shin-1さんの日記

○わが村は美しく・玖木(20-1)

 「若松さんですか。第一回目の集落講演会を6月15日に行います。6時ごろまでに西土佐総合支所へお越しください。遠方なのでくれぐれもお気をつけて」と人懐っこい中脇係長さんからの電話の通り、長浜~大洲~城川~日吉~三間~松野~西土佐のコースをのんびりゆっくり出かけました。夜来の雨で肱川や四万十川はかなり増水し濁流が勢いをつけて川下へ流れていました。午後からは心配した雨もあがって時折青空も覗くほどになっていました。出かける朝和田産業課長さんから、飯でも一緒に食べようとお誘いがあり、少し早めに到着して小高い丘の上の星羅四万十というお洒落なレストランで支配人の土居俊雄さんと名刺を交換し篠田さんを交えて少しの間楽しいおしゃべりをしました。

 夕闇迫る頃いよいよ出発です。産業課が主催だというのに、教育委員会や総務課、企画の若い職員が4~5人同行して勉強させて欲しいとのこと、中脇係長の意気込みを感じ車中は賑やかな論議に花が咲きました。途中民宿舟母というかお馴染みの店によってあいさつしましたが、小さかった子ども大きくなり若い夫婦やおばちゃん夫婦も息災との近況を聞いて安心しながら、濁流に沈んだ沈下橋を避け大きな橋を渡って黒尊川沿いを登って行きました。

 訪れた玖木地区は戸数が20戸以下の小さな集落です。廃校になって既に久しい跡地に集会所はこじんまりと立っていました。少し時間があったので周辺を散策しましたが、かつて学校の子どもたちを見守ったであろう桜の木やメタセコイア木がうっそうと小さな運動場跡地を囲んでいました。集会所の入り口には門柱が立っていて今は苔むしていますが「玖木小学校という文字が印象的に残っていました。

 この校門をくぐって何人の子どもたちが学校へ登下校したことでしょう。運動場の隅に古いレンガづくりの焼却炉を見つけました。またそのすぐ隣には鎖を取り外されたブランコの柱だけが赤錆びて寂しく立っていました。ギーコギーコ音がしたのでしょうね。

 ふと見上げるとそこには廃墟と化した教員住宅が朽ち果てるのを待つようにひっそりとありました。玖木のこれらのものは全て近代化遺産で歴史であり文化であるのです。記録にとどめたり写真にして残すこともしているのでしょうが、大切にして欲しいものです。

 玖木の会場は僅か20戸以下なのにこちらから行った人を含めると20人を越えて中々賑やかな会となりました。私の話は①田舎嘆きの10か条をベースにしながら1時間半の話をしました。亀ちゃんだの日ごろ呼んで名前で呼び合う和やかさであっという間に時間が過ぎました。底抜けに明るい人たちにコミュニティの深さを感じましたが、ここでもやはり過疎と高齢化、それに地域の活性化が大きな課題のようでした。私のような人間が外から入ると、活かしたい地域資源がゴロゴロ転がっているように見えました。このお宝をどのように生かすかはこれからの仕事でしょうが、みんな歳をとってきて悠長に、ジョージアのコマーシャルではありませんが「明日があるさ明日がある」なんて考えずに、出来ることから始めないと時間がないのです。

 奥屋内へ行く途中玖木の区長さんに家の前でお会いしました。この人は只者ではないと思いました。ご覧下さい。カーブを回るといきなり山の中の狭い道沿いにこんな美しい花壇があるのです。これは区長さんは自から種を蒔いて育てた花々だと聞いて二度びっくりです。

 家の前なので当然だと笑って話していましたが、凄い美的感覚と行動力です。人の上に立つものかくありたいものです。区長さんのお家の下には黒尊川の清らかな流れとミニの沈下橋がありました。いい山村の風景でした。小さい声で「ここだけの話だけれど天然の鮎が遡上します」と川面を指差しました。確かに黒い鮎の群れが泳いでいるように見えました。区長さんの遊び心は田舎暮らしにとって最も必要なことなのです。人の暮らしをねたみ、人の暮らしをうらやんでも何の得にもなりません。どう生きるか生き方が問われているようですが、どうやらそのヒントは区長さんは見つけているようでした。

  「この村じゃあ 五十六十若い方 もう歳言う人 一人もおらず」

  「何よりも 驚くことは 村中に 笑い絶えない 日々の暮らしが」

  「門柱に つわものどもの 夢の後 記録残さば 朽ち果てしまう」

  「この村は その気で見れば 美しく 花の咲く庭 思わずパチリ」 

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shin-1さんの日記

○四万十川のふるさとへ・奥屋内(20-2)

 四万十川のふるさと旧西土佐村へ行くようになってはや二十年が過ぎました。最初は軽いつもりの出会いだった当時の若者たちも20年という歴史の重みでしょうか、そこここの職場で重要な役割をこなしながらむらづくりに励んでいます。二十年の時の流れは人々の暮らしにも大きな変化が見られ、予想だにもしなかった平成の大合併によって西土佐村という自治体はなくなり、総合支所という体裁のいい繕いで行政が行われています。また四万十川の流れにもこれまた大きな変化が現れて、昨年と一昨年の台風で端々の川や山林は目を覆いたくなるような散々な荒れようです。多分行政の支所化に伴ってこうした災害の復旧は完全には出来ないのではないかと思って寂しく感じるのです。でも西土佐村に住む人たとの暮らしは穏やかで相変わらずの心の優しさで私を出迎えてくれるのです。

 少し早めの村入りだったので、今まで訪ねたいと思いいつつ訪ねていなかった江川崎の駅に行きました。鉄道から車社会への変化の波をもろに受けて駅周辺は散閑としていました。行政が作ったであろう「列車に乗って予土線を守ろう」という看板が空々しくもむなしく目に映りました。江川崎の次の駅が「はげ」だそうで、思わずバラエティ番組に使えそうだと一人にやりしたのです。列車の線路も引込み線や対向線は使われなくなってすっかり赤茶けて錆びつき一層寂しさを増幅させていました。

 この風景は私の好きな風景だったので思わずカメラを向けました。線路の向こうに長い鉄橋が見えました。何処か懐かしい少年の頃の思い出のひとコマです。駅舎に入り列車の時刻表を調べましたが、まだ列車の通過には時間があるので残念ながらマッチ箱のような一両立ての列車が鉄橋の上を通る写真は撮らず終いで駅を後にしました。

 中脇さんと役場で落ち合い、夕食のために川沿いの大好きなポイントにある岩木食堂へ出かけました。日替わり定食を頼んで話し込みながら直ぐ下を流れる四万十川を見ました。4日前に訪ねたときは夜来の雨で増水して濁流が音を立てて流れていましたが、水はすっかり澄み渡り元の静けさや美しさを取り戻していました。

 四万十川には沢山の橋が架けられていますが名物の沈下橋以外にも好きな橋が沢山あります。その一押しは岩木食堂の前の赤い橋で、少しペンキが剥げて赤錆が目立つようになりましたが西土佐のシンボルのような感じさえするのです。

 西土佐村から中村へ向かうため、あるいは村内散策の途中で何度この橋を渡ったでしょうか。やはりこの赤橋も私にとっては思い出橋の一つなのです。この日は梅雨の晴れ間の一日で今年一番の暑さらしく、食事をいただきながらテレビを見ていると江川崎では32.2度を記録して、全国3番目の暑さだと報じられていました。いよいよ四万十川にも夏本番が近づいてきました。

 中脇さんの運転する公用車に乗り込み一路黒尊川の上流にある今日の目的地奥屋内地区へ、4日前に訪ねた玖木地区の写真を雨のため撮っていなかったので補助取材をかねて道の途中だったこともあり散策しました。雨の暗がりで見えなかった玖木の姿にも侘しさと趣が感じられました。

 途中玖木の区長さんに偶然会って「今晩の集会にも行くから」と私に言うものですから、話の内容を変えねばと思いました。奥屋内は今度で2度目の再訪です。何故か建設会社の社長さん宅で飲んだことやと社協ヘルパーの節男君のことが思い出されました。彼はどうしているのやら・・・・。

 奥屋内で一番の気がかりは小学校の休校風景でした。学校をなくしたら地域が潰れるという危機感から止む無く休校という選択肢を選んだそうですが、朽ち果て破れたカーテンを窓越しに見ながら心が痛みました。学校の運動場も体育館も地域のコミュニティ活動で使っているからすごく手入れが出来ているのですが、そこここに人の入らない空気のよどみが施設の劣化を早めているようにさえ感じられました。子どもがいなくなり住民が高齢化する。この現実が奥屋内の地域にも静かに深くしのびよって、地域がなくなるのではという将来の不安にかられて寂しく感じられました。

 研修会には沢山の人が休校の小学校体育館に集まり、文字通り車座の話をしました。この日の話は①社会の変化の10年、②同じ高知に生きてる川村一成さんの百章としての生き方を中心に1時間半話しました。

会場の雰囲気もよく、講演が終わってから「名刺をいただけませんか」「今度人間牧場を訪ねます」「また今日のような話をしに来て下さい」と嬉しい反応がありました。是非そうしたいと思いました。

 帰り際、ここへ来る途中立ち寄った農家レストランで桧のわっぱを2個3千円で買った話をしたところ、その製作者が2合のご飯が入るわっぱをわざわざ自宅に帰って持参しプレゼントしてくれました。嬉しい出会いです。早速お便りを出すべく中脇さんに住所をメールしていただくように依頼し、暗闇の中を沈下橋を渡って岐路に着きました。片道125キロ、往復250キロは帰宅12時、少々きついがほのぼのです。

  「何年か ぶりに訪ねし 奥屋内 学校休校 カーテン破れて」

  「四万十の 流れゆるやか 変わらずも 人の暮らしは おいおい細りに」

  「このままで 朽ち果てるより もう一度 夢を形に 楽し

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shin-1さんの日記

○この道はいつか来た道

 人間牧場には何本かの道があって、農道市道が入り混じり来訪者を迷わせていますが、そんな車道以外に直線的につけられた歩道が一本あります。昔は大間道と呼ばれて人馬物流に使われていましたが、時の流れとでもいうのでしょうか車の普及によって使われなくなり、子どもの減少が拍車をかけて通学道路としても使えなくなって草に埋もれてしまっています。先日懐かしくなって歩いてみましたが、所々では石垣が崩れたままで危ない場所や草が背丈まで迫って歩くのに難儀をしました。

 この急な坂道を一人で歩きながらふと少年の頃の思い出が蘇ってきました。それは紛れもなく北原白秋の「この道」という歌の歌詞に書いている通りの思い出なのです。

  ♪この道は いつか来た道 ああ そうだよ アカシヤの 花が咲いてる

    あの丘は いつか見た丘 ああ そうだよ ほら 白い時計台だよ

    この道は いつか来た道 ああ そうだよ お母さまと 馬車で行ったよ♪

 学校から帰ると居間の黒板に「学校から帰ったら庭に置いてある背負子に肥料を一俵くくりつけているので、池久保の畑までかるって来るように・・・・。母ちゃんは畑にいます。と書いてあるのです。遊びたい盛りの若松少年にとってこのお知らせ版は憎くくてたまらないものでしたが、それでも従がって汗をかきフーフーいいながら山坂を登りました。今水平線の家がある畑にたどり着くと母は黙々と畑仕事をしていました。やがて夕方まで畑仕事を手伝うと今度は芋や麦を背負子にくくられ、再び母と一緒に下山するのです。足をガクガクさせながら途中に背負子を背負って休める石垣が何ヶ所かあって、休んでは家へたどり着きました。「ハーハー」言う母の息遣いと私の息遣いしか聞こえない細長い一本道は今となっては思い出の道になってしまいました。

 今朝は梅雨の晴れ間の好天に恵まれました。親父を下灘の診療所へ連れて行き、診療の合間を人間牧場へ行きました。海側の窓を全開きにして風を入れ、背もたれ椅子に横になってふと目に留まった作家田中澄江の「思い出の歌思い出の花」という一冊の本が目に留まり、開け読むと冒頭に「この道」が出ていました。早速水平線の家に置いてある4本のスズキハーモニカの中からAのハーモニカを取り出し吹いてみました。爽やかな音色が下に見える思い出の道に聞こえるように広がりました。いい音色です。いいふるさとの郷愁です。思わず感傷的になって死んだ母ちゃんを思い出しました。

 遠くに霞む島も見上げた空もあの日と同じ風景です。でもあれからもう半世紀50年もの時が経って、母は遠い国へ旅立ち帰らぬ人となっているのです。時折耳を劈くように鳴るカラス脅しの爆音がなければ、風のささやきも昔のままなのです。

 母は生きている。そう私の心の中に思い出として・・・・・。

 それにしても「歌は世につれ世は歌につれ」と言いますが、少年の頃を思い出す歌を知ってる私は幸せです。

  「この道は 口ずさみつつ 母思う 今は苔むす 道が恋しい」

  「亡き母は 小さい体で 荷を背負い 何度この道 行き来したやら」

  「背負い芋 おやつか主食 どっちかな 今なら芋は 贅沢食べ物」

  「この坂に 鍛えられたる 体にて 今の今まで 丈夫長持ち」 

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shin-1さんの日記

○父の日

 わが家には4人+2人の子どもがいます。+2は娘婿と息子嫁つまり義理の息子と娘です。昨日は警察官になって異郷に勤務する末息子を除いて5人が勢ぞろいして父の日の祝いに駆けつけてくれました。昨年秋に結婚した息子夫婦は息子嫁が選んで買った涼しげなシャツと帽子、娘夫婦は温泉の入浴券をそれぞれ持参しての参加ですが、看護学生身分の次男は何もなく朝から逆手塾に使った道具類をしまう私の手伝いとマッサージという勤労奉仕です。子どもそれぞれがそれぞれの身分に応じた形で感謝の意を表明してくれて、いつもながらの気配りに感謝しきりの一日でした。大学に勤める娘婿は妻の作った昼ごはんを食べて早々に引き上げましたが、久しぶりに昼からおご馳走を食べ、持ってきたものよりとって帰るものの方が多い手合いで三々五々引き上げて行きました。残った次男が「今日は温泉にでも行ってきたら」と勧めるものですから、夕方松山市内の温泉に出かけました。日曜日しかも父の日という誰が作ったのか分らない祝日とあって、郊外のレストランや温泉はいつになく活気があって、親子連れの姿が目立っていました。

 先月の母の日も同じようなパターンで祝ってくれた子どもたちに感謝し、幸せを感じながら何時になく神妙な話を妻としました。退職して約1年3ヶ月の暮らし方、無職になった私の役割、人間牧場の出来事、サンデー毎日といいながら忙しく振舞う私とお勤めを続けている妻の健康、子どもの将来、親父の暮らしぶりなどなど、とどめもなく四方山話をしました。

 一番の気がかりは同居の次男の将来と親父の健康です。次男は看護学校の5年生で今年が学生最後の年です。年齢的には遅いサラリーマンから学生への転身でしたが、彼なりに頑張って特待生になる幸運をつかみ授業料タダなので出費は極力抑えられましたが、この4年半のうち1年半は私の退職のこともあり、彼なりに金を使わない涙ぐましい努力をしてくれました。今年は国家試験で看護士の資格に挑戦するし、就職も考えなければなりません。既に警察官になっている弟や姉兄から小遣いを貰う気恥ずかしさやプライドもあるのでしょうか、この4年半で随分逞しくなりました。演劇も続けてのここまでの生き方は110点をやりたい雰囲気です。10年以上も乗ったパジェロミニがかなり古くなって車を買い換えなければならず、先日友人の勤める車会社に妻と息子が見に行きbBとかいう車を買うことに決めました。2百万円するそうですが頑張っている息子への高いプレゼントになりそうです。

 最近親父の衰えも目立つようになりました。88歳なので仕方がないことなのでしょうが、親父の姿を見るたびに私の将来を見ているような感じがします。やがて30年後には私も生きていたらこうなるのだろうという見本を見ているようです。親父の日々の暮らしは穏やかでつつましく、畑仕事と庭仕事、趣味の古物手入れが日課ですが、体の不調が少しずつ出始めているようです。何時までも長生きして欲しいものです。

 夫婦で長生きして親父の歳を迎えればこれに越したことはありませんが、妻が最近健康に目覚めました。食べ物や散歩などみのもんたの影響とは思えないほどの気配りです。体重が55キロに減った私の健康も妻の心配の種ですが、自分の健康も少し気になり始めたようです。

  「父の日は 幸せ感じる 反省日 子供のためにも 健康第一」

  「息子嫁 センスがいいね プレゼント 帽子被って まるでマネキン」

  「4人もと 生んだ頃は 思ってた 育ってみれば 多くはないね」

  「また一つ 峠を越えた 父の日か しみじみ思い 次の峠を」

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shin-1さんの日記

○植物の根

 菊に限らず植物は、健康でいい根を持っていれば必ず地上に生えた部分が生き生きとしています。植物を育てる私たちは何故か目に見える地上の姿ばかりを気にして、病気や害虫から守ろうと努力するのです。夏野菜がスクスク育つ季節になりました。トマトもナスもキューリも植えた頃のへなへな時期を過ぎて新しい根を張り始め今のところ元気に育っています。ところがこんな元気な野菜でも、特にトマトなどは突然青枯れしてしまうことがあるのです。植物には連作障害があって同じ場所に同じ作物を植えるとどういう訳か枯れてしまいます。スイカやトマトはそのことが顕著ですが、稲は連作が起こりにくいから日本の稲作が普及したのだと思います。青枯れのトマトを引き抜いてみると根が殆ど活動していないことに気付きます。何の作物もそうですがいい実りを期待するのなら健康な土作りから始めねばなりません。いい土には必ずいい実りが待っているのですから、根を育てるを基本にすべきと考えるべきでしょう。

 このことを人間の世界に例えて見ましょう。土はさしずめ家庭でしょう。いい家庭という土壌に親という根がしっかりと根付いていれば子どもという芽はどんどん成長し花をつけ実を結ぶのです。害虫や病気は一般社会と思えば説明がつきやすく、最近は社会の病害虫が無数にはびこり、あの手この手で誘惑をしてきます。時には台風のような大風も来るでしょうし予期せぬ地震にだって遭うのです。でも土壌家庭と根親がしっかりしていれば地上の幹葉子どもはゆるぎなく育ってくれるに違いありません。

 最近家庭と親のあり方が随分昔と違ってきました。数少ない核家族家庭が増え、愛情や切磋琢磨もなく一つ屋根の下にいながら個食・孤独・孤立の様相です。生まれて間もない抱きかかえて欲しい子どもは乳児院に預けられ、子育てではなく子預けの様相です。少し大きくなると知識偏重で塾通いさせ、感受性より偏差値しか評価基準を持たないのです。やがて育った子どもは根がいかれているから、時には青枯れだって起こすのです。

 今日本の悲劇は家庭という土壌と根という親の貧困さにあります。自然は正直なもので土壌と根がしっかりしていないと育たないというシグナルを私たち人間に発していますが、聞く耳を持たない人には通じないのです。教育基本法が出来てこの国が良くなるのなら教育基本法をいっぱい作ればいいのですが、その事を考え、いい家庭いい親を沢山作る運動を今からでも遅くはないのですから始めようではありませんか。

 親が子どもを虐待する異常な世の中を見るに付、あれは日本の将来の芽を摘む行為ではないかと思うし、親殺しは日本の過去を消し去る行為だと思うのです。誰かが気付き誰かが始める、そうすればすむことなのです。

  「俺は根だ 俺が元気だ 子も元気 親父も元気 家庭も元気」

  「友だちに メールで牛糞 注文す いつでもどうぞ 返信届く」

  「百姓の 真似事始め 気付くこと 以外と多く これが実りだ」

  「世の中は 日々一年の 繰り返し 失敗だけは しないようにと」



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shin-1さんの日記

○菊の実験からの学び

 「あなたは宝くじで一億円が当たったらどうしますか」と、若い頃にあるタウン情報誌の取材を受けたことがあります。私は即座に「買ったことがないので当らない」と答えてしまいました。先日書棚の本を水平線の家へ移動するので整理をしていたら、その記事の載った情報誌が出てきて、懐かしく読んだのです。その中に「あなたの夢は何ですか」というのもあり私は「将来人間牧場を作りたい」と書いているのです。西暦で逆算すると35歳のころの想いだと思うのですが、何とこの頃には早くも人間牧場構想が頭を持ち上げていた事になるのですから驚きです。その後すっかり忘れていたその夢はやがて50歳代になって再び頭を持ち上げ、嫁の実現に向かって動き出したのですから私という人間は自分ながら相当執念深い男だとしみじみ思うのです。でも「夢はドリームでなくターゲットである」という私の造語も、人間牧場を手に入れた今となっては素敵な響きにさえ聞こえ、夢を持つことの大切さを感じました。

 私はよく講演の中で「菊の実験」の話をします。これも若い頃の話ですが公民館の花いっぱい運動の一環で菊づくりの普及活動を公民館主事としてやりました。公民館の裏には所狭しと鉢を並べて菊を作り、ホルモン処理した菊苗を立てて要望に応じ各集落へ無償で配りました。勿論私自身も見よう見まねで菊を育てたものです。その折3本立ての菊を100鉢程作りましたが、7月になると背丈も伸びて支柱を立てる作業に追われますが、その折不思議な光景を目の当たりにしました。支柱が2本不足して3本の菊の一本だけに支柱を立てて、そのうち立てようと思いながらもついつい仕事に追われすっかり忘れていたのですが、1ヶ月も経って見てみると、支柱を立てた菊はぐんぐん伸びているのに一本は無残にも元から折れ、あとの一本はへなへななのです。私はその菊をそのまま放置してみました。結果的には一本の菊だけが生長して秋に花を咲かせましたが、人前をはばかる見苦しい姿となりました。あくる年、今度は同じ事を意識的にやってみましたが、結果は同じでした。私はその実験の模様を次のように結論付けました。

 「成長の同じ高さの3本の菊に一本だけ支柱を立てると結果はその一本だけが何故か成長促進します。支柱を立てた菊は支柱で固定され風雨で折れないばかりか支柱という目標が出来、その支柱に勝とうという無意識な意識が生まれるのです。物言わぬ植物でさえ目標という支柱を与えればこのような結果になるのです。ましてや百獣の王たる人間は押して計るべきで、目標を持つことの意味を私に暗示しているのです」。

 「菊の実験」は「カエルの実験」「氷の実験」とともに私の三つの教えとして、水平線の家の高座落語ならぬ楽語話のネタにしておきます。あなたもこんな実験をやってみて下さい。

  「もの言わぬ 菊さえ支柱 立てたなら 勝とうと努力 夢を持とうよ」

  「ドリームと 思いし夢が 実現し やれば出来るさ 夢ターゲット」

  「濡れ手粟 つかむが如し 宝くじ 買う人いるから 地域振興」

  「一億円 買わぬ私は 当らない 誰に当った 分らず終い」 

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shin-1さんの日記

○宇和島は生き残れるか

 こんな過激な表現をしたら多分宇和島市の関係者から石が飛んでくるかもしれないなんて、要らぬ心配を開会前から考えていましたが、残念ながら取り越し苦労だったようです。今日のシンポジウムは「えひめ地域づくり研究会議」が発足して20周年を迎えるに当たりその総括と新しい未来に向かって方向性を探ろうと今日を皮切りに、県下3会場でリレー的に行い、最後は発足の地となった内子座で総括シンポジウムを行おうとするものです。会場となった宇和島市福祉会館には80人もの人が集まり、それなりの盛り上がりを見せました。今日のシンポは2本立てで早稲田大学の宮口先生の「協働のまちづくり」についての講演と、宮口先生を交えた愛南町の寿川さん、それに私を含めた鼎談です。行きがかり上私が鼎談のホスト役を務めましたが、打ち合わせも殆ど行なわないアドリブな討議にもかかわらず、お二人に助けられて何とか様になりました。

 今日のシンポには市外からもかなりの人が参加していました。中には遠くは顔見知りの高知県梼原町中越町長さんや産業課長さんも出席していて中々いい顔ぶれでした。

 宮口先生の基調講演を基に話し合いましたが、観光や地域活性化にはローカルホスピタリティ(もてなしの心)が欠かせないというウエーブが意見の方向を示していました。後半は交流人口の拡大に向けての具体的な話に入りましたが、合併によって圏域が広がった今こそ平準化ではなくそれぞれの個性を生かすことが大事、つまりない物を探したり都会に迎合することなく、個性という地域資源を見つけ磨いてゆく、その作業がまちづくりであることの重要性が語られました。参加者の意見も活発で時間の延長があるほどでした。

 夕方からは宇和島駅構内にあるホテルクレメント宇和島7Fビアガーデンに会場を移し、賑やかな交流会が持たれました。シンポジウムでは参加者の中に埋没していた市役所の職員や近隣市町の関係者が沢山残っていて、ノミュニケーションが深まりました。古い顔、馴染みの顔からは「若松さん随分痩せたね」とか、「お元気そうで何より」とかの言葉を数多く頂きました。

 私と塩崎さんは酒が飲めなく例によってウーロン茶、でも2時間びっちりお付き合いをしましたが、あくる日のこともあるので、8時にはおいとまし家路へと雨の中を急ぎました。

 今日は名刺を50枚用意しましたが、結局全て売り切れて足りませんでした。1枚20円としても1,000円の投資です。でもいい人、やる気のある人に出会い、いい一日だったと振り返りながらブログにその模様をしたためた次第です。

  「宇和島を どうするそれは あなたです 街を愛する 人いりゃ必ず」

  「ある人は 宇和島海だけ 思ったが 山や渓谷 自然が豊か」

  「いいまちに いい人ありと 人が言う いい人いれば わが町みたいに」

  「五十枚 名刺配って 顔を売る そこからはじめる 地域づくりは」

  

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shin-1さんの日記

○良寛和尚に学ぶ損友と益友の見分け方

 人間の行いとしてあまり「感心しない行い」をまとめた本に良寛和尚の「戒語抄」というのがあります。童門冬二さんは「男の論語」という600円の文庫本にそのことを詳しく書いています。

 (言葉の多き・口の早き・あわただしく物いう・間の切れるように物いう・物いいの果てしなき・物いいのくどき・問わず語り・へらず口・さしで口・ことばとがめ・手がら話・自慢話・俺がこうしたこうした・人の物いいきらぬ中に物いう・わが事をしいていいきかさんとする・人の話のじゃまをする・はなであしらう・ことわりの過ぎたる・ことばのたがう・悪しきと知りながらいい通す・おのが意地をいい通す・そうでもなきことと知りながらいい通す・過ちをかざる・ひき事の多き・物いいのことごとしき・田舎者の江戸ことば・学者くさき話・風雅くさき話・さとりくさき話・茶人くさき話・たやすく約束する・人に物くれぬ先に何々やろうという・くれてのちその事を人に語る・かえらぬことをくどくどくどく・推し量りの事を真事になしていう・よく知らぬことをはばかりなくいう・たしかにも知らぬことを人におしうる・物のこうしゃくをしたがる・いささかなることをいいたてる・おかしくもなきことを笑う・子どもをたらしすかしてなぐさむ・にくき心を持ちて人をしかる)

 如何でしょうか。この言葉に当てはまる人を自分の身の回りの人に当てはめながら顔を思い出してみてください。あの人は「人の話を鼻であしらう」とか、「へらず口が多い」とか・・・・。

 人の評価の入り口は言葉によってある程度決まります。どんな物言いをすれば相手に理解してもらえたり自分のことを好感を持ってもらえるか、誰もが日々の暮らしの中で苦心していることだと思います。ところが人間の言葉はその行いや日々の暮らしの中から生まれてくるものなので、余程自分が注意をしていないと性格がもろに出て思わぬ悪評を招いてしまうのです。

 「言葉は行いの鏡」だと思います。立派な行いをしていれば言葉はその中から生まれるのです。いい言葉を喋る人はいい行いをしている人といっても決して過言ではないでしょう。

 私が12年間、シーサイド公園の海岸清掃を朝5時から8時までやるきっかけは、この良寛さんの言葉を引用した松下幸之助さんの話でした。「掃除も出来ないような人間にまちづくりを語る資格がない」の言葉を実践し始めると、自分がもう一人の自分と話し合うようになるのです。自分を磨くということは自分の体や心に潜むもう一人を発見することだったのです。上の言葉しかはかない人を損友、逆に上の言葉を語らない人を益友と考えれば、益友を沢山増やし、その言葉に学ぶことも方法かも知れません。

  「鼻持ちの ならぬ話に 気付いたら その人損友 益友探せ」

  「良寛が 見れば私は どの程度 まだまだ修行 足りぬお叱り」

  「言葉とは 行を映す 鏡なり 陰徳積んで 言葉きれいに」

  「良寛の 愛した夕日 新潟で 見てから俺の 生き方変化」

良寛さんが「人の心を汚すふるまい」として挙げた数々の言葉のふるまいは、損友と益友を見分ける大きなポイントになるようです。

 

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shin-1さんの日記

○親父の仕事

 昨日は梅雨の晴れ間なので88歳の親父は脚立を取り出して、庭木の剪定をしていました。高い木の上の作業は危険だからと再三言っているのですが、「わしがやらねば誰がやる」と言って聞かず、手入れは全て親父の仕事となっているのです。庭には親父が50年にわたって育てた大小様々な木々が無数に植えてあり、そべての選定作業をするのは容易なことではありません。松一本でも親父の手仕事で3日もかかる木もあるのです。「親子はよく似ている」と妻が呆れるように親父は私と同じで何でもやりだすと夢中になる癖があります。「体にこたえるからボチボチするように」と今朝も妻が注意をしていたようですが、昨日は脚立から足を滑らしたらしく、夜帰ってみると、近所の診療所の先生が往診に来たというのです。私は夜10ごろの帰宅だったので親父の隠居へ見舞いに行きました。安定剤の効果かぐっすり寝込んでいたのでそっと引き払いました。今朝6時前に隠居へ行ってみると寝床で起きていましたが、楽になったというのです。今朝は日課の腰へのシップ張りもしないというので、妻がおかゆを炊いて差し入れしたのに「内臓が悪い訳でもないのでパンを食べる」とパン2枚をペロリ平らげ、妻や私をホッとさせました。妻が「お父さん、じいちゃんは私の言うことは聞きませんから、あなたが余り無理をしないように、一日に1本の庭木手入れぐらいにするよう言ってください」と釘を刺されました。

 それにしても88歳と言いながらあのパワーは一体何処から生まれてくるのでしょう。別に肉を食うでもなく質素な食事に明け暮れ、毎日アリが仕事をするようにやっています。向こうの短さを知ってか知らずでか、何かにつけて新しいものに挑戦もしています。明日は父の日です。私にとって親父はかけがえのない父ですから、少し話をしたりしたいと思っています。

 3日前、奈良に住む私の弟から親父宛の宅配便が届きました。弟が酒を一本父の日のプレゼントとして送ってくれたのです。親父にとって5人の子どもの中でこの弟だけが県外に住んでいるので気になるらしく、よく話題にします。高校を卒業すると直ぐに京阪神の建設会社に就職し40数年が経ちました。お目出度やお悔やみにしか顔を合わさない息子の身を案じる姿は歳とともに増幅するようです。昨年には親父の88歳米寿の祝いに駆けつけ親父を喜ばせました。「今度息子が帰るのはおらの葬式の時かも」と笑って話す姿が何ともいじらしいのです」

 家族は流れる川の水の如くいつの間にか思い思いの場所に流れて行きます。気がつけばわが家だってもう間もなく妻と私と親父の3人だけになる予定です。せめて同じ屋根の下で暮らす間くらいはしっかりと支えあい、助け合って生きてゆきたいものです。

 また梅雨の雨が戻ってきました。今朝は雨が降り出しました。さっき隠居へ行ったら「今日は何処へ行くのか」と親父が尋ねました。「今日は宇和島でシンポジウムがあるので出掛けて夜は遅い」と言ったら納得顔でした。これまで親父の存在は空気みたいなものでしたが、少し親父のことが気にかかる今日この頃です。

  「庭木から 落ちた親父の 言い分は 足場が悪いと 自分責めずに」

  「庭眺め あの木の剪定 そのうちに 俺がするのか これはたまらん」

  「植えずとも 生える草あり 屋根の上 土植え野菜は 何故に育たぬ」

  「一生(いちなり)りの キュウリ食ったら 長生きが 出来ると親父 初生り食った」   

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shin-1さんの日記

○親子の写真届く

 逆手塾に参加していた熊本日々新聞社の平野有益さんからお礼の手紙が届きました。

 「伊予のインターを下り、道に迷って引き返し、山坂を登って登って、これで景色が悪かったら頭にくるよなと、家内、山本文子さんとブツブツ言いながら着いてみると、いやあ絶景でした。さすが若松さんと、会ってもいないのに感心するばかりでした。

 家内はすっかり゛落語の進ちゃん゛がお気に入りでした。私は若松さんの本をちびちび読みながら、イメージを膨らませています」 -後略-と書かれていました。さすが新聞記者の手紙は洗練されていて感心するばかり。相手の了解や著作も考えずに黙ってブログに転載してしまいました。

 平野さんから送られてきた封筒には新聞が何枚か入っていて川村一成さんの記事もありました。そして私と息子2人が仲良く並んだ写真も同封してありました。平野さんは「いい息子さんたちがおられ、頼もしいですね」と結んでいました。

 早速その写真をデジカメで撮影しましたが光線や接写がまずくて以下の結果に終わりました。

 少々ボケていますがウッドデッキの上で談笑する私と真ん中が長男の一心で設計士、左側が次男の看護士を目指している一生です。いつの間にか父親より背が高くなり「筍の太きも親の恵みかな」って感じです。平野さんが言うように私は4人の子宝に恵まれ、子育ての殆どを妻に任していたにもかかわらず、穏やかな普通の息子に育ちました。逆手塾の間ずっと、付かず離れず世話をしてくれたのもこの二人の息子でした。長男には設計料も出していませんが、この人間牧場は彼が受け継いでくれるものと期待をしているのです。

 私たち家族はいたって平凡ながら、穏やかな人間関係を保っています。多分子ども4人全ての子どもが無人島キャンプやモウーモウー塾に参加して育ててもらったり、多くの人がわが家に出入りして声を掛けて育ててくれたのではないかと感謝しているのです。

 いよいよ息子たちの時代になって、そろそろ私も引退を考えなければなりません。人間牧場はその花道かもしれないと、この写真を見ながら少し弱気になりました。でももう少し楽しい人生を過ごしたいと、人間牧場への更なる夢を描いているのです。妻は「私を余り巻き込まないで」と口では言っています。

  「何時の間に 俺より息子 背が高く 気力体力 全てに勝る」

  「牧場を 褒められ鼻を こする子の 少し高々 嬉しそうです」

  「送られた 写真写真に 撮る私 自分が自分 撮りし一枚」

  「記者の文 汽車に乗せられ 今朝届く 熊本城下の 匂いさわやか」


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