shin-1さんの日記

○逆手塾の感動写真届く

 ブログを読んだえひめ地域政策研究センターの兵頭さんから、逆手塾の感動写真が数枚メールで届きました。逆手塾は私が運営に携わっていたため、肝心な場所で肝心な写真のシャッターチャンスを逃して残念がった記事を書いたところ、嬉しい事に送ってくれたのです。でもその写真をどのように処理してブログに掲載できるのか分らないため、メールで懇切丁寧な指導マニュアルを送ってもらいました。今朝はブログの記事も書かずその操作手順に熱中したのですが、指導マニュアル通りに操作したらブログへの転載が出来たのです。普通だと「俺は偉い」と思うのでしょうが何のことはありません。センターの兵頭さんが偉かっただけのことなのです。それでも送られた写真の保存や使い方が分っただけでも偉い進歩ですから、私も私を褒めてやらねばなりません。

 まず一枚の写真はわがフロンティアグループのメンバー写真です。残念ながら大野事務局長とツり-ハウスを作った日浅棟梁は写っていませんが、主だったメンバーはちゃんと写真に納まっています。

 左端が河上さん、今回の食事を隣の湯山さんと日浅さんの今治3人衆で担当しました。夕食の配膳、朝食の味噌汁と目玉焼き、昼食のカレーは逸品で大好評でした。真ん中の佐々木さんと私の横の田宮さんは大野さんとともに上灘駅やシーサイド公園からの人員輸送に明け暮れました。特に山本さんの車処理や輸送に早朝まで奔走してくれた事に感謝します。

 はいこれが高座の写真です。自分で言うのもなんですが、この樹齢150年生の杉板の上での高座は凄い迫力でした。私自身のことなので写真に撮ることも出来ず残念がっていましたら、兵頭さんはちゃんとこうして記念の一枚を撮ってくれていたのです。高座ですから分厚い座布団が必要と、座布団を既に確保しました。次に高座に上がる時は新しいネタで面白いためになる話をしたいと密かに真打になることを夢見ています。

さてもう一枚は自慢の夕日の写真です。これも大蚊帳張りで悪戦苦闘している最中だったので手元にはなかったのですが、ついに6月10日のドラマチックな写真を手に入れました。

 どうですこの写真、逆手塾に来た全国の仲間はこの日本一の夕日を目と心に焼き付け、心を茜色に染めました。兵頭さんのこんな素敵な写真でも、まだ表現できないほどの感動だったとお便りが届いています。やはり私たちまちづくり人は現場主義、現場でないと感じないものがいっぱいあるのです。

 人間牧場に参加した人でとっておきの一枚をお持ちの方は私の方へ送って下さい。

  「人が撮る 写真は何故に 美しい 俺の腕では こんなに撮れぬ」

  「デジカメの とりこになって 三ヶ月 夕日牧場 妻さえ被写体」

  「また進化 教える人あり 知らぬこと 俺にも出来た 次はあれしよう」

  「木の上で 得意になって 話す俺 いい顔してます 自分に惚れる」

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shin-1さんの日記

○中世の風景

 人間牧場での逆手塾に参加した伊予市の門田さんが、全国から来た人に面白い話をしていました。「今見える風景は中世の人が見ていた風景と同じですよ」と言うのです。門田さんは伊予市の文化協会会長なのでそういう視点で見えるのだと感心しました。一世紀程前のつい最近まで日本人の交通は陸路より海路が開けていました。特に瀬戸内海は海の道が出来ていて物や情報の殆どが船で上方へ運ばれていました。中世時代はそこここの要所に山城出城があって、敵が攻めてくるとお互いが狼煙を上げて敵の接近を知らせていたのです。今でも黒山山頂には狼煙場の跡が残っています。電話もインターネットもない昔の最高の情報伝達手段は狼煙だったのです。

 中世時代の人はこんな山の上で海を眺めていたに違いないと思うと、何か背中がゾクゾクして歴史の重みを感じるのです。

 先日関西汽船の浜田さんが一冊の本をプレゼントしてくれました。山崎善啓著「瀬戸内近代海運草創史」という少しお堅い本です。帯には「瀬戸内の海上交通はどのような発達を遂げたかその全容を解明-明治の近代国家草創期、政治・経済・社会の諸方面に未曾有の大改革が行われたが、交通、とりわけ海上交通の整備は急務であった。しかしその発達過程には未解明な部分が多い。本書は断片的に残されている資料を収集・整理し、瀬戸内海沿岸航路や就航船舶等海上交通の全容を明らかにする」とありました。

 中を捲って読んでみると、中々味のある資料が掲載されて興味をそそりました。双海町のこともほんの数行ですが書かれていました。「双海地方には明治26年に初めて上灘・下灘に汽船の寄港を見たが、長く続かず廃止された。交通の不便を痛感した栗田愛十郎は、長浜の有志と共同で明治39年、三津・二名津間に汽船を就航させて貨客輸送と地元の利便を図った。この航路は一日上り下り4航海であった。ちなみに栗田愛十郎は、明治35年豊田郵便受取所を開設し、大正9年まで局長を務めた資産家である」と・・・。

 海の見方は色々あります。門田さんのように中世の時代に遡って歴史的に見るのもいいし、私のように漁業的見地から見るのもいいものです。私が子どもの頃は山見さんが(魚見ともいう)山に作られた山見櫓の上から双眼鏡でイワシの魚群を見つけて、それを集落や沖で待つ船に知らせて漁業を営んでいました。魚群探知機のなかった昔は海の色の識別によって魚を発見していたのです。大声で采を振る姿はまさに勇壮で、子どもの頃の思い出として強烈に残っています。

 海の色は空の色を映す鏡のようなものですから、空が青いと海も青く見えます。日々刻々と変わる海の色の変化を眺めるのもまた味わい深いものがあります。門田さんの言うように中世の風景と思って見るとまた違った味があるようです。

  「同じ海 中世人も 眺めてた 歴史の重み 感じながらも」

  「この高さ 魚群見つけて 采を振る 子どものころの 思い出彼方」

  「空の色 映して海の 青さかな 風ざわついて 海もざわつく」

  「白い船 航跡引いて 遠ざかる 波紋に夕日 映えて輝き」 


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shin-1さんの日記

○ジャガイモ堀り

 人間牧場に作付けした数少ない作物に実りの季節がやって来ました。梅は豊作で既に収穫しましたが、ジャガイモの収穫が逆手塾の準備や開催で遅れていました。昨日は露の中休みで真夏のような日差しが照りつける中収穫作業にとりかかりました。2月の作付け後順調そうに見えた今年のジャガイモづくりは見事失敗に終わりました。今年は春から大切な時期に何度か突風が吹き荒れ、沢山の茎が折れて飛ばされたのです。死んだ母から「ジャガイモは根寄せをしないとジャガイモが青くなるし茎が風に飛ばされて芋が付かない」と口癖のように言っていたのを思い出しました。私はジャガイモの種芋を植えるにあたって畝を作ったのです。ところが作付けした畑は急峻で植えた時は良かったのにその畝が高過ぎて畝寄せの土を被せられなかったのです。せっかく難儀をして畝を作ったのがあだとなって茎はものの見事に強風に吹き飛ばされました。芋の植え付け、草取り、施肥、根寄せとやった一連のジャガイモ作りは知ってるつもりの知識先行だけだったので失敗に終わりましたが、来年は畝を作らず平地に植えて根寄せが出来るよう改良を加え失敗の中から学んだ知恵を生かして必ず成功したいとリベンジを誓いました。

 昨日のジャガイモ堀りは幾ら掘っても汗は出てもジャガイモが出てきませんでした。イヤになるほどでしたがそれでも6キロも植えた種芋が20キロ入りのキャリーに2はい、つまり40キロの収穫となりました。4ヶ月で6倍強の増加ですから、金利1パーセント時代にしてはよく出来たと思ってジャガイモを褒めてやりました。

ブログで「おーい、ジャガイモが豊作でした」と書くつもりだった私の目論みは見事に崩れ、芋畑会議は次に作付けしているサツマイモにお預けとなってしまいました。

 今年の種芋は男爵と中が黄色味を帯びたものを使いましたが、さすが男爵は不作といいながら相応の成果がありましたが、中が黄色味のものは殆どが全滅でした。収穫したジャガイモを愛用の軽四に積んで帰り、その夜の夕食に妻がジャガイモの蒸かし芋を作り食卓に並べてくれました。中が黄色味を帯びたジャガイモの美味いこと美味いこと、ホッペが落ちそうで妻も美味しいとべた褒めです。気落ちした私の心を察知してのことでしょうが、褒められるということはいつになっても嬉しいものです。

 親父の作ったわが家の横にある菜園は男爵とメークインですが、さすが親父は年期が入っていて、日照の関係で不作だといわれる今年でもそれなりの成果を収めています。昨日親父の頼みでその収穫も合わせて行いましたが、一年分のジャガイモはちゃんと確保し、そのジャガイモを小分けして親類におすそ分けのおまけまで付いていました。ジャガイモについては88歳の親父の方が私より遥かに凄いのです。脱帽です。返す言葉もありません。親父「人間牧場にジャガイモを作ったというが出来たか」。私「うんまあまあ。今年は風が強くて」と風のせいにしてその場を逃れました。ああ情けなやわが仕事・・・・・・。

 それでもジャガイモを掘った後の畑は見事に原野から畑に変身していました。

(下の写真は作付けした2月頃の写真です)

  「種芋を 植えたつもりが 草を植え 掘れども芋は たったこれだけ」

  「ああすれば よかった思う 後祭り 結果正直 親父に負けた」

  「妻だけは 俺の苦労を 褒め称え ショック和らぎ 蒸かし芋食う」

  「種芋の 購入金額 越えもせず 今年は赤字 黒のペン字で」 

 

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○逆手塾ルポ⑥

 人間牧場はまだ完成ではなく発展途上です。故に完成までにはまだまだやらねばならないことがいっぱいあるのです。でもその完成は何時になるか分らないので「走りながら考え行動する」ことにしました。逆手塾の誘致も人間牧場の水平線の家が着工した昨年の7月に決意したのですから、かなりの勇気が必要でした。しかしその決意が五右衛門風呂やツリーハウスの完成を早め、どうにか逆手塾までに間に合ったのです。特にツリーハウスは前日に完成という突貫工事でした。多分参加者には不便を感じさせたことと思いますがご容赦ください。

 逆手塾の開催に当たって新聞2社からの問い合わせがあり取材に伺いたいと申し入れがありました。行政に身を置く時代なら大歓迎だったのですが、そんな器用なことをしなくてもいいと思い、1社を丁寧に断りましたが、OKを出した後の1社は結局道を間違えたのか着ませんでした。新聞や放送以外に情報発信の手段がなかった時代なら約束違反と喧嘩をするところでしょうが、ブログや雑誌からの取材もありそうなので、あっさり引き下がりました。私も丸くなったものです。

 今回の逆手塾の成功は広島から乗り込んだ逆手塾の巧みな塾の運営やスピーカーを務めた川村一成さんの魅力もさることながら下支えしてくれた多くの方々のお陰だと思うのです。特に宿舎を提供してくれた地元池久保の区長さん、参加者の運送を引き受け、3食を作って提供してくれた21世紀えひめニューフロンティアグループの皆さん、それに風呂焚きや会場説明に奔走してくれた息子兄弟と刺身を作ってくれた妻など多くの人たちが関わってくれました。馬路村からは馬路村農協の東谷組合長の肝いりでごっくん馬路村が沢山届きました。楽しみにしていた木下君の参加が仕事の都合で叶わなかったのは返す返すも残念でなりません。ブログを借りて関係者の皆さんに厚くお礼申し上げます。

 和田さんや宮崎さんご夫妻、田中さんにはことの他お世話になりました。田中さんの燻製術は息子が興味を示していて、燻製釜を作りたいと提案があるようです。これからは金もかけれないので知恵と汗で作りたいものです。

 逆手塾でちょっとしたハプニングがありました。明日の朝までに香川に帰りたいと出発した山本文子さんが深夜道に迷い、こともあろうか私の登山道に迷い込み、車を故障させてしまいました。携帯電話で深夜の救出作戦及び故障車の輸送作戦、松山駅への送り作戦などドタバタしましたが、山本文子さんにとっては長い長い一日となりました。山本さんや手伝った大野さんと佐々木さんご苦労様でした。

 参加した皆さんはそれぞれの思いを胸にそれぞれの土地に帰って行きました。また会う日までさようなら。

  「何事も なかったように 静まって 残ったビール 冷蔵されて」

  「よかったと ハガキしたため 届き来る 顔を思って 返信文書く」

  「トイレ紙 使ったほどだけ 芯残る みんな行くとこ 綺麗に掃除を」

  「梅雨なのに 雨の降らない 奇跡呼ぶ これも実力 神のお陰か」

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○逆手塾ルポ⑤

 逆手塾の名物に「徳野貞雄の過激なまとめ」というのがあります。私と宮崎さんと和田さんがステップアップのその度にショートコメントで会議を仕切ってゆくのですが、徳野先生の話は歯に衣を着せない過激な発言だけにヒヤッとしたり納得したりするのです。徳野貞雄という男、この人は熊本大学の教授でありながら、大学の先生とは似ても似つかぬ風貌と身なりをしているのです。この先生よっぽど暇なのか?、前日から愛媛に入り前日には地域政策研究センターの兵頭さんを了解もなく勝手にアッシー君として使って、人間牧場の下見や宇和島までのツアーを実行しているのです。

 何年か前彼を双海町のシンポジウムに呼んだ時、若い職員に先生を迎えに松山観光港まで行ってもらいました。ところが彼から「大学の先生とおぼしき方はこの船には乗っていません」と電話が架かってきたのです」。私は「顎に髭が生えてる。ズボンが落ちそうなくらい腹が出てる。まるで狸」と言った途端、「あっいました」でした。この日もよれよれのズボンのすそをまくり、足は素足、どう見てもそこら辺のおっちゃんが田植えでもしそうな雰囲気でお世辞にも大学の先生とは思えないのです。その上食うわ飲むわで豪快そのものなのです。

 しかし机を前にすると何故か君子豹変、立派な話をするのです。彼の凄さはその過激な発言なのです。相手が誰だろうと「馬鹿」だの「アホ」だの平気で人をコケ下ろしてしまうのです。喋りだしたら止まらず、時間の観念がないところもまあ彼の魅力と言えばそうも取れます。しかし主催者としては大変困る先生なのでありまして、この日も10分間も超過してしまいました。でも憎めぬ風貌と仕草が人をひきつけるのでしょう。

 この日私は、インスピレーションで落語の高座を思いつきました。見ると水平線の家の隅にあの150年の年輪を刻んだテーブルがあるのです。失礼かとは思いましたが、その上に座布団を一枚置き、気になるカバンを持って座ると、なんとこれが高座にはや代わりしたのです。話してみましたが座り心地もよくこれはいけるととっさに思いました。

 残念ながらその写真は自分で取れなかったので、人の写真に収まっていると思うのですが、密かに人間牧場高座落語100話を考えました。早速ネタ仕込をして百話本を完成させたいと思っています。そうすれば150年の年輪に私の百話が加わって250年の年輪になるという物語です。

 和田さんは言葉遊びの達人です。駄洒落も私ほどではありませんが、とにかく変換ミスと思える程の造語が次から次へ造られています。そしてそれをハガキや板に書いては商売するのです。味のある特徴ある絵や字はもう芸術としか言いようがありません。目立ちたがりやで私とよく似た経歴を持っているのも気が合う原因かも知れません。最後が教育長と言うのも同じです。「私の恋文」のタイトルで送られてくる連載文は凄いことが書かれています。でも私のブログの方が送料もいらず現代的だと密かに思っているのです。

  「教授だと 言うのに何だ その姿  人間くさくて いいねいいよね」

  「腹が立つ 程に過激な 議論する 飽きもしないか 今年も激論」

  「高座にて 話す感触 こりゃいいわ 閃き実行 今日から始む」

  「話芸なる 口を磨いて 真打に もっと稽古を せずばなるまい」

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shin-1さんの日記

○逆手塾ルポ④

 水平線の家には大小の灯りがついています。海側に面した全面ガラス張りの構造のため、普段は採光がすこぶるよく少々曇っていても電気をつける必要はまったくありません。今回の逆手塾の開催は電灯をどれだけ点けたらどれだけ明るかのいわば実験でもありました。夕闇迫る頃になると明かりが欲しくなり点灯したのですが水平線の家の内部もウッドデッキの屋外も門灯も申し分なく、闇夜に水平線の家が幻想的に浮かび上がりました。日曜日に操業のため出漁した漁師さんの話によると、普通は暗闇部分のこの場所に突如として光々と明る人間牧場あたりは、凄く目立つのだそうです。

 しかしこの明るさには問題点が一つあるのです。「飛んで火にい入る夏の虫」そのままに、たくさんの虫を呼び寄せてしまうのです。設計士の息子もそのことは設計段階で計算に入れていたらしく、2階ロフトの窓は全て内側網戸で虫の侵入を予防しているのです。問題は3間半の海側窓からの侵入です。それを阻止するための大蚊帳製作プロジェクトがわが家の家族でスタートして、既に製作は終わっているのですが、実験的に設置しただけで、まだその設置に要する時間や大蚊帳の効果は未知数のままなのです。

 夕闇迫る頃参加者に内緒で押入れにしまっていた大蚊帳を取り出し設置する事になりました。みんな右往左往しましたし、蚊帳のすそ終いのために木の棒を打ちつける作業が加わるハプニングがありましたが、何とか設置が完了したのです。

 少し写真が暗いようですがこのような雰囲気で見事大蚊帳プロジェクトの成果はありました。雨もなく風もない穏やかな天気に助けられ、明くる日の朝までこの大蚊帳は見事に虫をシャットアウトする事に成功したのです。外から見ると暗闇に浮かぶ大蚊帳の風景は幻想的で、まるで源氏物語の世界のようでもありました。

 夕方から始まった交流会は室内とウッドデッキが一体化しまさに圧巻でした。せっかく遠い所から来るのだからと、妻の発案でかんぱちの刺身と漁協女性部のじゃこ天を加え、飲むほどに酔うほどに大満足でした。夕日に変わって顔を出した満月の月もこれまた味わい深い自然の演出です。12時には月の明かりで宿舎となる池久保公民館まで移動しましたが、門田真一さんや地域政策研究センターの心ある人たちは飲み足らず、延々2時過ぎまで酒を肴に交流を深めました。

 長い一日が終わり10人ほどが雑魚寝雰囲気で人生について語り合いました。家族のこと、人生のこと、仕事のことなど人それぞれが人それぞれの悩みや夢を語り合いました。人生の達人ではないけれどその都度コメントを求められアドバイスするのですが、悩みを解決したくてやって来た「あべまりあ」さんとは特に深く話し込みました。片道切符の旅を思いついたのもそんな思いからだったのでしょう。明くる日彼女夫妻は吹っ切れたのか元気に人間牧場を後にしましたが、別れ際涙を浮かべて宮崎さんの奥さんと抱き合って別れた姿がとても印象的でした。

 この日発売されたという彼女の本はみんなの協力で沢山売れました。文章も彼女の絵も素晴らしく、息子は五右衛門風呂のポスター製作を彼女に依頼していたようです。

 逆手塾最大の効果は、人と交わる、人に感化される、夢を見つける、やる気を起す、実践する、効果を上げる、人に感化することです。その道具立てが人間牧場のフィールドであったり水平線の家なのです。

  「蚊帳の中 入った俺たち 何か変 虫かごの中 人が入って」

  「平凡な 暮らしの中に 平和あり 悩み聞きつつ 俺は幸せ」

  「涙出る 感じて動く 嬉しさに 見えなくなるまで 手振り見送る」

  「大蚊帳は まるで源氏 絵巻だね 誰かが言った そう言われれば」

 

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shin-1さんの日記

○逆手塾ルポ③

 今回の逆手塾のゲストスピーカは私と高知県南国市の川村一成さんが務めました。川村さんはつい最近売り出し中の四国の顔です。昨年プロ野球の石毛さんの肝いりで始まった野球四国アイランドリーグのサポーター組織を結成し、百姓が一俵入魂というアイデア奇抜なアイディアで地域をリードしている人です。彼はもと市役所職員で脱サラして百姓になりました。私は野球の支援組織もさることながら彼の生き方に興味を持っていました。中山間地で豊に暮らす知恵10か条は私の生き方に非常に近いのです。

  第1条  百姓としてとして暮らす

  第2条  山にあるものを生かしきる

  第3条  無理に多収を求めない

  第4条  販路は知人から広げる

  第5条  きれいな環境で気に入ったことを気分よくやる

  第6条  集まれる場をつくろう

  第7条  支離滅裂に面白く

  第8条  この指たかれ、面白がる、見せびらかす

  第9条  なんにもないからなんでもできる

  第10条 補助金は動いていればついてくる

?ほどほどに貧しく悠然と生きていく彼に生き方こそが今求められているスローライフな生き方なのです。

 百姓を楽しむ人は沢山います。でもあんな人のような生き方をしたいと思う百姓には中々めぐり合うことができません。彼は早起きをして人間牧場の風呂を自分で沸かし、朝風呂を楽しんでいました。彼曰く「今まで生きてて一番言い風呂でした」というのです。海を見下ろす絶景地にある五右衛門風呂はまさに至福の時だったに違いありません。

 今回の参加者の仕事はみんなまちまち、まるで異業種交流会のような雰囲気でしたが、彼の話を聞いた人が「人間の生き方って基本は一緒なんだね」とポツリと言いました。坂本竜馬ファンとしては同郷の高知県だけに川村一成とダブって大きく見えました。誕生日と命日が一緒という寄ぐうさと3歳の若さで亡くなったことを思えば、私たちの生き方はまだまだ甘いものだと思うのです

 今回の逆手塾に長男と次男が自主的に参加しました。長男はこの家の設計者ですから、施設の説明や案内を買って出て色々と参加者と話をしていました。次男は長男の命令に従って風呂を沸かしたり蚊帳を張ったり相変わらず小まめによく働きます。こんな機会は滅多にないので二人を皆さんに紹介しました。長男は建築家らしく家を語り、次男はダンスの一端を披露しました。親ばかかも知れませんが実にいい息子として育っています。 そういえば人間牧場の完成まで三男も含めてみんなが揃って手助けしてくれたことは忘れられない思い出でしょう。

  「農業を 百姓なんて 自慢する めずらし男 川村一成」

  「知恵あれば 不平愚痴など 言えぬはず 程ほど貧乏 それでいいんだ」

  「人生の 基本はどれも 同じです だからあなたと 生き方同じ」

  「達人と 言われる人は 人知れず 陰徳積んで 悠然生きる」

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shin-1さんの日記

○逆手塾ルポ②

 人間牧場水平線の家は、僅かに間口4間半と奥行き2間半の狭い部屋ですが、その広さと同じウッドデッキがスライドする窓を開けると一体的に、つまり窓を開けると室内が倍の空間に早代わりする仕掛けを持っています。そのため正面が何処か分らないことをいいことに、思い思いの方向で目先を変えた演出が出来るのです。最初は樹齢150年生の高知県魚梁瀬杉の切り株で作ったテーブルを演台にして会場を組み立てました。参加者の視角は設えた長い本棚とそこに並べてある私の蔵書が知的空間をを意識させるのです。

 逆手塾の参加者には凄い人がいっぱいいます。これも逆手塾の積み重ねの重みでしょう。例えば山本文子さんは逆手塾で同じゲストとして初めてあって以来の付き合いですが、私の夕日を「何処にでもある夕日を日本一だなんて」と腐しながら「でも先に言ったあなたは偉い」とあげたり下げたりするのです。 

 山本文子さんがミニトークをしているのですが、髪を金髪に染めている彼女は一見少し派手好みの普通のおばさんです。でも喋りだしたら彼女の凄さが分ります。NHKのドキュメンタリー番組で1時間も紹介された彼女の性教育の番組は日本全国に大きな反響を巻き起こしました。今彼女は自分の意思を貫徹するために必死に働いています。「ゆりかごから墓場まで」という口癖どおり早く言えば布団や畳で子どもを生める産院と高齢者施設をドッキングした施設を作ったのです。お金が2億円かかるそうで銀行にお金を貸してくれと頼みに行ったら、「担保は何」とけんもほろろに断られたそうですが、「担保は私の夢」なんて言って融資を引き出し、「私の夢に投資して下さい」との呼びかけに多くの人が賛同して順調に船出しました。

 

 本棚を正面にすえると室内から溢れた人は野外講演会となります。さすがに女性は日焼けが怖いのか部屋の中に陣取りますが太陽を好む人は平気で太陽の光を受けます。

 一方海側を舞台にすると観客は室内から海を眺めながら話を聞くのです。

?海の色や流れ行く雲の変化を確かめながら聞くと、さっきまでの雰囲気とはまったく違った感じに聞こえるから不思議なものです。ステージに立って話すのは京都府農林水産部農林振興課で地域振興を担当する吉田好宏さんです。彼は逆手塾の強力なメンバーだと聞いてます。

 やがて夕闇迫る頃となりましたが、それまでもやで霞んでいた西の空が急に晴れだし、何と夕景が見事に見え始めたのです。みんな感嘆の声を上げました。私は残念ながらウッドデッキに蚊帳を張る作業に熱中し夕景や夕日を写真に収めることは出来ませんでした。

  「海を見て 話を聞くと 又違う 人は聞く耳 環境で変わる」

  「金髪の おばさん凄い 話する 性の問題 こんなに感動」

  「逆手塾 始めて参加 驚きて レベルの高さ 感じながらも」

  「爽やかな 風を頬に 感じつつ メモ取りながら 人の声聞く」

 


 

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shin-1さんの日記

○逆手塾ルポ①

 今年の逆手塾は6月10日と11日の二日間、人間牧場で開催されました。私は昨年の逆手塾にゲストスピーカーとして招かれましたが、その折人間牧場での開催を和田さんと宮崎さんに打診されていました。しかしまだその頃人間牧場は構想の段階で、第1期工事すら着工していませんでした。でも何とかなるだろうとお受けし、この日に照準を合わせて第3期工事まで進めてきました。今回の逆手塾には四つの不安がありました。まず第1は収容人数です。間口4間半・奥行き2間半の施設ではどんなに頑張ってみても収容能力が最大40人なのです。しかもその人数が様々なパフォーマンスを繰り広げるには水平線の家と同じ広さのウッドデッキが必要なのですが、雨だと使えないし天気だと蚊や蛾などの虫類も心配でした。幸い天気に恵まれ場所の確保が出来ましたし、参加矢とスタッフを合わせて40人に納まったのです。また虫も手作りの大蚊帳で何とかクリアーしました。第2には交通アクセスです。人間牧場は隠れ家的な人目に付きにくい場所にある上道が狭く険しいのです。地図を送って下さいと言われても送れないし、地元の人に場所をしえて下さいと言われても言葉では説明できないのです。デラックスな車で来るような人を拒んだり駐車場がないと苦情を言う人なんか来て欲しくないと言ってはいますが、逆手塾を開けば参加者に来てもらわなければならないのです。JR上灘とシーサイド公園を中継点にしてフロンティアグループのメンバーが道案内することで事なきを得ました。三番目は宿泊場所の確保です。水平線の家のロフトは最大8人、雑魚寝をしても半分以上は溢れるのです。幸い歩いて5分の所に地元池久保公民館がありました。貸し布団屋で布団を借りて持ち込みましたが、夜の移動は冷や汗もの、でも皆さんは結構楽しく移動をしてくれました。最後の心配は天気と水でした。海、水平線、空、島、夕日など自慢のロケーションが雨でも降るとまったく期待出来ない梅雨時の開催ですから、雨覚悟でシートなどを多量に確保して万一に備えました。さらに水は10人の暮らしを想定しての配水ですから五右衛門風呂やトイレの使い過ぎは水不足に陥るのです。前日準備段階でその不安が的中するようなショッキングな出来事が起こりました。椎葉村から帰って間もなく準備のために雨の中でウッドデッキをボー刷りで洗っていって、最後の仕上げのため雑巾をかけようと蛇口をひねると水がまったく出でないのです。青ざめて水源のタンクへ走りましたが、タンクは空っぽでした。タンク所有者の西嶋さん宅に伺ったところ、「少しでも綺麗な水を使ってもらおうと思い、タンクを空にした」と言うのです。「明日までには十分貯まります」との安堵の言葉を頂いてホッとしたのです。

 まあこんな風に冷や汗、胆潰しの連続で当日を迎えたのです。

 当日は全国からスタッフを含めると40人が勢ぞろいをしました。東京・神奈川・埼玉・京都・島根・広島・福岡・香川・高知・愛媛と10都県にまたがって集まったつわものたちに逆手塾24回の歴史の重みと凄さを感じました。

 ウッドデッキに並べられた和田さんお手製の特徴ある木製名札を見てもまさに圧巻です。かつて私たちが年4回10年40回のフロンティア塾を開いた当時の興奮が甦ってきました。

 受付は宮崎さんの奥さん貞江さんが手助けしていましたが、今回の逆手塾には宮崎さんご夫妻をはじめ何組かの夫婦が参加していました。昔なら考えられないことで、まちづくりは男性の占有物という間違った考えがありましたが、日本もいよいよアメリカ型となり、まちづくりも夫婦で参加する時代になったと思いました。

 

 さて、プログラムが始まると、お笑い3人組の歌とトークで幕が開きました。和田さん、宮崎さん、田中さんの軽妙にして迫力のある演技は、知らず知らずの内に私たちをその気、やる気にさせるのです。普通はもう一人田中正俊さんが加わってのパフォーマンスとなるのですが、都合で欠席し3人となりました。彼らのフィールドは広島県の県北レクリエーション協会が母体ですから、歌や踊りはお手のもの、いい味をしています。ご覧下さい。左端の和田さんの陶酔した姿を・・・、これが昔私と同じ教育長とは誰も気付きはしないでしょう。さあ逆手塾の始まり始まりーです。

  「六十の 歳になっても この姿 三十年前 少しも変わらず」

  「蜂や蝶 蜜を求めて 飛んでくる 人も同じで 値打ちの場所へ」

  「歌声に 何が起きたか 地元民 見れば牧場 気違い集まる」

  「しつらえた ウッドデッキで 歌歌う バック海空 気持ちよさそう」

  

 

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shin-1さんの日記

○逆手塾始まって終わる

 前日の準備を含めてこの3日間、宮崎県椎葉村行きの疲れも見せず、逆手塾開催のため人間牧場に入りびたりで、水平線の家ができてから始めて水平線の家に宿泊しました。逆手塾の後片付けをして各方面への支払いを済ませ、やっとわが家にきました。「アー疲れた」というのが率直な実感です。ところがスタッフとして働いてくれた21世紀えひめニューフロンティアグループが道具を水洗いして収め帰ってから、わが家まで送ってくれた事務局長の大野さんのトランクに荷物を置き忘れ、高野川のクリーンセンターまでUターンしてもらい荷物を受け取る羽目になりました。疲れていると仕事がはかどらず、物忘れや考えが散漫で、せっかく書いたブログの記事も保存されずお蔵行きで幻の記事に終わりました。さらに追い討ちをかけるように山口県周南市から60人もの団体がまちづくりの視察に午後4時約束で訪れる計画でした。しかし向こうの約束とこちらの約束違いで1時間も遅れて到着、まさにイライラの連続でした。それでも視察者に罪はありませんので約1時間楽しいおしゃべりをしましたが、7時前の帰宅時はどっと襲う疲労感に「アー疲れた」の連続でした。ふと思うにこの疲労感はやはり私も歳なんでしょうか。

 逆手塾は広島県の過疎を逆手に取る会が主催する年に1回の塾なのですが、今年は和田さんや宮崎さんのたっての依頼で人間牧場で開催することが決定し、その準備を進めてきました。何せスタッフを含めると40人の一大イベントなので、そうそう気を抜くこともできず宮崎さんと共催するフロンティアグループの大野事務局長、それに和田さんと私で綿密な計画を作成して準備を進めてきました。一番の不安は出来て間もない人間牧場の施設だけに、どういった使い方があり、どんなトラブルがあるのかまったく予想がつかないということでした。加えて隠れ家にも似た場所であり、道案内が上手く行くかどうか、また宿泊施設として借りた池久保公民館との連携が上手く行くかどうかも心配の種でした。結果的には概ね順調に事をこなしましたが、深夜に帰った山本文子さんが道を間違えて車を大破するというハプニングに大慌てしました。それでも命の大切さを訴える彼女の馬力で何とか急場をしのいだようでほっとしてます。

 主催した私としては総じて順調、総じて成果大、総じて納得という結果に終わりました。その裏には全国から集まった参加者は勿論のこと、この塾を企画運営した過疎逆のメンバー、送迎から食事の準備を担当しスタッフに徹してくれたフロンティアグループ、蚊帳を縫ったり風呂を沸かして人間牧場のサービス係りに徹した長男と次男、刺身を造ったり座布団を構えてくえた妻などなどの下支えがあったこらだと感謝しています。今朝和田さんと宮崎さんにお礼の電話を入れましたが、何よりも大きな成果は人間牧場の雄大なロケーションと天候に恵まれたことだと言っておられました。同感同感です。

 塾のような催しは施設や設備と違って後には形が何も残りません。地域政策総合センターの井石主任と脇田研究員が最後にトイレの掃除までして帰ってくれた後のガランとした空間は先程までの喧騒がまったく嘘のような静けさでした。でもこの人間牧場に人の営みによって新しい歴史が刻まれ新しい命が芽生えたのです。形に残らないからこそ意味があるのです。感動の法則1×7×5×2=70人から計算すると40人×

7人×5人×2人=2800人の感動を得たことになります。全国に人間牧場の感動の輪が広がり始めました。

  「感動は 法則計算 したならば 二千八百 大きな反響」

  「心ある 仲間集いて 逆手塾 人間牧場 やっと全開」

  「牧場で 一夜を明かし 語り合う 人はそれぞれ 悩み多かれ」

  「牧場寄席 これはいけるぞ ネタ本を 作って高座 やがて上がりぬ」


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