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○私の二宮金次郎騒動

 私が入学した小学校を学校として始めて認識した記憶は、運動場にすっくと立っていたシンボル的存在の大きなイチョウの木と、学校の玄関先に建っていた二宮金次郎の銅像でした。イチョウの木は残念ながら寿命が来て枯れそうになりましたが、子どもたちや樹木医さんたちの懸命な努力でかろうじて生き延びていますが、かつてのような天に向かって聳えるような勢いはないのです。

 二宮金次郎の銅像も昭和45年の学校改築に合わせて取り壊され、その後は野口英世博士の胸像に生まれ変わっているのです。私は少し変わった考えの少年だったのか、小学校一年生に入学した時から、金次郎が左手に持って読んでいる本のことが、「金次郎は何の本を読んでいるのだろう?」と気になっていました。そして小学二年生になった若松進一少年はある日、kともあろうかその台座に登る決心をしたのです。自分の背丈以上もある台座にどのようにして登ったのは未だに良く覚えていませんが、運の悪いことに台座に上がっている私を、たまたま通りかかった校長先生見つかってしまい、校長先生を激怒させ校長室へ連れて行かれました。

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(後に学校の写真集から見つかった当時の二宮金次郎の銅像)

 校長先生は私に、「お前はあんな偉い人の銅像の上に何で上がったのか」ととがめました。私は「先生、私は二宮金次郎さんが何の本を読んでいるか知りたかったのです」と答えると、校長先生は「馬鹿たれ、あそこにはいろはにほへとと書いている」と言って、お仕置きの星座を1時間も校長室でさせられたのです。

 それ以後「二宮金次郎は何の本を読んでいるのだろう」という私の疑問は30歳まで解けぬままでした。ところが愛媛県校長会が主催して招聘する予定だった女優左幸子さんが直近になって急逝してしまい、その代役として私が講演することになったのです。

 私は何の話をしようか迷いましたが、二宮金次郎の話をしようと、校長先生の許しを得て町内翠小学校の二宮金次郎の銅像の上に登って調べたのです。金次郎が読んでいる本には漢字が25文字書かれていました。拓本を取って町内小・中学校5校の校長先生に読んでほしい意図依頼しましたが、残念ながら読むことも出典も分かりませんでした。仕方なく県教委の国語の指導主事さんに送ったところ、中国の古書「大学」の一節だと判明したのです。

 もし小学二年生のあの時、校長先生が「お前は偉いやつだ。あの本は中国の古書大学の一節だ。内容○○○だと教えてくれていたら、私は東大へでも入学していたかも知れない(笑い)と思うのです。子どものころの好奇心と向き合う親や先生の態度は大切なものだと今更ながら思う今日この頃です。

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○世界遺産を巡る旅

 「毎年一つずつ国内の世界遺産を巡る旅をしよう」と、私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループが始めた新企画も、今年で4年目になりました。最初の年は広島県広島原爆ドーム・安芸の宮島、島根県石見銀山を見学し、和歌山県熊野古道、そして昨年は奈良県古都1300年祭の春日大社などを存分に見学し、

今年は岐阜県白川郷へと続く予定でしたが、雪に埋もれた白川郷と私たちの日程が一致せず、白川郷を来年に回して、今年は取りあえず近場兵庫県姫路城でお茶を濁すことになりました。

 今日はその姫路城へ日帰りの旅をするため早朝5時起床で早い旅立ちのため、これから出かけます。帰りは夜遅くなる予定です。

 こう書き残して日帰りの旅に出ました。集合が午前6時30分伊予鉄高島屋前の広場なので、妻に車で送ってもらいました。妻はこの日、松山工業高校にk度もが通っていたころ知り合ったPTAの仲間と道後公園でお花見があるそうなので、朝早く起きて親父の食事の準備をしての出発でした。年寄りと同居しているための妻の苦労も相当なもののようです。

 今回の日帰り旅行への参加は結局12人だそうで、市駅前にはメンバーで今回の企画を担当して運転をしてくれる河野正彦さんがレンタカーを借りて到着していました。そのうち松山集合組みが集まり6時30分に出発しました。途中小松のサービスエリアで河上さんと日浅さん、それに湯山さん親子を乗せ、瀬戸大橋経由で姫路城へ向かいました。久しぶりに出会ったフロンティアグループの仲間は時の建つのも忘れて大いに語り合いました。姫路城、閑谷学校、号楽園を巡る旅の模様は次ぎのブログで詳しく書いておきます。


 さて世界遺産姫路城と二つの場所を見学した私たちは、もと来た道を引き返し、途中で4人をサービスエリアで降ろし、無事9時丁度にし駅前へと帰って来ました。到着する前に妻に電話を入れ、ゞ場所に迎えに来てもらいました。聞けば妻は午後3時ころまで友人と道後で花見を楽しみ、その後気分転換のつもりで東道後の温泉に保養に出かけたとか、お互い違う場所で違う人たちと日曜日をリフレッシュしたようです。

 帰宅後は多少の疲れで、ブログを書く気分にもなれず、すっかりお茶を濁してしまいました。


  「朝早く また夜遅く 迎え来る 妻に感謝の 一日でした」

  「また今年 世界遺産を 巡る旅 加え加えて 6箇所行きぬ」

  「久方に 話し弾んだ バスの中 みんなそれなり 病気抱えて」

  「来年も 元気で行こう 約束す お互い体 いたわりながら」

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○由並小学校入学式

 子どもが在学もしていないのに、縁あって学校評議委員をしていることから案内があって、昨日は春一番のようなやまじ風吹く中を由並小学校の入学式に参列しました。一昨日訪ねた翠小学校は新入生が2人だそうですが、由並小学校は17人とそれなりに多く、かろうじて100人の大台を維持しているようです。

 昨日は人間牧場へ20名ばかりのお客さんが来る予定だったため、入学式には欠席するはずでした。ところが水平線の家のウッドデッキで私の落伍を聞く予定が悪天候で前日に延期が決定したため、教頭先生からの出欠電話をいただいたので、急遽出席にさせてもらいました。

 お寺の下の役場駐車場に車を置いて、歩いて裏門から校庭に入りました。30分も前に到着したため来賓では私が一番乗りでした。忘れ状がいいというのでしょうか、運動場へ入る前に車の中へカメラを忘れたため引き返そうと思いましたが、雨も降っているので写真撮影のためにやって来た公民館の赤石さんに写真をお願いしてしまいました。

 入学式は10時から、厳かに行われました。新入生が主役の会場設営や、校長先生の分かり易い式辞の組み立てにも感心しながら、50分程度の時を過ごしましたが、国歌君が代の斉唱も校歌斉唱も声量抜群で、爽やかな風を感じるいい入学式でした。

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(17名の新入生)

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(武田校長先生の式辞)
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(来賓の末席に私の姿が・・・。赤石さんがメールで送ってくれた写真です)

 いつもの年だと桜は散っていますが、今年は冬のさま差が厳しかったせいか、校庭の桜は満開でした。惜しむらくは昨日の大風で少し花が傷んだようですが、これも天の恵みと思わなければなりません。

 合併して6年が過ぎ、町会議員さんが沢山出席していた入学式も随分様変わりして、民生児童委員さんや区長さんなどが主体の落ち着いた普段着のような雰囲気はいいものです。新入生もワクワク・ドキドキしながらしっかりとお話が聞けて、褒めてやりたいような気持ちでした。

 60年も前、私は下灘小学校へ入学しました。その時校庭に聳える大きなイチョウの木を見ました。また玄関先で二宮金次郎の銅像を見ました。その時「金次郎さんは何の本を読んでいるのだろう」と不思議に思ったことを記憶しています。その疑問が私にとっては「金次郎事件」ともいえる出来事を一年後に引き起こしました。

 この続きは明日の朝のブログにて書きます。


  「十七人 入学をする 小学校 来年何人? 気になりながら」

  「少子化の 波否応 なしに来る 妙案ないか 子ども産むこと」

  「六十年 前に入学 した時は イチョウ大木 銅像仰ぐ」

  「忘れても 撮った写真が 瞬時にて 手元に届く 便利世の中」 

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○東京からやって来た慶応大学生(その2)

 双海町での半日を終えた慶応大学生の山内さんと私は、田舎ゆえ食事をするところも殆どない中、人間牧場へ来られた人をもてなすために時々行く、海沿いの「潮路」というレストランに入りました。ここは今回山内さんを紹介してくれた友人と始めて食事をした場所でもあるのです。昼前でしたがレストランは空いていて、私たち二人は海が直ぐ横に見える席に座って、色々と話をしました。

 私はこの町で生まれ、この町で育ち、この町で暮らしています。宇和島で過ごした3年間の高校生活を除けば人生の殆どをこの町と深いかかわりを持ちながら生きてきたのです。

 人間の生き方や価値観、それに発想の原点は、生命誕生という小さな穴を通って次第に広くなりますが、広くなった自分の世界はやがて歳とともに狭くなって、死という穴へ入ってゆくもののようです。私の生い立ちの中であえて挙げる広い世界は、高校生の時実習船愛媛丸でオーストラリア近くの珊瑚海まで遠洋航海に出かけたり、30歳の時総理府派遣青年の船の班長として建国200年のアメリカへにっぽん丸で旅をしたことです。

 それまでは、目の前に広がる海を見ながら、「この海の向こうに何があるのだろう」とか、「海の向こうの知らない国へ行って見たい」などと漠然としていましたが、この二つの旅は私の価値観を根底からひっくり返すようなカルチャーショックだったように思うのです。

 聞けば山内さんは一年間も世界の中心アメリカ・ニューヨークで暮らしていたとのこと、ゆえの言動だと納得しながら色々な雑談めいた話をしました。人は異文化ギャップの中で何かを発見するものです。今まで暮らしていた場所と違った地域で感じる風、今まで出会ったこともない人との出会いで感じる風などなど、僅か一瞬のこれらのすきま風が、やがて微風・強風・温風になって人生を左右するのです。今はある意味心の基層にそうした様々な風を溜め込む時期かも知れないと、山内さんと話しながら思いました。

 お昼のことゆえ大したもてなしも出来ず、彼はエビフライセット、私は夕日セットを注文しました。東京育ちの彼の舌に合ったかどうか気がかりですが、旅先のことゆえお許しいただきたいと思いました。

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(長浜町の赤橋)

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(坂本龍馬脱藩・江湖の港)
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(坂本龍馬宿泊の旅籠跡)

 夕やけこやけラインを通り、途中長浜の赤橋や江湖の港、橋の袂の旅籠など坂本龍馬ゆかりの地をさらりと見学し、肱川沿いの道を大洲駅まで車を走らせました。時間があれば大洲城やおはなはん通りなどもと思いましたが、運よく13時ちょうど発の特急宇和海が、3分遅れで到着したお陰で乗車することが出来ました。

 彼は友人の書いた旅のシナリオに沿って、宇和島経由で愛南町西海の次の目的地に向かって消えて行きましたが、今も再会を約束して別れ際握手した、手の温もりが今もこの手の中にあるようです。出会いは一瞬でしたが桜の咲く良い季節に、山内さんと出会ったことは、忘れられない思い出になりました。


  「すきま風 基層集めて 準備する やがて強風 温風なりぬ」

  「人はみな 小から大へと 進むもの やがて再び 小へと帰る」

  「俺などは 龍馬の倍も 生きながら 千分一も お役に立てず」

  「旅は人 育ててくれる ものなりて これから先も 心の旅を」

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○東京から慶応ボーイがやって来た(その1)

 昨日は友人の親類という慶応大学の学生が、東京から私を訪ねてやって来ました。聞けば東日本大震災の影響で慶応大学では4月を休講にしていて、その休講期間を有意義に過ごすための行脚だそうで、喜んでお引き受けしました。山内さんという学生は前日空路で松山に入って一泊し、明くる朝早起きして予讃線海岸周りの列車に乗って、7時40分伊予上灘駅に到着しました。駅まで乗用車で迎えに行くと、東京生まれの東京育ちの匂いがするような、見るからに品のよい学生でした。

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 挨拶もそこそこにとりあえずわが家まで案内し、海の資料館「海舟館」、私設公民館「煙会所」を見学し、「夕観所」でお茶を飲みながら私のバックボーンに触れていただきました。運よく孫希心が入園式のため母親とやって来て、親父ともどもご一緒に記念の写真を撮らせてもらいました。孫も時ならぬ来客に驚いた様子で大はしゃぎでした。

 早速見学希望も聞かぬまま翠小学校へ向かいました。東京育ちの学生ゆえ、本物の学校をどうしても見せておきたかったのです。学校は明くる日に迫った入学式の準備で忙しそうにしていましたが、顔見知りの教頭先生にご無理を言って、勝手にそこここを見学させてもらいました。その後学校が一望できる高台にも登り、学校界隈の景観も見学しました。

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 近くのピザ窯にも立ち寄って雑談を交わし、少しだけでしたがグリーンツーリズムにも触れていただきました。その後は私が手掛けた潮風ふれあい公園やシーサイド公園、閏住菜の花畑、海産物屋くじらを一通り見学し、漁協女性部の店ではラヴじゃこ天、妹の店ではソフトクリームの接待を受け、下灘駅の眺望を楽しんだ後人間牧場へ・・・・。

 都会育ちの学生さんにとって、人間牧場までの狭い道は驚きの連続だったようでしたが、水平線の家から下界を見下ろす眺望にはすっかり驚いた様子でした。少し時間があったので、二人仲良く背もたれ椅子に体を横たえて人生観について話し合いました。


 山内さんは東京生まれの東京育ちだそうで、かつてアメリカニューヨークでも一年間暮らしていたそうで、友人の影響もあってか将来は公務員志望だそうです。公務員といっても田舎の役場に35年勤めた私のような地方公務員もいれば、友人のようなキャリアの凄い公務員もいて、私の話など何の役にも立たないと思うのですが、言うこと聞くこと話すこと全てにどこか波長が合って、初対面とは思えない深いものを感じる好青年でした。

 どうですか。下の写真を見ただけでも何か予感を感じさせる若者のようです。私は年齢的に彼には遠く及びませんが、彼から新しいエネルギーのようなものをいただいたような感じがしました。

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  「初めての 出会い思えぬ 若者と すっかり息を 統合しつつ」

  「若者に パワー貰って 元気出る 俺もまだまだ 夢に向かいて」

  「じゃこ天と ソフトクリーム 相次いで 接待受ける まるでお遍路」

  「旅に出て 夢は自然を 駆け巡る 幸せあれと 祈りながらも」 

 

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○テレビコマーシャルの変化

 昨日親しい友人と話をしていたら、その友人が「若松さん、最近テレビのコマーシャルが少し様子が可笑しい気がしない?」と、私に質問めいた投げかけをしてきました。「そういえばAGというコマーシャルが東日本大震災以来やたらと増えたよね」と返せば、「私もそう思います」と同調の言葉が返って来ました。

 東日本大震災は千年に一度といわれるほどの未曾有の大災害ゆえ、無知な私などは「マスコミも派手なコマーシャルを自粛して、社会性のあるコマーシャルをよくぞ」と、むしろ肯定的な拍手を送るほどでした。しかしテレビ番組の途中でこれでもかとACのコマーシャルが流れ過ぎると、番組自体の意味合いが薄れてしまってすっかり興ざめし、少しうんざり気味でした。


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 「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう

 「馬鹿」っていうと「馬鹿」っていう

 「もう遊ばない」っていうと「遊ばない」っていう。

 そうして、あとでさみしくなって

 「ごめんね」っていうと「ごめんね」っていう。

 こだまでしょうか?いいえ誰でも。

      (金子みすゞの作品より)

 このコマーシャルも最初は良くできていると感心していました。

 ところが先日偶然、古新聞に包んだ筍を近所に住む友人からいただきました。その筍を包んだ4月4日付け朝日新聞朝刊に、佐々木さんという方が投稿している記事を読み、少し変な気持ちになりました。

 「大丈夫?」って聞くと「大丈夫」って言う。

 「心配ない?」って聞くと「心配ない」と言う。

 それでも不安になって

 「安全なの?」って聞くと、「安全だ」と答える。

 聞き間違いでしょうか?。いいえ、昔から

 つまり金子みすゞさんの書いた詩を 今をときめく東京電力側の意図で替え歌ならぬ替え詩にするとこうなるというのです。反応の鈍くて遅い私でもこの替え詩を読んでハッと思いました。東電や政府は地震が誘発した事故にせよ、これ程大きな事故なのにテレビの画面に出てくる人の殆どが「○○シーベルトは安全です」と、まるでオームのように安全性を強調し、未だに殆ど姿を見せず説明責任を果たしていない清水東電社長を批判することすらしないのです。

 気がついてAC(日本広報協会)についてインターネットで検索してみると、何と何と協会長が東電社長であり、AC=東電とう構図が見えてきました。震災でコマーシャル収入が減ったテレビ局はACのコマーシャル収入で食い繋ぐ、つまり東電がテレビ局にお金を出しているから、東電のお粗末な失態を批判できないといわれても仕方がないのです。


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私の友人もそのことを自分のブログで指摘していました。佐々木さんは「心遣いと思いやり」のコマーシャルについても、「心は見えないけれど下心は見える。思いはみえないけれど思い上がりは見える」とも書いていたようです。 筍を包んだ古新聞も筍=包で何となくよく似た字だと今頃気付く愚かな私なのです。

  「何か変 友人指摘 そういえば どこか変だと 今頃気付く」

  「新聞や テレビ信じて 暮らしてる 安心安全 何を信じて」

  「下心 思い上がりも いいとこと 姿見せない 社長の態度」

  「一線で 危険を侵し 働くは 下請け企業 ばかりと聞くが」

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○孫希心君の保育所入園式

 今日わが家は朝から大忙しでした。長男の長男、つまり私にとっては孫の希心君が、上灘保育所に始めて入園する日なのです。嫁のあゆみさちゃんは数日前からそのことが気になって落ち着かない様子だし、孫希心君も入園式に大きな声でお返事が出来るようにと、数日前から練習させられたりしたようです。

 息子の仕事の都合でわが家の改築が遅れに遅れているため、当分は松山のマンションから通園するようですが、1歳の弟がいるため通園も中々大変なようです。

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今朝は入園式に出かける前にわが家へ、お母さんと二人でご挨拶に立ち寄りました。丁度居合わせた、孫たちが大じいちゃんと呼んでいる親父は、蝶ネクタイを締めた曾孫のりりしい姿に目を細めていました。嫁のあゆみちゃんもドレスアップしてとても美しく見えました。

 本来なら今日は私が1歳の奏心君のお守をする予定でしたが、急遽よんどころない用事ができ、奏心君は嫁あゆみさんのお母さんにお守を頼むことになってしまいました。

 私は一足先に家を出たため、入園式の模様が少々気になっていました。やはりお爺馬鹿なのでしょう。既に松山の家に帰宅している嫁あゆみちゃんに電話を入れると、入園式のあとお母さんの顔が見えなくなり、泣いてしまったようだと報告がありました。寂しがり家の孫希心ゆえ当分は親がいなくなると大変でしょうがそのうち慣れてくるものと思われます。

 何はともあれ孫希心君も人生の大事な一歩を踏み出しました。これから先健やかに成長して欲しいと祈るばかりですが、来月からはわが家で一緒に暮らす楽しみも待っています。


  「跡取りの 跡とりやっと 保育所に 入園泣いて 騒動しきり」

  「わが家では 四代長男 揃い踏み これは目出度い 若松様だ」

  「孫よりも 嫁が緊張 してるよう 入園するのは あなたじゃないよ」

  「少しだけ 気取った親子 そのうちに 化粧落として 真顔で向かえ」

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○日の出が早くなり日没が遅くなるこのごろ

 自然とは偉いもので、一昨日までの朝晩は春冷えで石油ストーブの世話になっていたのに、昨日の夜あたりから急に温度が上がり、昨晩夕食が終って妻と二人散歩に出ると、これまでとは違った温かい風が吹いて、すっかり春の陽気となり、帰宅後もストーブをつけることなく就寝時間の12時を迎えることが出来ました。震災の影響もさることながら原油価格の高騰で、このところガソリンが150円以上に値が上がり、家計を直撃しています。

 昨日の夕方久しぶりにわが家へ顔を見せた浜田年輪塾塾生さんとも話したのですが、今回の震災を教訓にしてコンビニの深夜営業禁止とか、自動販売機の整理と深夜販売禁止とか、自分の暮らしに余り関係がない節電方法を提案している人たちも多く、私たち消費者が寒さ暑さのために消費する冷暖房などを、昔のように炭や焚き火で段を取れとまでは言わないまでも、もう少し考えたらどうかなどなど、大いに話が盛り上がりました。

 春分の日を過ぎ、春真っ盛りになって日々の暮らしの中で気がつくのは日脚の長さです。私が作った2005年版の夕日の時刻表によると、今日4月7日の日の出は5時50分、日没は18時34分です。私の家のように東南に山がある場合は日の出の時間はかなり遅れるので、朝はそれほど日の出の時間を感じませんが、日没は毎日1分近く遅くなって、一ヵ月後の大型連休過ぎころには日没が19時近くになるのです。

 サマータイムを提案する向きもありますが、日本では一向に実現していません。私のように毎日朝4時に起床して、夜12時に就寝する暮らしを長年やっていると、特に早朝の外の明るさは有難く、今日もこうして机に向かいパソコンでブログを書きながら、次第に明るくなる外の景色を眺めながら、朝を迎えているのです。

 考えてみれば世の中は不思議なことだらけです。どうして暗闇が明るくなるのか、どうして季節は巡るのか、どうして風は吹くのか、ある程度は分かっていても自然の神秘には驚かされるし、桜が一斉に咲くことも不思議と言えば不思議な話で、漫才のネタではありませんが考えると眠れなくなるほど私のような凡人には、この世の中分からないことがいっぱいあり過ぎるのです。

 分からないことといえば男女の数も何故ほぼ同数なのでしょう。日本は60数年前第二次世界大戦で多くの男性を戦場に送りました。そして戦場では尊い命が失われました。勿論本土空襲によって女性や子どもも犠牲になりましたが、たくさんの男性が亡くなって男女の数に格差が生じたはずなのに、60年経てば男女の数が拮抗すまで回復しているのですから不思議な話です。


 今日地元の保育所では入園式が予定されています。聞くところによるとこの保育所に入園する予定は4人女性、男性は1人だそうで、その1人がわが孫希心と聞いて驚きました。もてるといえばそれまでですが、現代の少子化は異常としかいいようがないようです。

 ここ数年で日本中から相当数の学校が少子化の影響で閉校や廃校となる予定です。当然地域は疲弊し、学校の先生になりたくても先生になれない時代がやって来ました。こと教育の問題だけでもこれほど大きな変化に見舞われるのですから、少子化担当大臣は子ども手当てなどという目先のことだけを考えず、もっと本質的な発想の転換をお願いしたいものです。


  「どうしてと 思えば思う ことばかり 考え過ぎて 寝るに寝られず」 

  「今日入園 男一人と 聞き及ぶ もてもて孫が 羨ましいな」

  「昨日より 日没二分 遅れたり 京の夕日は 何処かの朝日」

  「暇ですね そんな暇ありゃ 別のこと やってと妻に 言われそうです」

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○人間牧場に春が来ました

 三月弥生から四月卯月へと季節が変わり、野も山も一斉に花の季節を迎えるようになり、昨年子どもたちに誕生日のプレゼントとして買ってもらったデジカメが大活躍をしています。本当は画素を落とさずに撮影したいのですが、ブログ用に使うためには画素を縮小しなければならないので、画素を落としたままで使っています。

 昨日は孫たちと一緒に人間牧場のスモモの花を見に行きました。3年前に植えたスモモは剪定もせずに延ばし放題にしているため樹勢が強く天を仰ぐほど伸びていて、今年は白い花をいっぱいつけて満開のころを迎えているのです。海と空の青さに白いスモモの花はとても美しく映えて、孫たちも「おじいいちゃん綺麗な花だね」と感心しきりでした。

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(スモモの花が満開で、ミツバチも盛んに蜜を集めていました)

 近くの雑木の枝を1メートルほどに切ってやると、孫たちは「おじいいちゃんに刀を作ってもらった」と大喜びで、そこら中を駆け回り、草の上を滑ったり寝転んだりしながらキャーキャー言って大はしゃぎです。日ごろは何かとストレスの多い、街中暮らしを強いられている孫たちにとって、自然はいいものだと感じたようで、木で作った刀で草をなぎ倒したりやりたい放題でした。

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(刀で戯れる孫たち)


 この日の目的は、ツリーハウスの中に収納して育てているカブトムシの幼虫観察です。今年の落ち葉集めの時、イモヅル伏せのための苗床から掘り起こした幼虫をポリ容器に入れているのです。この春小学3年生になる孫朋樹はカブトムシが大好きで、図鑑でカブトムシの生態を調べていて、今3齢目を迎えている幼虫の様子が気になっている様子でした。実験用に持参した虫篭に腐葉土を入れ、その中に幼虫を一匹入れて持ち帰ることにしました。幼虫はポリ容器の中でしっかりと育っていて、今年は成虫になることが期待できそうです。

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(ツリーハウスに収納して育てられているカブトムシの幼虫)
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(幼虫は順調に育っていました)

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(ツリーハウスでカブトムシの幼虫と面会して孫たちもご満悦です)

 今年はどういう訳か春先寒くて雨が少なく、春一番のような南寄りのやまぜが吹きません。それどころか昨日までの3日間は春としては珍しい寒い北東の風が強くて、下灘の漁船は漁にも出れなかったようです。福島原発の事故以来、季節の巡りの少しの変化にさえ、「何故?」「もしや?」などと首をかしげたりすることが多くなったようです。それでも季節は巡り少し遅めの春がやって来ました。これから1週間は桜がいっぱいいっぱい咲いて、一年中で一番楽しみな季節です。今年もせいぜい春を楽しみたいと思っています。


  「孫たちに 刀作って 手渡すと 腕白放題 遊びに夢中」

  「カブトムシ 腰をかがめて ポリの中 ひっそり生きて 命の不思議」

  「これ三齢 図鑑調べた 孫得意 本当かしら? 知らぬふりして」

  「今年また 春を楽しむ 術覚え お裾分けする 孫も喜ぶ」

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○最近の野鳥事情

 私たちが子どものころは、戦後間もないこともあって物の乏しい時代でした。ゆえに遊び道具は親から買ってもらった「肥後の守」という切れ味鋭い小刀一本を、暇さえあれば砥石で研いで、竹や木や紙を切ったり割ったり削ったりしながら、遊び道具を作っていました。今流に言えばアウトドアー感覚でしょうが、時にはイタドリなどの食べ物までも小刀で収穫したものです。最近は刃物は危ないという理由で小刀などを子どもの手の届かない所へ隠したため、「肥後の守」という言葉さえ覚えている人が少なくなって、死語に近くなっているようです。

 秋から冬になって小鳥の食べ物が不足する頃になると、小鳥の餌となる木の実を集めてきて、「きびち」という罠を仕掛けて遊びました。小鳥の通りそうな場所に小鳥の餌場を作り、餌を食べるとはね木が小鳥の首を絞めて生け捕るのです。小鳥も最初は簡単に捕れるもののそのうち利口になって、ちゃっかり餌だけをしっけいするようになりましたが、それでも捕った獲物の野鳥の毛をむしり、肥後の守でまるで実験台のように腹を開けて内臓を取り出し、焚き火で焼いて食べたりもしました。それは動物虐待という世界ではなく、私たちの遠い祖先が生きるためにやって来た狩のようなものでした。残った骨や内臓類は石の上に置いておくと、いつの間にかカラスなどの他の動物が恩恵にあずかり持って行きました。

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(川にいるはずのカワセミがわが家に住み着いています)

 そんな生々しい遊びをしていたため、子どものころから自然の中にある食べられるものと、食べられないものの見分け方やあり場所をちゃんと知っていて、今でも人間牧場界隈を訪ねる度に、少年時代自分だけのとっておきの場所だったところを懐かしく思い出したりするのです。

 私たちが子どものころに見た野鳥といえば空腹がそうするのか、モズやヒヨ、雀などでした。勿論メジロやウグイス、カラス、トンビ、カモメ、イシタタキ(セキレイ)なども記憶にありますが、サギや水鳥などは余り見かけなかったのに、わが家の池に水鳥がやって来て、池の鯉類を狙ったり、先日も自宅付近に住み着いているカワセミが、耕運機で耕した後ろでミミズをせっせと啄ばんでいて驚かされました。

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(私と対面した水鳥は無防備でした)

 2~3日前漁師をしている叔父さんからの連絡で魚を頂に豊田漁港まで行きました。港の漁船に乗る歩み板の上に何やら見かけぬ水鳥がとまっていました。ほんの手を差し伸べれば届くような場所なのに、逃げるどころか餌が欲しい仕草で私を見ているのです。

 港・船・海=カモメのイメージが一辺に崩れました。この水鳥はサギ類の仲間でしょうが、羽根を広げるととても大きな水鳥で、最近よく海辺で見かけるようになりました。野鳥や獣は自然の変化に敏感です。里山にイノシシやカラスが出没するのも、ある意味環境の変化かも知れないと時々納得するのですが、この水鳥は私たち人間にどんなメッセージを伝えようとしているのでしょうか。


  「この鳥は 何という名の 鳥かしら? 私をじっと 観察してる」

  「鳥事情 変ったことも 気付かずに 愚か人間 何の手だても」

  「白カモメ 黒はカラスと 覚えてた 灰色鳥は 何と覚える?」

  「今朝もまた ウグイスの声 賑やかに 朝の目覚めは 鳥の一声」

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