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○東北の友人からの便り

 3月17日に電話が通じて消息が確認されて、その様子を18日のブログに書いた一関市室根町の金森勝利さんから、昨日一枚のハガキが届きました。短文ながらとりあえずの消息と目の当たりにした被災地の状況、それに復興に向けての取り組み状況が書かれていて、何より嬉しい音信となりました。

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 何よりも嬉しいのは、末尾に「家族全員無事で毎日を過ごしておりますので」と書かれた言葉でした。地震と大津波で一瞬にして家族や身寄りを亡くし、家財をなくした人々のことを思うと、何はともあれ家族全員無事だけでも大きな喜びに値するのです。私たちは日々の暮らしが余りにも豊かで幸せに暮らせているので、ついついものの豊かさや幸せに馴れ、その意味さえも見失っているのです。

 働きたくても働けない、学校へ行きたくても学校に行けない人々のことを思うと、三度三度の食事が食べれることや、枕を高くして温かい蒲団の中で寝れることさえ幸せなのです。


 昨日春休みでわが家に来ている孫と一緒にテレビを見ていました。震災で親を亡くしながらも屈託なく生きる子どもの姿が映し出されていましたが、孫は痛く心を痛めたようで、しんみりしながら見入っていました。親と一緒に暮らせること、ご飯が食べられること、お風呂に入れること、友達が沢山いること、学校へ行けることなどなど、当たり前の幸せを話してやりました。

 ショッキングだったのは、福島原発事故の放射性物質を含んだ水を海に放流することを決め、放流を開始した東京電力と政府の決定でした。海は大きな包容力を持っているため、危険な放射性物質を含んだ水を放流しても、いずれ希釈するから大丈夫という安易な発想は間違っていると思いました。

 四方を海に囲まれた日本はもっと海を大切にしないと取り返しのつかないことになるのです。ましてや海には魚や海草という日本人の食料となるべき資源があるのですから、もっと慎重にしなければなりません。それにしても社長が顔を見せず説明責任も果たさないない東京電力の怠慢は何ということでしょう。また東京電力に追随し「これくらいなら人体に安全」を繰り返す政府や電力の繰り返す答弁も気になります。シーベルトなどという横文字を使って説明されても、私たち国民にはそれがどれ程のものなのかさえも分からないのです。

海は大きなホスピタリティです。異常な熱が出たからと燃料棒に水をかけ、その汚染された水が満杯になると海に溢れ出る、そして今まで汚染されていなかった海までも広範囲に汚染する、素人の私たちが考えても分かりきっている付け焼刃の対処法は、もう限界のようです。これでは北朝鮮の原爆実験に目くじらを立てる資格などあろうはずがありません。唯一の被爆国日本が安易に選んだ原発依存の国策を今一度考え直さなければ習いようです。コンビにも10時までに明かりを消す、夏も冬も暑さや寒さを我慢する、そんな暮らしの改善をこの際目指したいものです。


  「汚染水 海に流せば 希釈する 安易考え 将来禍根」

  「水かけて 増えた汚水が 溢れ出す 誰でも分かる 水かけ論を」

  「海汚す 国に隣の 国自省 促す資格 ないと心得」

  「よくもまあ こんな決断 したものと 呆れた口が 塞げないなあ」

 

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○元町長の奮闘

 私は昭和45年に役場に勤め始めてから平成17年に退職するまでの35年間で、3人の町長さんに仕えました。最初の仲野和町長さんとは、教育委員会で社会教育を担当しながら、企画調整室係長、総務課係長の兼務辞令をいただいて、町を二分してリコール運動にまで発展した町名変更を担当しました。

 次の丸山勇三町長三とは、双海町の夕日によるまちづくりを企画調整室室長補佐と地域振興課長として、4期16年間の長きに渡って担当しました。

 そして上田稔町長三とは教育長として双海町誌編纂や合併処理にまつわる様々な事業に2年間関わらせてもらいました。いずれの仕事も長い短いは別として、私の人生においてかけがえのない貴重な体験だったし、今も全力投球できた満足感を持っているのです。

 仲野さんは4期町長を務められましたが、第一線から退く理由が選挙による敗戦だったゆえに、その後の出会いはそれ程多くはありませんでした。ライオンズクラブの会長を務めるなど高潔な実業家として生きて来られ、今も高齢ながら元気に過ごしておられます。願わくば元気なうちに一度お会いして過ぎ越し人生をかたりたいとも思っています。

 丸山さんは5期町長を務められました。在任中は県の町村会長や県の合併推進委員会の委員も務められ、次の上田さんにその職責を譲り引退されましたが、退職後は悠々自適のように見えたものの、思わぬ不慮の交通事故に遭い一昨年末天国へと旅立ちました。退職が私より2年早かったため、在職中も退職後も時々立ち話をする機会がありましたが裏話などは聞けず、今にして思えば残念でなりません。

 上田さんは仲野さんや丸山さんとは違い、商工会長も兼ねた議員さん出身で、外国語も話せる知識人として活躍しました。外国生活も長く、家の都合で帰郷してからはまちづくり青年会議の会長を務めるなど、私のまちづくり構想の最大にして最高の理解者として大いに議論を戦わせました。町村合併で在任期間は2年でしたが、新しい伊予市の初代教育長として活躍をされていましたが、1期で退任され松山市の国際観光推進監として今も活躍をしているようです。

 3日前の愛媛新聞の地方版ワイドえひめ「人ひと人」という欄に顔写真入りで紹介されました。見出しは「自転車と共生する街に」というタイトルの記事でした。

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 何ヶ月か前出会った時、「暇な時に読んで下さい」と手渡されたレポートを読んでいたので、僅か300字ほどの記事を読みながらその考えを納得しました。上田さんの頭の中では伊予市や愛媛県という小さな世界は存在せず四国さえも狭い感じがするのです。若いころ世界を舞台に活躍した過去を思えば当然のことなのですが、自転車と共生する環境都市とは面白いと思いました。東日本大震災で壊滅的な被害を受けている福島原発や大津波被害のことを思うと、納得納得です。9月には10日間の日程で四国一周サイクリングが予定されているようですが、成功を祈っています。元町長の嬉しい活躍に大きな拍手を送ります。

  「元町長 違う世界で 活躍と 新聞報じ スクラップする」

  「鳥の目を 持った男の やることは さすがさすがと 感服しきり」

  「三人の 町長仕え それぞれに 違った仕事 成果を残す」

  「いい人に 巡り会ったと それぞれの 顔を思いつつ 朝を迎える」

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○山口県岩国錦帯橋日帰りの旅(その①)

 私たちが子どものころは、4月4日はお節句と呼ばれて、母に作ってもらったご馳走弁当を提げて、何日も前から作った出城のような場所へ出かけ、みんなで一日中遊んで過ごしました。子どもの数の減少と時代の進展でそうした伝統的な遊びもいつの間にか廃れてしまったことは返す返すも残念です。

 今年は3日が日曜日なので妻は前夜から巻き寿司をまいたりして花見弁当を作っていました。私たち夫婦だけならどうってことはないのですが、92歳の親父のために二段重ねの弁当を作るのですから、妻の優しさは相当なものだと感心感謝をしました。

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(錦帯橋での妻をモデルの撮影会)

 前日土曜日の夜弁当作りが一段落したところで夫婦の相談話が始まりました。3日には二人とも予定が入っていないので、どこか近場へでも出かけようかというのです。早速妻は5時過ぎに起床して親父の弁当と私たちの朝食を作りました。親父の隠居へ弁当を持って行き、「今日は位置に留守にする」と伝えて、午前7時に家を出発しました。行くあてのない日帰り旅行ですから、高速道路に乗ってしまなみ海道を走りながら左に行くか右に行くか話し合い、結局は左に進路を取って、福山西から竹原インターまで山陽自動車道を走り、岩国の錦帯橋を目指しました。岩国へは講演やフロンティアグループの世界遺産を巡る旅などで度々訪れているし、私が退職した6年前、息子が博多どんたく見学の旅をプレゼントしてくれた折、帰りに夫婦で訪ねた場所なのです。


 この日は天気予報では大きな崩れはないと聞いていましたが、朝から曇り空で今治通過時は小雨がぱらついていて北東よりの風で肌寒く感じましたが、時間が経つに連れて天気は回復して絶好の行楽日和となりました。

 錦川の河川敷に車を止め、錦帯橋の上をゆっくりと歩きました。対岸の橋の袂の桜はまだ4~5分咲きでしたが、気の早い花見客が桜の木の日田に陣取り、焼肉の煙をもうもうと出してお酒を飲んでいました。折角咲いた桜も焼肉の煙に燻され少々迷惑な話です。

 武家屋敷周辺をゆっくりと散策しましたが、歴史の重みとでもいうべき重厚な佇まいに感心しました。古い町並みは来る度に新しい発見があるもので、前回は止まっていた二つの噴水が水しぶきを上げていたり、昼時ということもあってすっかり有名となった岩国寿司を賞味することが出来ました。


 錦帯橋は50年に一度架け替え工事が行われるそうですが、前々回一つだけ真新しい、前回は全て真新しい橋を見学、今回は自然に調和した見事な橋を見学することができました。50年に一度だと85歳まで生きる予定私の人生ではもう新しい橋を見ることはないだろうと思うと、前回や前々回はとてもラッキーだったと思うのです。

 こんなに広い日本なので、ましてや岩国なので知り人にも出会わないだろうと思いきや、橋の上で一人は私が気付いて、もう一人は相手が気付いて、偶然な出会いに驚いてしまいました。自分の妻と二人旅だったことも幸いで、何年か前講演先で美しい中年女性の案内で街を漢学していた折、地元の人に偶然にも出会い、その人に「若松さんはええ人とお忍び旅行を楽しんでいた」と要らぬ噂話を立てられ、すっかり迷惑したこともあったのです。まあ風評被害は何処にでもあるし、逆に昨日のように妻と一緒にだと、風評効果になるかも知れないので、出会いもまた楽しいものなのです。

  「右左 どっちに行くか 考える 足の向くまま 気の向くままに」

  「何年か 前に訪ねた 錦帯橋 妻と二人で この橋歩く」

  「水明の 錦の川に 架かる橋 まるで虹橋 幾重重なり」

  「美味しいよ 呼び込みさんの 声吊られ 店に入りて 名物食べる」

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○ぬくぬく伝言板

 このところ毎月の初めになると五行歌の見山あつこさんからお便りが届きます。先月の歌会の出席歌と欠席歌もさることながら、それらの歌に的確な講評が添えらているのを読むのが楽しみなのです。

 今回の出席歌の一席は、塚田三郎さんの「奥さん 春色の"あかり"は 灯す時ちょっと コツがいるんです ふりむか"ポッ"とね」と、岡本光子さんの「これ位自分でする これ位じゃけんしたげる 洗濯物の引っ張り合い 息子の優しさに降参 すまんのお~・・・」でした。いやあ二人とも中々の秀作で、駄作続きの私にはとても真似のできないと脱帽してしまいました。

 さて先月の私の歌ですが、「『幸せ』という字墨で半紙書く 風が飛ばした偶然に 裏から読んでも『幸せ』 逆さに読んでも『幸せ』 幸せの反対は不幸じゃなかった」でした。子どものころ習字の時間に半紙に「幸」という字を何枚も書いてそこら辺において乾かしていると、何枚かが窓から吹き込む風で吹き飛ばされました。友だちが「『幸』という字は上から読んでも下から読んでも、裏から読んでも『幸」だ」と、得意になって言いました。その話を聞いた先生は「幸せの反対語は不幸せじゃあないんです」と付け加えてくれました。以来私の心の奥にはいつも、「幸せの反対は不幸じゃない」と思うようになってきたのです。今回の歌はそんなことを思い出し作りました。


 ☆印のついた選者講評には「ホントだーと、読者にとってもうれしい発見、元気をもらえそう、もう一つ付け加えると『幸』の字は左右対称でもありますよと、こちらは見出しさん情報です。漢字って面白い。」でした。

 末尾のぬくぬく伝言板には、次回の締め切りは4月7日と書かれています。「あと3日か」と頭の中のカンピューターが回って尻に火がついた感じがし始めました。さて何をテーマに歌を読もうか?、田舎ゆえ素材も、リタイアゆえ時間もたっぷりあるはずなのに、中々いい歌が浮かびません。今月もまた凡人ゆえに秀作は期待できず、締め切りギリギリの投歌になりそうです。 


 先日友人から句集が届きました。これまで新聞に投稿して掲載された川柳を、退職記念にと一冊の本にしたようです。機智に富んだユーモアの数々が一句一句に見事に表現されていました。添え書きには退職記念に松尾芭蕉が巡った道を歩く予定だったのに、東日本大震災の影響で中止になったとこ書き添えられていました。

 永井文章を書くことも難しいが、俳句や川柳、五行歌などの短いものも難しいと最近になって奥の深さを感じています。願わくば一度歌会にも参加して、心の壁を乗り越えたいと思っています。さてさてこれもいつのことになるやら・・・・。

  「五行歌は 自由がゆえに 不自由と 思う心が 頭持ち上げ」

  「幸せと いう字何度も 書いてみる 確かに不思議 何処から読んでも」

  「私一歩 あなたあの人 みな一歩 共に踏め出せ 真夕さん投歌」

  「俺の歌 犬も食わぬと 思うとき 案外いいの 出来ることある」 

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○伊予路という機関紙に投稿しました

 愛媛県公民館連合会が発行している伊予路という機関紙が届きました。連合会の専門委員をしているため毎回送られてくるのですが、今回は愛媛県公民館連合会発足60周年記念特別提言という別枠があって、愛媛大学愛媛学習センター長の讃岐先生と、愛媛県公友会長の佐伯真登さん、それに私に寄稿依頼があったのです。わたしの肩書きは人間牧場主・年輪塾々長なので、「志を育てる私塾づくり」について、少し長めの原稿を書かせてもらいました。

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 スキャナーの仕方が少しずれていて、見苦しくなりましたが記録に残すためにあえてブログに再掲しました。私の書いた原稿は1、これまで、二、これから(①~志を育てる私塾作り~、②~人間牧場での私塾「年輪塾」と「子ども体験塾」)という目次立てて書きました。

 私が公民館と深く関わるようになったのは役場に転職して公民館に配属された昭和45年からです。その後連合会の前身である公民館連絡協議会の主事部会長として深く関わり、退職後の今も専門委員や県内以外の公民館へ講演に出かけるなどしているのです。


 若いころ青年団活動で公民館に出入りしていたころを加えると、公民館とのかかわりは40年を越えているのです。私は私の人生観の形成に大いに役立った公民館を恩人と思っています。ゆえにこれからも公民館に恩返しをしなければならないのです。それは自らの理想を強く掲げ、理想の実現に向けて進化することなのです。

 伊予路と一緒に、清見タンゴールが宅配便で届きました。送り主は3月末を持って農協を退職した年輪塾々頭の清水和繁さんからです。中には「奥様へ」というハガキと「この街で」というCDが入っていました。この原稿に書いた私塾の話は清水さんと松本さん、米湊さん、それに浜田さんたちとの共作なのです。いい仲間とともにこれからも・・・・。

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  「原稿を 頼まれ書いた 掲載紙 汗顔しつつ 読み返したり」

  「いい仲間 沢山ありて 日々楽し これから先も 楽しく生きる」

  「美田など 残す必要 ないという 尊徳教え 艱難ともに」

  「生き方に 影響与える 人になる 類燃人は 中々なれぬ」

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○今朝は少し体が重たく感じる

 「今朝は少し体が重い感じがするのは何でだろう」と思いつつ、日常より少し遅めの午前4時半に目が覚めました。「春が来た」という表現がぴったりで、昨日の夜は羽毛布団の上に羽織っていた毛布を取って眠りましたが、この陽気に誘われ、事のほか遅かった桜も一気に開花が進み、一週間もすれば満開を迎えられそうです。

 陽気はいいことばかりではありません。人間牧場界隈の草も日増しに緑を濃くして、来週の終わりころには新品の草刈機の使い始めをしなければならないようです。


 体が重く感じた原因は人間牧場のコンニャク畑の草引きに熱中したためと直ぐに分かりました。朝8時ころ娘が孫を迎えに来たので、私の子守仕事も足掛け4日で無罪放免となりました。そのため遅れている人間牧場の農作業をするため、急いで軽四トラックで牧場へ向かいました。途中私が農地を貸している稲葉さんに出会いました。稲葉さんは海岸に打ち上がったカジメなどの海草を天日干しにして肥料に使っているようで、地元の人さえ見向きもしない未利用資源に着目するあたりはさすがです。

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(地中から芽を出したコンニャク芋)

 

 人間牧場には狭いながら2ヶ所コンニャク畑を持っています。冬の間に覆われていた草は一回目は引いたのですが、温かくなって芽が地中から生えだしたようなので、打ち鉤のような草引き道具で草を引き始めました。一箇所の畑は難なく終ったので、せん定作業で不要になった小枝を風もないことから焼却処分しました。

 昼ころ稲葉さんから昼飯でもご一緒しようと携帯が入り、潮路という下灘のレストランへ下りて行き、いつもながらのメニューである握り寿司と天ぷら、うどんのセットメニューを注文しました。この日はあいにく財布を持ち合わせてなかったためご相伴に預かりました。

 作業に戻ってもう一ヶ所のコンニャク畑の草引きに挑みました。途中今治から越智さんという方が自宅に見えていると妻から携帯が入りました。予約をしていたのか一瞬ドキリとしましたが、どうやら飛び込みのようでした。聞けば人間牧場を是非見学したいとのこと、下灘コミセンまで迎えに下りたのですが、その人は道に迷い、上灘の市役所支所に飛び込み、結局は支所の松本さんのご厄介になって、3時まで仕事になりませんでした。来客が帰った後一気にスピードを上げて草取りを午後5時までやり引き上げました。


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(草引きの終ったコンニャク畑)

 

残念ながら昨日はドタバタで、予定していたコンニャク畑の草取りは少し残ってしまいましたが、まあこんなこともあるから来週残りの作業をしようと思っています。今朝メールを見るとミツバチの師匠井上登さんから、栗の接木、ミツバチの巣箱の設置などの予定打診がありました。今年はミツバチの巣箱の中が見える観察箱の設置を考えているようで、今年も忙しくなりそうです。早速返信しようと思っています。

  「今年こそ コンニャク芋を 収穫し 食べてみたいと 心に誓う」

  「労働の 疲れ明くる日 感じるは 歳のせいだと 納得しつつ」

  「上がり下り 何度もやって 結局は くたびれ儲け 仕事にならぬ」

  「ニョッキリと 地上顔出す コンニャク芽 春が来たよと 言ってるように」

  「

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○孫と紙飛行機で遊ぶ

 8歳と3歳の孫とは思考能力は一緒ぐらいのレベルのはずなのに、テレビの番組を見ても遊びの方法を見ても随分時代の開きを感じます。孫は男の子ゆえ玩具もカメンライダーなどのキャラクターグッズが大好きだし、テレビも漫画やカメンライダーなどを食い入るように見るのです。また暇さえあればテレビ画面にゲームを差し込んで楽しんでいるのです。私などはついて行くことすら出来ないのです。

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 わが家に孫二人がやって来て4日目になりますが、孫の遊びを少し変えてやろうと、天気がいいことを味方にして戸外へ積極的に連れ出しました。孫たちはボール遊びが大好きなので息子が使っていたサッカーボールやテニスボールを取り出して、蹴ったり投げたりして楽しみました。体を動かすと風邪気味だった孫たちも汗をかき、親父が孫のために作ってくれた鉄棒で逆上がりをしたりと、わが家は田舎の広いお屋敷なので存分に体を動かしました。


 孫たちが熱中したものにコピー用紙で作った紙飛行機があります。3歳の孫尚樹は作ることは出来ませんが、この春3年生に進級する孫朋樹は私が教えると直ぐに見よう見真似で飛行機を作りました。最初は家の中で飛ばして遊んでいましたが、そのうち家の庭で、近くの空き地でとエスカレートして行きましたが、結局は折角作った紙飛行機が屋根に引っかかったり、溝の水の中に落ちたりするので、思い切って潮風ふれあい公園へ髪飛行機を持って出かけました。


 昨日は金曜日の平日だったため、春休みといいながらそれ程の人ではなく、自分たちの場所を存分に確保して、3人が思い切って紙飛行機を飛ばす競争をしました。勝った負けたで一喜一憂し、体中汗でびっしょりになりました。ポケットから小銭を取り出し近くの自動販売機でジュースを買い、持っていったデコポンを食べたりしながら楽しいひと時を過ごしました。春まっ盛りで海も穏やかに凪ぎ、春霞でそんなに視界は開けていませんでしたが、シーサイド公園や漁港を一望できる公園なので満足の一日でした。

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 孫たちの年代はほおっておくと巣篭もり傾向でゲームなどの与えられた遊びに終始します。ペーパーだけで作る紙飛行機は創作遊びです。自分で様々いかに特遠く高く飛ぶか工夫しながら夢中になって遊ぶ姿はイキイキと輝いて見えました。子どもは遊びから多くのことを学びます。また子どもは遊びの天才です。昨日は自宅に帰るとおばあちゃんに紙被告機で遊んだ話を自慢げに話していました。孫の育爺なので、私にしかできない遊びをしっかりと孫たちに教えてやりたいと思っています。

  「紙だけが あれば十分 遊べます 飛行機作り 汗だく飛ばす」

  「長閑なり 瀬戸内凪いで ちらほらと 桜も咲いて 孫と戯れ」

  「仕事より 孫守り疲れ 腰掛ける 孫の歓声 遠目で眺め」

  「春休み 早く終れと 思いつつ 孫と一緒は どこか楽しい」 

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○咲いても咲かずも寂しい今年の桜

 昨日の夜、高知県四万十市西土佐に住む旧友の和田さんから久々に電話が入りました。「久々に声が聞きたかった」と泣かせるようなセリフを言って、近況を報告してくれました。西土佐村へは一年に20回も講演に行ったり知人や友人も多く、地理に精通しているため電話の向こうの様子を頭に描きながら会話しました。

 和田さんの話によると西土佐当たりの桜は既に満開だそうで、私の町の桜などまだ一分か二分咲きなのにと驚きを隠せませんでした。実は桜というのは気温だけで開花を判断することは出来ないのです。私の町の桜がまだ一分か二分咲きのころ、温度の低い四国の山里で満開の桜を見て驚いたことは何度もありました。

 私の身勝手な推測ですが、私の町の桜が遅いのは冬の間の北西の季節風が強いため、桜の花芽の表皮の水分を奪うためだと思うのです。

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(咲き始めた双海町の桜)

 昨日は孫を連れてわが町の一・二を争う桜の名所である潮風ふれあい公園へ出かけました。園内の桜の中には旧八景山講演時代の古木の桜もありますが、殆どは私が役所にいる時手掛けた潮風ふれあい公園を整備した時植えた桜なので、思いでも一入です。その桜の殆どはまだ一分か二分咲きでしたがが、ここのところの温かい陽気に誘われて一気に開花が進むものと思われます。

 和田さんが言うように、今年の桜は咲いても咲かずも寂しい感じがします。本来なら桜が咲けば仲間や家族と花見を楽しむのですが、今年は東北・関東大震災によって壊滅的被害を受けた東北や関東に住む人たちのことを思うと、とても花見を楽しむような気はなれないのです。政府は東北・関東大震災を東日本大震災と改名すると発表したそうですが、名前はどうであれ一日も早い復興を願っています。

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(昨年見た今治市朝倉無量寺の枝垂桜)

 それでも桜は自らの力と植わっている場所の気候風土の力を借り、一年をかけて咲くものですから、開花を待ち望んでいた私たちが今年の桜として、弁当やお酒で派手な花見はしなくて、しっかりとこの目で愛でてやらなければなりません。だって66歳になった私はまだ66回しか桜の開花の時期を経験していないし、85歳まで生きる予定の私にとってはあと29回しか桜の春を見れないのです。

 来週の日曜日、21世紀えひめニューフロンティアグループの世界遺産を巡る旅で姫路城へ行く予定です。したがって仕事が休みの妻と桜を見れるのは明日の日曜日しかないのです。毎年桜の名所を一ヶ所ずつ心に焼き付けています。昨年は息子の転勤の引越しを兼ねて今治の枝垂桜を見て感動したものです。今年は何処にするかまだ決めていませんが、和田さんの話のように近場で満開の桜があるはずなので、見たいと思っています。


  「満開と 友が知らせる 桜だが 今年は何故か 寂しく思う」

  「ああ咲いた 今年も桜 忘れずに 愛でてやりたや 妻と二人で」

  「あと何回 見れるのだろう 桜花 この目と体 しっかり開けて」

  「ぱっと咲き ぱっと散り行く 桜かな こんな生き方 叶わぬ夢か」

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○孫とワイワイガヤガヤ

 昨日は春休みでわが家へやって来ている孫たちと一日を過ごしました。朝起きてご飯を食べてから、夜風呂に入って寝るまで、時間は毎日と同じなのに、日ごろの暮らしとはまったく違う波長で、暮らしのリズムを狂わされ、すっかり疲れている私たち夫婦なのですが、それでも「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼ばれると目を細め、すっかりその気になって、付き合いをしているのです。

 昨日はすこぶる上天気なので、孫たちの手伝いを受けて玄関周りの掃除をしました。玄関といっても田舎の民家ゆえ私の家の玄関はだだっ広く、2間に1間半もあるのですからそれなりに靴や置物もいっぱいあるのです。孫たちを褒めちぎりながら全てのものを外に出し、タイル張りの土間を箒や掃除機で掃除し、雑巾で拭きました。この半年大掃除をしていなかったためかなり汚れていました。また履かなくなった靴類も幾つか処分しました。

 わが家の玄関には久万高原町の商工会に勤めている渡辺さんの紹介で、もう10年も前に木製の丸太ベンチを買い求めて置いていますが、丸太の椅子の幾つかはくじらという海産物店を経営している妹に譲り、一個のみが残っているのです。またその横にはかなり大きい水槽が置かれ、長男が長年飼っている土佐金と親父が池で飼っていた尾長金魚が仲良く泳いでいるのです。今は忙しい息子に代わって私が水槽の掃除や餌やりをやっています。その水槽の掃除もしました。また孫朋樹が毎年のように夏になると夢中になる、クワガタやカブトムシを入れる虫篭も、この際腐葉土を畑に移し朋樹が綺麗に水洗いして天日に干し収納しました。

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 サッシ戸を雑巾で拭き、すっかり綺麗になった玄関を見て、仕事から帰った妻は驚いた様子でした。「綺麗になった玄関は私が掃除したからだ」と胸を張る私を見て、妻はニヤニヤしていましたが、手伝った孫二人も褒められてすっかりその気になっていました。

 午後からはコピー用紙で紙飛行機を作り、近くの空き地で孫と飛ばせやいこをしました。まあ熱中することこの上なく、尚樹などはしっかりと汗をかいたようです。

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 今晩は娘が仕事から帰って子どもたちを迎えに来ます。多分今夜は泊まって明日帰るのでしょうが、早く帰ってと思う反面と寂しさが交錯しています。今日は午後西条市に住む青木さんが、お母さんを連れて立ち寄ってくれました。青木さんと朋樹は宮本常一の歩いた道を歩くイベントの時出会っていて、朋樹も覚えていましたが、お土産を貰って大喜びでした。

 桜の花も昨日と今日の陽気で一気にふくらみ、桜の名所潮風ふれあい公園の桜もほころんでいます。これから孫たちを連れて公園へ出かけようと思っています。

  「春休み 孫が訪ねて 大騒ぎ 早く帰れと いいたい気持ち」

  「小さいが 小さいなりの お手伝い 玄関掃除 孫と一緒に」

  「春風を 受けてスイスイ 爽やかに 紙のヒコーキ 低く高くに」

  「いつの間に こんなに高く なりにけり 柱に書いた 高さ追い抜く」

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○二人の男の再起動

 リタイアして自由人となっている最近の私にとって、最も深い付き合いをしている年輪塾の塾頭清水和繁さんと、塾生第1号の浜田久男さんのお二人が昨日で退職するというので、塾生に声をかけ再起動を促す懇親会を、年輪塾の溜まり場となっている松山市駅裏の「ふじ」という居酒屋でやりました。

 米湊大番頭、松本小番頭の年輪塾ネットでの呼びかけに、総勢15人もの仲間が県内各地から集まってくれました。これもお二人の人徳とでもいうのでしょうか、一人ひとりの顔ぶれを見ながら、自然発生的で開塾の時期も記憶にない年輪塾も、いい仲間が集まっていると感心しながら、2時間ほど懇親を深めました。


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 浜田さんは関西汽船松山支店の営業課長をしていました。子どものころ双海町下灘日喰に住んでいたこともあって、人間牧場を始めたことが愛媛新聞で紹介されるや、人間牧場へ入熟させて欲しいと申請書を持参して来ました。まだ未知の分野だった人間牧場に私塾を開こうと決意させたのは、この申請書がきっかけだったことを思うと浜田さんは大恩人なのです。その後1年余りが経って民俗学者宮本常一をテーマに第1回の年輪塾を開いた折は、豊富な読書で培った宮本常一の足取りなどを数人の仲間の前で講師となってレクチャーしてくれましたが、年輪塾の塾生に読書の必要性を説いてくれたりもしました。

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 浜田さんの勤めていた関西汽船は名の通った旅客船会社ですが、モータリゼーションの発達や、高速道路無料化実験事業の洗礼をもろに受け、定年後の再雇用もままならず縁切れとなったようですが、独り身の気軽さもあって当分は充電をするようで、昨日は夜の船で本社に向かい今日神戸の本社で退職の辞令交付式に臨むのだそうです。民間企業の厳しい営業に耐え、長年にわたって黙々と働き、晴れて退職する浜田さんの再起動に大きな拍手を送るとともに、リタイア組の先輩として今後の人生のあり方のアドバイスを、してあげたいと思っています。

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 清水さんはJA農協マンです。定年退職といってもまだ58歳ですが、組織の方針で役職定年というのがあるそうで、それならと勧奨退職の道を選びました。退職後は再雇用で給料は下がるものの別の職場に再雇用されて仕事が出来るそうです。

 清水さんとの出会いは、彼がえひめ地域政策研究センターへ研究員として出向してからです。気象予報士の資格を持っていたり、宮沢賢治に傾注したりとこれまでの仲間にはない独特のキャラクターを持っていたため、えひめ地域づくり研究会議代表運営委員を務めていた私と深いご縁となり、年輪塾の塾頭をお願いしました。

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 馬路村の東谷さん、上勝町の横石さん、内子町の森本さんと私を結ばせたのも、山形の星さん、徳島の草野さんと結ばせtのも全て黒子に徹した清水さんのなせる業でした。宮本常一から二宮尊徳へとテーマを代えている年輪塾のネット運営と223話に上る尊徳翁夜話配信などは、オンリーワンながら私塾としてはの独自性を存分に発揮しているのです。昨日は退職辞令を午前中交付されたそうですが、35年間の締めくくりとして終業時間までしっかりと勤めたあたり、並みの人では出来ない終り方をされたようで、頭が下がりました。昨日の夜の再起動の会に、「行き方のヘタな男のレクイエム」と「倚りかからず」という短詩を皆に配った奥の深さはさすがでした。

  「人は皆 上り下りの 時ありて ちょっと一息 次を目指しつ」

  「何年か 前に私も このように 人生いかに 生きるべきかと」

  「経済を 伴うゆえに 自由とは 言いつ不自由 強いられ余生」

  「続々と 仲間が増える 余生かな 俺を見習え 楽し生きてる」 

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