shin-1さんの日記

○文章の独り歩き

 「shin-1さんの日記」というタイトル、「人間牧場」というサブタイトルで思いつくままに書き始めて丁度1年が経ちました。振り返ってみるとブログの何か分らぬまま、またブログの影響がどんなものか分らぬまま書いて書いて書きまくった感じがします。でもここに来て浅はかな知恵のそしりを得ても仕方がない重大な指摘を受けました。知人・友人のつもりで書いた実名が個人情報にひかかるばかりでなくその人に不快の念を抱かせたりするからです。リタイアして世を捨て始めた私のブログなんてよっぽど物好きでないと誰も読まないだろうと思って始めたのに、以外や以外沢山の人に読んでもらっていることが分り、ここに来て事の重大さに気付き、方向転換をしなければならなくなりました。このブログを借りてご迷惑を掛けた方々に心からお詫び申しあげたいと思います。「無知によって生ずる不幸は知ることによって避けられる」といいますが、パソコン時代に育っていない私は特にパソコンの持つ奥深い罪の部分を犯罪などの報告では知っていても、いざ自分のことになると余りにも無知過ぎるのです。今後は無知を悔い改め新たな失敗をくり返さないよう努力したいと思っています。

  「読む人が いるから書いて 大失敗 配慮の無さを 悔いる寂しさ」

○ハーモニカで綴る日本の名曲

 昨日新宿西口をブラブラしていて、地下街の一角でCDを売っている店が目に止まりました。立ち止まって色々なディスクの中から「ハーモニカで綴る安らぎの世界」というCDを見つけ、多分海賊版かもしれないと思う安さと、店員の声からしにほだされて、3枚も買ってしまいました。演奏家プロフィールによるとミヤタハーモニカバンドに在籍していたこともある町田明夫さんらしく、4500円の投資をしました。私は残念ながら正確な指導も受けぬまま、また楽譜も読めぬまま車の中で練習し、どうにか体感音楽で何曲かを下手糞ながら吹けるようになりましたが、このCDを講師にして練習をして上達すれば安いものだと思ったのです。早速書斎の娘が嫁ぐときに譲り受けたミニコンポに入れて聴こうとするのですが機械が言うことを聞いてくれず、結局はまだお披露目していないのです。保険所実習から帰った次男に「このコンポ直してくれ」と言ったのですが、「お父さんこのコンポはもう古いので買い換えたら」とあっさり言うのです。「冗談じゃない先日までプロジェクトXno主題曲中島みゆきの「地上の星」をかけた時は聞こえていたのだから、何かの拍子で聞こえないだけなのだ」と反論してみましたが、動かないのですから私の負けなのです。明日は車の中で聴こうと心に決めましたが、何と最早お粗末な話しであります。このCDは宵待ち草、竹田の子守唄などが挿入されている「日本の叙情歌」、夕焼け小焼けや赤い靴が挿入されている「日本の童謡」、荒城の月や浜辺の歌が挿入されている「日本の名曲」の三部作で、いずれも名曲中の名曲で合計42曲が収録されています。

  「ハーモニの 名曲入りし CDを 小遣い集め 買ったけれども」


○私の単車

 来春卒業予定の息子は只今病院実習に明け暮れています。慣れない実習は戸惑うことが多いとかで、かなり神経を使うのか毎日眠たそうな顔をしています。今週の実習場所は車の駐車場が無いため私の50CCのヤマハメイトに乗って25キロもあるのにせっせと通っているのです。今朝はわが家から孫を幼稚園まで連れて行かなければならないため同じ時間帯に出発しました。信号の無い所ではわが愛車がダントツ早いのですが、松前町と松山市に架かる出合い大橋辺りの渋滞地になると、ヤマハメイトは今までの遅れを取り戻して誇らしげに車道横を格好よく走り抜けてゆくのです。孫はそのことが気になるらしく、「おじいちゃん、どうして今車は遅いの」といちいち腹の立つような質問をするのです。それにしても単車は経済的に見ても環境においても安上げりだと思います。500円ものガソリンを入れておくと忘れた頃まで長持ちます。ところがどうでしょう。今朝のラッシュにかかった車の中を何気なく見ても、乗っている人は殆ど一人なのです。先日訪れた韓国では朝のラッシュ時、近郊の高速道路は3人以上乗ると無料で、一人だと通行税がかかるようになっていて驚きました。理にかなった制度だと思いました。

 次男が単車で行き始めると運の悪いことに連日雨模様で、私も8年間7キロ余りの道のりを単車で通った経験がありますが、合羽を着ての単車はやはりしんどいものです。昨日はおまけにパンクまでしたと嘆いていました。

  「晴れた日の 単車快適 雨の日は カッパ濡れ行く さびしかりけり」

 

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shin-1さんの日記

○秋蒔き野菜

 昼間は残暑が30度近くまで上がりかなり暑いものの夏の終わりを告げるように、やけっぱちに鳴いていたセミの声も何時しか遠のき、朝夕は涼しげな虫の声が次第に高まってきました。この頃になると町内のあちらこちらで細い煙が立ち昇ります。秋蒔き野菜の作付け準備のため菜園畑の草を引いて、その草を畑の真ん中で焼却するのです。最近は野焼きは環境汚染につながりCO2が増えるからいけないと、お上からお達しがあるようですが、田舎のことゆえ誰に迷惑がかかる訳でもなくみんな一向に構わないって感じで火をつけて焼くのです。夏草の猛威からこれで少し開放されるのかと思うと、したたる玉のような汗も苦にならず元気が出るのです。

 東京へ上京する前、親父から菜園畑の苗床が出来たから大根とカブの種を蒔いて欲しいと頼まれました。丁度東京行きの準備をしていて在宅時だったので長靴に麦藁帽子、首にはタオルというお百姓さんのスタイルで家の横に隣接する畑に出ました。先日まで夏野菜が植えられていた場所は耕耘機が掛けられてすっかり綺麗な苗床に変身していました。88歳になるというのに老いてなお矍鑠と耕運機まで動かす親父の奮闘ぶりにはただただ感心するばかりです。

 私の家は昔流に田舎流に言えば本家です。親父が3代目、私が4代目ですが、徳川家でも名君は3代目ですから私はさしずめ名君のどら息子といった位置づけでしょうか。わが家には親父の兄弟だけでも12人と、今時の時代では考えられないような若松家の末裔が近所にどっさり住んでいます。したがってその末裔を大切にする義務が親父にも私にもあって、野菜は近所の人が「商売でもするの」というぐらいどっさり作り、出来た野菜はあちらこちらに配るのです。今日も青首大根を2袋とカブを1袋蒔く予定だと言うのです。

 親父は何かにつけて几帳面で、畑に畝を作るのにも種を巻くのにも全て糸で作った定規を使い、丁寧な作業をします。それに比べ私は性格がアバウトなのか子どもの頃からよく親父に叱られてきました。いまも親父と私の関係は一向に変化せず、親父と私の意見の衝突原因はここら辺にあるようです。

 親父は最近目が薄くなり、加えて若い頃の手術で片目の視力を殆ど無くしているため、大根やカブのような種を蒔くことが出来ないのです。アバウトに蒔いても目の不自由な親父には分らないのですが、大根が生えてくると「あんな蒔き方を何故したのか」と厳しくとがめられるので、気の抜けないさぎょうになるのです。今日の作業では大根を12畝、カブを2畝も蒔きました。お陰さまで綺麗な菜園が出来ましたが、鳴れない中腰の仕事なので少々腰が痛くなりました。でも親父は休み休み作業をする私を尻目に休むことも無く一生懸命働くのですから頭が下がる思いです。

 全ての作業が終わると親父は肥料を軽めに振って湿る程度に散水をしました。明くる日から雨が降るという天気予報が当たればいい蒔き時となり、1週間もすれば可愛い貝割れ大根のような芽が生えてくることでしょう。

 大根やカブは来月の秋祭りの頃になると早くも食べれるようになります。これからはキャベツや白菜、ブロッコリーやタマネギとその敵機を選んで植え付け冬から春への準備をするのです。この歳になっても元気な親父が野菜の作付けシグナルを出してくれるのですが、私には自信がありません。

 親父は手入れがよいので野菜がよく出来ます。自家製ですので極力消毒をしないよう注意をしているので、安全な野菜が買うこともなく食卓に上ります。いよいよ気温は上昇から下降へと向かいます。流れる風も南風から東風や西風に混じって北風も吹くことでしょう。大根の美味しい季節はもう目の前です。今年も元気で種を蒔けたことに感謝しながら、種を蒔き終わった畑の隅に竹を差込み、その竹に大根とカブの空袋を差し込みました。

  「大根と カブ種パラリ パラリ蒔く 親父と息子 長閑けき田舎」

  「六十を 越しても未だ 親父指示 自立できない 私恥ずかし」

  「空高く 雑草焼く煙 たなびいて 早くも秋は 始まりにけり」

  「俺んとこ 本家名乗って おすそ分け する分余分に 大根蒔きぬ」

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shin-1さんの日記

○東京とスリランカ

 今回の東京行きは「独立行政法人国際協力機構(JICA)によるTV会議システムを使った「JICA-ネットセミナー」の講師として招かれたものです。JICA本部にある会議室とスリランカの会議室をテレビやパソコンで結ぶという画期的なもので、私をその講師に推薦したのは三菱総合研究所の松永さんでした。

 スリランカにおいて観光振興はスマトラ沖地震の復興事業の中で重要な施策となっており、2006年より国際協力銀行(JBIC)による観光振興を目的とした「観光セクター事業」が開始されています。JICAはボランティア事業を主体に連携を図る予定で、そのボランティアの受け皿かつ持続的な観光振興を行う組織としてスリランカの地方自治体に観光課を設立することが求められています。観光課の設置に向けてスリランカプロジェクト関係者に動機付けを高めるため、遠隔講義を通じて日本の地方自治体の観光事例を紹介しようとするもので、その白羽の矢が私に当たったのです。

 今回のセミナーのテーマは「地方自治体における観光課の役割」と「地方自治体における観光協会の役割」という2本立てです。そのために37枚のスライドを用意しました。しかし私の書いたシナリオを東京へ送り、その添削したものを資料や写真とともにえひめ地域政策研究センターの職員にパソコン処理してもらう作業を行いました。そしてそのソフトを東京で英訳処理してスライドショーが出来るよう教材を作ったのです。

 昨日はJICA本部の研修センター2Fのテレビ会議専用室で入念なチェックが行われ午後1時からスタートしました。前段は観光課の役割について通訳処理した30枚のスライドを基に、総合司会を株パデコの谷口加奈さんと、私の通訳を徳重富士子さんが両横に座ってサポートするのです。

 私は真ん中に座りました。そしてテレビに映し出されるスリランカの参加者に問いかけるような口調で話しかけるのですが、私の話と徳重さんのレクチャーと映し出されたスライドが上手くかみ合わなければ相手に伝わりませんからそれはもう大変な緊張でした。でも慣れてくると次第にアドリブや冗談も混じるようになって手応えは十分感じられました。現地と日本では時差が4時間とか、テレビ会議のため音声と映像に多少の遅れが出て少し変な感じもしました。

 10分間の休憩を挟んだ後段は観光協会の役割について話しました。私は双海町の観光協会の事務局長を20年間もやっているので、観光課と観光協会の住み分けはうまく話せたような気がしました。前段と後段では50分間のレクチャーに続いて質問や意見交換があり、同席した三菱総研の松永さんからいただいた事前資料でスリランカのことについて知ったかぶりで質問を投げかけたりしましたが、反応も上々でいい質問と答えが出て来ました。特に海辺の町ニゴンボの海を守る運動について、テレビに映し出された双海の海が美しいいことに驚いた様子で、どうすれば海を美しく出来るのか関心が集まりました。20年前は私の町でも海に関する意識は低かったが、今で漁協の女性が山に木を植えに行ったりEM菌で海を浄化していると、取り組みを紹介したところ、大変感心していました。またシーギリアロックという山から見る夕日も美しいと聞いていたのでその夕日こそオンリーワンだと気付かぬ地域資源をそれとなく教えました。

 真ん中の画面にスリランカの会場の様子が写ります。左の画面にスライドが写ります。右には真ん中横に置いたカメラで私と谷口さんと徳重さんが発言の度に大写りで写るのです。

 やがて3時間のテレビ会議はまとめとそれぞれの感想を述べて終わりました。スリランカは猫目石の世界一の産地です。最近は内戦も続いているようですが、スリランカは私にとって「遠くて遠い国」から「遠くて近い国」になりました。国づくりは国を愛することから始まります。また観光地づくりはコップの共磨き、国民が内なる資源を磨き、外なる人が外側を磨いて行くことが大切だとエールを送りました。スリランカ、一度は訪ねてみたい国ですね。
  「外国と テレビで結び 会議する 英語も喋れぬ 何と私が」

  「あの私、うんの通訳 息も合い 上手く喋れた 今は安堵に」

  「二ヶ国語 話せる人が 羨まし 俺など日本語 さえもタドタド」

  「俺の顔 俺の町など 輸出する そんな時代に 俺は生きてる」 

 

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shin-1さんの日記

○久しぶりの東京

 約1ヶ月ぶりの東京です。田舎に住んでいると周りが全てにスローなものですから、たまに東京へ行くとその落差に戸惑うこともしばしばです。電車はすし詰めギュウギュウで、まばらにしか人の乗らないわが町を走るローカル各駅停車の列車が懐かしく感じられます。人は小走りに歩き、私のような短足純日本型の両足がいくら足しげく歩いても追いつくことは出来ない速さなのです。群集が街のあちこちに溢れ、第一村人発見なんてもんではなく毎日がお祭りのような賑やかさです。でも何故か電車に乗っても肩と肩がつき合わせても誰も声を掛ける人もいないのです。これが都会なんだと思ってみても、やはり石川啄木ではないが「なまり懐かし停車場の」てな感じでやはり東京に行くと田舎が恋しくなるのです。

 最近私は何故か新宿に縁があってよく歩きます。昨日も目的地が新宿から地下鉄京王線に乗って2つ目の駅であることから、旧友と新宿副都心にある京王ホテルのロビーで待ち合わせすることにしました。このホテルの宿泊者は外国人が多くまるで外国にでも来たような錯覚さえするほどでした。再会を懐かしみ土産を交わして旧友は仕事の都合で去って行きましたが、私はまだ間があるので東京都庁あたりを散策しました。少し残暑を感じるものの戸外のケヤキ並木は吹く風を爽やかで、青い空にどこまでも伸びるビル群を仰ぎ見ながら都会の雑踏の中に身を任せました。

 さすが世界に冠たる東京です。このビルなどアメリカマンハッタンのビルも顔負けで威風堂々と立っています。新宿は街も綺麗で政治や経済の中心地だけある重厚なビルディングが、見上げるとわが身に被さって来るような錯覚を覚えるほどでした。都庁の前では拡声器をいっぱい高くしてまるでがなりたてるように革新政党が小泉政権や石原都政を痛烈に批判し、聞くでもない道行く人に切々と訴えていました。

 面白い光景を目にしたので思わずカメラを向けました。東京都庁の近くにあるモニュメントなのですが、まるで矢印のようで、「これが限界」と思うのか、「もっと高く」と思うのかは人それぞれでしょうが、われながら面白い写真を撮ったものだと大威張りしたいような一枚に偶然写っていました。

 都会は何かと便利で、電車も3分から5分おきに通っているので公共交通機関を使えば何てことはなく目的地まで行けるのですが、地下鉄に下りたり上がったりするので、相当な距離を歩かなければなりません。私は元気だし歩くことはそんなに苦痛ではないのですが、昨日だけでも携帯兼用の万歩計は有に一万歩を越していましたから、都会の人の健脚ぶりがうかがい知れます。田舎の人は玄関から目的地まで車で移動するためかえって田舎の人の方が足腰は弱いのです。

 新宿の高速バスセンター前のヨドバシカメラに立ち寄ってパソコンやデジカメを見て回りました。まだ買うつもりはないのですが、パソコン業界の技術革新は目覚しく、私のパソコンなどここへ来るともう電子ゴミみたいな感じさえするのです。店員さんが近くに寄ってきて、「お客様パソコンをお探しですか」と丁寧に売り場まで案内してくれて説明をしてくれました。私が今欲しいのは携帯用の小型のパソコンです。私は旅に出ることが多いので、旅に出たときはブログも書けないのです。その場合少しイライラが募るため何とかしたいと思うのですが、30万円程度の出費は妻に言うことも出来ず、まだ旅先の船や待合室でパソコンを打ってる人を余り好きではない自分の姿もあるのです。宝くじは買わないから当らないし、昔懸賞論文に入賞してワープロを買ったようなことでもしない限り高嶺の花のようです。まあ欲しいものがあるということはいいことだと、東京へ行く度にパソコン売り場を除いてみたいと思っています。

  「東京が 遠くなったり 近くなり あちらこちらと 歩いて発見」

  「秋篠の 宮妃出産 東京を 去った明くる日 マスコミで知る」

  「欲しいもの いっぱいあって どれにしよ 迷った挙句 何んにも買わず」

  「ふるさとに 帰れば何か もの足らず 長閑に暮れる 秋の夕暮れ」  

 

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shin-1さんの日記

○夕張市の激震

 市町村合併が進んだのは時の流れでしょうが、合併と同時にどの自治体も再編による合併効果が出てもよさそうなものなのに何故か「金がない」という言葉を盛んに発しています。それもそのはず適正規模とはほど遠く、職員の数は元の職員を全員解雇することもなく雇用し1+1=2になってしまったのです。勿論過渡期ですから旧市町村が抱えていた事業も地域への配慮から切り捨てることもなく1+1=2となっており、これでは誰が考えても経費削減どころかばら撒き行政のそしりをぬぐえないのは当たり前の理論なのです。

 北海道のほぼ中央、札幌市から約60キロ離れたところに旧炭産地夕張市があります。良質な石炭に恵まれエネルギー供給基地として戦時中は増産、戦後は日本の高度成長時代を支えてきました。石油の普及と安価な輸入炭に押され90年に炭鉱が閉ざされました。人口はピーク時60年の11万7千人が11パーセントの1万3千人にまで落ち込んでいます。しかし一方で夕張メロンやゆうばり国際ファンタスティック映画祭などで街存在感を示し、まちづくりの成功事例として各方面で紹介されてきました。

 この街を一躍有名にしたのは90年に竹下内閣のふるさと創生一億円を活用して始まった映画祭でした。その年24を数えた夕張のヤマ(炭鉱)の最後の一つが閉山し、街は炭鉱から観光へと方向転換したのです。毎年2月の寒い頃の5日間、一面銀世界ローケーションが集まった人々の心を引き付け「映画のまち夕張」を定着させました。

 その夕張市が財政破綻したのです。普通自治体は県や国の手厚い庇護や指導を受け、毎年中期長期の財政計画を立てながらその見直し作業による自生完全科の道を歩んでいるはずなのですが、今年の6月20日自治体の倒産に当たる財政再建団体への移行を発表したのです。負債総額は聞いて驚く632億円だそうですが、単純計算すると大人も子どもも含めて1万3千人の夕張市民一人当たり4百861千円の負債というから驚きです。なんでこんなになるまで気がつかなかったのか、市長や議会、職員の職務怠慢としか言いようがなく、寝耳に水の市民の驚きと怒りは相当なものだろうと推察するのです。

 映画祭の運営は約1億円の経費がかかりますが、そのうちの7千万円が市の補助金で賄われていたことを考えれば、映画祭の末路は非をみるより明らかです。7月31日開かれた市長が運営委員長を務める運営委員会は僅か20分で中止を決定し終わったのです。「金がなくなったら止める」こんな単純な発想でイベントが消えてゆく姿を、ただ夕張の他岸の火事として見ることは出来ないのです。こんな事例は合併後の街にはニュースになるかならないかでどこにでもあることなのですが、いよいよ「金がなければ知恵を出せ、知恵がなければ汗を出せ、汗も出なけりゃ辞表出せ」になりそうです。

 市内の丘には高倉健さんが主演した「幸福の黄色いハンカチ」のセットがそのまま残って、今も黄色いハンカチがはためいているというテレビの報道が何かむなしく聞こえてきました。

 夕張市の財政破綻のニュースは日本全国に激震となって走りました。この事例が基で、財政再建団体になったら大変と益々財政の締め付けは強くなって、映画祭のような個性あるものが姿を消そうとしているのです。一方で は地域の個性をといいながら一方では地域の個性が消えてゆく、寂しい限りです。

 今年も北海道の知人から夕張メロンが届きました。半分に切ると夕張メロン独特のオレンジ色の果肉と香りがプーンと漂い、何ともいえない幸せ間に浸りながら北の台地にある夕張を思い出しました。債権団体になったからといって夕張メロンの味が変わるわけではありませんが、一日も早い財政の健全化を祈っています。

  「自治体の 財政破綻 結局は 市民にしわ寄せ 誰の責任」

  「送られし メロン食べつつ 夕張の ヤマが消えた日 思い出しては」 

  「夕張に 黄色いハンカチ はためいて そんな日の来る ことを願いつ」

  「さて俺に 宝くじなど 当たったら 映画祭費に 寄付をするのに」

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shin-1さんの日記

○スローフードという言葉とジャコ天

 昨日の愛媛新聞の一面「道標」という企画記事に「スローフード」という言葉の意味を食のジャーナリスト大本幸子さんが詳しく書いていました。

 「あなたが食いしん坊でなくっても、「スローフード」という言葉を、一度や二度は耳にしたことがおありでしょう。さてクイズです。スローフードって何?。①ゆっくり食べること。②月日や時間をかけてつくる料理や食品のこと。③郷土料理のこと。④ゆったりとした気分になれる料理のこと。答え。どれも不正解。実際のところ、日本では右のいずれかをスローフードと称する場合もありますが、スローフードってそもそもはファーストフードの脅威を覚えたイタリア人たちが考え出した伝統食回帰運動のことなんですよ。時は1986年、マクドナルドがローマのスペイン広場へ出店したしたことから、あの時代、ハンバーガーとコーラ文化が世界中の若者を魅了していたことはご存知の通り。90年にはモスクワ出店で話題を呼びましたよね。  ー中略ー  しかし、これではいかんだろう、うちの土地の生産物はどうなる、と危惧した北イタリア、ブラの町の人たちが、ファーストフード侵攻に伝統食を消されてよいのかと声を上げたところ、国内外から賛同者が続出し、世界的なスローフード運動となったわけです。

 この運動が世界に共感を得たのは、単にファーストフードは悪いと言い立てるのではなく、前向きに理念を定めたことでしょう。すなわち①現状のまま放置しておくと消滅する恐れのある伝統的な食材、料理、質のよい食品、酒を守る。②現状のまま放置しておくと消滅する怖れのある質の良い食材(農産物、酪農製品など)を、複数人で育て提供する生産者を守る。③消費者に伝統の味の教育を進める。概要としては以上。関係者でなくても、それは」大切だと思いますよね。この運動は、島村菜津さんの著書『スローフードな人生』(新潮社)などによって日本にも知られるようになりました。

 でもわれわれ日本人は横文字に弱くて、おまけにスローって言葉がとても情緒的なものだから、本来の意味を知る前に、心の琴線が震えてしまったのですね。スローって何だか素敵。間をおかず、スローライフという言葉が出現し、後は続々、スローな郷土料理、スローな酒、スローなインテリアなどなど、スローがつけば何でも売れる様相。『スローフードな旅』とは、脱都会美食会一泊旅のことでした。でもいいんです。そんなの宣伝文句なんですから。そういう表現があっても。でも、本来の意味をちゃんととらえないで、情緒だけを独り歩きさせてしまって、本家本元に仰天されるようなことになると、ちょっと困っちゃいますよ。  

   -後略ー

 同感した記事でしたが、私の町ではこのスローフードとファーストフードを組み合わせて成功した食べ物があります。それはじゃこ天です。じゃこ天は愛媛の伝統料理です。昔はまな板の上で小魚を叩き、それをカガスに入れてつなぎとすり合わせてつみれを作り油で揚げたシンプルなものです。これは多分スローフードと呼ぶに相応しい食べ物です。このじゃこ天に串を刺して歩きながら食べるというファーストフード感覚を取り入れたところ、ふたみシーサイド公園の名物食べ物になって、今や行列の出来る店となって年間5500万円を売り上げるようになったのです。スローフードに名を借りた商売やファーストフードを悪いと決め付けるのではなく、どういう折り合いをつけて現代風にアレンジするかは知恵の出しどころだと思うのです。だっていくらスローフードがよいからといっても、消費者に敬遠されるような食べ方や売り方では商売が立ち行かないのではもともこもないのですから・・・・・。

 若者の暮しと私たち古い時代の人間の暮しには大きな開きがあります。私たちはものを歩きながら食べたらお行儀が悪いと厳しく躾されました。しかし今の若者は歩きながら食べるのがファッションだし食文化なのです。歩きながら食べることは今でもいいとは思いませんが、そのことだけを大上段に振りかざしたところで、「あんたは古い」と言われるのが落ちなのです。

 世の中には流行があります。でも大本さんのいうように、スロ-フードを履き違えないようにだけはしないといけませんね。

  「串刺しの じゃこ天片手 ビールぐい 格好いいねと 言わんばじかりに」

  「スローフード ほんとの意味を 知ってるの 言いたくなるよな フレーズ乱れ」

  「イタリアに 意味の語源は あるという 知ってか知らず 誰でも口に」

  「新聞を 読んで知らない 知恵学ぶ 俺また一つ 利口なったり」

 

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shin-1さんの日記

○孫の一日

 母親の仕事の都合で最近は頻繁にわが家へやって来る孫朋樹の成長は著しく、一週間会わないとヘーと驚くほど成長しています。特に言葉遣いは幼稚園で覚えるのでしょうが、変な言葉を連発します。「言うーちゃろ言うちゃあろ、先ーん生に言うちゃあろ」なんて言葉を奇妙な節をつけて連発するのです。また妻のことを普通は「ばあちゃん」と言うのに、時たま「ババー」なんて呼び方をするものですから、妻の叱責をかっていることもあるのです。

 今日は娘が夜勤の日なので久しぶりに昼寝をさせました。2時間くらい寝たでしょうか。そのうち目を覚ましたので「朋樹君よく寝たね」と優しい声を掛ければ「まだ眠てない」と言うし、「何故、どうして」などは日常茶飯時なのです。一緒に風呂へ入ろうものなら「おばあちゃんには何でおちんちんがないの」なんて、とても3歳の子どもとは思えない究極の質問にタジタジの時だってあるのです。ああこれが幼児の反抗期なのかと思って納得したりもするのですが、「何故、どうして」には「そんなもの理由があるか」と答えに困り、心頭に達するものまであります。

 このところ孫は私の単車がお気に入りで、時速10キロの速さで安全に気をつけながら上灘川沿いの道をヤマハメイトに乗せて走ります。一番遠出のお気に入りは1キロ圏内にあるシーサイド公園の鯉意池と潮風ふれあい公園の消防自動車なのですが、今はエンジンキーを差し込んだり、曲がる方の方向指示器をセットしたりリセットしたりと中々知恵がついてきました。

 世代を超えた新しい仲間もどんどん増えて、この夏休みに私の金魚の糞をしているので多くの人に声を掛けてもらえるようになりました。鯉の餌を用意して朝待っていてくれるシーサイドふたみの池田所長さんは、「所長さん」と呼んで大のお気に入りです。漁協女性部じゃこ天のお店の方もみんな「朋樹君、朋樹君」と可愛がってくれて、時にはじゃこ天やタコ焼きなどを忙しい手を休めて対応してくれるものですから悦に入っているようです。

 この日もじゃこ天のおばちゃんたちにタマネギ入りのじゃこ天をご馳走になりお土産までいただきました。「僕は熱いものは嫌い」といいながらじゃこ天を美味しそうに食べ、帰ると「ばあちゃんシーサイド公園でタマネギを食べた」と話すのです。

 一昨日は次男と娘が朋樹君を連れて夕焼けコンサートに参加していました。昨年は妻と二人の参加でしたが、音楽は興味があるのかないのかまだ分りませんが、寝起きの眠気眼で人ごみの多さに驚いた様子でじっと聞き入っていました。夕日夕焼けに照らされた下灘駅のプラットホームで「はいポーズ」、美しい夕日をバックに「はいポーズ」と写真に納まりました。

 夕焼けコンサートは私と別々に訪れていたのでコンサートが終わるや否やで孫たちは私に抽選券を預けて帰りましたが、この抽選券の番号で「夕日日コーヒー」が当たってしまいました。

 昨晩は母親の夜勤で私たち夫婦が孫の守りです。風呂は「男どおし」といって私と入ります。寝る時は本を読んでくれる妻と寝ます。昨晩は昼寝の後遺症でしょうか普段は9時に眠りにつくのに10時近くまで布団の中で起きていました。昼は勿論、夜もパンパースが取れてすっかり「お兄ちゃん」の風格です。残念ながら一人っ子なので正式にはお兄ちゃんにはなっていませんが、口癖のように「僕はお兄ちゃん」といいながら自立して自分で靴も履けるしパジャマのボタンも自分で掛けれるようになりました。親馬鹿ならぬじいちゃん馬鹿に徹して孫の成長に目を細める私なのでした。

 私のパソコンに朋樹君のアルバムが入っていてその数はもう300枚にもなりました。孫はそのことを知っていて、来る度にダウンロードして見せてくれとせがみます。昨日は「朋樹君の夏」と書いて写真3枚を入れたA4版一枚をプリントアウトして渡したら大喜びで「お父さんに見せる」とはしゃいでいました。今朝は私がプラッツに乗せて幼稚園まで送ります。リクエストに応えカーナビに松山空港のランドマークを表示して向かいます。

  「孫一人 度々来ると うるさいが 来ないと心配 電話声聞く」

  「この夏は 二人で行動 多くなり 行く先々で 声を掛けられ」

  「孫相手 少し年齢 若くなり 幼児語使い 屈みもの言う」

  「成長の 孫に比べて この私 退潮気味で その差縮まる」

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shin-1さんの日記

○21回目の夕焼けプラットホームコンサート

 あれは確か21年前の6月30日の出来事でした。前日までどしゃ降りだった雨が止んで、その日は絶好の夕日が西瀬戸の水平線にジューンと音を立てるように沈んだのです。夕日の美しさを訴えても誰も耳を貸さず、夕焼けコンサートをやろうと相談しても「夕日は沈む、そんなもんでまちづくりはできない」と100人のうち99人が反対しました。「そんなにやりたいのならやってみたら」と少しだけ後押しをしてくれたのは妻だけでした。その言葉に押されて無謀ともいえる挑戦が始まり夕焼けコンサートはスタートしました。町名変更騒動の責任をとる形で左遷され(本人は左遷とは思わなかったが)失うものは何にもない時でしたから、かえって意志が強く正面突破やゲリラ戦を繰り返しながら当日を迎えましたが、大方の予想を覆して駅のプラットホームを舞台にするという奇抜なアイディアが受けたのか1000人もの人が集まり、駅は開業以来人で埋まったのです。野外イベントは天気次第ですが梅雨の真っ最中にも関わらず好天に恵まれた運の強さも味方しました。

 あれから21年が経った昨日9月2日(土)、21回目のコンサートが、21年前と同じシチュエーションで繰り広げられました。私はこのコンサート見学のためわざわざ福井県から来られた方々に夕日のミュージアムでまちづくりの話をしてから6時頃コンサート会場へ到着しました。あれ程残暑の厳しかった太陽も6時には随分水平線近くまで降りてきて、絶好の天気に夕日夕焼けを誰もが期待しながらコンサートを聴きました。

 客の入りは例年通りといったところでしょうか。今年も常連さんがかなりやって来て懐かしいあいさつを交わしました。コバの小林真三さんが司会を務め、メインゲストの高橋研さんや加藤いづみさんもすっかりお馴染みでいい盛り上がりを見せていました。しかし何といっても天気がよいことが一番で、この日は今までにないような美しい夕日が見えました。JR四国も夕焼けとロッコ列車を運行してくれ、列車が構内に入るときは思わず大きな拍手が起こったほどでした。

 21回も続いたのは、地元の青年たちが運営委員会を作りしっかりと支えていること。観光協会が町の助成を得て財政的に支援するしくみが出来ていること。行政が事務局となってリードしていること。小林真三さんが音楽プロデュースしていること。夕日を主役にした基本コンセプトがしっかりしていること。JRが全面的にバックアップしていることなどが挙げられますが、20回目の区切りまで深く関わった私としては、今年から予選を兼ねた夕焼け音楽祭が予算の工面がつかず中止になったことが惜しまれます。でも細々ながらでもこうして21回目が開けたことの方が嬉しいのです。

 市長さんや議員さんも数多く見えられていましたが、せめて夕日の町を標榜するのであれば、財政難とは言いながら一枚の名刺代わりとして来年以降も続けて欲しいと願っています。今年のコンサートも色々な出会いがありました。しかし毎年来てくれている人が、「随分顔見知りもいなくなって寂しい限りです」とポツリ漏らすように、お客さんの顔ぶれも随分変わりました。嬉しいいことに水産高校の同級生が顔を覗かせてくれました。定年後も同じ職場で働いているとか。コンサートで歌と夕日を見聞きしながらしみじみ人生について考えたそうです。

  「ああ20年前の私は若かった」コンサートの会場で一人しみじみ夕日に向かって独り言を言いつつ、茜色に染まった人間牧場を下灘駅のプラットホームから感慨深げに眺めていました。

  「二十年 よくも続いた しみじみと 見上げた空に 同じ月が」

  「はじめ年 生まれた子供 早二十歳 俺が老けるの 当たり前だろ」

  「観客の 入りをサポート 赤トンボ 数の上では 人+トンボ」

  「一級の 夕日しずんで コンサート 天気気にせず 唄に没頭」


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shin-1さんの日記

○生協の常勤役員さんが人間牧場訪問

 えひめ生協の大川理事長さんに会ったのはもう20年も前のことです。地域づくりの出発となった雪の集会が道後文京会館で行われた時、当時生協の理事長さんだった立川百恵さんとご一緒でした。以来何度か思わぬ所でばったり出会ったりでしたが、今年の研修会に講師として招かれてから再び急接近し、非常勤理事まで引き受ける羽目になってしまいました。以来担当の尾崎さんを介して理事会や研修会で出会い、今回も尾崎さんから常勤役員で人間牧場への打診があり、快く引き受けました。ところが運の悪いことにこの日は朝からぐずついた天気で、午後2時の待ち合わせ場所である下灘コミセン前広場に到着した頃はかなりの雨足で、よほど運の悪いグループだと思いつつ理事長さんと松本専務さんを私の車に乗せ、出発しました。多分後続の2台に乗った方たちからは「どこへ連れて行かれるのだろう」と心配話に花が咲いたことでしょう。曲がりくねった道、細い道の連続を過ぎて到着したら、外はまた濡れるほどの雨で、ウッドデッキにも出れず、魚梁瀬杉のテーブルの回りに陣取って、私の話を熱心に聞いてくれました。

 私の話は、ひごろ話さないまちづくりの裏話や失敗談に終始し、約1時間30分も喋り続けました。人間牧場の構想から建築に至るまでのエピソードとこれからの計画について。自分の発想の原点は一体どこにあるのか。これまでの長いまちづくりの実践で失敗した出来事から何を学んだか。町の広報240号の発行プロセスで書くことを覚えたこと。結婚式の司会537組の実践で学んだプロデュース能力。第14回NHK青年の主張による自信が喋れる男に成長させたこと。毎朝早朝5時からのシーサイド公園砂浜を12年間掃除したことが認められて観光カリスマに選ばれたこと。100人全てが賛成することはやっても意味がないこと。トラブルは逃げると追いかけてくることやトラブル解決能力。人生の生活設計。失敗から学ぶ成功術などなど、思いつくままに話しました。8人の参加者は席を立つこともなく身を乗り出すような迫力でじっと聞き入っていました。役に立ったかどうかは疑問ですが、早速松本専務さんからお礼と感想のメールが届いていました。早くて嬉しい反応です。

 生協の組合員さんの多くは生き方に芯がある人が多いようです。ですからしっかりと自分の主張が出来ます。これを反対意見ととらえ煩わしいととるか、その意見に耳を傾け真摯に対応するかは執行部の姿勢一つで決まります。そして正しい対応が出来たとき組合は信頼され充実と成長をしてゆくのです。

 この日の天気のように今の日本は景気が上向いたといいながら何か不安の火種がくすぶってるような気がします。しかしこの天気もいつかは晴れて穏やかな日々が戻ってきます。ですから「天に向かってブツブツ言うな、雨の日には雨の日の仕事がある」と考えて今日一日を一生懸命やることなのです。

 この日人間牧場水平線の家へやって来た理事長以下の常勤役員は若くて優秀なスタッフとお見受けしました。組合員のためにいい仕事をして下さい。くれぐれも目線は組合員の健康と幸せなのです。

  「雨が降る 自慢の夕日 見えずとも 心に太陽 唇に唄を」

  「細い道 何度か通れば 広くなる 行きと帰りは 同じ道幅」

  「理事長も 粋な計らい するものよ 寸暇惜しんで 心耕す」

  「霧晴れて 一瞬港 見え隠れ チャンス逃せば 次は見えぬぞ」 

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shin^1さんの日記

○隠れた歴史を学ぶ

 私たちの身の回りにはスポットも当たらず苔むして忘れ去られようとしている隠れた歴史がいっぱいあります。例えば道端に建っている記念碑などはその典型で、日ごろ何気なく傍を通ってその存在は知っているものの、「誰が何のために建てたのか」までは知らないし、それを知ろうと思っても「誰に聞けばよいのか」や「どんな文献に紹介されているのか」さえも知らないのです。そんな単純な疑問質問に答えてくれるのが郷土史や地元の歴史家なのです。双海町という町が昭和30年に誕生しておおよそ50年が経ちましたが、双海町と名の付く郷土史は明治100年を記念して編纂された昭和45年に発刊された「双海町誌」と合併前の平成17年に発刊された「改定双海町誌」があります。双海町が誕生する前に手書きの「下灘村誌」「上灘町誌」が3冊発刊されていますので都合5冊しか双海町に関する専門歴史書はないのです。しか手書きの3冊は役場に保管されていて研究のためでないと借り受けることも出来ない訳ですから2冊の「双海町誌」に頼るしかないのです。私は幸いなことにこの2冊の編纂に関わりました。昭和45年当時は歳も若く補助的な存在でしたが、昨年発刊されたものは教育長という職責から編纂委員長として深く関わりました。私は基本的に歴史は大好きです。しかし他の編纂委員を務められた方々のような深い洞察や知識もないのですから、ただ好きというだけの素人なのです。

 先日史談会の現地学習会に参加しました。玉井琢磨という人を顕彰するため建立している記念碑を解読するためです。臨済宗東福寺派の禅寺慶徳寺に集まって玉井琢磨の位牌にお経を唱えた後、早速お寺の和尚さんの話や中島史談会長、磯田副会長、西岡さんの話を中心に興味ある話を随分聞きました。このお寺には中世以来の城主の位牌があったり、歴代の庄屋の位牌が祀られており、その一つ一つも解読して説明を受けました。

 早速雨のあがった現地に赴き、五輪の塔や庄屋のお墓、玉井琢磨の顕彰碑を見せてもらいました。歴代庄屋の中には碁が好きな人がいて、お墓の蓮華が碁盤になっている珍しいお墓もあって、現地研修でしか味わえない学びがありました。

 この日の現地研修の主目的は玉井琢磨の顕彰碑の文字の解読ですが、さすがに長年の風雪に耐えた石物は風雨に晒され苔むして判読が難しく、事前に磯田先生が判読して分らない部分を懐中電灯を当てたり地元の古老を知ってる西岡さんや中島会長さん、山口住職さんの助言を聞きながら皆で文字をなぞりながら調べて行きました。その結果玉井琢磨の顕彰碑を建てるのに関わったであろう殆どの人名が判読でしました。過去にタイムスリップしながら、一人の人間の生き方を焦点化して学び、それを記録に残したり間違いを正す作業は容易なことではありません。ましてや古文書を解読するには文字から始めなければなりません。パソコン文字にすっかりならされている私たちには、手こずる相手なのです。

 夕闇迫る頃、一通りの作業を追え解散となりましたが、二月に一度の学習会はやっと始まったばかりですが、これからの学習が楽しみで、出来るだけ日程を割いて参加したいと思っています。メンバーは少し年齢が高いものの益々元気な方ばかり、この会では中尾先生に続いて私は若い方のようです。若いということは歴史の重みが軽いということです。学び過ぎることはありません。しっかり人間の生き様を学びたいものです。

  「編纂が 縁で始める 歴史学 薀蓄揃いて 俺は新参」

  「苔むした 石に刻みし 名をなぞり 生き様さぐる これも楽しき」

  「分らぬが 分った時の 嬉しさは まるで子どもの 時のようです」

  「過去の人 偉い徳積み 石刻み 名前残せし 次の世代が」

 



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