shin-1さんの日記

○盆踊り大会の準備

 「えっ、まだそんな古いイベントをやっているの」なんて言われそうなミニのイベントを、私が自治会長を務める灘町という300戸足らずの自治会では戦後延々と今日まで続けているのであります。私たちが青年団活動をしていた若い頃は町内のあちこちで盆踊りが行われていましたが、ひとつまた一つと次第に姿を消して、今では町内でも珍しい行事となってしまいました。昔は青年団が盆踊りを仕切っていましたが、今の青年にはその力も団結もなく、自治会が仕切るコミュニティ行事として細々とやっているのです。

 今朝は朝7時30分から集会所横の広場に役員さんや組長さん総勢30人余りが集まり、暑い中汗だくだくで午前中準備を行いました。草刈や清掃を行いながら広場の中央にやぐらを組み立てる人、山へ笹飾りのための笹を切りに行く人、ぼんぼり電球を張り巡らす人、放送施設を取り付ける人などなど、誰言うでもない役割を分担しながら順調に作業を進めました。公民館の室内では戦没者の追悼と新盆者の慰霊を行う祭壇が組まれ、女性軍は供えるための団子を作って蒸したりお供え物を買いに走ったりでこれまた大忙しです。夕方には本覚寺の住職さんを迎えて読経供養をしてもらうため、仏具をお寺まで取りにも走りました。紅白の幕や観客のための布椅子はトラックで役場へ取りに行きます。こうして午前11時には粗方の準備が終わり、缶ビールで喉を潤し打ち合わせをして準備を終えたのです。

 昨年は私も役員さんも就任して始めてのことで何をどのようにしてよいか分らず、特に私が自信がないものですから前区長さんの元へ度々聞きに行って事なきを得ました。今年は昨年の徹を踏まないためにやぐらの立て方、祭壇の組み方などはデジカメで撮っており、また準備物や連絡すべきことも忘れてはいけないと終了時にメモして残していました。お陰さまでその写真とメモが随分役に立ちました。私の任期は一応2年間なので来年の方には私のような苦労をさせたくないので、しっかりと写真とメモを残して引継ぎしたいと思っています。

 さて私の気がかりは準備よりも今晩7時から始まる本番の盆踊りの方が今から心配です。というのも最近の傾向として盆踊りを踊る踊り子さんが年々減少していることです。阿波踊りの文句「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」てな調子で踊ってくれると随分助かるのですが、やはり時代の流れでしょうか盆踊りを踊る踊り子さんは年々減少しているのが実情なのです。

昨年も今年も練習を計画しましたが結局は中止となってしまいました。

 でも嬉しいこともあります。炭坑節や双海音頭、キヨシのズンドコ節などのレコード音楽とは別に、地元に古くから伝わる手踊りが今年も出来そうなのです。お願いしていた口説き人や太鼓たたきの人も午前中にやって来てリハーサルを行いましたが、いい感じで望めそうなのです。今更ながら地域の伝統文化伝承の重要性を感じています。

 青年も子どもも、見学する老人も、全てにおいて地域が右肩下がりする地方において、こうした伝統の灯を絶やさないようにすることは容易なことではありません。幸いわが地区では役員と組長さんも全員参加で準備や運営に当たる伝統が息づいていますし、運営費も各戸千円ずつの寄付金が満遍なく集まります。もっと楽しくすることを考えてリニュアールしようと心がけていますが、さて今年の成果はあと5時間後に出ます。期待しましょう。

 荒れる大海原から突如巨大な海坊主が立ち上がり、船を襲ってくる危機的なことを「
イベント」というそうです。そうであれば現在のこのイベント的状況を逆に活かし灘町という地区の乗組員が一致結束し大海原を乗り切っていかなければならないと思うのです。

  「踊る人 果たしているか 盆踊り そんな心配 去年もしたな」

  「昨年の 不安を拭う メモ写真 一目瞭然 今年バッチリ」

  「あの人も この人昔 ご一緒に 再び一緒 時を越え来て」

  「上天気 今宵は太鼓と 口説き声 夜空響いて 盆の踊りが」   

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shin-1さんの日記

○息子の就職活動

 次男が「お父さん、僕もう一度学校へ行こうと思う」と言いだしたのは今から4年余り前でした。「えっ、これから5年間も学校へ行くの?」なんて思ったのは当然かもしれません。高校を卒業して直ぐに就職した息子は、自分が見つけた会社に入りそれなりに頑張り、8年間も真面目に務めたのでした。一度就職したらそれを天性の仕事にすることが一番と思っていた親にしてみれば青天の霹靂でした。それでも息子が勉強したいと言うのだからと渋々OKし、「勉強することはいいが、看護学校は難しいそうだ。8年間も勉強から遠ざかって入学試験に合格できるのか」と念を押したら、「とにかく挑戦してみる」と意欲満々でした。結果的には合格し彼の挑戦が始まったのです。勿論趣味で続けている演劇も両立させたいとのことでした。息子を信じてはやりたいが、はてさて続くかどうかと思ったものでした。蓋を開けてみると彼なりに努力した結果金の要らない特待生に選ばれ、2年生から専攻科の今日まで授業料免除の金運を射止め、親の眼から見ても頑張る姿はいじらしい程でした。看護士を目指すそもそものきっかけは長女、つまり次男にとっては助産婦をしている姉の存在が大きかったようで、陰に陽に姉のアドバイスを貰って、やっと来春は卒業見込みとなりました。

 今は来春の卒業に向けて就職活動の真っ最中で、自分の肌にあった病院の就職試験を受けています。先日は意中の病院の試験に臨み、今日は第二の希望先の受験に出掛けました。昨日のことです。病院実習を終えて帰ってきて、留守中親父が預かった自分宛の書留封書を受け取り開封するなり「お父さん○○病院から合格通知が届いている」と大声で叫ぶのです。この病院は受験生にとって人気も高く難関だと思っていただけに余程嬉しかったのでしょう。本命に合格すれば後の病院を受ける必要はないのですが、息子は今日も元気に就職試験に出掛けました。次男は30歳という人生にとっていわば遅い再出発の道を選んだ

のですが、さらに来春の看護士国家試験という高い高いハードルを越える試練が待ち構えています。でも頑張り屋の次男なら大丈夫だろうと親馬鹿になっています。

 娘を除けば3人の息子はみんな職場を変えました。長男は建築士として同じ仕事をしていますが、会社は今の社長さんの独立を機に変わりました。三男は4年間勤めた会社を辞めて警察官になりました。いずれも前の仕事先では一生懸命仕事をして惜しまれながらの退転職だったことはある意味で救いだったような気がします。

 仕事にもつかないニートや仕事につきたくても仕事がない社会の問題が大きくクロ-ズアップされていますが、勿論それは社会風潮だし社会の責任かも知れませんが、自分の肌に合わないと直ぐに働きを辞めてしまう若者も多くいます。全日本のサッカー監督にジーコに代わって就任したオシムさんが「あなたたちは息子さんを最後まであきらめずに走る子どもに育てましたか?」という言葉を選手の両親に問うたそうです。その両親は「それだけは自信があります」と答えたらオシムさんは「そうであれば私が自信を持って育てます」と言いました。オシムさんのサッカーの基本は「走って走って走ること」だそうですが、人が見ていたり格好よい所だけで走るこれまでのサッカーへの戒めとでもいえましょう。何かが欠けている今の教育へのメッセージとして大切にしたい言葉だと思いました。

 次男の長い人生の旅はまだまだこれからです。合格という一つの扉が開かれただけに過ぎないのです。走って走って最後まであきらめずに走り続けて欲しいものです。

  「合格の 通知喜ぶ わが息子 三十にして 惑うな小雀」

  「学びたい 時が適期の 五年間 少し出口が 見えてきたかも」

  「早速に 姉へ電話の ご報告 弾んだ声が 隣部屋まで」

  「あきらめず 最後の最後 まで走れ オシムの言葉 息子はなむけ」  

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