shin-1さんの日記

○高知県馬路村魚梁瀬地区での講演会

 馬路村の山猿というペンネームで私のEメールに度々進入するウイルス男は、馬路村の役場に勤める木下さんです。私に海猿と勝手に命名してメールを送ってくるものですから私も「海猿から山猿へ」などとお調子をくり返しています。彼と会ったのは昨年末馬路村で開かれた「地域の自立とは何か」の打ち合わせ会でした。それから急接近してシンポジウムや人間牧場見学など、まるでかつての私の若い頃のように精力的に動き回る彼の姿を、何故かまぶしく感じていました。その彼から再三にわたってラブコールを送ってくれたのが馬路村魚梁瀬地区での講演会でした。このところ忙しくてそれどころではなかったのですが天然のうなぎを食わせる」という餌に釣られて魚梁瀬地区へ行く事になったのです。盆踊り大会、韓国旅行、四万十市西土佐、金融広報委員会など超多忙な日程の間隙を縫って一度は訪ねてみたかった魚梁瀬地区へ足を踏み入れました。高知県奈半利町の坂本年男さんに貰った魚梁瀬杉の切り株が、わが人間牧場の水平線の家にあることも心が動いた大きな要因だし、今や旧知の間柄となった馬路村の東谷組合長にも久しぶりに会いたかったのです。本当はゆっくりのんびりの旅をと思っていたのですが、日程が詰まり過ぎて行きも帰りも高速道路、しかも今朝などは朝4時半に起きて宿を発つという強行スケジュールになってしまいました。それでも曲がりくねった狭い安田川沿いの道を、木下さんの「お昼にはわが家でうなぎでもという言葉に甘えて山里の木下家へ到着したのは12時を幾分回っていました。木下家に通じる坂道を歩いて登ると、昔は美人だったんだろうなあ(失礼、今も美人です)と思える品を感じる木下君のお母さんが人なつっこい笑顔で出迎えてくれました。「あっ、あの人はパンフレットに出ていた木下君のお母さんだ」と第一村人を発見して直感しました。木下君はうなぎ取りの名人で、私のために延縄で天然うなぎを沢山ゲットしていて、早速真昼間だというのに何とも贅沢な庭先でうなぎの蒲焼パーティと相成りました。ハスイモの酢漬けや鮎の塩焼き、合わせ味噌など田舎料理の数々に舌鼓を打ちました。

 魚梁瀬までの道程はかなりあり、曲がりくねった道の峠で眼下に魚梁瀬ダムを見学しました。昔何かの本でこのダムの石積み護岸を利用して加藤登紀子のコンサートを開いた話題を読んだことがありますが、こんな奥地でよくもまあと往時を振り返りながら感慨深げに下を覗き込みました。このダム湖の下に水没した集落は代替地に集団移転している話も驚きでした。ダム湖を見下ろし展望台には昔のそんな物語が写真い焼き付けられていました。

夜の講演会までには十分時間があるので、千本山の杉の木を見に道案内をしてくれる地元の人と木下君と3人で30分もかかる山道を車で登って行きました。道は元森林鉄道が走っていただけあってなだらかな道でした。折からの小雨に少し濡れながらも車を降りてつり橋を渡ると森の中には樹齢300年を越える大きな杉の木が何本も見えてきました。これぞまさしく会いたかった魚梁瀬杉の原生林なのです。九州の屋久島に生えている屋久杉にはかないませんが、どうして人間二抱えもあるような大きな杉の木に圧倒され、そっと手と耳を当てて木の息遣いを調べてみました。私たち人間の寿命は幾ら長生きしても高々100年、だのにこの杉の木は300年というから江戸時代に生を受け、この地にじっと立って、魚梁瀬の地に降った雨水を餌としながら生きてきたのですから、偉いとしか言いようがないのです。

 森の中で高知大学農学部の学生たちに出会いました。何でも千本山の生態系の調査を定点観測しているらしく、地下足袋や作業着は雨に濡れていました。一見無駄と思えるこのような学術調査が千本山の杉を守ることになるのですから頑張って下さい。驚いた事にこの学生さんと同じ旅館に、しかも隣の部屋に、しかも一緒の風呂に入ったのですから奇遇とかいいようがありませんでした。

 同行した地区の方の話は、営林署や地元製材に長年関わっただけあって歴史の生き証人のような詳しい話で興味をそそりました。ここの森林鉄道は蒸気機関車まで走った本格的なものだったようで、戦後の高度成長時代には多くの人が住み、山には活気がみなぎっていたそうです。その話はかつて日本の各地にあった炭鉱のように一時代を築いたのでしょうが、今は跡形もなく消え去り、伐採された魚梁瀬杉の切り株のみが無残にも苔むして朽ちつつありました。この方たちの生き証言をしっかりと記録に残すことも誰かが気が付いて今やらねば忘れられてしまうのかも知れないとふと思いました。

  「この山に 蒸気機関車 走ったと 語る古老の 声ぞむなしき」

  「切り株に 会いに来ました 魚梁瀬杉 こんな深さの 山にいたとは」

  「八郎が 歌った唄を 思い出す 山の釣り橋ゃ どなたが通る」

  「この奥で 降った雨滴 延々と 海に注ぐや 不思議なるかな」  


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shin-1さんの日記

○韓国旅行を終えて

 早朝5時に起床して身支度を整え、ホテルをチェックアウトしたのは5時50分でした。広島空港行きの飛行機が9時50分なので仕方のないことと諦めつつ、迎えのバスに乗り込みどしゃ降りの雨の中を一路仁川空港へ向かいました。途中土産物屋に立ち寄り店員の上手い口車に乗せられてキムチの漬物や岩のりを買わされてしまいましたが、財布の中身のウォンを使い切るためみんな予想以上の買い物をこの店でしたようでした。ウォンでレート換算すると100ウォンが約10円くらいですから10倍すればよく随分便利に出来ていると感じました。私なんぞは酒も飲まないしお土産も孫の遊び道具と家へのキムチくらいなものですから、換金した2万円が半分も余って空港の換金所で再びウォンを日本円に換金する羽目になってしまいました。仁川空港で軽い食事をとりすっかりくつろいだ雰囲気で機内に乗り込みましたが、別れを惜しむように空港は雨の帰路となって、板門店へ行ったこともあって今度の旅を象徴しているような光景でした。

 機内食を食べウトウトするともう窓の下には隠岐の島や島根県宍道湖の姿が見え始め、まさにひとっ飛びです。眼下に広がる中国山脈のひだ深い山々はどこまでも緑が広がり、改めて日本の原風景の美しさにしばし見とれていました。

 今回の旅では佐賀山さんが大活躍をしてくれました。特に「イッキョンさんを含め二人の元留学生が市内見学や夕食の世話をしてくれました。松山大学に留学していた時に知り合ったそうですが、海の向こうに友人がいるなんて素晴らしいことです。

 私たち21世紀えひめニューフロンティアグループのメンバー以外にも同行した河野さんの奥さんや湯山さんファミリーなど、楽しい旅を演出するのに一役買っていただきました。もう既に3日間の韓国旅行は過去のものとなりましたが、いい旅をありがとう。

 今回の旅で感じたこと

 ①板門店が印象に残りました。部屋の中でしたが北朝鮮の領土へも越境しました。有刺鉄線や監視所の要らない統一された平

   和な朝鮮半島が一日も早く実現するよう祈っています。

 ②日本には徴兵制度はありませんが、愛国心は北の緊張がより増幅させているように思いました。日本は平和過ぎます。国を

   愛する心を育んでゆかねばならないと強く感じました。

 ③旅は一人歩きしないと相手に頼り過ぎてどこを歩いて何を目指すのか見失ってしまいます。結局旅は自立の旅立ちなので

   す。

 ④韓国料理はよく野菜を食べます。3日間あれ程食べたのによく歩いたせいもあるでしょうが、帰って体重を測ったら幾分痩せ 

   ていました。キムチの辛さは体によいのでしょうか。

 ⑤メンバーの佐賀山さんは韓国語を勉強して話せます。私などは英語も韓国語も駄目で日本語さえ満足に話せません。少し

   勉強が足らないと思いました。今度行く時は単語くらいはわかるようにしたいものですが無理でしょう。これは願望です。

 ⑥韓国でブログを一本書くことを目標にしていましたが、ホテルロビーのインターネットでは実現することが出来ませんでした。

   残念でなりません。

 ⑦今回の研修旅行は、出発地が出発直前になって松山空港から広島空港へ変更し、予定していた方々が旅を断念しました。

   深くお詫びをします。

 ⑧一駅地下鉄にも乗ってみました。道も尋ねました。ソウルタワーにも登りました。だのに市内にある世界遺産の故宮には準備

   不足で行けませんでした。骨董市場も訪ねたかったです。

 ⑨自由と平和の重みを知り、過去の歴史の重みを知りました。また人の情けの重みも知りました。

 ⑩またお金をためて行きたいと思いました。

  「十年の パスポート期限 後八年 次はどの国 夢持ち生きよう」

  「出来るだけ 安い旅など 心がけ 度々行こう 心耕し」

  「フロンティア 結成以来 二十年余 初めて外国 心そろえて」

  「ブログにて 反省点を 書きました 次につながる 視点を少し」

             

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shin-1さんの日記

○韓国ソウル一人歩き

 韓国旅行二日目の朝、眠りから覚めので同室の疲れて眠る日浅さんを起さぬようそっと部屋を抜け出し、ホテルの外へ一人散歩に出掛けました。昨夜の喧騒がまったく嘘のように街は静まり返り、道端にうず高く積まれたゴミの山が昨日を思い出させているようです。ホテルの裏山の急な坂道を登ると明洞聖堂という立派な教会がありました。韓国にはやたらと教会があるようで、東洋の仏教の国だというに不思議な感じがしました。その国の歴史を調べてみると弾圧や戦争の度に様々な宗教が起こり、民衆は救いや平和への願いを宗教に求めるようです。多分そんな意味もあるのでしょうが、日本で漏れ聞く統一教会の集団結婚式や最近問題になっている若い女性への性的暴行は宗教に名を借りた大きな社会問題かも知れません。しかしいずれにしても宗教心を持つことは良いことですから、外壁工事のための鉄骨足場の下をくぐり思い切って教会の扉を開けて中へ入ってみました。まさに「叩けよさらば開かれん」です。

 早朝だというのに教会の中には既にかなりの人が集まって、ミサが行われるのを待っていました。修道女や一般市民も洗礼を受けたものでしょうか頭にハンカチのようなものを被って何やら小声でお祈りをしていました。次々とやって来る人は皆胸で十字架を切って椅子に座るのです。私は仏教ですが無宗教に近く仏への祈りはそんなにするわけではありませんが、皆に習って座りました。やがて祭主が現れ、皆席で立ってお祈りや賛美歌を歌い始めました。言葉も通じず、意味さえも分らない言葉に戸惑いましたが約30分のお祈りを終えてそっと戸外へ出ました。宗教が分らなくても教会で自分自身を見つめなおす静寂の時間が持てただけでも幸せでした。

 板門店の見学を終えての帰り道、自由の橋を見学しました。朝鮮戦争で捕虜となった人たちが捕虜交換の折この橋を渡って自由の身となり、いつしか人々が自由の橋と名付けた橋です。鉄柱に支えられた木製の橋ですが捕虜たちはどんな思いでこの橋を渡ったのでしょう。この橋の向こうには橋のない橋脚だけが残る橋が象徴的に残っていました。また今話題となっている南北を結ぶ鉄道が既に結ばれ新旧対比の橋が象徴的に見えました。

 テポドンの発射などで世界中からバッシングを受けてる北朝鮮と、太陽政策を取る韓国とでは、まだまだ主義主張に大きな隔たりがあるようですが、何時の日かベルリンの壁のようにバリアーが取れてこの鉄道を平和の列車が一日も早く行き交うことを望んでいます。

 大きなイチョウの木の下で談笑する韓国人の姿が目に入りました。景福宮での光景です。韓国に来て38度線や国境、板門店、日本大使館、国連軍などの話を聞く度に何か分らぬ恐怖感や緊張感を体内に感じていました。また遠望する北朝鮮の山々は殆どが裸山で緑への愛着も感じていました。目にも鮮やかなイチョウの緑色は何とも落ち着くものだとしみじみ感じました。このイチョウが黄色く色付く秋の頃の姿も見てみたいものです。勿論冬も春も四季それぞれの姿を想像しつつ故宮を巡りました。

  「風感じ 一人歩きの 韓国で 想いめぐらす あれやこれやと」

  「軍隊に 徴兵されぬ 俺の国 母国思わぬ 人が増えてる」

  「ただ祈る そんな気持ちで 教会の 門を開けて 中に入りぬ」

  「今度来る 時には妻を 同伴し 少し自信の 街を案内」 



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shin-1さんの日記

○西土佐夏の終わり・口屋内地区(20-12)

 昨日までの3日間韓国旅行で日本を脱出していたため、時差ぼけはないのですが旅行を終えた安心感と開放感から何処となく気だるさが残っているもののそうもいっておられず、日本銀行松山支店での会議を午前中で終え12回目の西土佐へ向かいました。夏といっても6・7月の夏に向かう迫力ある時期と違い、8月末の夏は秋の気配が漂って、陽足も少し長くなった感じがします。

車窓から眺める田んぼでは既に早い稲刈りが始まっており、リュウゼツランのオレンジ色の花や沿道に咲く百日紅の花が行く夏を惜しむように咲いていました。

 坂井伸美さんの経営する彩花で一服し四方山話に花を咲かせた後、四万十川の風情を確かめるために四万十大橋を渡ってカヌー館まで行き、橋の下にあるキャンプ場まで下りて行きました。夏休み最後の日曜日も昨日で終わったというのに、親の仕事の都合でしょうか家族連れでキャンプを楽しむ県外ナンバーの車が何台も止まって、傍では幾つかのテントで早くも夕食が始まっていました。横目で見ると相変わらず焼肉とビールで盛り上がってる人たちもいて、アウトドアーといいながら日本のそれは外国と違って屋外で焼肉と酒を楽しんでいるだけだなと思いましたが、人それぞれに楽しみ方があるので異論を挟むこともなくそそくさと立ち去ってトイレへ向かいました。傍の東屋に陣取った一団がここでも何やら焼肉を始める準備をしているようでした。見ると地元のおじいちゃんやおばあちゃんのようでした。「ほう、おじいちゃんやおばあちゃんが焼肉とは珍しい」と思った時、おじいちゃんとおばあちゃんが「夕日の若松先生ー」と大きな声で呼んでいるのです。後ろを振り向きましたがどうも私のことのようなのです。その二人は江川崎の講演会場に来ていた見覚えのある顔だと直感しました。聞くと今日は社会福祉協議会主催の「男の料理教室」があったらしく、「何で男の料理教室に美人の娘さんが集まるの」と爆笑を誘いました。すかさずあるおじいちゃんが「そりゃあおららに魅力があるきん娘が寄ってくるのよ」と一本取られてしまいました。参った参ったです。「あんたの話はとてもよかったと皆の評判じゃ」と持ち上げてくれました。「あの時吹いたハーモニカは心洗われるようでした。もう一度あのハーモニカの音色が聴きたい」と言うのです。私はわざわざ車まで引き返しカバンの中のハーモニカを取り出し時間を気にしながら戻ってきました。「夕焼け小焼け」「ふるさと」「南国土佐を後にして」を吹くと何と大合唱が始まりました。傍のキャンパーたちもいきなり起こったハリケーンに何ごとかと目をパチクリしていました。リクエストは主に軍歌やナツメロでしたが無難にこなしハスイモと鮎セゴシの酢物をいただいて再会を約束して分かれました。

 途中トンボを竿で追いかける一人の少年に出会いました。草むらを無心に走り回る姿は何とも長閑で「子どもっていいなあ」としばらくその子どもとお話していると、「若松さんじゃないですか」と再びのお声掛かりです。宇和島市嘉島の親子がキャンプに来ていました。私も驚きましたがもっと驚いたのは相手の方でした。まさかこんな場所で私を発見するなんて思ってもみなかったようです。宇和島市嘉島には宮本正勝さんご夫妻や知人友人も多く度々島を訪れているので、奇遇でした。

 カヌー館の上の道路から再び手を振りあって分かれましたが、明日はカヌーに乗るのだと張り切っていました。

 この夜の集会は口屋内です。二十年も通っている舟母という民宿があります。民宿のおばちゃんは高知県の名物女で橋本知事ともじっ魂の間柄で知事さんも時々やって来るそうです。この日はわざわざ私と中脇さん、藤倉さんのために心からなる手料理を作って待ってくれていました。うなぎといい、カニといい、全てが舌覚えのある美味しい味です。二十年も付き合える人は中々いません。彼女は小町味噌を地元の主婦グループで作り売り出していますが、人気も定着し加工場も軌道に乗っているようです。味噌を作る話を持ちかけられた昔を思い出しましたが、歳は経ているものの高知のはちきんばあちゃんは衰えることもなく元気で活動していました。息子の博君ご夫妻も元気で頑張っているようで、お土産に新米を届けてくれました。

 口屋内の集会所は沈下橋を渡った四万十川の向こうにありました。昔野塾の連中とフロンティア塾の移動塾を行い大酒を飲み大ボラを吹いた懐かしい場所です。区長さんは朝比奈君のお父さんで昔舟母で一緒に酒を飲んだ記憶があります。

 口屋内でも高齢化や健康不安があるようで、朝比奈区長さんもここのところ腰の具合が悪く今日も整体へ行ったと座りにくそうに座って役目を果たしていました。みんな歳をとりみんなやがては死ぬのですが、10年前のようなむらおこしやまちづくりの話はもうこの地区には通じなくなっています。そう肌で感じたものですから、社会の流れや時代の流れに掉さしながら自分がどう生きるかについて少し軸足を変えた話をしました。

 帰り際、「ハガキを必ず出します」という方に名刺を一枚渡し、口屋内の集会所を後にしました。暗い夜道を中脇さんと世情や合併後のまちづくり、役所職員のあり方、農政について意見を交わしながら、どこかボタンの掛け方がずれ始めている今の社会を論じました。同感です。

  「腰伸ばし 俺に魅了が あるからと 爆笑誘う 焼

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shin-1さんの日記

○韓国一人歩き

 団体旅行とは気楽なもので、一人の旗振りさんが右だ左だシグナルを出すとその通り動けば別に迷うこともなく目的地に行け目的を達成できるのです。しかし何かのハプニングが起こって一人だけになるともうこれは大変で頭がパニックになってしまいます。ましてや言葉も通じない外国という場所で「私の行く所は何処でしょう」と聞いているようなものですからもうお手上げなのです。私は今回の板門店一人旅が3時までに到着することを知っていましたので、密かに一人歩きを目論んでいました。目的地は2ヶ所です。景福宮(キョンボックン)という李氏朝鮮の初代王によって創建された最初の王宮を見学することです。前回の訪韓では閉門儀式が見れなかったので、丁度3時の解散なのであるいはと期待を寄せていました。もう一つは南大門と市場の見学です。夕方みんなとホテルで落ち合う6時までは3時間もあるので前日の夜、同じ部屋の日浅さんが寝静まった頃地図を片手に場所の確認をして板門店行きのバスに乗り込みました。

 ツアーのバスは自由の橋や食事を終えて無事出発した場所に帰って来ました。さあ韓国一人歩き旅の出発です。首にカメラをぶら下げ、背中にはリュックの出で立ちでせみ時雨の中軽やかに歩きました。ズボンのポケットに入れた携帯電話のスイッチをオンにして万歩計もスタートです。景福宮が見えてきましたが10車線もある前の大通りは何処を横断したらよいのか分かりませんでしたが、少し下ると高架橋が見えました。汗をかきかき遠回りをして脇門あたりに出ました。中に入ると広大な敷地の中では既に閉門の儀式がまるで宮中絵巻を見ているような姿で再現されていました。大きな太鼓が叩かれ武官の群れがまるでマスゲームのように隊列を組んで動いています。この様子は韓国語、中国語、それに日本語と英語に同時通訳され見る人に説明され、その意味をよく理解することができました。遠巻きに見学する外国人の数も多く、アメリカ人と思しき観光客は「オーワンダフル」を連発していました。左から右へ前から後ろへと移動しながら写真に収めましたが、一人歩きの特典でしょうかいい韓国の一面を見せてもらいました。

?

 景福宮を出て日本大使館やアメリカ大使館付近を通り、ソウルで一番広いといわれる景福宮前の世宗路から李舜臣将軍銅像を経て太平路の歩道を歩きました。そかから南大門まではかなり距離がありますが博物館や徳寿宮を横目で見ながら結構楽しく歩きました。ロイヤルホテルへは随分と迂回する道順ですが、第2の目的地南大門市場の活気はそれを忘れさせてくれました。

 ロイヤルホテルが目と鼻の先まで歩いて帰った所で雷を伴ったかなり激しい夕立のような雨に出会いました。軒先を借りて雨宿りを市ながらやっとの思いでホテルへ到着しましたが、夏の雨とはいいながらかなり濡れてしました。万歩計を見ると何と今日は2万歩も歩いているのです。お昼はバイキング形式の昼食だったので思い切って食べたつもりでしたが、どうりでお腹が空くはずです。見知らぬ異国を一人で歩けた充実感は何ともいえない楽しいものでした。

  「ソウル路を 一人ぶらぶら 散策す 新旧混在 まるで日本だ」

  「見たかった 閉門儀式 間に合って 厳かなりし これがタダとは」

  「いいですね 隣の人が 声かける 相槌打ちつつ 宮中絵巻」

  「ゴロ・ピカ・ザー いきなり夕立 濡れてゆく 少しひんやり 気持ちよくって」 

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shin-1さんの日記

○板門店への旅

 今回の韓国旅行の楽しみは、前回の研修旅行で果せなかった板門店への旅を実現できることです。北朝鮮による日本人拉致事件やテポドン発射実験など、何かと騒がしい北朝鮮をこの目で確かめたかったので、韓流ドラマ見学コース、ソウル市内見学コース、板門店見学コースの3オプショナルツアーから一も二もなく板門店行きを選びました。しかし私たちの団体でこのコースを選んだのは私だけでした。政情不安な国境へたった一人で出発することにはいささかの不安もありましたが、他の観光客と一緒なので思い切って参加しました。

 通訳のパクさんが朝早くバス乗り場までタクシーで連れて行ってくれました。さあ出発です。バスが進むにつれて川の両岸には有刺鉄線が二重三重に張り巡らされ、コンクリートで作られた監視小屋がやたらと目に付くようになり、改めて国境付近の緊張感が漂い始めました。ガイドの話も北朝鮮と韓国の50年にわたる戦争の出来事を克明に伝え、「ここからは写真撮影禁止です」と不安を増幅するかのように更に高いトーンで話すのです。

 最後のトイレ休憩場所を発つ頃には空の雲行きも怪しくなり、小雨がぱらつき始めました。国連軍の二重三重のチェックや国連軍のバスに乗り換えて更に高まる緊張感の中板門店に着いたのは出発して2時間余り経ってからでした。いよいよ板門店の見学です。

 この建物は北朝鮮の監視場で北朝鮮の兵士が銃を構えじっとこちらの様子をうかがっている様子が目の当たりで見えました。窓の中からはやたらと兵士の目がこちらを見ているような視線を感じつつ、見学はさらに緊張の度を深めました。

 この場所からだけは撮影が出来ますというガイドの言葉に、みんな堰を切ったように写真やビデオに周りの風景を収めていましたが、目の当たりにした非武装地帯の国境最前線はテレビや新聞でしか見ることの出来ない場所だけに、私も埼玉県から来たという隣の席の人に監視所バックに一枚写真を撮ってもらいました。

 観光客は2列に並ばされ、無口で板門店の会見場へ入って行きました。会見場の中にはテーブルがあってそのテーブルの真ん中が38度線なのです。つまりこの部屋に韓国と北朝鮮の国境があるのです。本来私たちは北朝鮮には行けないのですが、この部屋に中だけなら国境を越えれるのです。一人一枚だけ写真を撮ることが許可され、ガイドさんに国連軍の兵士とともに一枚、シャッターを押してもらいました。これが38度線を越え北朝鮮の領土にいる私です。

 国連軍の兵士が見守る中、バスは本当の板門店という国境沿いの見学所へと向かいました。韓国側は草もなく北朝鮮側が見えますが、国境の向こうの北朝鮮はうっそうとした林になっていました。見学所からは北朝鮮が希望の村と呼んでいる村が見えました。韓国では宣伝村と呼ばれるこの村には大きくて高い鉄塔があり、その突先には北朝鮮の国旗が威厳を誇示するように折からの緩やかな風になびいていました。

 この写真は、私が別に悪いことをして逮捕された訳ではありません。ガイドさんが「めったにない機会ですので一枚如何ですか」とシャッターを押してくれました。習いたての言葉で「カムサハムニダ(ありがとう)」といったら「カムサハムニダ」と、少し笑って答えてくれました。

 板門店を見学して感じたことは、どこにでもあるこんな風景が珍しい光景としてとらえられなければならない人間の世界の愚かさです。朝鮮戦争が勃発して既に50年、日本の成長を支えたのは皮肉にもこの戦争でした。この戦争による軍需景気で日本は戦後の成長を遂げましたが、同じ民族が来たと南に分かれて戦い、今もなお肉親といえども国境や非武装地帯を挟んで行き来できない厳しい現実があるのです。更には私のように平和な国にいるものがこの場所を観光でしか見れないことも愚かといえば愚かなのです。再び板門店を訪れる時はベルリンの壁のように国境も有刺鉄線も地雷もない場所になっていることを願わずにはいれませんでした。

  「北南 同じ民族 三八で 分ける悲しい 戦争愚か」

  「同じ部屋 同じテーブル 話せども 未だ解決 何故にできぬか」

  「おらが国 誇示するように 鉄塔の 上にはためく 北の国旗が」

  「目と鉄砲 俺の姿に 向けられて 威圧感じつ そろそろ歩く」 

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shin-1さんの日記

○三日間の韓国旅行

 私が代表を務める「21世紀えひめニューフロンティアグループ」の長年の懸案であった「韓国旅行」がやっと実現しました。本当のグループの研修目的地は、かつて若き頃丸木舟を製作した時の材料となったアラスカ産モミの木の切り株にアラスカの地まで会いに行こうと計画を立てていましたが、仲間も少しくたびれた年齢となり、アラスカは遠くて日程的にもかなり長期になり費用も高額になることから韓国で済ませようと思いついたのです。アラスカと韓国では月とスッポンほど比較にならないのですが、それでも会員やその家族が12人参加して打ち解けた研修旅行が出来るなんて2泊3日にせよ、無人島キャンプ以来とあって期待を膨らませて参加しました。今回の研修旅行は松山空港発着のアシアナ航空チケットが確保できなかたったこともあって、急遽広島空港発着に変更になったため、数人が仕事の都合が付かなくなり参加が出来なかったことが悔やまれてなりません。それでも今治組が半数近くいたためかえって便利がよく、韓国旅行に快適なしまなみ海道旅行がプラスされたような旅となりました。参加者の中には海外旅行が初めてという人もいて、少しばかり緊張間がありましたが、その分佐賀山さんが韓国語や韓国事情に詳しく、準備から出発まで何かとお世話してくれたお陰で、添乗員も付かない旅ながら心配や不安もなく随分助かりました。

 佐賀山さんからの事前直前情報だと、観光ソウルの天気予報は曇りや雨とかで雨具の用意をするよう指示されていましたが、韓国へ行くことで頭がいっぱいらしく殆どの人がパスポートや換金に気心を奪われ、雨具のことなどすっかり忘れて、後で思わぬ雨にたたられる結果となってしまいました。

 韓国は近くて遠い隣国です。歴史的に関係の深い国ながら小泉首相の靖国神社参拝による歴史認識や竹島問題などでギクシャクして、一部では半日感情の激しい側面を持っています。しかし一般国民の間では経済的にも文化的にも友好的な交流が行われており、特に観光面ではお互いの国の人が行ったり来たりいい関係を保っているようです。

 韓国は日本と時差はありません。したがって時差ぼけもなく広島からだと12時20分に飛び立った飛行機は13時30分にインチョン(仁川)空港に到着します。日本国内旅行でも北海道や鹿児島、沖縄の島嶼部へ行くよりはるかに近いのです。それでも国際線を意識させるのは機内で機内食が出ることです。空港はアジアの玄関を目指していることが一目で分るように大規模で日本の空港など足元にも及ばないような規模拡大が今も目の当たりにすることができます。

 飛行場へは通訳のパクさんが出迎えに来ていて、チャーターしたマイクロバスで宿舎のロイヤルホテルへひとまずテックインしました。私は昨年2月に公用で韓国へ出かけた折このホテルに泊まった経験があるだけに何となくふるさとへ帰ったような親近感を覚えました。その夜はお定まりの焼肉専門店へ出掛け、本場の焼肉を食べ放題食べて堪能しましたが、チシャ菜やエゴマの葉っぱにくるんで食べたり、唐辛子いっぱいのキムチを額に汗をかきながら食べたため、肉料理の好きでない私でも随分満腹感に浸りました。

 夜は山の上に立っているソウルタワーにロープウェーで登り百万ドルの夜景を楽しましたが、韓国故宮周辺の静寂や、南大門の喧騒、洗練された江南の町並みなど、エリアによってソウル市内は新旧の異なった顔があるようですが、夜の暗闇と光だけの世界は伝統も進化も一緒に包み込んでいるような温かい感じがしました。

 乗り合いバスで下山し、夜の清渓川公園を散策しました。この川は高速道路の付け替えで蓋されていた川の蓋が取り除かれ、その川を庶民の親水公園として整備したもので、両岸は衝立のようなコンクリート護岸で、川底に川が流れ両岸に散策道路があります。また川岸には柳や葦が植えられ、川の水を吸って生き生きとしていました。涼を求める若いカップルがひっきりなしに歩いて当てられっぱなしで、思わず目をそむけるような抱き合ってキスをする姿も見えました。羨ましいですね。韓国に出かける前、えひめ地域政策研究センターの兵頭さんからこの公園の情報を仕入れていたので興味深く見学しました。

 (先日佐賀山さんから2枚の清渓川公園の写真がメールで送られてきました。夜の景色はライトのみの寂しい写真でしたが、明くる日のオプショナルツアーでこの綺麗な河川公園を見学したそうです。送られてきた写真の処理が分らぬまま時を過ごしていましたが、ブログ用の写真に処理する圧縮を試みたところ、偶然にも取り込みに成功しました。韓国旅行から3週間も経った9月15日夜10時の出来事でした)

 南大門市場といわれる通りは眠らない街といってもいいほど夜遅くまで若者が賑やかに行き交っていましたが、特に若い女性の数は半端ではなく目を見張るものがありました。ショッピングや飲食を楽しむ姿からは、とても隣に北朝鮮というベールに包まれた国があることも、徴兵制度があることも感じさせない平和そのものの
韓国の夜の素顔でした。

  「飛行機で ひょいと一飛び 他所の国 言葉通じず やはり外国」

  「この人も 蒙古斑点 あるのかな 顔では見分け つかぬ人たち」

  「他所に来て あらため思う わが国の 人も自然も 風までいいな」

  「故宮門 入れば喧騒 打ち消され タイムスリップ チャングン世界」

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shin-1さんの日記

○田舎の盆踊り大会

 「果たして踊り子さんが集まるか?」というのが自治会長をしている私の最大の不安でしたがいらぬ心配でした。夕闇迫る7時過ぎになると何処からともなく踊り子さんが集まり、最大の多い時は会場のやぐらを囲むように3重の輪が出来たほどですから、まあ満足せねばと胸を撫で下ろしました。盆踊り大会を開く時の最大の課題は踊り子確保です。昨年までは地元郵便局や銀行さんにお願いに行って衣装等でメリハリの利いた人たちが大勢踊ってくれていましたが、今年は銀行の支店長も変わり、郵便局も民営化の激しい波に翻弄されそれどころではないといった様子だったので思い切って作戦を変え、今一番元気といわれる漁協女性部に直接私が出向きアタックしました。また妻の力を借りて伊予市の民生委員などにも働きかけ、ついでに都辺町の友人も誘いました。結果的には頼んだ仲間は全て義理を果たして予想以上の参加となったのです。しかも地元の人たち、特に年配の方たちがビールの勢いを借りて、また組長さんたち役員も一生懸命盛り上げようと努力してくれたお陰で昨年とは一味違った素晴らしい盆踊り大会となりました。

 盆踊りで欠かせないのが踊りの選曲です。毎年のことながら放送一式は中央公民館の米湊誠二さんに頼んで担当してもらいましたが、あいも変わらず任期があるのは炭坑節、神輿音頭、双海音頭、きよしのズンドコ節なのです。この曲以外の曲をかけると極端に踊る人が減るのですから長年の習慣は恐ろしいものです。炭坑節は亡くなった三橋美智也が歌っているのですから呆れてものが言えないって感じです。双海音頭はやはりご当地ソングで私がまちづくりを担当していた頃地元で歌詞を募集し、既に亡くなった商工会長吉岡政吉さんの歌詞に補作をし、キダタローさんが曲をつけ、民謡歌手小杉真紀子さんが歌っています。この曲はもう二十年以上も町民に愛され続けているのです。地元には器用な人がいて何の曲でも太鼓を叩ける人がいます。対馬さんもその一人で、病気で床に伏している叔父森脇正に代わって太鼓を叩いてくれました。

 双海町灘町地区には手踊りという古い時代から踊られている踊りがあります。その普及を文化協会が中心になって行いましたが、その成果があって太鼓も口説きも古老から伝承してもらった人が何人か育っているのです。この日もお願いして協力してもらいました。口説きは谷岡さん、太鼓は何と女性の吹原さんと大石さんです。三人の調子に合わせてお囃子は市会議員の山崎さんが努めてくれましたし、毎年のことながら上田教育長も踊りの輪に積極的に参加してくれました。

?子どもに一番人気があったのはこの仮装をした怪しげな踊り子さんです。子どもは怖いけど何故かこの踊り子さんの周りに集まって追いかけたり追いかけられたり、楽しい雰囲気を演出してくれました。前野さんありがとう。

 観客はかき氷を食べたりビールを飲みながら思い思いに涼を求め、行く夏を惜しんでいました。

 この日灘町では盆踊りに合わせて戦没者と新盆を迎えた人の写真を飾り、本覚寺の住職さんをお迎えして慰霊祭を催しました。戦没者の家族も高齢化が目立ちましたが、両遺族や組長さんをお迎えしてのいい慰霊祭となりました。

  「行く夏を 惜しむが如き 盆踊り 太鼓合わせて 踊るわ踊る」

  「応援に 駆けつけ踊る 妻の友 襟足すっきり 妻より美人」

  「今年また 六十一回 戦没の 写真に誓う 戦争ない国」

  「ああ俺の 六十一回 夏終わる まるで日捲り 残り少なく」 

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shin-1さんの日記

○盆踊り大会の準備

 「えっ、まだそんな古いイベントをやっているの」なんて言われそうなミニのイベントを、私が自治会長を務める灘町という300戸足らずの自治会では戦後延々と今日まで続けているのであります。私たちが青年団活動をしていた若い頃は町内のあちこちで盆踊りが行われていましたが、ひとつまた一つと次第に姿を消して、今では町内でも珍しい行事となってしまいました。昔は青年団が盆踊りを仕切っていましたが、今の青年にはその力も団結もなく、自治会が仕切るコミュニティ行事として細々とやっているのです。

 今朝は朝7時30分から集会所横の広場に役員さんや組長さん総勢30人余りが集まり、暑い中汗だくだくで午前中準備を行いました。草刈や清掃を行いながら広場の中央にやぐらを組み立てる人、山へ笹飾りのための笹を切りに行く人、ぼんぼり電球を張り巡らす人、放送施設を取り付ける人などなど、誰言うでもない役割を分担しながら順調に作業を進めました。公民館の室内では戦没者の追悼と新盆者の慰霊を行う祭壇が組まれ、女性軍は供えるための団子を作って蒸したりお供え物を買いに走ったりでこれまた大忙しです。夕方には本覚寺の住職さんを迎えて読経供養をしてもらうため、仏具をお寺まで取りにも走りました。紅白の幕や観客のための布椅子はトラックで役場へ取りに行きます。こうして午前11時には粗方の準備が終わり、缶ビールで喉を潤し打ち合わせをして準備を終えたのです。

 昨年は私も役員さんも就任して始めてのことで何をどのようにしてよいか分らず、特に私が自信がないものですから前区長さんの元へ度々聞きに行って事なきを得ました。今年は昨年の徹を踏まないためにやぐらの立て方、祭壇の組み方などはデジカメで撮っており、また準備物や連絡すべきことも忘れてはいけないと終了時にメモして残していました。お陰さまでその写真とメモが随分役に立ちました。私の任期は一応2年間なので来年の方には私のような苦労をさせたくないので、しっかりと写真とメモを残して引継ぎしたいと思っています。

 さて私の気がかりは準備よりも今晩7時から始まる本番の盆踊りの方が今から心配です。というのも最近の傾向として盆踊りを踊る踊り子さんが年々減少していることです。阿波踊りの文句「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」てな調子で踊ってくれると随分助かるのですが、やはり時代の流れでしょうか盆踊りを踊る踊り子さんは年々減少しているのが実情なのです。

昨年も今年も練習を計画しましたが結局は中止となってしまいました。

 でも嬉しいこともあります。炭坑節や双海音頭、キヨシのズンドコ節などのレコード音楽とは別に、地元に古くから伝わる手踊りが今年も出来そうなのです。お願いしていた口説き人や太鼓たたきの人も午前中にやって来てリハーサルを行いましたが、いい感じで望めそうなのです。今更ながら地域の伝統文化伝承の重要性を感じています。

 青年も子どもも、見学する老人も、全てにおいて地域が右肩下がりする地方において、こうした伝統の灯を絶やさないようにすることは容易なことではありません。幸いわが地区では役員と組長さんも全員参加で準備や運営に当たる伝統が息づいていますし、運営費も各戸千円ずつの寄付金が満遍なく集まります。もっと楽しくすることを考えてリニュアールしようと心がけていますが、さて今年の成果はあと5時間後に出ます。期待しましょう。

 荒れる大海原から突如巨大な海坊主が立ち上がり、船を襲ってくる危機的なことを「
イベント」というそうです。そうであれば現在のこのイベント的状況を逆に活かし灘町という地区の乗組員が一致結束し大海原を乗り切っていかなければならないと思うのです。

  「踊る人 果たしているか 盆踊り そんな心配 去年もしたな」

  「昨年の 不安を拭う メモ写真 一目瞭然 今年バッチリ」

  「あの人も この人昔 ご一緒に 再び一緒 時を越え来て」

  「上天気 今宵は太鼓と 口説き声 夜空響いて 盆の踊りが」   

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shin-1さんの日記

○息子の就職活動

 次男が「お父さん、僕もう一度学校へ行こうと思う」と言いだしたのは今から4年余り前でした。「えっ、これから5年間も学校へ行くの?」なんて思ったのは当然かもしれません。高校を卒業して直ぐに就職した息子は、自分が見つけた会社に入りそれなりに頑張り、8年間も真面目に務めたのでした。一度就職したらそれを天性の仕事にすることが一番と思っていた親にしてみれば青天の霹靂でした。それでも息子が勉強したいと言うのだからと渋々OKし、「勉強することはいいが、看護学校は難しいそうだ。8年間も勉強から遠ざかって入学試験に合格できるのか」と念を押したら、「とにかく挑戦してみる」と意欲満々でした。結果的には合格し彼の挑戦が始まったのです。勿論趣味で続けている演劇も両立させたいとのことでした。息子を信じてはやりたいが、はてさて続くかどうかと思ったものでした。蓋を開けてみると彼なりに努力した結果金の要らない特待生に選ばれ、2年生から専攻科の今日まで授業料免除の金運を射止め、親の眼から見ても頑張る姿はいじらしい程でした。看護士を目指すそもそものきっかけは長女、つまり次男にとっては助産婦をしている姉の存在が大きかったようで、陰に陽に姉のアドバイスを貰って、やっと来春は卒業見込みとなりました。

 今は来春の卒業に向けて就職活動の真っ最中で、自分の肌にあった病院の就職試験を受けています。先日は意中の病院の試験に臨み、今日は第二の希望先の受験に出掛けました。昨日のことです。病院実習を終えて帰ってきて、留守中親父が預かった自分宛の書留封書を受け取り開封するなり「お父さん○○病院から合格通知が届いている」と大声で叫ぶのです。この病院は受験生にとって人気も高く難関だと思っていただけに余程嬉しかったのでしょう。本命に合格すれば後の病院を受ける必要はないのですが、息子は今日も元気に就職試験に出掛けました。次男は30歳という人生にとっていわば遅い再出発の道を選んだ

のですが、さらに来春の看護士国家試験という高い高いハードルを越える試練が待ち構えています。でも頑張り屋の次男なら大丈夫だろうと親馬鹿になっています。

 娘を除けば3人の息子はみんな職場を変えました。長男は建築士として同じ仕事をしていますが、会社は今の社長さんの独立を機に変わりました。三男は4年間勤めた会社を辞めて警察官になりました。いずれも前の仕事先では一生懸命仕事をして惜しまれながらの退転職だったことはある意味で救いだったような気がします。

 仕事にもつかないニートや仕事につきたくても仕事がない社会の問題が大きくクロ-ズアップされていますが、勿論それは社会風潮だし社会の責任かも知れませんが、自分の肌に合わないと直ぐに働きを辞めてしまう若者も多くいます。全日本のサッカー監督にジーコに代わって就任したオシムさんが「あなたたちは息子さんを最後まであきらめずに走る子どもに育てましたか?」という言葉を選手の両親に問うたそうです。その両親は「それだけは自信があります」と答えたらオシムさんは「そうであれば私が自信を持って育てます」と言いました。オシムさんのサッカーの基本は「走って走って走ること」だそうですが、人が見ていたり格好よい所だけで走るこれまでのサッカーへの戒めとでもいえましょう。何かが欠けている今の教育へのメッセージとして大切にしたい言葉だと思いました。

 次男の長い人生の旅はまだまだこれからです。合格という一つの扉が開かれただけに過ぎないのです。走って走って最後まであきらめずに走り続けて欲しいものです。

  「合格の 通知喜ぶ わが息子 三十にして 惑うな小雀」

  「学びたい 時が適期の 五年間 少し出口が 見えてきたかも」

  「早速に 姉へ電話の ご報告 弾んだ声が 隣部屋まで」

  「あきらめず 最後の最後 まで走れ オシムの言葉 息子はなむけ」  

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