shin-1さんの日記

○テレビコマーシャルの変化

 昨日親しい友人と話をしていたら、その友人が「若松さん、最近テレビのコマーシャルが少し様子が可笑しい気がしない?」と、私に質問めいた投げかけをしてきました。「そういえばAGというコマーシャルが東日本大震災以来やたらと増えたよね」と返せば、「私もそう思います」と同調の言葉が返って来ました。

 東日本大震災は千年に一度といわれるほどの未曾有の大災害ゆえ、無知な私などは「マスコミも派手なコマーシャルを自粛して、社会性のあるコマーシャルをよくぞ」と、むしろ肯定的な拍手を送るほどでした。しかしテレビ番組の途中でこれでもかとACのコマーシャルが流れ過ぎると、番組自体の意味合いが薄れてしまってすっかり興ざめし、少しうんざり気味でした。


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 「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう

 「馬鹿」っていうと「馬鹿」っていう

 「もう遊ばない」っていうと「遊ばない」っていう。

 そうして、あとでさみしくなって

 「ごめんね」っていうと「ごめんね」っていう。

 こだまでしょうか?いいえ誰でも。

      (金子みすゞの作品より)

 このコマーシャルも最初は良くできていると感心していました。

 ところが先日偶然、古新聞に包んだ筍を近所に住む友人からいただきました。その筍を包んだ4月4日付け朝日新聞朝刊に、佐々木さんという方が投稿している記事を読み、少し変な気持ちになりました。

 「大丈夫?」って聞くと「大丈夫」って言う。

 「心配ない?」って聞くと「心配ない」と言う。

 それでも不安になって

 「安全なの?」って聞くと、「安全だ」と答える。

 聞き間違いでしょうか?。いいえ、昔から

 つまり金子みすゞさんの書いた詩を 今をときめく東京電力側の意図で替え歌ならぬ替え詩にするとこうなるというのです。反応の鈍くて遅い私でもこの替え詩を読んでハッと思いました。東電や政府は地震が誘発した事故にせよ、これ程大きな事故なのにテレビの画面に出てくる人の殆どが「○○シーベルトは安全です」と、まるでオームのように安全性を強調し、未だに殆ど姿を見せず説明責任を果たしていない清水東電社長を批判することすらしないのです。

 気がついてAC(日本広報協会)についてインターネットで検索してみると、何と何と協会長が東電社長であり、AC=東電とう構図が見えてきました。震災でコマーシャル収入が減ったテレビ局はACのコマーシャル収入で食い繋ぐ、つまり東電がテレビ局にお金を出しているから、東電のお粗末な失態を批判できないといわれても仕方がないのです。


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私の友人もそのことを自分のブログで指摘していました。佐々木さんは「心遣いと思いやり」のコマーシャルについても、「心は見えないけれど下心は見える。思いはみえないけれど思い上がりは見える」とも書いていたようです。 筍を包んだ古新聞も筍=包で何となくよく似た字だと今頃気付く愚かな私なのです。

  「何か変 友人指摘 そういえば どこか変だと 今頃気付く」

  「新聞や テレビ信じて 暮らしてる 安心安全 何を信じて」

  「下心 思い上がりも いいとこと 姿見せない 社長の態度」

  「一線で 危険を侵し 働くは 下請け企業 ばかりと聞くが」

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