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○世界遺産東大寺

 世界遺産を巡る旅2日目は、宿泊先から程近い東大寺から始めました。東大寺といえば日本一の大仏さんで有名ですが、大仏さんがとてつもなくでかいことだけは覚えている修学旅行以来なので、わくわくする気持ちで向かいました。山門近くには鹿が沢山集まって韓国客に愛嬌を振りましていました。今の時期の鹿は冬毛が夏毛に生え変わる時期なので、道端にやたらに落ちている運この悪臭とともに、余りシンボリックな感じはしませんでした。早朝にもかかわらず多くの観光客がいましたが、その殆どは勧告や中国の人で、意味不明な言葉でわいわい騒ぎなが私たちと一緒に大仏殿へ向かいました。


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(早くも芽吹いた目にも鮮やかなもみじの新緑)
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(もみじの若草色に対比して咲く桜)

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(抜け毛の時期を迎えた鹿)
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(本堂までの山門は早朝ながらかなり賑やかでした)

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(公園内でくつろぐ鹿たち)

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(世界遺産を示す東大寺の石碑)

 仁王門も大仏殿に対比してでかいのですが、仁王門の両側にある仁王さんの像もこれまた見たこともないような大きさの像でした。普通は大仏殿に向かうため仁王門の仁王さんなど目もくれない人が殆どのようですが、私は力強い仁王さんの木造に強く心を引き寄せられました。

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(仁王門)

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(右と左の仁王さん)
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 大仏本殿はこれまた太く度肝を抜かれるような大きさでした。中に入るとガリバー旅行記で読んだように人間が
とても小さく見えました。この日は正装をしたどこかの団体がお坊さんの説明を聞きながら大仏様の前を占拠していたので、私たちは傍をすり抜けるように見上げながら左横、後、右横を順路に沿って進みました。途中柱の穴くぐりの場所を見つけましたが、韓国や中国から来たであろう外国人たちが占拠してここも素通りとなりました。

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(大仏さんの右側面)
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(大仏さんの正面)

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(大仏さんの左側面)
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(柱の穴くぐり)
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(本殿から仁王門を望む本殿前の境内)
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(式年祭はこのような壮大な祭りが模様されるようです)

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(大仏殿は名残の桜で華やかに彩られていました)

 この日はあいにくポロポロと朝から雨が降るあいにくの天気となりましたが、その後雨も止んで薄日のさす好天に恵まれました、開花宣言から20日間も経っているので、余り期待はしていなかったのですが、早咲きの桜は散り染めていたものの遅咲きの桜は今が満開で、桜咲く世界遺産はこれまた趣がありました。

 

  「大仏に 劣らぬような 馬鹿でかい 仁王阿吽で 出迎えくれる」

  「ナンバーワン さすが大仏 本殿も でかくてまるで 人が小さく」

  「遅咲きの 桜花咲く 大仏殿 風情の余韻 楽しみながら」

  「鹿抜け毛 衣替えする 過渡期にて 糞の匂いと 合わせうんざり」

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○旅先奈良の居酒屋にて平凡な力強さを語る

 21世紀えひめニューフロンティアグループという小さな仲間集団を、仲間12人と結成したのは今から29年前の昭和56年(1981年)のことでした。以来ふるさとを皿から見る運動や無人島に挑む少年のつどい、丸木舟製作瀬戸内海航海、10年間に40回開催のフロンティア塾活動など、様々な活動を、今やれる青春、一年一事業、社会への揺さぶりという3つのテーマを掲げて活動してきました。進化の歩みは遅くなったものの、そのことが認められて愛媛新聞賞やコカコーラ環境教育賞を受賞したり「今やれる青春」という20周年記念誌を発刊したり、これまた多くの足跡を残してきました。

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 それぞれの会員が歳をとり、昔のような活発な活動ができなくなったため、それぞれがそれぞれの持ち場を固めようと誓い合い、私は人間牧場をつくって、フロンティアスピリッツの伝承に努めてきた結果が今の自分の活動につながっているのです。仲間の皆さんも例えば旧内海村に住む北原さんは里山を開墾してヤギを飼ったりしながら、サバイバル的な活動を起こそうとしています。

 みんなの暮らしにこうした生きる意味とでもいうべき心の動きができ、それが社会への揺さぶりになっていることを思うと、29年間の活動によって育まれてきた思いや進化は素晴らしいことだと思うのです。

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 そのフロンティアグループが会員の高齢化によって嘗てのような活動ができなくなった軟着陸の活動として探し当てたのは世界遺産を巡る旅でした。「その歳になって何で今更」といわれそうですが、活動領域や範囲の狭くなりつつある自分たちの文化的レベルを高めていくには、歴史や異文化、それに人に会うことによるカルチャーショック以外にないと考えたからなのです。その旅はまだ今回で三度目ながら和歌山熊野古道、広島原爆ドーム、広島安芸の宮島、島根石見銀山、そして今回の奈良法隆寺などを巡って、途方もない日本人の営みが作り出した世界遺産に触れて、心洗われているところなのです。


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 旅の途中のバスの中は、29年間もの活動の想いだが詰まっているのですから楽しくないはずはありません。自分自身の過ぎ越し半生やこれからの人生を大いに語り合いました。仲間たちは若い頃希望や夢を語った割にはそれほど出世した訳でもなく、定年を迎えてあるいは迎えようとしていますが、心だけは強くなったと、みんなの話を聞きながら自然に備わった「平凡な力強さ」に驚くのです。そして多分これからも「平凡な力強さ」を武器に生きて行くことでしょう。

 居酒屋での飲みながらの話は、あれほど若い頃飲んでいた酒を飲めなくなった私を含めて何人かが、ウーロン茶党になり、酒は10人うち3人だけとなり、多少盛り上がりにかけましたが、それでもいいお話でした。


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  「三十年 活動共に した友と 居酒屋語る 青春の日々」

  「これからは 今が一番 若いから それなり生きろ 俺を見習え」

  「暇と金 できたらあれも やりたいと 思っていたが 暇金できず」

  「また今日も 色々発見 あった言う 友の言葉に 多少癒され」



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○お寺そしてまたお寺の寺巡り

 日本最古のお寺といわれる飛鳥寺に立ち寄りました。本尊は推古天皇が聖徳太子や蘇我馬子と誓いを立てて発願し鞍作鳥によって造られた日本最古の仏像といわれる飛鳥大仏です。当時は高さは3メートル、銅15トン、黄金30キログラムを用いて作られました。平安・鎌倉時代の大火災で全身羅災し、後補を受け現在に至っています。寺社仏閣に余り詳しくない私にはその価値は計りかねますが、他のお寺の本尊とは少し趣が違っているようでした。

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 時間を気にしながら一日目最後の訪問地である、国内で最初に世界遺産に登録された法隆寺に目指しました。お寺さんは参拝や拝観が5時までとなっているため、急ぎ足で法隆寺の中へ入りました。しかし既に入り口ではお参りにかなり時間がかかるため、オーダーストップのような形で入山不許可となってしまいました。仕方がないのでお願いし、私だけが入り口のゲートをくぐって五重塔と金堂の写真を2枚撮らせていただきました。

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 法隆寺を訪ねたのは中学三年生の時の修学旅行以来ですから実に50年ぶりなのです。あいまいな記憶をたどりましたが、残念ながら当時の記憶は完全に消え失せていました。松山出身の俳人正岡子規が「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」という句を残していて、俳句王国に住む私たちには馴染みの深い寺なのです。

 仕方がないのでお寺の境内を30分ばかり散策しましたが、境内も午後5時30分には締め出されてしまいました。

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 境内のあちこちには桜がまだ残っていて、桜の花の美しさと松の緑の清々しさに映える法隆寺の五重塔はやはり世界遺産に登録されるだけのことはあると、その重厚な佇まいに納得しました。

 さあここから今回の旅のお目当てであった奈良の世界遺産を巡る旅の始まりです。目を凝らし、心を開いて日本が世界に誇る古都奈良に世界遺産をじっくりと目と心に焼き付けたいと思いました。

  「半世紀 ぶりに訪ねし 法隆寺 昔の記憶 思い出せずに」

  「桜咲く 五重塔の 夕間暮れ 訪ねし人も 足早去りて」

  「法隆寺 日本最初の 遺産にて 胸張り我も 世界に誇る」

  「雑念を 払いて 境内 散策す 清がしき心 何かを悟る」

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○高松塚壁画は素晴らしい

 奈良県明日香村周辺にはやたらと古墳があって、少し小高いこんもりとした丘は住めべて古墳です。私たち一行は石舞台古墳から程近い場所にある高松塚古墳周辺を歩いて散策しました。古墳を見学した後、あの有名な高松塚壁画が展示されている壁画館へ立ち寄りました。周辺には桜の花に混じって淡い藤色の山つつじが咲き、春色一色の長閑な風情を満喫しました。

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 壁画館は一見トイレかと見まがうほどの小さな建物で、本物の壁画は修復のため、国営飛鳥歴史公園館に保存されていて、見学できるのは実物と同じく模写されたレプリカなのですが、その素晴らしさはいつまで見ても飽きないほどでした。

 館内には四神の図の日像・月像、人物群像、石造模型、副葬品、天井部の星宿図などが暗闇に浮かび上がるように展示されていました。あいにく館内撮影禁止なので写真に撮ることはできませんでしたが、いただいたパンフを見れば、その図柄に見覚えがあると思われるので、スキャンしておきます。

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 四神は中国の思想に基づくもので、古来天子の象徴として用いられ、四方を鎮護し東西南北の方向を現しています。青龍(東)、朱雀(南)、白虎(西)、玄武(北・亀と蛇)は星座の形から具象化されたものです。青龍・白虎の上部それぞれ日像・月像が描かれており、天井の星宿とともに被葬者の尊貴性を物語っています。

 人物群像は男子四人、女子四人各一組の群像が東西両壁に二組ずつ(計十六人)が描かれています。男子群像のいずれもが蓋、柳筥、床凡、鉾のようなものを持っているのに対し、女子群像は二人ずつが東壁では団扇、払子を、西壁では翳、如意を持っているのが特色のようです。どの像も優れた筆致で実に細かく描かれ、わが国美術、絵画史上優れた作品と高く評価されています。

 面白いのは盗掘穴の展示でした。古墳はその殆どが盗掘にあっていて、さすがに壁画だけは盗み出すことができなかったようです。

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  「いや凄い 中国伝来 文化見る 日本の基底 ここにありなん」

  「あの丘も この丘向こう 見える丘 全てが古墳 飛鳥の里は」

  「サイクルや ウォーク楽しむ 人の群れ われも一群 加わり歩く」

  「藤色の つつじの色も 雅にて 古代ロマンに 酔い知れました」

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○最初の目的地は奈良の石舞台

 先月3日広島県福山市へ講演に招かれて以来の本州渡りです。あの時は今治からしまなみ海道を渡りました。2月に岡山県美星へ出かけた時は瀬戸大橋を渡りました。今回は大鳴門橋と明石海峡大橋を渡っての本州入りです。上天気の幸運にも恵まれ、世界最大級の明石海峡大橋は大パノラマでした。

  普通写真は運転席からフロントガラス越しに撮るのですが、車の後ろに荷物用の空間があるのでそこに座って渡り行く大橋の姿をじっくりと堪能しながら写真に収めました。後続の車の運転手は私たちの行動をきっと奇異に見たに違いないのです。

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(美しい明石海峡大橋)
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(橋の向うには本州明石・須磨の町並みが見えました)

 運転をしていないので説明を受けながら走るものの、何処をどう走ったかは定かでありませんが、車窓に広がる景色を勘案すると山陽自動車道を走って阪神を通過しました。途中大阪万博の太陽の塔が窓越しに見えました。サービスエリアやパーキングエリアでトイレ休憩や昼食をとりながら、のんびり旅を決め込みました。休日割引効果なのかどこも車でいっぱいで、入り口出口は車の渋滞に合いましたが、思ったよりもスムーズに亀石まで到着しました。

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(サービスエリアで食事を摂りました。私はちゃんぽんを食べました。美味しかったです)

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(これが亀石、何処かユーモラスな格好をしています。何でも私の足元にある亀の口が土地の境界線らしいのです。私と大野さんもすっかりリラックスして、亀に負けないくらいユーモラスな格好をして写っていました)

 石舞台は亀石からそんなに遠くない場所にありました。一昨年奈良に講演に来た折、青年の船でご一緒した谷川さんの案内で訪ねた明日香村の教育委員会や壁画保存館、それに石舞台を訪ねたことを思い出しながら散策しました。石舞台付近には名残の桜が咲いていて、いい日の訪問を喜びました。

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(昔人はどんな工法でこの石舞台の石を積み上げたのでしょう)

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(みんなで記念写真を撮りました)
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(石舞台内部の石室)

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(桜の花と石舞台)
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(珍しい桜が咲いていました)

  「大橋を 渡りて本州 踏み入れる 目指す奈良路は まだまだ遠く」

  「亀石の 顔に似ている 写真見て 思わず顔が ほころび笑う」

  「いやすごい 昔の人は どのように してこの石を 積み上げたのか」

  「園内に 名残の桜 咲き誇り 時々風乗り 桜吹雪が」

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○阪神淡路大震災から15年

 大きな災害をもたらした、平成7年1月15日朝に起きた阪神淡路大震災から、早くも15年の歳月が過ぎ去りました。あれほどの大惨事をテレビながら目の当たりにしたのは初めてだったので、当時はかなりのショックと恐怖を覚えていたものの日々の雑事に追われ、記憶の中から消えようとしているのですから人の記憶もいい加減なところがあるようです。

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(鳴門の渦潮の上に架かる美しい大鳴門橋)

 21世紀えひめニューフロンティアグループでは、毎年一回会員の意見を聞いて国内の世界遺産を巡る旅を実施していますが、今年は奈良を中心に回ることにしました。10人乗りマイクロバスレンタカーを借りて、河野、田宮両氏が運転をしてくれました。

 普通は瀬戸大橋か徳島自動車道を走るのですが今回は、松山道~高松道~大鳴門橋~淡路島~明石海峡大橋~奈良のコースを走りました。せっかくだからと淡路島の北淡インターで下りて、北淡町にある震災記念館に立ち寄りました。私は3度目なのですが、初めての会員が殆どだったため、大震災で動いた野島断層の姿を見てみんなびっくりしていました。

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(阪神淡路大震災記念館)

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(記念館に入るとへし折れた高速道路と落下したトラックが無残姿で展示していて衝撃を受けました)

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(地面が割れ動いた野島断層の模様が当時のまま保存されていました)

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(当時の大震災にあった家屋台所内部もリアルに再現されていました)
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(当時の惨状を伝える新聞)

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(被災した家屋)

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(避難民で埋まった体育館)

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(仮設住宅村)

 記念館には地震体験設備もあって、マグニチュード7の地震を体験しましたが、縦横に揺れる地震は想像以上に凄いものでした。当時私は小額ながら義捐金だけしか復興のお役には立てませんでしたが、役場に勤める元消防士がボランティアとして現地入りして活動した話を思い出しました。

 日本は地震大国といわれ、これまでにも沢山の地震が起きています。また歴史上では地震による津波によって沢山の人が犠牲になりました。いつ来るか分からない地震や津波への備えをと、行政は防災教育に熱を入れていますが、相変わらずその歩みは国民の丁重な意識に翻弄されているようです。

 奇しくもこの阪神淡路大震災が引き金になって、ボランティア活動の必要性が認識されましたが、これさえも記憶の彼方へと追いやられそうな雲行きなのです。

 忘れまい戦争の悲劇、忘れまい阪神淡路大震災の被害と悲劇、忘れまいボランティア精神・・・・・。


  「久方に 震災惨事 目の当たり 記憶戻りて 心消沈」

  「断層が 動いた姿 驚嘆す 自然の力 侮るなかれ」

  「今はもう 完全復興 しているが 心の傷は 癒えぬままにて」

  「もし俺が 地震に会えば どうなった しみじみ思う 自身の非力」

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○新生双海中学校開校式

 先日双海中学校の開校式に出席しました。今は無位無官の私ですが、これまでに引き続いて新しい学校の学校評議員に就任して欲しいと要請があり、断る理由もないためお引き受けしたための案内でした。

 少子化の影響で追々細りだった中学校も、二校の統合によって33人の生徒が入学し、90人の中学校が誕生、久しぶりに活気に満ち溢れた学校となりました。

 新生双海中学校の校舎はまだ建設中で間に合わず、仮校舎でのスタートとなりました。この日は小雨が降るあいにくの一日でしたが、校庭の桜はまだ少し残っていました。

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 プレハブ職員室の玄関先で受付をしていたのは、この三月に閉校した下灘中学校で教頭をしていた中嶋先生でした。この度の異動で上灘中学校は校長も教頭も異動したため、地元出身の中嶋先生が学校のまとめ役として春の異動で双海中学校の教頭に赴任してきたのです。

 私たち一般来賓は旧職員室を改造した図書室に案内されました。統合したため下灘からも来賓が多く参列していて嬉しい限りでした。

 式は市長さんも出席して校章の染め抜いた校旗が市長さんから校長さんに授与され始まりました。校歌・校章の作詞者・作曲者・デザイン者などが招待されて壇上に並び、式辞や祝辞の後、それぞれが製作の意図を話されました。

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 この日は開校の模様を難解放送テレビが取材に来ていました。取材に来ていたアナウンサーの和気さんは子どもの頃、私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループの主催した無人島に挑む少年のつどいに参加した経験のある顔馴染みのある方で、久しぶりに名刺を交換してお話をさせてもらいました。この日の模様は夕方の難解放送ニュースで紹介されました。

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 隣の席に座った上田元町長さんと久しぶりに色々なことをお話しました。学校統合は私が教育長をしていた折、町内全域でアンケート調査を実施知るなど、学校統合のための合意形成を町長さんとともにしてきま、した。そのため、色々な準備や協議で関係者は苦労したものの、他の地域の人が不思議がるほどスムースにその点では上手く事が運んだように思うのです。そのことを知っているのは上田さんと私ぐらいかもしれませんが、草の根的にいささかなりのお役に立てたことをお互いがひそひそと喜び合いました。

 新しい学校がスタートしました。私も学校評議員として他の4人とともに、いい学校を作る手助けをしたいと思っています。


  「終わりあり 初めがありて こもごもの 歴史の重さ しみじみ思う」

  「今思う 水面下の やりくりを つじつま合えば それも忘れて」

  「『実はねえ 子どもの頃に 無人島』 アナウンサーの 顔に見覚え」

  「無位無官 なのに案内 届きたる 言葉に甘え 式に参列」 

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○桜の花見の出来る場所を10ヶ所作りたい

 今日は朝から花散らしの雨が降っています。冬の寒さの中で桜の花の咲くのを大きな期待を込めて待っていたのに、いざ桜が散り始めてもそれほど騒がず、結局は雨や風のなすがままに今年も桜の季節を終えようとしているのです。

 春来れば夏を思い 夏来れば秋を思う

 秋来れば冬を思い 冬来れば夏を思う

 日々年々歳々 人は皆明日を思い

 悲しきかな 今日に生きる

         (奈良駅前のホテルにて)


 しかし日本は広く、南や西の地方で散り終えた桜前線も、東や北の国ではやっと開花宣言といった場所もあるようで、暇が出来たら九州から北海道まで桜の花を追い続けて楽しみたいと思っていたものの、未だにその夢は実現していないのです。でも寄稿のいたずらなのか、今年くらい長い間桜の花を愛でたことも過去にはないような気がするほど、今年は桜の花を堪能することができました。

 昨日までの二日間奈良へ旅をしたため、平城遷都1300年の古都奈良の桜を行く先々の社寺仏閣で見ることができて、これまた思い出に残る桜を見ることができたのです。

 私が代表を務める21世紀ニューフロンティアグループでは、昨日の世界遺産を巡る3年目の旅先で、色々な話をしましたが、その中で桜を植樹する話を提案しました。これまで無人島キャンプや丸木舟瀬戸内海航海、フロンティア塾など数々の企画事業を20年余りにわたってやってきたグループも私をはじめ会員の高齢化が目立ち始めたので、そろそろボランティア活動のも限界が見え始めてきました。

 さこで最後のsy回への恩返しとして、千本桜の植樹を考えました。一ヶ所100本の桜を東中南予それぞれ1ヶ所づつ3ヶ所、3年間で約千本の桜を愛媛県に植えようという計画です。

 県下には耕作放棄地が沢山増えており、願わくば希望する人たちに土地を提供してもらい、底に桜を植えようという計画なのです。桜は成長が早く植樹して10年もすれば桜の花見の出来る名所が出来るのです。私たちと共同で植樹や草k理などをしようと思っていますが、計画はまだ緒に着いたばかりなので、これから希望を募る作業をしなければなりません。桜の苗木購入費は私たちのグループが負担する考えで、一本千円程度の3年生若木を千本用意すると百万円の財源が必要となりますが、まあ10人余りの小さなボランティアグループなのでこれが限界と思っています。会員の賛同は得ましたので、いずれその計画を発表したら、このブログを読まれた方々の応援や参加をよろしくお願いいたします。

  「待ち焦がれ 咲いた桜も 早散って こうして一つ また歳とりぬ」

  「今年ほど 長く桜を 見た年は ないと思える ほどに堪能」

  「千本の 桜植えると いう話 仲間賛同 わが意を得たり」

  「色々な 夢をかなえて きた仲間 いよいよ桜 最終章に」

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○言葉を忘れた日本人(旅先にて)

 旅先で今朝ホテルの飛鳥という天然温泉に入りました。「朝寝・朝酒・朝湯が大好きで、それで身しょう潰した」は小原庄助さんの歌の文句ですが、私は朝寝も朝酒もやりません。しかし旅先での朝湯はとても楽しみで、ついつい長湯をしてしまうのです。

 ビジネスホテルといいながら、つい最近のホテルは風呂好きな日本人に対応して、天然温泉共同浴場を別に備え、24時間サービスしているのです。このホテルの温泉も飛鳥の湯と呼ぶにふさわしい肌触りのよい温泉で、肌がすべすべして、多分帰ったときには妻がわが主人を見まがうほどに男前を上げているのではないかと思うのです。

 風呂に入るとたくさんのビジネスマンや観光客が入浴してきます。人懐っこい私は誰かれなく「おはようございます」「どちらから来られましたか?」などと話しかけるのですが、残念ながら眠い目をこすり、迷惑そうな顔をして背を向けるのです。「おはよう」といえば「おはよう」と返ってくる、たとえ見ず知らずでも同じ日本人ですから、言葉くらい掛け合っても罰は当たらないと思うのです。

 昨日レストランに入りました。食事を注文して食事を食べ、支払いをしてそのレストランを出る時、レストランの従業員は教育ができているので皆さん丁寧に「ありがとうございます。またお越しください」と声をかけてくれるのですが、殆どの人は「わしはお客だ」と言わんばかりに無口で去って行くのです。


 飛行機に乗っても同じです。飛行機に乗り込めば優しい笑顔で「いらっしゃいませ」とスチュワーデスが笑顔で挨拶をしてくれます。飛行機を降りるときも「ありがとうございました。またのご搭乗をお待ちしています」と声をかけても殆どの人が無口で飛行機を降りてゆくのです。

 「ありがとうございました。美味しかったよ」と言葉をかけてレストランを出れば、どれほどレストランの従業員は喜ぶことでしょう。またスチュワーデスも喜ぶに違いないのです。

 何気ない「ありがとうございます」の一言はを忘れた日本人に、もう一度感謝の言葉を思い出して欲しいと思った朝でした。


  「何故なのか 言葉忘れた 日本人 余りに多過ぎ 注意もできず」

  「旅先で 声をかけたが 返答も なくて寂しく 温泉浸かる」

  「ありがとう 美味しかったと お礼言う 相手びっくり 嬉笑顔で」

  「旅に出て 朝寝朝酒 ないけれど 朝湯楽しむ 心ポカポカ」

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○奈良駅前の旅先ホテルにて

 旅先奈良の駅前にあるロハスを謳い文句のスーパーホテルに泊まり、旅の疲れで昨晩11時に、テレビを見ながら眠ってしまいました。ふと気がついて目が覚めたのは午前4時でした。これは何も珍しいことではなく、家にいても夜12時に床に就き、朝4時に目が覚める習慣なのです。したがって昨晩は日ごろの暮らしより1時間も余計寝た計算になるのです。それもそのはず昨日は朝4時に起きて身支度を整え、朝5時に家を出て仲間とともにレンタカーに乗ってはるばる奈良県まで旅足を伸ばして多少気疲れしていたからかも知れないのです。


 昨日の夕方妻から旅先に電話がかかってきました。これも旅先にかかるいつもの電話なので、「そちらの天気はどうか?」「何か変わったことはないか?」「親父の具合はどうか?」くらいの短い消息確認なのです。電話をしてきた妻もいつもと同じように「そちらの天気はどう?」「体調はどう?」「いつごろ帰るの?」「お土産は柿の葉寿司と葛餅がいい」などと注文し、最後は「旅ができて羨ましい」で「それじゃあ待ってるから早く帰ってね」で幕を閉じるのです。

 この何気ない会話は、毎日のように全国を講演などで飛び歩く私の体を心配して、退職して6年間変わらぬ定期便のような妻からのメッセージなのです。

 今朝は朝起きてもまだ外が暗いため散歩にも出られないため、エレベーターでロビーまで降りて、パソコンの前に座り、思いつくままにこの部ログを呼び出して、思いつくままに書いているのです。

 横のもう一台のパソコンの前には、中国人と思しき若い女性がすでに陣取り、パソコン画面を見ながら国際電話をかけて画面を操作しています。電話でのしゃべる声は時折笑ったり怒ったりで、少し声が大きくなり、我に返って小さくしたり、中国語なので何の話か分からず、時々諭すように私もわざと咳払いをしたりしています。

 ホテルの朝は早く、既に若い女性たちは荷物をまとめてエレベーターから最終階の4階まで降りてきて、ロビーのある4階から別のエレベーターに乗り換えて出発しているようでした。


 今日はこれから温泉に入り一風呂浴びて身支度を整え、6時半に軽い朝食をして、8時にはホテルを出発して奈良界隈の遷都1300年を迎えている古都を訪ね歩きます。土産話は帰ってから手持ちのデジカメ写真を交えながら紹介したいと思っています。


  「世の中は 随分便利 なりにけり ホテルのロビーで ブログが打てる」

  「旅先に 安否気遣う 妻の声 いつもながらの 優しき心」

  「いつもより 少し余分に 寝て起きる 眠気覚ましに ホテルのお湯で」

  「ロハスゆえ 無駄がないのか カミソリも なくて持参の カミソリ出して」  

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