shin-1さんの日記

○予期せぬ死

一ヶ月前に旧友堀間さん(67歳)が不慮の死をとげ、一昨日は本間さん(57歳)という妻の友人のご主人が亡くなりました。年齢的には人生80年といわれる長寿の時代にしてみれば67歳も57歳も早死にというべきでしょう。一人暮らしだった堀間さんは台所で死に、本間さんは自宅の階段を踏み外して落下し、食べた物を喉に詰まらせて死にました。いずれも本人にとっても家族にとっても不本意な予期せぬ死であったことは、通夜や葬儀の深い悲しみの姿からも容易に汲み取れるのです。「堀間」さんは「ほりま」、「本間」さんは「ほんま」と中の一時が違うだけですからこれも何かの因縁でしょうか。つい最近近しい人や親しい人、それに年齢的に同年代の人の死を目の当たりにすると、「いよいよ俺の番かな?」と思うのは当然のことかも知れません。

 私が初めて死を意識したのは18歳の時でした。宇和島水産高校の練習船愛媛丸で遠洋航海に旅立ち、帰港の途中に冬としては珍しい超一級の低気圧の洗礼を受け、船長さんから「この船は沈むかも知れない」という話を聞いた時、「ひょっとしたら死ぬかもしれない」と思ったのです。幸い生きて帰れたのです。その後何度か病気になり、何度か怪我もしましたがまあまあ元気で61歳の今日まで生きれた事に感謝はするのですが、さてこれから死ぬまでの期間をどう生きるか、そろそろと思いつつも死ぬことよりも生きることの方にまだ心が向いているようです。だって親父を見送る責任があるからです。一番の親不孝は親より先にあの世へ行くことだといつも諭され生きてきました。故に神様仏様、お願いですからもう少しだけ親父も私も長生きさせて下さい。勿論妻もですよ。

 ところで最近身の回りで自ら命をたつ人が増えてきました。周りから見れば何もそこまでと思うのですが、命を絶つ人それぞれにこの世を儚んでの決断だけに寂しい気がします。その原因は金銭トラブルと人間関係のトラブル、それに健康上の理由が圧倒的に多いと聞きました。あの大人物三島由紀夫や川端康成さえも自殺するのですから、人の悩みは理解し難いもののようです。

田舎者には田舎者の、都会人には都会人の悩みがあります。また貧乏人には貧乏人の悩みが、金持ちには金持ちには金持ちの悩みがあるのです。しかし田舎者も都会人も、貧乏人も金持ちもみんな命は一つだし、死んだら元もこもないのです。死に損なって死の淵から帰ってきた人の話を何度か聞きましたが、「死なないでよかった」が結論のようです。現代人は皆人生の重い荷物に押しつぶされてもがき苦しんでいるように見えます。要はその荷物を捨てることから始めることです。ある老人が一儲けしてやろうと先物取引に手を出しました。最初はこれほど儲かるのかと思ったらしく、次々に投資しお定まりのコースを辿ったようです。結果世を儚んで自殺というこれまたお定まりのコースを辿る予定でした。しかし神仏にすがるべく歩き遍路に出たそうですが、歩いているうちに死ぬことがばかばかしくなって無から出直しを誓い、今は立派に生きています。

 自分が自らの命を絶って死ぬことはとても勇気がいることです。でもこのおじいさんのように無一文になって重い荷物を下ろせばまた生きることの希望が湧いてくるのです。大体自殺する人にはマイナス思考の人が多いそうです。私なのどのように、失敗してもジョージアの宣伝ではありませんが「明日があるさ明日がある」なんて人は滅多に自殺しません。自殺する勇気がないのです。世の中は先日まで不景気でした。東京では景気が回復しバブル時代を超えたとさえ言われています。しかし田舎ではまだまだ景気がよくなるどころか不景気で、特に建設土木業界は大きな試練に立たされています。田舎にあれほどあった中小の土木建設業者は倒産という名の下に次第にその姿を消しています。土木建設業のランク分けがされて仕事が回らなくなったばかりか、設計見直しで儲からなくなり、下請け孫請けなど赤字覚悟の自転車操業だと聞きます。どこか可笑しい世の中です。

  「この町の 仕事請け負う 他所の人 何故にゼネコン やはり献金?」

  「ゴーストに なりはしないか この町も 一つ二つと 灯が消え寂しく」

  「また一人 周りの人が 死んでゆく 寂しき盆の 線香揺れる」

  「不足なく 欲もなくなり 良寛の 域に達する 自由なこの身」 

 

 

 

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shin-1さんの日記

○久しぶりのお湿りです

 今年は例年より10日も遅れて梅雨が明けましたが、どういう訳か今年の台風は四国を避けて通っているようで、梅雨明けから今日まで双海町では雨らしい雨はまったく降らず、そろそろ野菜や果樹に恵みの雨が欲しいと思っていました。みかん農家では「そろそろ潅水でもしなければ」と思ってるのでしょうが、潅水施設を持っていない兼業農家ではまさに自然農法ですから、自然の意の向くままにただ雨の降るのを祈りながら待つのみの心境だと思うのです。

 昨日は少しのお湿りがありました。孫の守りで疲れたため11時に早い床入りとなりましたが、その頃には涼を取るため開けた雨戸の向こうで雨音が聞こえていましたが、朝4時に起きて外を見ると期待した雨は止んで木の下の土もまだ余り湿った様子ではないようです。昨晩の天気予報だと四国や九州は台風の影響でかなりまとまった雨が降るだろうとの予測だったので、今日の高知行きを心配していましたが、この分だと今のところは大丈夫のようです。

 お盆が過ぎるといよいよ秋から冬にかけての野菜の作付けをしなければなりません。今は畑の土も折からの太陽で焼かれガチガチで鍬さえも歯がたたない状況ですが、そのうち雨でも降れば耕運機で深耕しいい野菜を、しかも無農薬で有機肥料で・・・と夢は膨らんでいます。

 私は儲けなくてもよい農業をしています。自分の体のために働いたりできるだけ健康に良い果菜を自分で作って食べたい思いから農業を始めました。ですから農業は副次的なのです。これが農業で飯を食わなければならない人にとっては、天気予報が気になったり、雨の一粒、虫の一匹、病気の広がりなど、まさに自然の猛威と格闘しなければいい成果は望めません。それに加えて高く売れる市況情報も欠かせないものです。かつてのように作物を作れば農協が売ってくれる時代は終わり、自分が売らなければ広域合併した農協や行政を当てにして左団扇を振れるほど農業はやわいものではなくなっているのです。

 私には農業をしている友人が沢山います。儲けている人、あくせく働く人、様々ですが、儲けて楽をしている人はそんなにいません。長男に生まれたから仕方なく、農地を荒らすわけにも行かないから仕方なく、儲からないけど仕方なく、止めるに止めれないから仕方なく、これ以外に仕事がないから仕方なくなどなど、殆どの人が仕方なく農業をやっています。「農業が好きだけど」という前提はみんな持っているのでしょうが、儲からないために「仕方なく」へと右肩ならぬ両肩下がりとなっているのです。私の農業は農業といえるかどうか分りませんが、儲けなくてもよい甘い考えの農業をしている私の口幅ったい言い方をすれば、「仕方なく作る作物」は仕方ない味しかしません。儲けるためには知恵を出さなければなりません。一部分ですがこんな儲からない農業だとみんながぼやいていますが、農業で儲けている人も結構いるのです。また儲けなくても農業を楽しんで暮らしている人もいるのです。

 日和見農業という言葉や民話があります。あるお百姓さんが今日は天気だからと大根の種を蒔きに畑に向かいました。道端で村人がひそひそ話をしていました。「そんな根も葉もない話を」という言葉が聞こえたので「根も葉もない大根を作ったって仕方がない」とその日は種を蒔きませんでした。明くる日は雨でした。前でも種を蒔こうと蓑笠で出掛けると、近所に住む村の知恵者が「雨の日に大根を蒔くと腐ってしまう」とお百姓さんを諭しました。長い雨が上がり今日こそと思って畑へ出掛けました。途中顔を腫らした人に出会いました。「どうしたの」と尋ねると「歯を虫が食って昨晩は寝れませんでした」と言うのです。「葉を虫が食う」なんて縁起が悪いとこの日も種まきを諦めました。結局このお百姓さんはその年大根の種を蒔くことができませんでしたとさ。

 御幣担ぎとはこのお百姓さんのような人を言うのでしょう。自分の信念や主張がなければ、結果に対しても人のせい社会のせいだと責任転嫁して、自分の努力は棚の上に上げてしまうのです。

 信念を持った安全で安心な果菜を食べたい、それは少々高くても、今人間が最も求めている欲求かも知れません。

  「お湿りに 少し安心 お百姓 台風嫌だが 雨だけ降って」

  「高くても 儲かる訳では ありません 果菜の原価 しれたものです」

  「農業は 競争もなく 消えてゆく 自然淘汰の 悲し運命」

  「年金の 金で清算 するという 経費の清算 全て農協」

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