○オードリー・ヘップパーンの言葉
昨日テレビを見ていたら、「あなたはどんな映画が記憶に残っていますか」と訪ねた質問に、団塊の世代の人たちが文句なしナンバーワンに挙げたのは「ローマの休日」でした。私たちが若い頃は映画全盛時代でしたが、田舎の映画館は時代劇が幅を利かせていましたから、洋画となると松山の洋画専門の映画館へ行かないと見ルことが出来ませんでした。それでも若者たちは休みになると連れ立って映画を見に行ったのですが、血気盛んな私たちはどちらかというとジョン・ウェイン主演のカウボーイやピストルに憧れていました。
でも「ローマの休日」に出演しているへップパーンを見てからは女性観が変わったような気持ちになりました。昨日のテレビでヘップパーンのその後を紹介していましたが、「ローマの休日」で富と名声を得たヘップパーンは、その後福祉の分野で恵まれない人のために生涯を捧げた話は、余り知られていないようです。
彼女の言葉がテレビで足早に紹介されていましたが漫然と見ていて、メモを取る暇もなく終わってしまいました。おおよそのことなので性格には言えませんが「耳は不自由な人の声を聞くためにある。口は人を褒めるためにある。目は見えない人のためにある。両手は手伝うためにある。両手や両足があることを感謝し人のために尽くす人でありたい」みたいなことを言っていました。
栄華を極めた人は得てして弱者のことなど耳も口も目も、ましてや両手両足を貸すなどしないものですが、あの爽やかな笑顔のへップパーンの言葉だけに印象深く聞き入りました。
そういえば今の世の中はへップパーンの言葉とは裏腹な人が余りにも多いように思います。またそんな人が政治家や実業家となって社会をリードしているのですから余計世の中が混沌とするのです。
人のことではありません。私たちの日々の暮しでもそんな状況を作り出し、些細なことが喧嘩になって、取り返しのつかないことになるのです。夫婦を例にとってもあれ程華やかな結婚式を挙げたはずなのに、一年もすれば破局が来るのです。それはヘップパーンが言っている逆の事を相手に求めているからかも知れません。私たち夫婦も若い頃は何度か夫婦喧嘩をしました。仲直りして振り返れば何で?と思うささいなことが喧嘩の原因になっているのです。さすがに今は鍋やお皿が飛ぶような喧嘩をする馬力はありませんが、妻の言葉に耳を傾ける努力をしませんでした。相手を褒めるような言葉も掛けなかったように思います。また妻の粗を探すような目つきで見ていたし、両手両足を貸すような行動は男のプライドが許さないと思っていました。全てが勘違いで、全てが間違いでした。でも今からでも遅くはないと、ヘップパーンの言葉を聞いて自戒の念に駆られたのです。
私たち夫婦にとって老後はもう来ています。お互いがいがみ合って生きたところでろくな生き方はできないのですから、その事を肝に銘じて生きて行きたいと、今日は少し妻を相手に内緒で練習をしてみました。それとはなしに気付いた妻が、「まあ珍しい、雨でも降らなければいいが」でした。私は「・・・・・・・」でした。でも雨が降っても少しだけ心を入れ替えて日々を送ろうと思いました。ふと見た妻の頭はいつの間にか白髪が目立っていました。
「この歳に なってもプライド 持ち上げる 今に俺など 見放されるか」
「ヘップパーン あれ程の人 世のために 尽くし尽くして 光り輝く」
「ちょっとだけ 心変えれば 世の中は 丸く収まる 特に夫婦は」
「求め過ぎ だから世の中 ののしって 最後は破局 与えましょうよ」