shin-1さんの日記

○どこの夕日も美しい

 昨日広島県福山市沼隈町に出かけてその日のパンフレットを見て驚きました。私の紹介は私のホームページから取った私の顔写真と双海町の夕日、裏と表には沼隈町の夕日の写真が載っているのです。館長さんが「別に若松さん所の夕日に対向して載せたわけではないのですが、結果的に夕日の写真になってしまいました」と恐縮していました。でも私は「どうだ、沼隈町の夕日も綺麗でしょう」という主張が伝わってきてとても嬉しく思いました。

 私は日本全国へ出かける機会がありその度に、特に海沿いに面した町を訪ねると決まったように「おらの街の夕日も若松さん方の夕日より綺麗だ」と自慢するのです。すかさず私は「それがどしたん」と喧嘩を吹っかけるようにしています。それは私の町の夕日の方が綺麗と自慢しているのではなく、夕日が綺麗だけならどこでも綺麗のですが、それをどう地域資源として活用し、どう自分たちの自慢に結び付けているかが大切なのです。

 昨年だったと思いますが私が埼玉へ講演に行った帰り道、国電に乗って夕闇迫る赤羽辺りに差し掛かった頃、美しい夕日が富士山の傍に感動的に沈むのを見ました。私は窓越しにその姿を眺めながら辺りを見渡したのですが、残念ながら国電に乗っている乗客は誰もその夕日を見ようとはせず、ただし下を向いてメールに夢中になったり本を読んだり眠りこけているだけでした。私は思わず電車が止まったのでプラットホームへ降りてその感動的なシーンに酔いしれました。直情的な私の行動は結果的に荷物だけが先に国電に乗って東京駅まで着くというハプニングを引き起こしましたが、美しい夕日を見て感動しない人も都会にはいるのです。

 昨日沼隈町からの帰り、今治北インターを降りて海岸周りの国道196号を帰りました。ここのところの忙しさもあって少々疲れを覚え、心はわが家に早く帰りたいという一心でした。北条辺りに帰った頃、西の空に綺麗な夕日が沈むのが見えました。車を止めてと思ったのですが、適当なPもなくついつい悪いと思いつつ運転席側の窓を開けデジカメをパチリとやってしまいました。そんな危ないことをと叱られそうで告白をためらいましたが、丁度運良く車が渋滞でノロノロだった時を見計らって撮ったものですからご容赦ください。

 この夕日を見ながらふと日本一を自認するわが町双海町の夕日の存在を思い出しました。多分この頃はもっと夕日が美しいシーサイド公園のベンチに若いカップルが沢山座って、恋を語っていることだろうと・・・・・。そしてこの風景を心だけでなくカメラに収めようとポイントを選んでシャッターを切っていることだろうと・・・・・・。

 先日私の元に一通の手紙が届きました。「久しぶりにシーサイド公園へ行ったけど、あなたの関わらなくなった公園は何か気が抜けて、夕日さえもかすんで見えました」と書いているのです。夕日への思いを前面に出して戦ってきた私への最大の美辞麗句だと思い感謝しつつも、私は彼女に返事を書きました。「確かに今のシーサイド公園は誰がどんな想いで夕日を物語りに仕組んでいるのかよく分らないし、合併という区切りによってもう過去のようなまちづくりの仕事は、伊予市という中心地への横並びで全てが平準化されようとしていることも事実です。でもいつか心ある人が斜陽化や不活気を復元してくれるでしょう。私のような夕日に狂った専門馬鹿のような人間は時代が古いと思うのです。夕日は今も昔のままで色あせないし科学的には何の変化もありません。私たちは本当の夕日の美しさや夕日への想いをこれからも思い続けてゆきたいものです」と書きました。でも人の数が少なかったり売り上げが落ちると社会のせいや人のせいにしてやり過ごすような風潮は少々気になります。

 秋風が吹き始めました。シーサイド公園の上空にはカラフルなパラグライダーが飛び交い、いよいよパラグライダーのシーズンです。パラグライダーを飛ばせたいとはるばる香川県や高知県へ何時間もかけて見に行って実現した夢追いし若いあの頃が懐かしく思い出されます。

  「夕日見て あれやこれやを 思い出す 歳経た証拠と 心苦笑す」

  「もし今度 生まれ変われる ことあらば 夕日の前で 愛を告白」

  「この夕日 自分のものと 勘違い あのまちこのまち 夕日はしずむ」

  「今頃は 俺町夕日 沈んでる 訳の分らぬ 心騒ぎて」

 


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shin-1さんの日記

○秋晴れのしまなみ海道

 多島美を誇る瀬戸内海にあって芸予の島々を縫うように走るしまなみ海道は、花咲く春もさることながら初秋のこの頃も捨てがたい味があります。空はどこまでも青く澄み、近望遠望全てが一幅の絵になる風景です。平山郁夫画伯が好んで書いた絵の数々を思い出しながら旅をするのもこれまた楽しいものです。

 特にしまなみ海道は10もの橋が架かり、橋の幾何学的な姿が島々にマッチして何ともいえない風景を醸しています。その橋を思い思いの服装で歩く姿はこれまたスピードとスローが同居していて面白い光景なのです。

 昨日は昨年の2月に福山市と合併した福山市沼隈町へお邪魔しました。少し時間早く出てついでに鞆ノ浦と内海まで足を伸ばしました。鞆ノ浦は坂本龍馬が乗った大洲藩船いろは丸が沈んだ場所としても有名で、朝鮮通信史や鯛網など見所いっぱいの場所ですが、残念ながら時間もなく素通りのような立ち寄りでした。

 まるで路地裏のような鞆ノ浦の狭い町並みはまるで時代をタイムスリップしたような古さが残り、街中で日向ぼっこを楽しむ老人の多くさえまるで置物にも思える雰囲気でした。

 港からは古い形の観光船も出ていて、カメラを提げた多くの観光客が町中を闊歩していましたが、車を止める場所もないほどの狭い港町で一際目立ったのは聳える石垣と禅寺でした。

 その昔は瀬戸内海を一望できる場所だったので朝鮮通信史がその景色は東洋一だと褒めた逸話も分るような気がしました。今は随分遠望も変わっていましたが、それでも仰ぎ見る禅寺の造りの凄さに往時を見る思いがしました。

 時間もない急ぎの旅なので後ろ髪を惹かれる思いともう一度の思いを持ちながら来た道を引き返し、うちうみ大橋を渡りました。

 アーチ型の2連橋は離島振興の目的で架けられた橋ですが、橋そのものが曲橋上でカーブしている珍しい橋なのです。内海という名前の由来で愛媛県の内海村と交流をしていたと聞いていたのでついでの立ち寄りとなりました。その愛媛県内海村は愛南町に、広島県内海町は福山市内海町にそれぞれ合併して改名し内海という自治体は存在しませんが、橋はそんな悲喜こもごもを物語っているようでした。周辺では家族連れの釣り客が思い思いに沢山竿を出し、長閑な秋の一日を楽しんでいました。釣果を聞いたり世間話をしたりしながら私も2キロほど日陰を選んで歩いてみましたが、瀬戸内の空気はとても美味しく感じるほど爽やかでした。

 道端で珍しい花を見つけました。ひまわりと白い彼岸花です。

 夏の終わりを告げるように咲くひまわりの花は何と可憐なのでしょう。人に見られることもなく健気に咲く花は美しいものです。

 周囲を見渡してもどこにも見当たらないのにこの一株は珍しくも白色、いやよく見ると白というよりはクリーム色に近い彼岸花です。釣り客の視線は全て海面、でも私の視線は山際の空き地に咲く花でした。

 2時からの会議は千年公民館、これでちとせ公民館と読むだそうですが名前がいいですね。千年です。気に入りました。この公民館へは8年前にお邪魔していて、今回は広島自治研修所で私の話を聞いた串間さんの紹介で実現しました。当時の館長さんや職員の方も私のことや木になるカバンのことを覚えてくれていて、いきなり「若松さん少し痩せましたね」と言われました。「はいやつれました」と返しましたが、よくぞ覚えてくれていましたと握手を交わしました。

 私の話が始まる前は空いた席もあったのですが講演が佳境に入る頃は満席となって、少し時間を超過して話してしまいましたが、みんな満足の手合いで終わることが出来ました。

  「しまなみの 橋を渡って 沼隈へ 八年ぶりの 再会喜ぶ」

  「今日の客 笑い上手で こちらまで 思わず熱を 熱くしました」

  「道端に ひっそり咲きし 野の花に 見とれる余裕 今は嬉しき」

  「風誘う 瀬戸内見える 島々に 野焼きの煙り 高くたなびき」 


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shin-1さんの日記

○珍しい施餓鬼行事・権谷地区(20-15)

 私は請われるままに長年のまちづくり活動で培った論理を日本全国あちらこちらにお話していますが、地域を活性化する手段として、例えば車で行けば行った先々の土地でガソリンを入れるとか、珍しい物を買い求めるとか少しでもその地域に経済的効果が出るよう心がけています。それは私の論理的ささやかな地域貢献なのだと思うのです。またその地域の民宿に逗留するとその民宿を仲間や他の地域の人に紹介するようにしているのです。

 その実践手段として一昨日はわが妻が友人2人を誘い3人で、旧西土佐村の西ヶ方にある井上茂子さん夫婦か経営する民宿金毘羅に泊まりに行ってくれました。かねてから四万十川を見たいと願っていた妻の友人ははるばる丹波笹山からのお越しですし、もう一人は八幡浜からの参加です。腕に自信もないのに妻は自ら運転して高知幡多の旅を計画したのです。妻の計画によると大洲駅で待ち合わせて国道197号線を走り松野を経由して県境近くにある民宿へ一泊し、四万十を散策して足摺岬を見学するという壮大な旅です。私はその日に西土佐で講演が入っているので、妻たちご一行が到着したのを見計らって民宿に立ち寄り、お茶をいただきながらしばらくの間談笑しました。

 妻はじめ3人は久しぶりの出会いにすっかりリラックスし御殿のような民宿に驚いた様子でした。私は民宿舟母という馴染みの場所もあるのですが、そこは西土佐の仲間が集う私のとっておきの隠れ家的場所なので、今回は道の不案内な妻のために県境から直ぐという便利さから井上さん宅を選びました。さてこの宿のもてなしに3人は堪能したでしょうか。3人とも魚所八幡浜の出身だけに川魚料理が口にあったかどうかは分りませんが、昨日長旅から帰った妻に話を聞くと3人とも満足した様子でホッとしました。

 さて私は、妻たちと別れた後四万十市西土佐支所で合流して丘の上にある四万十川が一望できる星羅四万十でスタッフと夕食をしました。土居支配人さんともすっかり顔なじみとなって、レストランの雰囲気は早くも秋のメニューでした。美味しい食事をした後玄関に出てみると賑やかな虫の声が秋の夜長を演出していました。私がデジカメを取り出し写そうとすると、「えっ、虫の声を写真に撮る?」とスタッフは不思議そうに見ていましたが、はい、私はちゃんと虫の声を写真に収めたのです。

 これが私が撮影した虫の声です。ほんのりと光るぼんぼり外灯が草むらを照らしています。えっ「聞こえないって?」、聞こえない人はまだ修行が足りないのです。僅か15回目の今回の西土佐の旅で私は様々な西土佐の魅力を発見しましたが、「秋の虫の声を聞く夕べ」なんてイベントを催したらそんなにお金もかけずに田舎の良さを満喫してもらうこと請け合いです。星羅四万十の従業員にも西土佐のスタッフにもこの写真を見て気付いて欲しいと思いました。

 さて今回は権谷という何ともいかめしい地区です。かっては往還道の宿場として栄えたというこの地区は、道端のあちこちに今は盛りと咲く真赤な彼岸花が公用車のヘッドライトに照らされ印象的な夜道をひた走りに走った奥まった地域でした。イノシシと鹿でも出そうな草深い地域ですが、集会所の中に入って周囲に飾られている施餓鬼の写真を見て驚きました。地元の人の話によると新盆を迎えた人の霊を慰めるためにこうした行事はするようですが、一人の人が亡くなると山から肥松を取ってきて一人108もの松明を作るのだそうです。そして川の中にその松明を燃やし大きな太鼓を担いで川をぞぶるのだそうです。

 施餓鬼の行事は日本全国各地で行われていますが、これ程凄いと思った施餓鬼は余り聞いたことがなく、一度その姿を見たいものだと思いました。日本の各地にはまだまだ素晴らしい伝統行事があるのです。これこそこの地域のオンリーワンなのでしょう。

 《施餓鬼とは飢餓に苦しんで災いをなす鬼衆無縁の亡者の霊に飲食を施す法会です。所によっては河川や海で施餓鬼船と称              する藁船を作り食物を積んで流す風習がるようです。》


 

 机を出してお行儀よく座ってお勉強といった感じの熱心にメモを取る学集会でしたのでこちらも熱心に熱を込めてお話をしました。嬉しいことにもう一度私の話をと地区外から来てくれた人もいてほのぼの集会でした。集会が終わって私の車は妻に取られましたので息子のBBに乗って、民宿金毘羅の下の道を妻たちに思いを寄せながら通り過ぎました。

  「世の中は 知ってるようで 知らないね 権谷施餓鬼 これは凄いぞ」

  「暗闇に ヘッドライトが 照らし出す 幻想彼岸の 花群れ咲いて」

  「虫の声 これは立派な 資源かも 気付く人なく 秋は深まる」

  「この道は いつか来た道 錯覚す そんな夜道を 権谷目指し」


  

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