな影響を受けているのです。


 5年前、宴会所も30年近く使うと非日常や異文化ギャップが少なくなったような気がして、人間牧場を造って軸足を人間牧場へ置き換えたため、煙会所は利用回数が幾分減ってきたのです。でも煙会所を懐かしむ人は沢山いて、煙会所の囲炉裏を囲んででいっぱい飲みながら話したい人は後を絶たないようです。煙会所の魅力は四畳半、しかも囲炉裏、しかも一戸建てで近所と離れているため、少々騒いでも誰も文句を言う人はいないのです。先日2人のお客様を向かえ久しぶりに話をしましたが、人間牧場にはない魅力があるようです。願わくば煙会所で昔のように酒を呑みながら話がしたいと思いましたが、私が酒が呑めなくなったこと、妻が年齢を重ねたため昔のような手料理が期待できないことがネックになって、少々難しいようです。


 20年間続いた21世紀えひめニューフロンティアグループの無人島キャンプも、10年で40回のフロンティア塾も、実はこの煙会所で産声を上げた事業なのです。「人でも仕事でも愛するところに集まってくる」という私の持論は煙会所で生まれた座右の銘で、これからもその心意気だけは大切に人間牧場へ引き継いで行きたいと思っています。

 今は畳が敷いてある部屋は昔板間でした。学校から貰ってきた白や赤や青・黄色のチョークで、板間をキャンバスにどれ程の夢を書いては消し、それを実践したことでしょう。お二人が帰られた後、青春時代の淡い思い出がいっぱい詰まった煙会所で久しぶりに一人、懐かしさに耽りました。

  「煙会所 この部屋まるで  夢の箱 次から次へ アイディア生まれ」

  「久方に 客を迎えて 相対す 囲炉裏火もなく されど暖か」

  「学校で 貰ったチョーク 板間書く 夢はこうして 形になって」

  「大酒を 飲んで喧嘩も したっけな 苦い思い出 昨日のように」

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○師匠によるミツバチ巣箱の点検

 前日の夜ミツバチの師匠井上登さんからメールが入っていたのに、私が早めにパソコンを切り読書をしていたため見落としてしまいました。朝の日課でブログを書く前にメールを見ると、「都合がよければ今日明日のいずれかにミツバチのご機嫌を伺いに参りますが・・・」と書き込まれていました。元船乗りだった私は早速打電にも似た返事を送りました。「趣き了解、今日午前10時、人間牧場にて待つ」という短いメールです。

  それにしても便利な世の中になったものです。相手がタイムリーに見てくれさえすれば、パソコンで送るメールは短かろうが長かろうが、まるで相手と会話をしているように届くのです。電話であれば、いちいち電話口まで失礼ながら呼び出さなければならないのに、メールだと好きな時に見れるのです。田舎の熟年井上さんは多分早起きだろうなあと、早朝の失礼を承知でメールを書き込んでおきました。想像通り早起きの井上さんからメールの返事があり、商談成立となって人間牧場で10時に待ち合わせすることにしました。

 ふとメールのやり取りをしながら、無線や電報のことを思い出しました。私は宇和島水産高校3年の在学中、実習船愛媛丸に乗って赤道を越え、南太平洋までマグロを獲りに出かけました。大海原を行く愛媛丸にとって無線連絡は今のような技術が普及していない時代だったので、電信とでもいうべき「トン・ツー・トン・ツー」というモールス信号でした。「SOSはトントントン・ツーツーツー・トントントンだ」と、乗組員の無線長から教わったことを今も覚えています。また船上で正月を迎えたため、ふるさとに向けて無線長にお願いして、「南太平洋上の愛媛丸からハッピーニューイヤー」と、有料電報を打ってもらったことも今はよき思い出です。私が南太平洋で実習をして帰国するまでの3ヶ月余り、影膳を据えて公開の安全を祈ってくれたと後で聞きました。その祖母は亡くなるまで、私が南太平洋から届いた孫の私の電報を、宝物のように大事に保管していました。

 まあそんな時代に育った私ですから、今でもメールのやり取りに便利や不思議を感じるのは当然かも知れないのですが、無線や電報も今いずこの感がするのです。

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(昨年4升も蜂蜜を収穫した巣箱に誘引のためランの花を取り付ける師匠)
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(昨年種蜂が入れられお輿入れした巣箱も今は空き家です)
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(種蜂巣箱の点検と掃除をする師匠)

 ミツバチの師匠は10時の約束を、一分もたがわず野村町からやって来てくれました。早速ミツバチの巣箱の点検をしてくれました。冬を越した種蜂のいる重箱方の巣箱の下板を抜き取り、スムシやミツバチの糞を綺麗に掃除をしました。防護用の黒頭巾を被っているものの少し抵抗され、私も黒頭巾を被りましたが、何匹かの蜂が顔をめがけて突進してきました。多分点検のため巣箱の下穴から、デジカメを差し入れてストロボを焚いて撮影したことへの腹いせのようでした。

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(デジカメを差し込んで撮影した巣箱の内部は無数の蜂が巣に群がっていました)


 現在人間牧場には巣箱が四つ設置されています。種蜂巣箱を除いた後の3つは現在空き家です。師匠の算段で、空き家巣箱の入り口に分封を促すランの切花を取り付けました。蝋蜜は既に塗ってあるので、これで入居してくれればおんのじですが、早々上手くいくものではないことを昨年の経験で知っています。

 先日馬路村の木下さんが新しい巣箱を2個届けてくれました。その巣箱もこれから自宅付近に設置する予定です。ふと裏山に誰かが設置している、丸い切り株をくり抜いて作った巣箱のことが気になり、夕方出かけて見ました。都合よく設置している方が松山から観察に来られていて、いろいろと話を聞きましたが、6個も設置して殆どに入居していて驚きました。しかしこの巣箱の欠点は下板がないため掃除ができない仕組みになっているのです。お話を聞きながら私の方がある部分進化していることに、内心ニヤニヤしながら得意げになって話すその方の話を、謙虚な気持ちで聞きました。この巣箱の周りには、蜂を呼び寄せるランの花の鉢植えまで置いていて、なるほどと思いながら早速一つ目の巣箱を家の裏の道沿いに設置しました。


  「春盛り 今年も蜂の シーズンが 来たとばかりに 準備モードに」

  「片道に 一時間半 かけて来る 師匠の熱意 感心しきり」

  「フェロモンを 出すと思しき ランの花 空き家の巣箱 前に飾りて」

  「春眠を 邪魔され蜂が 怒ってる 頭巾めがけて 攻撃しかけ」


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○オホーツク海のホタテ貝が届きました

 サロマに住む友人の井田さんから沢山のホタテ貝が届きました。井田さんはホタテ貝の養殖を営む漁師さんですが、私が寒気団の船木さんの紹介で北海道へ講演に行った折、井田さんとひょんなことから知り合い、わが家のミカンと井田さんのホタテ貝の物々交換が始まりました。ミカンの採れない北海道から見れば、四国で珍しくないミカンも希少価値だそうです。一方四国の私たちはホタテなど獲れないのでこれまた希少価値があって、送られてきた発泡スチロールの箱の蓋を開けた途端、私と妻の言葉は「うわー」という驚きの声でした。

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 井田さんから「ホタテの稚貝を送るから食べて」と電話で連絡があったのは一昨日でした。そんな予告電話があったものですから、昨日は夕方まで宅配便の来るのを、今か今かと妻と二人で待っていました。夕方5時頃玄関のチャイムが鳴ったので、てっきり宅配便だと思い込んで玄関先に出ると、牛乳代の集金に来たおじさんでがっかりしました。おっつけ玄関先に車が止まりチャイムが鳴ったので、今度は妻が出ました。「お父さん、井田さんからホタテが届いたよ」というので台所へ行ってみると、発泡スチロールいっぱいのホタテの稚貝が入っていました。妻は早速近所や友人におすそ分けの準備をしていました。松山に住む娘や息子の家にも、夕食の準備もそこそこにしてこれから持っていくのだというのです。

 丁度夕食の準備中だったので、ホタテを水洗いしてフライパンで酒蒸し料理をしてくれました。昨年行ったオホーツクの海に思いを馳せながら、磯の香りを楽しみ早速ご相伴に預かりましたが、やはり本場の味は美味しく、ぺロリ10個も妻と二人でつまみ食いをしてしまいました。親父の料理にもホタテを一品加え、北海道の友人から届いたことを話してやりました。

 このホタテは稚貝で養殖の前の段階のようですが、貝は小さいのに実は大きく食べ応え十分です。昨年も同じような時期に同じ量が届いたので、今年は料理のバリエーションも広がって、今夜はホタテを入れたシーフードカレーなるものを妻は考えているようです。

 夕方友人の清水さんが、年輪塾の総括のためにやって来ました。酒蒸ししたホタテを食べながらお茶をすすり、書斎で一時間余り話し込みましたが、清水さんにも少しおすそ分けのサービスをしました。

 早速お返しにいつものことながら甘夏みかんを送りたいと思っています。


  「オホーツク 海で育った ホタテ貝 生きた姿で 遠い旅路を」

  「早速に 海の幸なる ホタテ貝 近所配りて 喜ばれたる」

  「北南 それぞれ海山 幸送り 元気確かめ 味を楽しむ」

  「北の海 やっと春来る 便りにて 四国間もなく 初夏の陽気に」

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shin-1さんの日記

○更なる奮起を願っています

 斜陽化する産業といえば大変失礼な話ですが、建設業界を思い浮かべます。私の町にも私が役場に勤めていた頃の全盛時代には、10指に余る中小の建設業者がしのぎを削って、公共工事を中心に頑張って仕事をしていました。私と同じような年代の若い社長は、33ナンバーの新車を乗り回し、週末はゴルフ三昧、時には韓国済州島へゴルフ旅行に出かけたり、年度末が終わると従業員を引き連れて旅行にも出かけていました。建設御殿といわれるような立派な家に住み、社長婦人もそれなりの身なりをしていました。夜はカラオケや松山の飲み屋に繰り出し、選挙の度に政治家の応援をしていました。全ての人ではありませんが、このように羽振りもよくって、安月給の私などは何処かみすぼらしい感じもしていました。

 ところがバブルがはじけ、その後は公共工事が激減、経営が成り立たなくなって一軒二軒と倒産や夜逃げなどでその姿を消して行きました。堅実と見られた残った会社も方向転換できないまま、今もかなり厳しい経営を強いられているようです。

 建設や土木業界が地域にもたらした経済効果は、今日まで莫大なものがありました。さして働く場所のない私たちの地域では、農閑期や漁閑期など日稼ぎ労働にはぴったりだったため、出稼ぎに出なくてもよい土方作業は、経済の循環によって大きな恩恵をもたらしてくれたのです。残念ながらその仕事もなくなり、今はシルバー人材センターなどの仲介する仕事で、細々と農作業以外の恩恵を受けているのです。


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 昨日は大洲の建設業協会女性部の総会があり、依頼を受けてお話に出かけました。ご多聞に漏れず建設業協会も厳しいようですが、皆さんは厳しさゆえに熱心で、「新しい発想で生きる」と題して90分お話をさせてもらいました。中には顔見知りの人や、事前にお葉書きまでいただいた人もいて、不景気風を吹き飛ばすような私の面白い話に、笑顔で対応していただきました。多分この集会に参加した人たちは会社やご主人の深い悩みの防波堤になっていることを思うと、その内助の功に心からなる大きな拍手を送りたいと思うのです。

 物は考えようで、このところの不景気で業界の整理も自然淘汰的に進み、やる気のある人たちが残っています。また耐震などの基準が厳しくなって、古いものは立替を余儀なくされています。昔のような繁栄はないにしても、そこそこ頑張ればこの難局を乗り切ることができるのです。美しい日本を創るため建設業界に頑張ってもらいたいと思います。


  「派ぶりよい 時代もあった あの頃は 今では斜陽 巡りめぐって」

  「いつの世も いいことばかり 続かない しかし悪いも 続かないから」

  「ブルドーザー そこのけばかり 動いたが 今は静かな 田舎に戻り」

  「思い出す 日本列島 改造論 田中角栄 いずこにおわす」

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○わが家は人生の楽園

 最近忙しくて自宅の周りを観察する間もなかったのですが、昨日の夕暮れ時散歩の帰りにわが自宅を外の道から見返して驚きました。いつの間にか家庭菜園の周りに植えているつつじが満開を迎えているのです。出会った近所のおばさんが、「いつも目を楽しませてもらっています。あんた方は人生の楽園だね」と奇妙な表現をされました。人生の楽園といえば田舎暮らしに憧れ、田舎暮らしを手に入れて生きている方を紹介するテレビ番組のタイトルなのですが、このおばさんに言わせるとわが家は人生の楽園だと目に写るのだそうです。はてな?と思いつつ軽く言葉を交わし、急いで自宅へ戻って暮れなずむ中、デジカメで花々を急ぎ足写真に収めました。

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(道沿いから見える石垣の上のつつじの花帯)

 わが家のつつじは細長い家庭菜園の畦に植えているため、白塀を加えると100メートルにも及ぶ帯をしています。下は他人の田圃ですが、下の道から見ると石垣の上に程よくマッチして見えるのです。花の中には満開を迎えた木とまだまだ蕾の木があって、ここ一週間が見ごろかなと思うのです。

 このつつじは私が20年も前に挿し木して増やし、杉垣だった杉を切った後に植えたものです。その後の手入れは親父に任せきりですが、親父は花後の剪定手入れや年に一度マシン油の消毒を欠かさず行っていて、それがこの花を美しく見せているのです。


(近づけばほらこの通り百花繚乱、大洲の富士山には負けますがオンリーワンです)
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 ピンクや白や紫の花々が程よく入り混じり、このまま今日の雨に打たれて散るのかと思うと、何とも勿体ない気持ちです。確かに林芙美子のいう通り「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」なのです。ゆえに今夕から上がるであろう雨を期待して、明日からじっくりこの花々を家族とともに楽しみたいと思っています。

 いよいよ間もなくゴールデンウィークが始まります。娘家族は娘婿のお父さんの法事のため大阪へ行きますが、長男家族の孫たちはやってきます。また賑やかな日々が戻ってきます。幸せをかみしめながら行く春を楽しみたいものです。


  「気がつけば 百花繚乱 咲き誇る つつじの帯は わが家へ続く」

  「白ピンク 紫色が 程よくて 絵にも描きたい 写真撮りたい」

  「この花が こうして咲くは 年老いた 親父のお陰 そんな思いで」

  「人生の 楽園ですね 言うてくれ 田舎暮らしを 誇りに思う」

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○ちょっとしたトレッキングを楽しむ

 寒い寒いといいつつも季節は巡り、早いものでもう4月も終わりが近づいてきました。寒いと戸外へ出るのがついつい億劫になりがちですが、このところの陽気に誘われ朝晩散歩がてら裏山を歩いています。山歩きの楽しみは何といっても植物との出会いです。冬の間殺風景だった木々が一斉に芽吹き、周りの山々はまるで黄緑色の衣を着ているように、目にも鮮やかに見えます。多分この木々たちも生きるために呼吸しているのでしょうが、根から水を吸い上げ、周りの空気を吸って吐き出している酸素は、私たち人間に大きな活力をくれているに違いないのです。

 土日は年輪塾とだんだんつながろう会の皆さんとの学習会や交流会があって、忙しく過ごしたため、せっかく久しぶりに泊まりにやって来た孫たちと遊ぶことができなかったので、誘ってちょっとしたトレッキングを楽しみました。孫朋樹は小学校2年生なので、足元もしっかりしているのですが、孫尚樹は来月3歳になる程度なので、まだまだ山歩きはおぼつかず、狭い山道では私の手を握って歩くものの時々しりもちをついたりしましたが、それがまた楽しいのか、何度もわざとふわふわの落ち葉の上に転げてキャーキャー言って遊んでいました。健康やレクリェーションが目的でする山歩きのことをトレッキングといいますが、まさにこれこそちょっとしたトレッキングでした。

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(木漏れ陽の山の中をゆっくり歩く孫たち)

 山歩きの途中に竹やぶで筍を見つけました。子どもたちにとって食卓に出されている筍は、この季節ゆえ沢山食べさされますが、どんな格好をしているのか見るのは初めてなので、珍しそうに眺めていました。「おじいちゃん、おばあちゃんに筍を採って持って帰ろう」と尚樹が言いました。すかさず朋樹が「この筍は他所のものだから採ったら泥棒になるからいかん」と釘を刺しました。いい会話だと内心ニコニコしながら聞きました。

 木漏れ陽の中を歩くと道端に様々な植物が見えてきます。私の目の高さと孫たちの目の高さが違うため、見つけるものが随分違います。「おじいちゃん、今度はあの山まで登ろう」とか言いながらトレッキングを楽しみました。

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(道端で見つけた大きな筍にびっくりする孫朋樹)


  「木漏れ陽の 中を三人 ゆっくりと 春を見つけて スッテンコロリン」

  「ニョッキリと 雨後の筍 顔を出す 採ったら泥棒 弟諭す」

  「春衣 まとっているよな 山の色 目にも鮮やか 空気がうまい」 

  「筍を 見たよと婆に 報告す 三歳孫の 得意な笑顔」 

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○人間牧場にて

 人間牧場の水平線の家にウッドデッキが造られています。このウッドデッキは重宝なもので、冬こそ窓で仕切られていますが、春から夏、夏から秋にかけては雨の日を除けば観音開きのような戸を開け、室内の25畳とほぼ同じ25畳が一体になって使えるよう設計されているのです。私の希望を叶えてくれた設計者の長男に感謝しながら、色々な集会に合わせて便利に使っているのです。

 ウッドデッキの空間は背後の水平線の家が二階建てのため背後天空を通る太陽の光を遮る影の部分があって、この日陰が何ともいえない癒しの部分にもなっています。この日陰は夏の暑い日の草刈の後の昼寝の場所としても最適で、昨日などは日焼けを気にする女性のためのスポットとして利用されていました。

 私と息子は陽ざらし雨ざらしのこのウッドデッキをできるだけ長持ちさせるために、半年に一回メンテナンス作業として防腐剤を塗る作業をもう5年間も行ってきました。ウッドデッキは特に若い人たち誰もが憧れ、自宅にウッドデッキを造っている家を最近よく見かけるようになりましたが、高温多湿の日本では防腐剤を塗らずにほおっておくと、まず5年くらいで継ぎ目や割れ目、釘穴から水分が入って腐り始め、10年もすると危険で使えなくなるのです。息子と私のほどよい手間によってまだ腐ることもなく大切に使っています。

 私は時々暇さえあればこのウッドデッキに背もたれ椅子を運び出して、その植えに寝転んで瞑想にふけったり読書をしたりします。最近異動で島の警察に転勤した息子の部屋で要らなくなった少しお洒落な背もたれ椅子をいただいたので、長男が買ってくれたものt含めて2台になりました。

 昨日はこの2台を運び出して孫朋樹と二人で雑談にふけりました。いつの間にか孫朋樹も小学2年になりすっかり大きくなって、背もたれ椅子が似合うようになってきました。椅子を出してカメラを置き自動シャッターでツーショットの写真を撮りました。

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 ウッドデッキに椅子を置いて写真を撮ると、バックの青い空や海、水平線や島々をバックに何となくアートを感じる写真が出来上がるのです。放射線状に張られたデッキの板や、誰も座っていない椅子、そして椅子の陰が何か主張のようなものを感じさせてくれるのです。近々いい日和を選んで人間牧場へ行き、そこここの光と影を撮影したいと思いました。

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 人間牧場で面白いものがあります。ウッドデッキの両側に植えた訳でもないのに勝手に2本の杉の木が生えました。癒えの直ぐ横なので土台を狂わせないために本当は切るべきなのでしょうが、実はこの木は人間牧場成長の証にしようと考えました。しかも人間牧場とともに育っている孫朋樹を結びつけて「朋樹の木」と命名しました。最初は朋樹より小さかった杉の木も今では朋樹を追い越して3倍くらいの大きさに伸びているのです。

 これからも人間牧場のシンボルとして大きく育って欲しいと願っています。

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(孫朋樹の3倍に伸びた朋樹の木)

  「牧場の ウッドデッキで 瞑想に 耽りウトウト ついつい昼寝」

  「いつの間に 杉は軒先 近づいて 孫も負けじと 日々に成長」

  「窓開けりゃ ウッドデッキが 広がって 色々知恵が 浮かんで消える」

  「今年また 季節巡りて 年重ね 少しゆとりの 春を向かえる」 

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○西予市からのお客様

 昨年の4月19日、西予市宇和町のだんだんつながろう会に招かれ、それがご縁で人間牧場へ行ってみたいという皆さんの要望で、10月25日の秋の頃皆さんが人間牧場へやって来たと記憶をしています。その後筆まめなお世話役藤本明美さんとの交友も深まり、願わくばミカンの花咲く春の季節に是非という相談がまとまりました。要望の日時は4月25日か5月9日でしたが、私の日程の都合でリクエストだったみかんの花咲く頃にはまだちょっと早い昨日25日に15名ほどの一行はやって来ました。

 一度や二度で人間牧場の場所を覚えるほど簡単な場所に人間牧場はないものですから、例によって下灘コミュニティセンターで待ち合わせをしました。藤本さんから「足湯」の希望もあったので、前日から泊まりに来ていた孫朋樹を同伴し、8時に牧場へ上がって風呂を沸かし、味噌汁のサービスをするためかまど小屋のかまどに火を入れ鍋で味噌汁の出汁を沸かしました。皆さんの滞在時間が昼食や私の話を含めて3時間ということもあるので、事前準備をしっかりしました。運よく前日に年輪塾の学習会があって、昨日主か以後綺麗に掃除をしていたので多少助かりました。

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(足湯を楽しむ皆さんたち)
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(豪華な二の膳までついた弁当を広げての食事会)

 一行は14~15人でしたが、車を連ねての人間牧場への移動は遅れ気味の車もいて、携帯電話での誘導となりました。松本小番頭もえひめ地域政策研究センター出向中にお世話になったからと、わざわざラブじゃこ天を差し入れにやって来ました。前日は年輪塾があり、その後懇親会で御前様だったのに、律儀なことで感心しました。早速足湯を楽しみながら皆さんで日向ぼっこをしました。そして私の炊いた味噌汁を注ぎ分けてちょっと贅沢なお弁当を広げ昼食です。明治時代のお膳が配られ、人間牧場でこれまで食べた昼食では一番豪華なものとなりました。藤本明美さんの気配り手配り目配りには感心するばかりです。

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(皆さんで記念写真を撮りました)

 明治の軍服を着たとんでもない来訪者が途中で侵入したり、フロンティアグループのメンバーがブーメランテーブルの輸送中に顔を見せたり、はたまた何の前触れもなく訪ねてくる人がいたり、まあ賑やかな対応となりました。食事後私の卓話を熱心にメモをしながら聞いた方々を孫朋樹と二人で見送り後片付けの後、二人で先日植え残っていたコンニャクイモを植え、嶽の支柱を立てて作業を終わりました。

 今年は天候不順でサツマイモのツルの伸びが悪く、このままでは間に合いそうにもないようです。これも天候のせいだと諦め次の手立てを考えなければならないようです。

 ともあれ忙しかった人間牧場での二日間は天候に助けられ何とか無事に終えることが出来ました。積小為大を実感した二日間でした。

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(孫朋樹が撮影してくれた私の作業風景)
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(45個の種芋を植え終わりました)

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(コンニャクの5年芋はもうこんなに長く芽を伸ばしています)

  「日向にて 豪華弁当 食べながら 味噌汁すする 長閑なりけり」

  「ああ今日も よき人群れて 縁重ね 日和味方の 出会い楽しむ」

  「雲もなく 風心地よく ほお撫でる 遠く漁船の エンジン音が」

  「この二日 来客ありて 忙しく 話聞きつつ はがきしたため」 

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