shin-1さんの日記

○お寺の奥さんたちと「はい坊~主」

 友人の紹介で縁あって内子町大瀬の明応寺の奥様と知り合いになり、中山町花の森ホテルでお寺を預かる奥様たちの前で講演したのがきっかけで、その方々が人間牧場へやって来ました。女性の運転者にとって人間牧場の道は少々きつく、事故でもあったら大変だからと、上の道に車を置いて歩いての来訪となりました。一昨日はあいにくの雨模様で、自慢の視界はすこぶる悪く、おまけに夏を過ぎた上がり藪蚊が何匹か出て、刻様方の足や腕にかゆみの注射針を刺す結果となってしまいすまなく思っています。でも全て後の祭りとしか言いようがなく平にご容赦ください。

 まずはそのメンバーですがさすがお寺の奥様だけあって知性に富んだ、それでいて品のある方ばかりでですが、記念写真は「ハイポーズ」ならぬ若干一名の偉いお坊さんに合わせて「はい坊~主」と相成りました。

 私は女性の来訪が大好きですっかりその気になってごつい座布団を敷いた魚梁瀬杉の高座に上がって熱弁をふるいました。お坊様はさておいて10人もの女性を前にかぶりつきで話すのですから視線は頭の向こうの海と空を分けている水平線しか見ることが出来ませんでした。

 お茶を飲みながら雑談めいた1時間半もの長い話に熱心に耳を傾けていただきましたが、住職さんたるご主人の説教やお経を聞き慣れている人の耳にどう聞こえたのか、今でも思い出しては赤面する思いなのです。一通り話が終わって質問雑談の時間になったのですが、ある女性から「あなたの元気の源は何?、あなたの夢は何?」と尋ねられました。えっ、私の元気?、私の夢?と心の中を探ったのですがいい答えかどうか分らずにアドリブで適当な答え方をしてしまいました。

○私の元気の源

 私の元気の源は肉邸的にも精神的にも何といっても家庭です。肉体的には栄養のバランスを考えて妻が作ってくれる家庭料理の数々です。野菜と魚と玄米を主食にした日本料理がメインでそれに果物や海草を取り入れ、痩せることもなく太ることもなく体型を保ち健康を保持できるのはやはり家庭というより妻のお陰かもしれません。精神的には4人の子宝に恵まれ、母や祖母は亡くなりましたが88歳の長寿を保ちながら認知症にもならず生きている親父についてもわが家は安定しています。その要はどうやら妻にあるようです。妻は昨日で61歳の還暦を迎えましたがまだ近所の歯医者さんにパートで務めていますが、私の元気は妻の元気だとしみじみ思っているのです。

○私の夢

 私の夢は一杯あり過ぎて一言では語れません。じゃあ二言でと言われそうですが、書き溜めた原稿で本も出したいし、人間牧場をもっともっと充実させたいし、案外金の要ることが多いのです。しかし私は現在無職で夢をかなえるための資金が不足しているのです。これからまた人間牧場のように夢の実現に向けてへそくりを溜めねばならないのです。幸いもう直ぐ62歳の誕生日を迎えるため待ちに待った年金支給が開始されるのです。僅か1年半の浪人生活でしたが飢えることもなく、借金することもなく、首をくくることもなく生き延びてきました。これもやはり財布を持っている妻のなせる業とでも申せましょう。

 結果的にはやはり私の人生はよきパートナーとよきパートナーシップができたことだと結論付けられそうです。だのに無職をいいことに35年間もの長年続いた妻の誕生日のプレゼントをキャンセルしてしまいました。まあいいか。

  「元気とは 自分ひとりで 出来ぬもの 今頃気付いて 妻への感謝」

  「夢叶う ためにはお金 必要だ コツコツ貯金 コツコツ始める」

  「平凡を 積み重ねこそ 非凡なる 凡人それしか 出来ぬのだから」

  「元気あり 夢も沢山 あるけれど 金がないのが 玉に傷かな」



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shin-1さんの日記

○切手の貼ってないハガキ

 「若松さん、先日はハガキをいただいてありがとうございます。ハガキを出そうと書いたのですが、投函する間もなく若松さんが来られたので手渡しすることにしました」と切手の貼っていないハガキを手渡されました。手にとって見るとSHIMANTO RIVERと書かれた横文字のハガキは沈下橋から四万十川へ勢いよく飛び込む少年の姿がイラスト風に描かれた絵葉書でした。

 その二日前、高知県四万十市西土佐から、やはりThe Shimannto River 四万十川(高知県西土佐村)と書かれた沈下橋の綺麗な風景写真絵葉書が送られてきました。その写真の下には、私の笑売啖呵を意識したのか「ふんぎって やっと書いたる ハガキ見つ 三枚を書く 偉人に脱帽」と書いてありました。

 この二人はいずれも西土佐に住む女性です。今回の西土佐巡りの旅で知り合った女性なのですが、既に彼女たち二人はもう13回も私に同行し私の講演を聞いたことになります。その講演の中で「知識と知恵の違い」についてどの会場でも話をします。具体的な事例として、「一日三枚のハガキを書いたら人生が楽しくなる」という言葉を信じて毎日三枚のハガキを19年間続けている私自身の実践を話すのです。その結果私は幸せになったとその効果についても述べますが、田舎のことゆえ少々エンジンのかかるのが遅いものの西土佐の凄さは、この頃になってハガキを書く人が次第に増えていることです。嬉しいことです。だから私も返事を書いて、早い人だと一週間ペースでハガキ交換をしている人まで出来ました。

 田舎に住むと「俺の人生こんなもの」とスローな村のリズムに慣れてしまい、目標を見出したり努力もしないまま日々を過ごしている人が案外多いのです。シカや猿やイノシシが出たと騒いでもそこここ食い物も作っているし、年金だって少ないと文句を言ってもそれなりに入るし、別に努力しないでも生きていけるのですから、余程反社会的な行動をしない限り適当に近所つきあをしていれば村八分になることもなく暮らして人生を終えるのです。しかしそんな生き方で人生の仕上げをしないまま、また世の中のお役に立たないまま自分の人生を終わっていいのでしょうか。

 私たちは自分でも気付かないほど多くの知識を体内に潜在能力として持っています。しかしそれは知っているというだけの知識にしか過ぎません。その知識を知恵に変えるには行動や実践しかないのです。無知によって生じる不幸は知ることによって避けられますが、不幸にならないためにどう行動しどう実践したのかが問われているのです。私の場合は知りえた知識を基に目標を立て、その目標を手に入れるために努力や行動や実践をします。その過程には挫折や壁や時には失敗もありますが結果的には

「夢はドリームではなくターゲットである」と確信するほどの成果をつかめたのです。

 西土佐の集落を巡ってみて、私たちと同年代若しくはそれ以上の年代の、でも時代の生き方を共有してきた人々に沢山出会いましたが、残念ながら生き生きと輝いて生きてる人にはそれほど多く出合いませんでした。でもきっかけをつかもうとしている人は私の問いかけに応じ、とりあえずハガキを出す勇気ある行動と実践を選んだのです。

 ハガキは面白いもので、字が下手だと思うコンプレックスを持っている間は中々出せるものではありません。でも私のように「それアラビア語?」なんてからかわれた経験のある私の字でも、相手のことを思って書けばちゃんと真心は相手に伝わるのです。私たちは字の上手いに越したことはありませんが書家である必要はありません。要は私の心を伝える道具なのですから真心さえあれば相手に意思は充分伝わるのです。

 今朝西土佐に向けて3枚のハガキを書き、散歩がてら傘を差して雨の中を500メートル離れた郵便局まで投函散歩をしました。雨に濡れた赤いポストは少し寂しそうでしたが、私のハガキを口の中に入れてやるとかすかに「ポトッ」と音がして、ポストが顔を赤らめたように思いました。「急がしいいのでハガキが出せない」言う人に限って暇な人、「金がないから切手が買えない」と言う人に限って浪費人、まあいくら言ってもやらない人はやらない理由を言ってるだけですから進歩はありませんね。

  「西土佐の 人は凄いぞ ハガキ書く 勇気持ちたる 人ぞ多かり」

  「五十円 得したハガキ 手渡しで 思わず顔が 赤くなりそう」

  「自慢する 訳でもないが 沈下橋 さりげなく来る はがきに添えて」

  「雨だから 仕事もなしに のんびりと ハガキでも書く あの人想い」

 

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shin-1さんの日記

○XY世代

 「戦後社会を支えた団塊の世代に代わり、今後の日本を支える存在として多いに期待されるのがXY世代です。」と、最近よく表現されるXY世代って一体何のことでしょう。昨日の新聞にもそうした記述があって、新聞を読んでいる息子から「お父さんXY世代って何?」と質問されました。息子にとって講演などに行く親父は何でも知っていると思っての質問でしょうが、残念ながら頭かじりでその正しい知識を持たないものですから、メール仲間に「恥かしいながら息子が私に質問したXY世代という説明が出来ませんでした。誰か教えてください」と打電したのです。でも私の打電を見なかったのか知らないのか、返信は未だゼロなのです。仕方がないので広辞苑や新語辞典、イミダスなどを片っ端から探した挙句、ヤフーの辞書でも検索しましたが、私の能力ではそこまでしても結局分らずじまいでした。

 私流に考えてみました。X世代は団塊ジュニアと呼ばれる人たちで、世代人口が非常に多く受験などの競争が激しかった時代を生きてきた世代ではないかと思うのです。一方Y世代はそれ以後生まれたヤングで少子化のはしりのような今まさにヤングといわれる世代ではないかと思うのです。私たち団塊世代より少し前に生まれた者にとってみればXもYも同じ若者なのでしょうが、時代背景としてはかなり様子が違うし、発言を聞いていても考え方が違うことを感じることがあるのです。

 一昨日大洲青少年交流の家で行われた「大人を考えるフォーラムの第1回実行委員会が開かれました。昨年に引き続き実行委員長を引き受けることになりましたが、その冒頭若者の現状について色々と話し合いが持たれました。

 ・基礎学力や基礎体力が低下している。

 ・自分で創意工夫できるまでに随分時間がかかる。

 ・怒られることに慣れていない。

 ・ストレスに対する忍耐力が低下している。

 ・感動する力は持っているが感動する場や機会が少ない。

 ・地域と関わることが少ない。

 ・行政や教育機関は地域の若者の実態をつかんでいない。

などの昨年度の意見に加え、

 ・人に嫌われるのが嫌だから自分の考えを言いにくい。

 ・憧れる人が少ないのか大人になりたがらない。

 ・子どもから大人への明確なステップがない。

 ・哲学的な人間本来の生き方を持っていない。(にんげんとして何のために生きるか)

 ・むかつく、切れるといった子どもがいる。(食事や親の育て方、鉄筋コンクリート箱の影響も)

 ・人間が本来持つ四つの願望(幸せになりたい。お金持ちになりたい。成功したい。長生きした)が断片的で見えてこない。

などが出されました。

 私たちが大人を考えるフォーラムで対象としようとしているのは高校生とY世代なのですが、彼らの対面軸に必ず出てくるのは社会と家庭(親)と学校という3つの場面なのです。社会も家庭も学校も私たちの時代から考えると随分変化してきました。特に子どもにとって大きな影響を与えるであろう家庭は

 ・子どもの数が減った。

 ・子どもの家庭的な役割が減った。

 ・家庭的な感動がなくなった。

 ・職住が分離した。

 ・食生活が変化した。

 ・子ども部屋ができた。

 ・仏壇や神棚の存在が薄れた。

 ・ものと金が豊かになった反面、生活に金の要る時代になった。(カード時代)

 ・テレビの影響が大きくなった。

 ・父母同権若しくは母上位の位置関係になった。

 ・家風や家庭的指針がなくなった。

 ・孤独な人間の寄せ集めになった。

 ・地域との結びつきや親戚付き合いが薄くなった。

 ・パソコン、携帯電話、ビデオ、車の普及。

 こんな家庭で子どもたちは最も身近な親という大人を見て育っているのです。

  「包丁の 変わりにハサミ 野菜切る 冷めた家庭で 冷めた飯チン」

  「あんな餌 食わせて人間 育つのか 人が作った 袋の味を」

  「携帯の お金は銀行 引き落とし 幾ら使った そんなの知るか」

  「親を見て あんな大人に なりたくない 一体この家 どうなってるの」

  

 

 

 

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