shin-1さんの日記

○孫の一日

 母親の仕事の都合で最近は頻繁にわが家へやって来る孫朋樹の成長は著しく、一週間会わないとヘーと驚くほど成長しています。特に言葉遣いは幼稚園で覚えるのでしょうが、変な言葉を連発します。「言うーちゃろ言うちゃあろ、先ーん生に言うちゃあろ」なんて言葉を奇妙な節をつけて連発するのです。また妻のことを普通は「ばあちゃん」と言うのに、時たま「ババー」なんて呼び方をするものですから、妻の叱責をかっていることもあるのです。

 今日は娘が夜勤の日なので久しぶりに昼寝をさせました。2時間くらい寝たでしょうか。そのうち目を覚ましたので「朋樹君よく寝たね」と優しい声を掛ければ「まだ眠てない」と言うし、「何故、どうして」などは日常茶飯時なのです。一緒に風呂へ入ろうものなら「おばあちゃんには何でおちんちんがないの」なんて、とても3歳の子どもとは思えない究極の質問にタジタジの時だってあるのです。ああこれが幼児の反抗期なのかと思って納得したりもするのですが、「何故、どうして」には「そんなもの理由があるか」と答えに困り、心頭に達するものまであります。

 このところ孫は私の単車がお気に入りで、時速10キロの速さで安全に気をつけながら上灘川沿いの道をヤマハメイトに乗せて走ります。一番遠出のお気に入りは1キロ圏内にあるシーサイド公園の鯉意池と潮風ふれあい公園の消防自動車なのですが、今はエンジンキーを差し込んだり、曲がる方の方向指示器をセットしたりリセットしたりと中々知恵がついてきました。

 世代を超えた新しい仲間もどんどん増えて、この夏休みに私の金魚の糞をしているので多くの人に声を掛けてもらえるようになりました。鯉の餌を用意して朝待っていてくれるシーサイドふたみの池田所長さんは、「所長さん」と呼んで大のお気に入りです。漁協女性部じゃこ天のお店の方もみんな「朋樹君、朋樹君」と可愛がってくれて、時にはじゃこ天やタコ焼きなどを忙しい手を休めて対応してくれるものですから悦に入っているようです。

 この日もじゃこ天のおばちゃんたちにタマネギ入りのじゃこ天をご馳走になりお土産までいただきました。「僕は熱いものは嫌い」といいながらじゃこ天を美味しそうに食べ、帰ると「ばあちゃんシーサイド公園でタマネギを食べた」と話すのです。

 一昨日は次男と娘が朋樹君を連れて夕焼けコンサートに参加していました。昨年は妻と二人の参加でしたが、音楽は興味があるのかないのかまだ分りませんが、寝起きの眠気眼で人ごみの多さに驚いた様子でじっと聞き入っていました。夕日夕焼けに照らされた下灘駅のプラットホームで「はいポーズ」、美しい夕日をバックに「はいポーズ」と写真に納まりました。

 夕焼けコンサートは私と別々に訪れていたのでコンサートが終わるや否やで孫たちは私に抽選券を預けて帰りましたが、この抽選券の番号で「夕日日コーヒー」が当たってしまいました。

 昨晩は母親の夜勤で私たち夫婦が孫の守りです。風呂は「男どおし」といって私と入ります。寝る時は本を読んでくれる妻と寝ます。昨晩は昼寝の後遺症でしょうか普段は9時に眠りにつくのに10時近くまで布団の中で起きていました。昼は勿論、夜もパンパースが取れてすっかり「お兄ちゃん」の風格です。残念ながら一人っ子なので正式にはお兄ちゃんにはなっていませんが、口癖のように「僕はお兄ちゃん」といいながら自立して自分で靴も履けるしパジャマのボタンも自分で掛けれるようになりました。親馬鹿ならぬじいちゃん馬鹿に徹して孫の成長に目を細める私なのでした。

 私のパソコンに朋樹君のアルバムが入っていてその数はもう300枚にもなりました。孫はそのことを知っていて、来る度にダウンロードして見せてくれとせがみます。昨日は「朋樹君の夏」と書いて写真3枚を入れたA4版一枚をプリントアウトして渡したら大喜びで「お父さんに見せる」とはしゃいでいました。今朝は私がプラッツに乗せて幼稚園まで送ります。リクエストに応えカーナビに松山空港のランドマークを表示して向かいます。

  「孫一人 度々来ると うるさいが 来ないと心配 電話声聞く」

  「この夏は 二人で行動 多くなり 行く先々で 声を掛けられ」

  「孫相手 少し年齢 若くなり 幼児語使い 屈みもの言う」

  「成長の 孫に比べて この私 退潮気味で その差縮まる」

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shin-1さんの日記

○21回目の夕焼けプラットホームコンサート

 あれは確か21年前の6月30日の出来事でした。前日までどしゃ降りだった雨が止んで、その日は絶好の夕日が西瀬戸の水平線にジューンと音を立てるように沈んだのです。夕日の美しさを訴えても誰も耳を貸さず、夕焼けコンサートをやろうと相談しても「夕日は沈む、そんなもんでまちづくりはできない」と100人のうち99人が反対しました。「そんなにやりたいのならやってみたら」と少しだけ後押しをしてくれたのは妻だけでした。その言葉に押されて無謀ともいえる挑戦が始まり夕焼けコンサートはスタートしました。町名変更騒動の責任をとる形で左遷され(本人は左遷とは思わなかったが)失うものは何にもない時でしたから、かえって意志が強く正面突破やゲリラ戦を繰り返しながら当日を迎えましたが、大方の予想を覆して駅のプラットホームを舞台にするという奇抜なアイディアが受けたのか1000人もの人が集まり、駅は開業以来人で埋まったのです。野外イベントは天気次第ですが梅雨の真っ最中にも関わらず好天に恵まれた運の強さも味方しました。

 あれから21年が経った昨日9月2日(土)、21回目のコンサートが、21年前と同じシチュエーションで繰り広げられました。私はこのコンサート見学のためわざわざ福井県から来られた方々に夕日のミュージアムでまちづくりの話をしてから6時頃コンサート会場へ到着しました。あれ程残暑の厳しかった太陽も6時には随分水平線近くまで降りてきて、絶好の天気に夕日夕焼けを誰もが期待しながらコンサートを聴きました。

 客の入りは例年通りといったところでしょうか。今年も常連さんがかなりやって来て懐かしいあいさつを交わしました。コバの小林真三さんが司会を務め、メインゲストの高橋研さんや加藤いづみさんもすっかりお馴染みでいい盛り上がりを見せていました。しかし何といっても天気がよいことが一番で、この日は今までにないような美しい夕日が見えました。JR四国も夕焼けとロッコ列車を運行してくれ、列車が構内に入るときは思わず大きな拍手が起こったほどでした。

 21回も続いたのは、地元の青年たちが運営委員会を作りしっかりと支えていること。観光協会が町の助成を得て財政的に支援するしくみが出来ていること。行政が事務局となってリードしていること。小林真三さんが音楽プロデュースしていること。夕日を主役にした基本コンセプトがしっかりしていること。JRが全面的にバックアップしていることなどが挙げられますが、20回目の区切りまで深く関わった私としては、今年から予選を兼ねた夕焼け音楽祭が予算の工面がつかず中止になったことが惜しまれます。でも細々ながらでもこうして21回目が開けたことの方が嬉しいのです。

 市長さんや議員さんも数多く見えられていましたが、せめて夕日の町を標榜するのであれば、財政難とは言いながら一枚の名刺代わりとして来年以降も続けて欲しいと願っています。今年のコンサートも色々な出会いがありました。しかし毎年来てくれている人が、「随分顔見知りもいなくなって寂しい限りです」とポツリ漏らすように、お客さんの顔ぶれも随分変わりました。嬉しいいことに水産高校の同級生が顔を覗かせてくれました。定年後も同じ職場で働いているとか。コンサートで歌と夕日を見聞きしながらしみじみ人生について考えたそうです。

  「ああ20年前の私は若かった」コンサートの会場で一人しみじみ夕日に向かって独り言を言いつつ、茜色に染まった人間牧場を下灘駅のプラットホームから感慨深げに眺めていました。

  「二十年 よくも続いた しみじみと 見上げた空に 同じ月が」

  「はじめ年 生まれた子供 早二十歳 俺が老けるの 当たり前だろ」

  「観客の 入りをサポート 赤トンボ 数の上では 人+トンボ」

  「一級の 夕日しずんで コンサート 天気気にせず 唄に没頭」


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